【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

大相撲

ああ日馬富士、やったね、よかったね、未来は明るいね



昨日(1月27日)が千秋楽だった大相撲の初場所で横綱日馬富士が全勝優勝を果たした。

 

めでたい。

 

昨年、大関2場所連続全勝優勝という偉業を成し遂げて横綱になった日馬富士は、昇進後初の九州場所で9勝6敗というブザマな成績を残して非難を浴びた。

 

彼に大きな期待を寄せていた僕も失望し、疑問を抱き、批判めいた言葉も投げかけたりした。それだけに余計、今回の彼の成功を喜びたい。

 

九州場所の成績を見て一時は悲観的な気分になったこともあるが、日馬富士はやはり、既に名横綱の域に達している白鵬に追いついて、自身も歴史に残るような強い横綱になる可能性を秘めていると思う。

 

その第一の理由は、大横綱の大鵬や北の湖や千代の富士もできなかった、大関2場所連続全勝優勝という快挙を成し遂げて横綱に昇進した事実。

 

第二の理由は、横綱昇進後の場所でつまずいて大きく批判を浴びながら、直後の今場所で重圧をはねのけて優勝した精神力の強さ。したたかさ。しかも全勝優勝という文句の無い形で。

 

日馬富士は初場所の14日間は、持ち前のスピードで相手を圧倒して勝ち続けたが、千秋楽の白鵬戦ではスピードに加えて、技や戦略や知略も駆使して完勝した。

 

そのために14日間ずっと付きまとっていた不安定な感じ、ころりと負けて取りこぼしそうな感じ、軽量の悲哀、などといった彼の欠点が完全に姿を消した。

 

僕はそこに日馬富士の非凡を見る。彼は横綱昇進直前の場所の千秋楽でも、同じく白鵬と死闘を演じてこれを制した。僕はその相撲を見て彼の真の強さ、地力を確信した。

 

その後の九州場所の屈辱を経て、日馬富士は再び彼の真の強さを取り戻し、それを存分に発揮した。それが今場所の千秋楽での白鵬戦だったと思う。

 

日馬富士は間違いなく強い。繰り返して言うが、大横綱になる可能性を秘めていると思う。

 

でも不安もある。前述した先場所14日目までの相撲である。彼は14人の相手全てを持ち前のスピードで圧倒したのだが、それはいつも危なっかしい取り口だった。ハラハラさせられる戦いだった。

専門家の中にはその相撲を「負ける感じがしない」と評する人もいたが、一ファンの僕の目にはそれは、いつ取りこぼしがあってもおかしくない危うい戦いと映った。
 

速く鋭く機敏に動く取り口の力士がコケやすいのは大相撲の宿命である。スピードは不安定と表裏一体なのだ。素早い動きで相手を翻弄する相撲を取り続ける限り、日馬富士は常にその緊張とも闘い続けなければならない。

 

逆に言うと、不安定を安定に変えたとき、彼は疑いなく名横綱になる。つまり日馬富士は、大横綱白鵬を相手にここ数場所の千秋楽で見せ続けている相撲を、他の全ての力士に対しても実践できた時、ごく自然に歴史に残る横綱の域に達するのだと思う。

 

そしてそれは、そうならない方がおかしいほどにやさしいことである。

 

なぜなら日馬富士は、自分自身を除けば大相撲界で今もっとも強い横綱白鵬を、スピードとプラスαを駆使して粉砕し続けているのだから、他の力士を相手にそれができないはずがない。

 

そう、日馬富士は、スピードと知略と安定感を兼ね備えた偉大な横綱になる道をまっしぐらに進んでいる。

 

もしそうならない場合は彼は、場所ごとに15戦全勝と9勝6敗の間を行き来する、強いのか弱いのか分らない、強くないときは弱いのだからきっと弱いに違いない、トンデモ横綱になる・・
のだ。と思うのだ。んだ。なだ。のだ。

 

 

ああ、ハルマフジ・・マジかよ、ドジだよ、恥ジなんだよ



「大関2場所連続全勝優勝」の勲章を引っさげて横綱になった日馬富士は、九州場所でまさか驚嘆なぜ?ビックリの5連敗。ついには9勝6敗のぶざまな成績で千秋楽を終えた。

 

大関2場所連続全勝優勝というのは、大相撲史上最強の横綱であろうあの双葉山と名横綱貴乃花の2人しか成し遂げていない大記録である。

 

僕はそれを踏まえて日馬富士が大横綱になる可能性があると考え、あちこちでそう書いたり発言したりもした。でも日馬富士は新横綱の場所で早くも挫折し、相撲ファンに大きな失望と不安を与えた。

 

横綱になって初めての場所で信じられないような醜態を演じたから言うのではないが、日馬富士が横綱昇進前の2場所を無敗で快進撃していた間も、どこかに常に頼りない感じを漂わせていたのは紛れもない事実である。

 

それは彼の軽量から来るものであったり、スピードを盲信した勇み足的な動きだったり、カッとなって攻めが乱暴になったりする戦い振りにあった。要するにどっしりとした安定感が欠落していて、見る者は常にハラハラドキドキしながら観戦する羽目になるのである。

 

勝ち続けている限りハラハラドキドキ感は決して悪いことではない。むしろそうあった方が観客は喜ぶ。たまに負けるようなケースもファンは許す。しかし、15日間の大相撲の本場所で横綱が5連敗もしては話にならない。それはブザマ以外の何ものでもない。

 

体重だけではない「軽さ」を克服しない限り、日馬富士は史上最悪の情けない横綱になる可能性もある。そしてそれは今にはじまったことではないのだ。

 

それでも僕は、日馬富士が秋場所の千秋楽で白鵬を倒して横綱昇進を決定的にした相撲を見て、彼が真に強い力士になったと心から思った。

 

その相撲で日馬富士は立会い鋭く踏み込んだものの、横綱白鵬のそれが勝って不利な態勢になった。直後、白鵬右四つの組み手の左を巻き変えて双差しになった。巻き変える動きは相手に付入る隙を与えることが多く危険だが、この時の日馬富士の動きは素早くしかも安定感があった。

 

それでも白鵬はさすがの横綱、日馬富士の態勢のわずかな乱れを見逃さず、チャンスと見て一呼吸置いたあとすぐに寄り立てた。そして日馬富士の腰がわずかに伸びた瞬間を捉えて、巻き変えられて上手になっていた右腕で強力な投げを打った。いつもの「軽い」日馬富士ならここでこらえ切れずに投げ飛ばされてもおかしくなかった。

 

ところが日馬富士はびくともしなかった。幕内最軽量の体重がまるで巨大な鉛のカタマリになったのでもあるかのように動じなかったのである。日馬富士はそのあと、攻めて攻めまくる、攻めの連続から振り回すような下手投げを打つ。こらえ切ろうとした横綱はイヤイヤをするように大きく回転したあと、地面に這いつくばった。

 

大一番の勝負の分かれ目、圧巻は、疑いもなく日馬富士が白鵬の上手投げをぐっとこらえた瞬間の重さ、強さだったと僕は思う。そこを見て、あ、日馬富士は白鵬とはホントに力が拮抗しているんだな、と僕は実感したのだった。

 

大横綱白鵬に匹敵するほどの「重さ」が加わった地力に、日馬富士独特の瞬発力を活かした立会いの鋭い当たりがさらに速く厳しくなれば、彼はたちまち同様に軽量だった千代の富士並みの大横綱だ!と僕はその時確信したものだった。

 

それなのに、ああそれなのに、フタを開けてみると新横綱の場所での仰天の大崩落。あまりの出来事に僕は脱力してしまった。まだ大横綱への道は開かれているとは思うが、けっこう悲観的な気分。

 

突然のようだが、彼が日本人女性を妻に選ばなかったことまで暗い材料に見えて仕方がない。今後もしも険しい道が続いた場合、良くも悪くも古い日本が凝縮されて存在する大相撲界で生きる彼にとっては、奥さんが日本人である方が何かと助けになると思うのだが。


実は、外国人力士は日本人女性と結婚したほうが為になる、というのが僕の独断と偏見に基づく持論である。

日本の心が分らずに不祥事を起し続けて、ついに引退にまで追い込まれたあの横綱朝青龍も、もしも日本人女性を妻にしていたなら、あるいは状況が変わっていたのではないか、とさえ僕は本気で考える。

その意味では、応援している大関把瑠都が、白人女性と結婚したのも気がかりである。ロシア人の奥さんは、たとえ日本が大好きだったとしても、把瑠都自身と同様に日本文化や人情の奥深い機微までは中々理解できないこともあるのではないか。

そういうとき逆に、しっかりとした日本人女性が配偶者なら、相撲の師匠の導きとはまた違う、内助の功的な助け舟を出すことができる。そこは日本の伝統と文化が充満する独特の大相撲世界。外国人が完璧に空気を読めるようになるまでには、相当の時間がかかるに違いないのだ。それどころか、あるいはそれは永遠に来ないのかもしれないのである。

九州場所で把瑠都が大関から陥落することが決まったのは、そのこととは恐らく関係がないだろう。しかし、長期的にはやはり何らかの影響が出てくるかもしれない、と考えるのはただの杞憂だろうか・・ぜひ杞憂であってほしいと思う。

日馬富士よ、必ず品格高い横綱を目指してほしい


加筆再録


9月の大半は大相撲観戦に結構時間をつぶしました。日馬富士の綱取りが成るかどうか、はらはらしながら連日テレビの前に釘付けになったのです。ヨーロッパの日本衛星放送は、大相撲の本場所中は1日3回
NHKの相撲中継を流します。最初は朝9時(日本時間16時)から日本との同時生放送。午後になってそれの録画再放映があり、さらに夜は幕内の全取組みを仕切りなしで短く見せます。

5年振りの横綱誕生劇は実に面白いものでした。僕は元々日馬富士の横綱昇進を予想していましたが、彼よりも大関把瑠都の方が先に横綱になると考えたりしていましたから、完全な見込み違いでした。それでも相撲が大好きな僕は、久しぶりの横綱誕生が嬉しい。心が躍る。双葉山、貴乃花以来の大関2場所連続全勝優勝、という快挙を成し遂げて横綱になった日馬富士は、大横綱になる可能性を秘めていると思います。しかし、少し不安もあります。

2年前、幕内最高位にいた朝青龍が「横綱の品格」を問われて引退に追い込まれましたが、日馬富士はその朝青龍を慕い、彼に可愛がられていました。僕はそこに一抹の不安を覚えるのです。新横綱は、不祥事を次々に起して前代未聞の引退劇を演じた「朝青龍とは人物が違う」とは思うのですが、日本の心の深みに疎い外国人力士のままでいると、彼の慕う元横綱の二の舞を演じることがないとも限らない。日馬富士にはぜひ朝青龍に欠けていた「横綱の品格」を身につけて大横綱への道を歩んでほしいと思います。その願いを込めて少し意見を述べます。

-横綱の品格とは何か-

横綱の品格を問われつづけた朝青龍の引退騒ぎを、僕は当時衛星放送をはじめとする日本の各種メディアを通してずっと見ていました。その中で最も大きくまた真摯な態度で騒ぎを取り上げたNHKの特集番組では、元横綱の北の富士勝昭さんややくみつるさんなど、大相撲のご意見番とも呼べる専門家たちが、横綱の品格とは結局なんなのか分からない、という話に終始していて驚きました。不思議なことでした。鏡に顔を近づけ過ぎると自分の顔の輪郭が良く見えなくなります。それと同じように、日本国内にいると日本人自らの姿が良く見えなくなるのか、とさえ思いました。

横綱の品格とは、ずばり「強者の慎(つつし)み」のことだと僕は考えます。

この「慎み」というのは、日本文化の真髄と言ってもいいほど人々の心と社会の底流に脈々と流れている、謙虚、控えめ、奥ゆかしさ、などと同じ意味のあの「慎み」です。「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という格言句に完璧に示された日本人の一番の美質であり、僕のように日本を離れて外国に長く住んでいる人間にとっては、何よりも激しく郷愁をかき立てられる
日本の根源です。日本人から年々慎み深さが消えていっている、といわれる昨今「何をオメデタイことを・・」と反論する人がいるかも知れません。しかし、それは間違いです。日本人は世界の水準で測れば、今でもはるかにはるかに慎み深いのです。

朝青龍は「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という日本の心が分からなかった。あるいは分かろうとしなかった。もしかすると分かっていたが無視した。そのいずれであっても同じことです。彼は日本人が最も大切にしている価値観、道徳を侮辱した。だから激しく非難されたのです。

慎みというのは実は、世界中のどの国に行っても尊敬される道徳律です。人は誰でも「実るほど頭を垂れる者」を慕う。そして実った人の多くが頭を垂れるのが世界の現実です。たとえばイタリア映画の巨匠フェリーニは、僕が仕事で会った際「監督は生きた伝説です」と真実の賛辞を言うと「ホントかい?君、ホントにそう思うかい?嬉しい、嬉しい」と子供のように喜びました。またバッジョやデルピエロなどのサッカーの一流選手も、仕事の度に常に謙虚で誠実な対応をしてくれました。頂点を極めた真の傑物たちは皆、実るほどに頭を垂れるのが普通です。「慎み」は日本人だけに敬愛される特殊な道徳律ではない。真に国際的な倫理観なのです。

相撲には、他のあらゆるスポーツと同様に我われ人間の持つ凶暴さ、残虐性、獣性などを中和する役割があります。同時に、他のスポーツ以上に、それと対極にある思いやりや慎みや謙虚も「演出すること」が求められています。

相撲は格闘技である。強ければそれでいい。慎みや謙虚などというのは欺瞞だという考え方もきっとあるでしょう。しかし相撲は、プロレスやボクシングや総合格闘技などとは違って、最も日本的な伝統と型と美意識を持つ「儀式」の側面を持つスポーツでもあります。そこでは常勝が当たり前の「強者横綱」は、「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という日本精神の根本を体現することを強要されます。それが相撲の文化なのです。文化ですからそれは特殊なものであり、普遍性が命の文明とは違って、特殊であること自体に価値があります。

朝青龍は優れたアスリートでした。また疑いなく大鵬、北の湖、千代の富士、貴乃花などの大横綱と肩を並べる存在でもありました。僕は個人的には朝青龍の明るさが好きでした。さらに言えば、土俵外での彼の奔放な行動も、多くが許せるものだったと思います。引退の直接の原因となった泥酔・暴力事件は言語道断ですが、それ以外の不祥事の多くは、破天荒な性格の彼が羽目をはずした、という程度の出来事がほとんどだったように思うのです。しかし、土俵上での態度は横綱の品格を貶めるものも少なくありませんでした。特に勝負が決まった後の動きがそうでした。

たとえば、強い横綱だった朝青龍には、せめて倒した相手にダメを押すような行為を慎んで欲しかった。勝負が決まった後の一撃は、見苦しいを通り越して醜いものでした。そしてもっと無いものねだりをすれば、倒れ込んでケガでもしたかと思うほど参っている相手には、手を差し伸べる仕草をして欲しかった。

その態度は最初は「強制された演技」でも「嘘」でも「欺瞞」でも良かったのです。行為を続けていくうちに気持ちが本物になっていく。本物になるともはや演技ではなくなり、じわりとにじみ出る品格へと変貌します。

強くて明るくて個性的な横綱朝青龍は、そうやっていつか品格高い名横綱に生まれ変わる筈でした。しかし彼は「横綱の品格」を求める多くの日本人の心性が何であるのかを少しも理解できないまま、ついに引退にまで追い込まれてしまったのでした。新横綱日馬富士がその轍を踏まないように強く願いたいと思います。 

 

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