【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

同時投稿コラム

漁師の命と農夫の政治

牛堆肥800

菜園を耕してみて分かったことの一つは、野菜は土が育ててくれる、という真理です。

土作りを怠らず、草を摘み、水や肥料を与え、虫を駆除し、風雪から保護するなどして働きつづければ、作物は大きく育ち収穫は飛躍的に伸びます。

しかし、種をまいてあとは放っておいても、大地は最小限の作物を育ててくれるのです。

農夫はそうやって自然の恵みを受け、恵みを食べて命をつなぎます。農夫は大地に命を守られています。

大地が働いてくれる分、農夫には時間の余裕があります。余った時間に農夫は三々五々集まります。するとそこには政治が生まれます。

1人では政治はできません。2人でも政治は生まれません。2人の男は殺し合うか助け合うだけです。

シソ整然&costeヒキ800

農夫が3人以上集まると、そこに政治が動き出し人事が発生します。

政治は原初、百姓のものでした。政治家の多くが今も百姓面をしているのは、おそらく偶然ではありません。

漁師の生は農夫とは違います。漁師は日常的に命を賭して生きる糧を得ます。

漁師は船で漁に出ます。近場に魚がいなければ彼は沖に漕ぎ進めます。そこも不漁なら彼はさらに沖合いを目指します。

彼は家族の空腹をいやすために、魚影を探してひたすら遠くに船を動かします。

ふいに嵐や突風や大波が襲います。逃げ遅れた漁師はそこで命を落とします。

帆船嵐イラスト650

古来、海の男たちはそうやって死と隣り合わせの生業で家族を養い、実際に死んでいきました。

彼らの心情が、土とともに暮らす百姓よりもすさみ、且つ刹那的になりがちなのはそれが理由です。

船底の板1枚を経ただけの、荒海という地獄と格闘する漁師の生き様は劇的です。

劇的なものは歌になりやすい。

演歌のテーマが往々にして漁師であるのは、故なきことではありません。

現代の漁師は馬力のある高速船を手にしたがります。格好つけや美意識のためではありません。

大嵐を行く漁船見下ろしbest650

沖で危険が迫ったとき、一目散に港に逃げ帰るためです。

また高速船には他者を出し抜いて速く漁場に着いて、漁獲高を伸ばす、という効用もあります。

そうやって現代の漁師の生は死から少し遠ざかり、欲が少し増して昔風の「荒ぶる純朴な生き様」は薄れました。

水産業全体が「獲る漁業」から養殖中心の「育てる漁業」に変貌しつつあることも、往時の漁師の流儀が廃れる原因になりました。

今日の漁師の仕事の多くは、近海に定位置を確保してそこで「獲物を育てる」漁法に変わりました。農夫が田畑で働く姿に似てきたのです。

それでも漁師の歌は作られます。北海の嵐に向かって漕ぎ出す漁師の生き様は、男の冒険心をくすぐって止みません。

人の想像力がある限り、演歌の中の荒ぶる漁師はきっと永遠です。


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型やぶりという“型”の光彩



白黒テレビ頭男女650
日本とイタリアのテレビスタッフがいっしょに仕事をすると、かならずと言っていいほど日本の側からおどろきの声があがります。
それはひとことで言ってしまうと、日本側の生まじめさとイタリア側のおおらかさがぶつかって生じるものです。
おたがいに初めて仕事をする者どうしだからこの場合には両者がおどろくはずなのに、びっくりしているのは日本人だけ。生まじめすぎるからです。
それは偏狭という迷い道に踏みこみかねません。
同時に何ごとも軽く流すイタリア人のおおらかさも、いい加減の一言で済まされることがよくあります。

こういうことがありました。
「どうしてフォーマットをつくらないのかねぇ・・・。こんな簡単なこともできないなんて、イタリア人はやっぱり本当にバカなのかなあ・・・」
その道35年のテレビの大ベテランアナウンサー西尾さんが、いらいらする気持ちをおさえてつぶやくように言いました。
西尾さんを含むぼくら7人のテレビの日本人クルーはその時、イタリアのプロサッカーの試合の模様を衛星生放送で日本に中継するために、ミラノの「サン・シーロ」スタジアムにいました。
ぼくらが中継しようとしていたのはインテルとミランの試合です。
この2チームは、そのころ“世界最強のプロサッカーリーグ“と折り紙がつけられていたイタリア「セリエA」の中でも、実力人気ともにトップを争っている強力軍団です。

大観衆サンシーロ650

ただでも好カードであるのに加えて、その日の試合は当時18チームがしのぎを削る「セリエA」の選手権のゆくえを、9割方決めてしまうと言われる大一番でした。
スタジアムにつめかけたファンは約8万5千人。定員をはるかにオーバーしているにもかかわらず、外には入場できないことを承知でまだまだ多数のサポーターが集まってきていました。
球場内では試合前だというのに轟音のような大歓声がしばしばわき起こって巨大スタジアムの上の冬空を揺り動かし、氷点下の気温が観衆の熱気でじりじりと上昇していくのでもあるかのような、異様な興奮があたりにみなぎっていました。

こういう国際的なスポーツのイベントを日本に生中継する場合には、現地の放送局に一任して映像をつくって(撮って)もらい、それに日本人アナウンサーの実況報告の声を乗せて日本に送るのが普通です。
それでなければ、何台ものカメラをはじめとするたくさんの機材やスタッフをこちらが自前で用意することになり、ただでも高い番組制作費がさらに高くなって、テレビ局はいくら金があっても足りません。
その日われわれはイタリアの公共放送局RAIに映像づくりを一任しました。つまりRAIが国内向けにつくる番組の映像をそのまま生で受け取って、それに西尾アナウンサーのこれまた生の声をかぶせて衛星中継で日本に送るのです。
言葉を変えれば、アナウンサーの実況報告の声以外はRAIの番組ということになります。ところがそのRAIからは、いつまでたっても番組の正式なフォーマットがわれわれのところに送られてきませんでした。
西尾さんはそのことにおどろき、やがていらいらして前述の発言をしたのです。

鳥かごにしがみつく男600

フォーマットとはテレビ番組を作るときに必要な構成表のことです。
たとえば1時間なら1時間の番組を細かく分けて、タイトルやコマーシャルやその他のさまざまなクレジットを、どこでどれだけの時間画面に流すかを指定した時間割表のようなものです。
正式なフォーマットを送ってくる代わりに、RAIは試合開始直前になって「口頭で」次のようにわれわれに言いました。
1)放送開始と同時に「イタリア公共放送局RAI」のシンボルマークとクレジット。
2)番組メインタイトルとサブタイトル。
3)両チームの選手名の紹介。
4)試合の実況。
ほとんど秒刻みに近い細かなフォーマットが、一人ひとりのスタッフに配られる日本方式など夢のまた夢でした。
あたふたするうちに放送開始。なぜかRAIが口頭で伝えた順序で番組はちゃんと進行して、試合開始のホイッスル。
2大チームが激突する試合は、黙っていても面白い、というぐらいのすばらしい内容で、2時間弱の放送時間はまたたく間に過ぎてしまいました。
西尾さんは、さすがにベテランらしくフォーマットなしでその2時間をしゃべりまくりました。

マスク

しかし、フォーマットという型をドあたまで取りはずされた不安と動揺は隠し切れず、彼のしゃべりはいつもよりも精彩を欠いてしまいました。
ところでこの時、西尾さんとまったく同じ条件下で、生き生きとした実に面白い実況報告をやってのけたもう1人のアナウンサーがいます。
ほかならぬRAIの実況アナウンサーです。
筆者はたまたま彼と顔見知りです。放送が終わった数日後にも会う機会があったので、番組フォーマットの話をしました。

彼はいみじくもこう言いました。
「詳細なフォーマット?冗談じゃないよ。そんなものに頼って実況放送をするのはバカか素人だ。ぼくはプロのアナウンサーだぜ。プロは一人ひとりが自分のフォーマットを持っているものだ。」
公平に見て彼と西尾さんはまったく同じレベルのプロ中のプロのアナウンサーです。年齢もほぼ似通っています。2人の違いはフォーマット、つまり型にこだわるかどうかの点だけです。
実はこれは単に2人のテレビのアナウンサーの違いというだけではなく、日本人とイタリア人の違いだと言い切ってもいいと思います。


confomismとは切り取り650


型が好きな日本人と型やぶりが型のイタリア人。

どちらから見ても一方はバカに見えます。この2者が理解し合うのはなかなか難しいことです。
型にこだわりすぎると型以外のものが見えなくなります。一方、型を踏まえた上で型を打ちやぶれば、型も型以外のものも見えてきます。
ならば型やぶりのイタリア人の方が日本人より器が大きいのかというと、断じてそういうことはありません。
なぜなら型を踏まえるどころか、本当は型の存在さえ知らないいい加減なイタリア人は、型にこだわりすぎる余り偏狭になってしまう日本人の数とほぼ同じ数だけ、この国に生きているに違いありませんから・・・







伊欧コロナ一蓮托生体


【新聞同時投稿コラム】


サーボーグ切り取り700


同床異夢

欧州ではスペイン、フランス、イギリスなどの大国を中心に多くの国で新型コロナの感染が拡大している。第2波である。

そんな中、かつて欧州どころか世界でも最悪のコロナ感染地だったもう一つの大国イタリアは、感染拡大が最も少ない部類の国になっている。
 
イタリアは3月から4月にかけてコロナ恐慌で呻吟した。医療崩壊に陥り、これまでに3万5千人余の患者と177名もの医師が新型コロナで死亡するいう惨状を呈した。

当時イタリアには見習うべき規範がなかった。孤立無援のまま正真正銘のコロナ地獄を体験した。
 
世界一過酷なロックダウンを導入して、イタリアは危機をいったん克服した。だが国民の間には巨大な恐怖心が残った。そのために少し感染拡大が進むと人々は即座に緊張する。

イタリア国民はかつてロックダウンの苛烈な規制だけが彼らを救うことを学び、それを実践した。規制の多くは今も実践している。

国の管制や命令や法律などに始まる、あらゆる「縛り」が大嫌いな自由奔放な国民性を思えば、これは驚くべきことだ。
 
イタリアに続いて、例えばスペインもフランスも感染爆発に見舞われ医療危機も体験した。だが、スペインとフランスにはイタリアという手本があった。失敗も成功も悲惨も、両国はイタリアから習ぶことができた。

恐怖の度合いがイタリアに比べて小さかった二国は、ロックダウン後は良く言えば大胆に、悪く言えば無謀に経済活動を再開した。その結果感染拡大が急速に始まった。そうした状況は他の欧州のほとんどの国々にも当てはまる。
 
イタリアの平穏な状況は、しかし、同国のコロナ禍が終わったことを意味するものではない。

イタリアでも新規の感染者は着実に増えている。結局イタリアも欧州の一部だ。コロナ禍の先行きはまだ全く見えないのである。



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スパゲティのすすり方  




【“ピアッツァの声”から転載】


花up手前に後ろぼかし切り取り600


以前、新聞に次の趣旨のコラムを書きました。
 
相手が音を立ててそばを食べるのが嫌、という理由で最近日本の有名人カップルの仲が破たんしたと東京の友人から連絡があった。友人は僕がいつか「音を立ててスパゲティを食べるのは難しい」と話したのを覚えていて、愉快になって電話をしてきたのだ。僕も笑って彼の話を聞いたが、実は少し考えさせられもした。

スパゲティはフォークでくるくると巻き取って食べるのが普通である。巻き取って食べると3歳の子供でも音を立てない。それがスパゲティの食べ方だが、その形が別に法律で定められているわけではない。従って日本人がイタリアのレストランで、そばをすする要領でずるずると盛大に音を立ててスパゲティを食べても逮捕されることはない。

スパゲッティの食べ方にいちいちこだわるなんてつまらない。自由に、食べたいように食べればいい、と僕は思う。ただ一つだけ言っておくと、ずるずると音を立ててスパゲティを食べる者を、イタリア人もまた多くの外国人も心中で眉をひそめて見ている。見下している。しかし分別ある者はそんなことはおくびにも出さない。知らない人間にずけずけとマナー違反を言うのはマナー違反だ。

スパゲティの食べ方にこだわるのは本当につまらない。しかし、そのつまらないことで他人に見下され人間性まで疑われるのはもっとつまらない。ならばここは彼らにならって、音を立てずにスパゲティを食べる形を覚えるのも一計ではないか、とも、思わないでもない。


 
食事マナーに国境はありません。

もちろん、いろいろな取り決めというものはどの国に行っても存在します。たとえばイタリアの食卓ではスパゲティをずるずると音を立てて食べてはいけない。スープも音を立ててすすらない。ナプキンを絶えず使って口元を拭く・・・などなど。それらの取り決めは別に法律に書いてあるわけではありません。が、人と人がまともな付き合いをしていく上で、時には法律よりも大切だと見なされるものです。

なぜ大切かというと、そこには相手に不快感を与えまいとする気配り、つまり他人をおもんばかる心根が絶えず働いているからです。マナーとはまさにこのことにほかなりません。それは日本でも中国でもイタリアでもアフリカでも、要するにどこの国に行っても共通のものです。食事マナーに国境はない、と言ったのはそういう意味です。

スパゲティをずるずると音を立てて食べるな、というこの国での取り決めは、イタリア人がそういうことにお互いに非常に不快感を覚えるからです。別に気取っている訳ではありません。スープもナプキンもその他の食卓での取り決めも皆同じ理由によります。

それらのことには、しかし、日本人はあまり不快感を抱かない。そばやうどんはむしろ音を立てて食べる方がいいとさえ考えますし、みそ汁も音を立ててすすります。その延長でスパゲティもスープも盛大な音を立てて吸い込む。それを見て、日本人は下品だ、マナーがないと言下に否定してしまえばそれまでですが、マナーというものの本質である「他人をおもんばかる気持ち」が日本人に欠落しているとは筆者は思いません。

それにもかかわらずに前述の違いが出てくるのはなぜか。これは少し大げさに言えば、東西の文化の核を成している東洋人と西洋人の大本の世界観の違いに寄っている、と筆者は思います。

西洋人の考えでは、人間は必ず自然を征服する(できる)存在であり、従って自然の上を行く存在である。人間と自然は征服者と被征服者としてとらえられ、あくまでも隔絶した存在なのです。自然の中にはもちろん動物も含まれています。

東洋にはそういう発想はありません。われわれももちろん人間は動物よりも崇高な生き物だと考え、動物と人間を区別し、犬畜生などと時には動物を卑下したりもします。

しかし、そういうごう慢な考えを一つひとつはぎ取っていったぎりぎりの胸の底では、結局、われわれ人間も自然の一部であり、動物と同じ生き物だ、という世界観にとらわれているのが普通です。

天変地異に翻弄され続けた歴史と仏教思想があいまって、それはわれわれの肉となり血となって存在の奥深くにまで染み入り、われわれを規定しています。

さて、ピチャピチャ、ガツガツ、ズルズルとあたりはばからぬ音を立てて物を食うのは動物です。口のまわりが汚れれば、ナプキンなどという七面倒くさい代物には頼らずに舌でペロペロなめ清めたり、前足(拳)でグイとぬぐったりするのもこれまた動物です。

人間と動物は違う、とぎりぎりの胸の奥まで信じ込んでいる西洋人は、人間が動物と同じ物の食い方をするのは沽券(こけん)にかかわると考え、そこからピチャピチャ、ガツガツ、ズルズル、ペロペロ、グイ!は実にもって不快だという共通認識が生まれました。

日本人を含む東洋人はそんなことは知りません。たとえ知ってはいても、そこまで突き詰めていって不快感を抱いたりはしません。なにしろぎりぎりの胸の奥では、オギャーと生まれて食べて生きて、死んでいく動物と人間の間に何ほどの違いがあろうか、と達観しているところがありますから、食事の際の動物的な物音に大きく神経をとがらせたりはしないのです。

そうは言ってみても ― このこともまたコラムに書きましたが ― 周囲の外国人は、ピチャピチャ、ズルズルと音を立てて食事をする人の姿を見て不快に思っています。ならばそれを気づかってあげるのが、最低限のマナーというものかもしれません。

周囲に気を使いつつ食べるのは窮屈だとか、上品ぶるようで照れくさいとか、フォークの運びが面倒くさい、などと言ってはいられません。日本の外に広がる国際社会とは、窮屈で、照れくさくて、面倒くさくて・・要するに疲れるものなのです。スパゲティを静かに食べる所作と同じように。。


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ピアッツァの声








珍味のトリセツ



goat-meat白地に暗赤色600


~珍味のトリセツ~

新型コロナの影も形もなかった2019年9月、ギリシャのクレタ島に遊んでヤギ料理を堪能した。
 
クレタ島のシンボルはヤギである。ヤギはヤギでもこの島だけに生息するクリクリ種という野生のヤギ。絶滅危惧種で厳重に保護され食べることはもちろん捕獲も禁止されている。島で食べられるのはクリクリ種とは別の家畜化された普通のヤギである。
 
西洋ではヤギは1万1千年ほど前にトルコ、イラク、キプロスなどで家畜化され、およそ9千年前に家畜法と共にクレタ島にも伝わった。そこから欧州全体に広まるのにあまり時間はかからなかった。

一方クリクリ種のヤギは家畜化される前の野生ヤギの特徴を保持しているとされ、その姿がデザイン化されて島の役場や観光業界の文書、またヤギ料理を提供するレストランなどのエンブレムとしても用いられている。

原始的な不思議なその動物は、食べることはできないが島人に大いに愛されているのである。

クリクリヤギは過去に乱獲されて数が激減した。乱獲のエピソードで有名なのは、ナチスドイツに抵抗するギリシャ・パルチザンの男たちの物語。彼らは山に潜んでナチスと闘争を展開した際、ほとんど何も食べるものがなかったためにクリクリヤギを捕らえて食べては命をつないだ。

そのときの乱獲も大きくたたってクリクリヤギは絶滅の危機にひんしている。

片や食用になる家畜のヤギは島には非常に多い。羊も多い。当然ヤギ肉や羊肉料理もよく食べられる。レシピも多彩だ。味も抜群に良い。
 
クレタ島のヤギ料理は煮込みと炭火焼きが主体。ワインやハーブやオリーブ油などで作った独特のタレで味付けをする。タレはそれぞれの家庭やレストラン秘伝のものも多い。

あらゆるタレは肉の臭みを消すと同時に素材に芳醇な味わいを加えるのが主眼。個性的で斬新で美味なケースが少なくない。

その点、初めて食する人に肉の臭みが敬遠されることもある、例えば沖縄諸島のヤギ料理などとはかなり趣が違う。

もっとも沖縄諸島のヤギ料理の場合は、肉の臭みを敢えて風味と見なしてそれを売りにすることで、少数の熱狂的な愛好家に支持されているらしいから、それはそれで面白い。





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伊ロックダウン異聞

新聞同時投稿コラム

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~菜園でコロナと遊ぶ~


ことしは新型コロナのせいで2月以来なにもかもが異例づくしの展開になっている。

イタリアは一時期、世界最悪のコロナ感染地となって全土がロックダウンされ、住民の外出や移動が厳しく制限された。

僕は毎年3月になると自宅敷地内にある菜園で土を起こし、プランターで育苗なども行って野菜作りをする。

ことしは自宅待機で時間があり余る分、菜園仕事にも熱が入りそうなものだった。ところがまるっきりそんな気分になれなかった。

菜園仕事が始まる3月からが、まさにイタリアのコロナ地獄のピークだった。不安がつのって野菜作りどころではなくなっていたのだ。 

4月も終わる頃にようやくその気になって、菜園全体にサラダ用野菜の混合種をびっしりとまいた。一部を普通に収穫してサラダとして食べ、残りは生いしげるままに放置しようと考えた。 

菜園は有機農法で耕しているため雑草が繁茂し虫がわく。特に雑草に閉口する。だがコロナが猛威を振るう中では菜園の草取りもできるだけ省略したかった。

サラダ用の野菜は根がおだやかで除去が簡単だ。土中深くまで根を張るしつこい、処理に困る、ある種の雑草とは大違いである。

そこで野菜をまんべんなく育てて雑草の成長の邪魔をできないか、と思いついたのだった。 

5月になると各種のサラダ野菜が生いしげった。雑草は明らかに少ない。7月の今も同じ。どうやら思惑は当たったようだ。今後はこの手を使って雑草対策をしようかと考えている。 

しかし、野菜作りには連作障害という問題が付いてまわる。サラダ用野菜ばかりを毎年作付けすると障害が起きかねない。それでも始末に困る雑草よりは増し、とも思うが実際にはどうなのだろうか。

新型コロナ禍がもたらしたもう一つの悩ましい課題である。





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新聞同時投稿コラム

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           コロナ地獄に咲く花

 欧州最大のCovid-19被害国であるイタリアは現在も苦境のまっただ中にいる。死者数、感染者数を始めとするさまざまな数字がイタリアの窮状を示しているが、中でもすさまじいのが医療現場の医師の殉職数。4月26日現在、150人にものぼる。
 感染爆発によって医療機器が不足し、医師の防護服どころかマスクや手袋さえも不足する事態が続いた。現在は落ち着きつつあるが、それでも一日平均1~2人の医師が新型コロナ感染症で亡くなっている。
 イタリアの感染爆心地である北部ロンバルディア州は、医療崩壊に陥ったほぼ一ヶ月前、300人の退職医師のボランティアを緊急募集した。するとすぐに募集人員の25倍以上にあたる約8000人の引退医師が名乗りを挙げた。年老いた彼らは平穏な年金生活を捨てて、高齢者を襲うことが多いCovid-19の医療の現場に、むろん危険を百も承知で敢然と立ち戻っていった。
 イタリア最大の産業はボランティア、という箴言がある。イタリア国民はボランティア活動に熱心だ。猫も杓子もという感じで、せっせと社会奉仕活動にいそしむ。彼ら善男善女の無償行為を賃金に換算すれば、莫大な額になる。まさにイタリア最大の産業である。
 ボランティア精神はCovid-19恐慌の中でも自在に発揮されている。救急車の運転手ほかの救命隊員や、市民保護局付けのおびただしい数の救難・救護ボランティア、困窮家庭への物資配達や救援、介護ボランティアなども大活躍している。8000人もの老医師が、ウイルスとの戦いの前線に行く、と果敢に決意する心のあり方も根っこは同じだ。
 それらのエピソードが示しているイタリア人の博愛と寛容と勇気と忍耐の精神の強さに、僕はあらためて深い感動を覚えずにはいられない。



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ふいに奈落へ

則イラスト鼻毛up800を100


新型コロナウイルスに急襲されたイタリアは国家の存亡を賭けて厳しい戦いを強いられている。

突然の危機は2020年2月21日から23日にかけて起こった。北イタリアの小さな町でクラスター(小規模の感染者集団)の存在が明らかになり、それは患者が入院した病院での院内感染も伴っていた。

クラスターはすぐに爆発的感染流行いわゆるオーバーシュートを招いた。オーバーシュートはその後止め処もなく発生し、イタリアは中国の武漢にも勝るとも劣らないCovid-19地獄に陥った。

2月21日までのイタリアは、武漢からの中国人旅行者夫婦と同地から帰国したイタリア人男性ひとり、合計3人の感染者をローマでうまく隔離し、世界に先駆けて中国便を全面禁止にするなど、新型コロナウイルスとの戦いでは余裕しゃくしゃくと言ってもいい状況にあった。

当時はクルーズ船を含めて80名前後の感染者を抱えていた日本の方がイタリアよりもはるかに深刻な状況に見えたのである。

イタリアの不運の一つは、疫学調査上「0号患者」と呼ばれる感染者集団内の最初の人物を特定できなかったことだった。

当時の状況では0号患者は中国への渡航暦のある者でなくてはならない。だがクラスター内の最初の患者は中国へ行ったことがない。彼は0号患者の次の感者、つまり「第1号患者」に過ぎなかった。

0号患者は当時も今もイタリアに多い中国人ビジネスマンや移民や観光客だった可能性がある。姿の見えないその0号患者は、第1号患者と同様に、あるいはそれ以上の規模でウイルスを撒き散らした可能性がある。それは将来必ず明らかにされなければならない課題だ。

だが今は、悪化し続ける感染地獄から抜け出すのがイタリア最大、喫緊の問題であることは言うまでもない。



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9月に会いましょう



パラソル&子供たち600


イタリアでは毎年6月にもなると、それほどひんぱんには会わない人同士の別れの挨拶として、「9月に会いましょう」というフレーズが多くなる。

夏のバカンス後にまたお会いしましょうね、という意味である。

さらに7月にもなると、しょっちゅう会っている人同士でも、この「9月に会いましょう」が別れの常套句、あるいは合言葉のようになる。

何が言いたいのかというと、イタリア人にとっては夏の長期休暇というのはそれほどに当然のことで、人々の日常の挨拶にも如実にあらわれるということである。

良く言われるように、長い人は1ヶ月の休みを取ることも珍しくない。もちろんそれ以上に長いバカンスを過ごす者もいる。休暇の長さは、人それぞれの仕事状況と経済状況によって、文字通り千差万別だ。

裕福な人々や幸運な道楽者のうちには、子供の学校の休みに合わせて、3ヶ月の休暇を取るようなトンデモ人間もいたりするが、さすがにそれはごく少数派。

それでも、子供の休みに合わせて、妻以下の家族が6月から8月の間は海や山のセカンドハウスに移住し、夫は都市部に残って通常通りに働きながら週末だけ家族の元に通うケースもよくある。

僕はそれを「通勤バカンス」と勝手に呼んでいるが、通勤バカンスを過ごす男たちも、もちろんどこかで長期の完全休暇を取ることはいうまでもない。

休むことに罪悪感を覚えるどころか、それを大いに賞賛し、鼓舞し、喜ぶ人々が住むこの国では、そんな風にさまざまなバカンス模様を見ることができる。

とはいうものの実は、大多数のイタリア国民、つまり一般の勤め人たちは、最低保証の年間5週間の有給休暇のうち、2週間の「夏休み」を取るのが普通だ。

それは法律で決まっている最低限の「夏期休暇の日数」で、たとえば僕がつい最近まで経営していた個人事務所に毛が生えただけのささやかな番組制作会社でも同じ。

会社はその規模には関係なくスタッフに最低2週間の有給休暇を与えなければならない。零細企業にとっては大変な負担だ。

しかし、それは働く人々にとってはとても大切なことだと僕は思う。人間は働くために生きているのではない。生きるために働くのである。

そして生きている限りは、人間らしい生き方をするべきであり、人間らしい生き方をするためには休暇は大いに必要なものだ。

イタリアでは2週間の夏の休みは、8月初めから同月の半ば頃までの間に取る人が圧倒的に多い。会社や工場などもこの期間は完全休業になる。

ところが、時間差休暇というものがあって、時間に融通のきく仕事を持っている人々の中には、多くの人の休暇が集中する8月の混乱期を避けて、バカンスを前倒しにしたり、逆に遅らせて出かける者も相当数いる。

そうすると、普通の期間に休みを取る人々は、休み前にも休みが明けてもクライアントがいなかったり、逆に自らがクライアントとなって仕事を出す相手がいなかったりする。

どんな仕事でも相手があってはじめて成り立つものだから、休暇前や休暇後に相方不在の状況に陥って、仕事の量が減り能率もがくんと落ちてしまう。

そこに長期休暇を取る人々の仕事の空白なども加わって、7月から8月末までのイタリアは、国中が総バカンス状態のようになってしまうのである。

だから6月にもなると、7月と8月を飛び越して、「9月に会いましょう」が人々の合言葉になるわけだ。イタリアがバカンス大国であるゆえんは、夏の間は仕事が回らないことを誰もが納得して、ゆるりと9月を待つところにある。

プロのテレビ屋としてロンドン、東京、ニューヨークに移り住んで仕事をした後にこの国に来た僕は、当初は仕事の能率の上がらないイタリアの夏の状況を怒りまくり、ののしりまくっていたものだ。

しかし今はまったく違う。これだけ休み、これだけのんびりしながらも、イタリアは一級の富裕国である。働く人々の長期休暇が極端に少ないたとえば日本などよりも、豊かさの質がはるかに上だとさえ感じる。

9月に会いましょう!と明るく声をかけあって、イタリア的に休みまくるのはやはり、誰がなんと言おうが、良いことなのだと思わずにはいられないのである。


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「フェルーカ」挽歌


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                               フェルーカ漁船


イタリア、シチリア島にちょうど今ごろの季節にはじまる「フェルーカ」と呼ばれる伝統的な漁がある。マグロやカジキを銛で突いて取るいわゆる”突きん棒”である。僕はかつてこの漁の模様を描いてNHKスペシャルのドキュメンタリー番組を作ったことがある。

”突きん棒”は世界中のどこにでもある漁法。。もちろん日本にもある。海面すれすれに浮遊している魚を銛で一突きにする原始的な漁だから、大昔に世界中の海で同時発生的に考案されたものなのだろう。
  
シチリア島の”突きん棒”は、古代ローマ帝国時代以前から存在した記録が残っている。この素朴な漁の伝統は以来、船や漁具に時代に沿った変化はあったものの、シチリア島の漁師たちによって、古代の息吹をかたくなに守る形がえんえんと受け継がれてきた。

「フェルーカ」とは、漁に使われる漁船の名前。総屯数二十トン程のふつうの漁船を改造して、高さ三十五メートルの鉄製のやぐらと、伸縮自在で長さが最大五十メートルにもなる同じく鉄製のブリッジを船首に取りつけた船。

フェルーカ船のやぐらとブリッジは、互いに均衡を保つように前者を支柱にして何十本ものワイヤーで結ばれて補強され、めったなことでは転ぷくしないような構造になっている。 
  
しかし船体よりもはるかに長い船首のブリッジと、天を突くようにそびえているやぐらは、航行中も停船時も波風でぐらぐらと揺れつづけていて、見る者を不安にする。
 
やぐらは遠くの獲物をいちはやく見つけるための見張り台。てっぺんには畳半畳分にも満たない広さの立ち台があって、常時3人から4人の漁師が海面に目をこらして獲物の姿を追う。船首の先に伸びているブリッジは、銛打ち用のものある。

銛の射手は、それを高く構えてブリッジの先端に立ちつくして、獲物が彼の足下に見えた瞬間に打ち込む。つまり彼は、本来の船首が魚に到達するはるか手前で銛をそれに突き立てることができるのである。

逃げ足の速い獲物に少しでも近く、素早く、しかも静かに近づこうとする、漁師たちの経験と知恵の結晶がやぐらとブリッジ。やぐら上の見張りとブリッジ先端の銛手のあうんの呼吸が漁の華である。

僕はこの不思議な船と漁を題材にドキュメンタリーを作ると決めた後、情報集めなどのリサーチを徹底するかたわら、何度もシチリア島に足をはこんで、漁師らに会い船に乗せてもらったりしながら準備をすすめた。
 
これで行ける、と感じて企画書を書いてNHKに提出し、OKが出た。そこまでに既に6年以上が過ぎていた。短く、かつ忙しい報道番組のロケや制作を続けながらの準備だから、僕の場合それぐらいの時間は普通にかかるのである。

番組の最大の売りは何と言ってもマグロ漁にあった。大きい物は400キロを越え、時には500キロにもなんなんとする本マグロを発見して船を寄せ、大揺れのブリッジをものともせずに射手が銛を打ち込む。

激痛で憤怒の塊と化した巨大魚が深海をめがけて疾駆する。船ごと海中に引きずり込みそうな暴力が炸裂して、銛綱の束が弾けるようにするすると海中に呑み込まれる。すると綱で固着された浮き代わりのドラム缶数本が、ピンポン玉よろしく中空を乱舞し海面にたたきつけられる。

マグロは銛を体に突き通されたまま必死に逃げる。獲物の強力な引きと習性を知り尽くした男たちが死にものぐるいで暴力に対抗し、絶妙な綱引きの技でじわじわと巨大魚を追い詰めて取り込んで行く・・・・。
 
僕がフェルーカ漁に魅せられて通ったそれまでの6年間に、幾度となく体験した勇壮なシーンを一つ一つ映像に刻み込めば、黙っていてもそれは面白い作品になるはずだったた。ところがロケ中に獲れるのはカジキだけだった。肝心の本マグロがまったく獲れないのである。

フェルーカ漁は毎年4月頃から準備が始まり5月に幕を開ける。そしてイタリア半島とシチリア島の間にあるメッシーナ海峡と、エオリア諸島近海を舞台に8月まで続く。
 
準備の模様から撮影を始め、次に海上での漁に移った。1ト月が経ち、2タ月が経ち・・・やがて漁の最盛期である7月に入った。ところがマグロが暴れる場面は一向に出現しない。狐につままれたような気分だった。

しかしそれは海や山などを相手にする自然物のドキュメンタリーではありふれた光景だ。魚や野生動物が相手だから、不漁続きで思ったような絵が撮れない、という事態がひんぱんに起こるのである。

僕はロケ期間を延長し、編集作業のためにどうしても自分が船に乗れない場合には、カメラマン以下のスタッフを張り付けて漁を追いつづけた。ロケ期間はそうやって最終的には5ヶ月近くにもなった。
 
しかし最後まで一匹のマグロも獲れずにとうとうその年のフェルーカ漁は終わってしまった。

僕は仕方なくカジキ漁を話の中心にすえて編集をして、一応作品を完成した。それは予定通り全国放映されたが、反響は「予想通り」いまいち、という感じで終わった。

フェルーカ漁とそれにまつわる人々のドラマは、ある程度うまく描かれているにもかかわらず、どこかインパクトに欠けて物足りないものがある、というのが人々の一致した印象であり意見だった。

僕はそうなった理由を誰よりも良く分かっていたが、もちろん一言も弁解をするわけにはいかなかった。たとえ何が起ころうと番組作りの世界では結果が全てである。

ロケ中の障害のために結果が出なかったならば、それはひとえにディレクターである僕の力量が足りなかったからだ。あらゆる障害を克服して結果を出すのが監督の仕事なのである。

そんなわけで僕は自らの無力をかみしめながら、忸怩たる思いでその仕事を切り上げなければならならなかった。

年ごとに先細りになっていくフェルーカ漁は、漁そのものの存続があやぶまれる程に漁獲量が落ちこんでいる。漁獲量がほぼゼロの年さえある。

観光客を乗船させ漁を体験してもらうことで収入を得て、ようやく漁船の維持費を稼ぐことも珍しくない。

それでも漁師たちはあきらめず、何とかして漁の伝統を次の世代に受け渡そうと必死になっている。しかし先行きは暗い。それでもなお彼らは海に出る。今日も。明日も。

勇壮で厳しく、同時にそこはかとなく哀感のただようフェルーカ漁のその後を、もう一度カメラで追ってみたい、と僕はロケ以来つづいている漁師たちとの友情を大切にしながら考えることも一再ではない。


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独立自尊こそ島の心意気



サルデーニャ島に関する8本目の論考。この稿をもってサルデーニャ島の話は“いったん”終わりにする。むろん、将来なにかがあればまた書く計画。そして将来なにもないわけがない、というのが僕の正直な気持ちだ。それだけ面白いのである。サルデーニャ島は。


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イタリア・サルデーニャ島にのしかかかった政治的「植民地主義」は近世以降、重く厳しい現実を島民にもたらし続けた。

2017年7月、サルデーニャ独立運動家のサルヴァトーレ・メローニ氏(74歳)は、収監中の刑務所で2ヶ月間のハンガーストライキを実行し、最後は病院に運ばれたがそこで死亡した。

元長距離トラック運転手だったメローニ氏は2008年、サルデーニャの小さな離島マル・ディ・ヴェントゥレ(Mal di Ventre)島に上陸占拠して独立を宣言。マルエントゥ共和国と称し自らを大統領に指名した。それは彼がサルデーニャ島(州)全体の独立を目指して起こした行動だった。

だが2012年、メローニ氏は彼に賛同して島に移り住んだ5人と共に、脱税と環境破壊の罪で起訴される。またそれ以前の1980年、彼はリビアの独裁者ガダフィと組んで「違法にサルデーニャ独立を画策した」として9年間の禁固刑も受けていた。

過激、且つ多くの人々にとっては笑止千万、とさえ見えたメローニ氏の活動は実は、サルデーニャ島の置かれた特殊な状況に根ざしたもので、大半のサルデーニャ島民の心情を代弁する、と断言しても良いものだった。

サルデーニャ島は古代から中世にかけてアラブ人などの非西洋人勢力に多く統治された後、近世にはスペインのアラゴン王国に支配された。そして1720年、シチリア島と交換される形で、イタリア本土のピエモンテを本拠とするサヴォイア公国に譲り渡された。

サルデーニャを獲得したサヴォイア公国は、以後自らの領土を「サルデーニャ王国」と称した。国名こそサルデーニャ王国になったが、王国の一部であるサルデーニャ島民は、サヴォイア家を始めとする権力中枢からは2等国民と見なされた。

王国の領土の中心も現在のフランス南部とイタリア・ピエモンテという大陸の一部であり、首都もサヴォイア公国時代と変わらずピエモンテのトリノに置かれた。サルデーニャ王国の「サルデーニャ」とは、サヴォイア家がいわば戦利品を自慢する程度の意味合いで付けた名称に過ぎなかったのである。

1861年、大陸の領地とサルデニャ島を合わせて全体を「サルデーニャ王国」と称した前述のサヴォイァ家がイタリアを統一したため、サルデーニャ島は統一イタリア王国の一部となり、第2次大戦後の1948年には他の4州と共に「サルデーニャ特別自治州」となった。

統一イタリアの一部にはなったものの、サルデーニャ島は「依然として」サヴォイア家とその周辺やイタリア本土のエリート階級にとっては、異民族にも見える特殊なメンタリティーを持つ人々が住む、低人口の「どうでもよい」島であり続けた。

その証拠にイタリア統一運動の貢献者の一人であるジュゼッペ・マッツィーニ
(Giuseppe Mazzini)は、フランスがイタリア(半島)の統一を支持してくれるなら「喜んでサルデーニャをフランスに譲り渡す」とさえ公言し、その後のローマの中央政府もオーストリアなどに島を売り飛ばすことをしきりに且つ真剣に考えた。

[イタリアという4輪車]にとっては“5つ目の車輪”でしかなかったサルデーニャ島は、そうやってまたもや無視され、差別され、抑圧された。島にとってさらに悪いことには、第2次大戦後イタリア本土に民主主義がもたらされても、島はその恩恵に浴することなく植民地同様の扱いを受けた。

政治のみならず経済でもサルデーニャ島は差別された。イタリア共和国が奇跡の経済成長を成し遂げた60~70年代になっても、中央政府に軽視され或いは無視され、近代化の流れから取り残されて国内の最貧地域であり続けたのである。

そうした現実は、外部からの力に繰り返し翻弄されてきたサルデーニャ島民の心中に潜む不満の火に油を注ぎ、彼らが独立論者の主張に同調する気運を高めた。そうやって島には一時期、独立志向の心情が充満するようになった。

第2次大戦後のサルデーニャの独立運動は、主に「サルデーニャ行動党(Partito Sardo d’Azione)」と「サルデーニャ統一民主党(Unione Democratica Sarda)」が中心になって進められ、1984年の選挙では独立系の政党が躍進した。

だがその時代をピークに、サルデーニャ島の政党による独立運動は下火になる。その間隙をぬって台頭したのが‘一匹狼’的な独立運動家たちである。その最たる者が冒頭に言及したサルヴァトーレ・メローニ氏だった。

サルデーニャ島民は彼ら独自のアイデンティティー観とは別に、ローマの中央政府に対して多くの不満を抱き続けている。その一つが例えば、イタリア駐在NATO軍全体の60%にも当たる部隊がサルデーニャ島に置かれている現実だ。また洪水のようにサルデーニャ島に進出する本土企業の存在や島の意思を無視したリゾート開発競争等も多くの島民をいらだたせる。

しかしながら現在のサルデーニャ島には、深刻な独立運動は起こっていない。不当な扱いを受けながらも、イタリア本土由来の経済発展が島にも徐々にもたらされている現実があるからだ。2015年には「イタリアから独立してスイスの一部になろう」と主張する人々の動きが、そのユニークな発想ゆえにあたかもジョークを楽しむように世界中の人々の注目を集めたぐらいだ。

イタリアには独立を主張する州や地域が数多くある。サルデーニャとシチリアの島嶼州を始めとする5つの特別州(※註1)は言うまでもなく、約160年前のイタリア統一まで都市国家や公国やローマ教皇国等として分離独立していた半島各地は、それぞれが強い独立志向を内に秘めている。

2014年3月にはヴェネト州で住民による独立の是非を問うインターネット投票が実施され、200万人が参加。その89%が独立賛成票だった。それは英国スコットランドの独立運動やスペイン・カタルーニャ州問題などに触発された動きだったが、似たような出来事はイタリアでは割とよく起こる。

イタリアは国家の中に地方があるのではなく、心理的にはそれぞれが独立している地方が寄り集まって統一国家を形成しているいわば連邦国家だ。サルデーニャ島(州)の独立志向もそのうちの一つという考え方もできるかもしれない。

ところが人口約160万人に過ぎないサルデーニャ島には、イタリアからの分離独立を求める政党が10以上も存在し、そのどれもがサルデーニャ島の文化や言葉また由緒などの全てがイタリア本土とは異なる、と訴えている。

例えそれではなくとも、有史以来サルデーニャ島が辿ってきた特殊な時間の流れを見れば、同地の独立志向の胸懐は、イタリア共和国の他の地方とはやはり一味も二味も違う、と言わなければならないように思うのである。

(※註1)シチリア、サルデーニャ、ヴァッレ・ダオスタ、トレンティーノ=アル ト・アディジェ、フリウリ=ヴェネイア・ジュリアの各州。イタリアには州が20あ り、そのうち15州が通常州、5州 が特別自治州である。特別自治州は通常州よりも大きな地方自治権を有している。



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死ぬまで生き抜く



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昨年11月、父が101歳で他界した。

また6月にはイタリア人の義母が92歳で亡くなった。

そうやって母に続いて逝った父を最後に、妻の両親を含む僕ら夫婦の日伊双方の親世代の人々がこの世から全ていなくなった。

それは寂しく感慨深い出来事である。

生きている親は身を挺(てい)して死に対する壁となって立ちはだかり、死から子供を守っている。

だから親が死ぬと子供はたちまち死の荒野に投げ出される。次に死ぬのはその子供なのである。

親の存在の有難さを象徴的に言ってみた。

だがそれは単なる象徴ではない。

先に死ぬべき親が「順番通り」に実際に逝ってしまうと、子供は次は自分の番であることを実感として明確に悟る。

僕自身が置かれた今の立場がまさにそれである。

だが人が、その場ですぐに死の実相を知覚するのかといえば、もちろんそんなことはない。

死はやがて訪れるものだが、生きているこの時は「死について語る」ことはできてもそれを実感することはあり得ない。

人は死を思い、あるいは死を感じつつ生きることはできない。

「死を意識した意識」は、すぐにそのことを忘れて生きることに夢中になる。

100歳の老人でも自分が死ぬことを常時考えながら生きたりはしない。

彼は生きることのみを考えつつ「今を生きている」のである。

晩年の父を観察して僕はそのことに確信を持った。
 
父はいつも生きることを楽しんでいた。

楽しむばかりではなく、生に執着し、死を恐れうろたえる様子さえ見せた。

潔(いさぎよ)さへの憧憬を心中ひそかに育んでいる僕は、時として違和感を覚えたくらいだ。

ともあれ、死について父と語り合うことはついになかったが、僕は人が「死ぬまで生き尽くす」存在であるらしいことを、父から教わったのである。



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沖縄もいっそのこと『さらなる苦労覚悟で』サルデーニャ島と共に独立するか~い?



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サルデーニャ島のテラコッタの屋根と沖縄の赤瓦の屋根はあまり似ていないかもしれないけれど・・


イタリアのサルデーニャ島は、一見すると「本土から遠く離れた明るいリゾート地」という沖縄と良く似たポジティブな一面を持つ。

それでいながらサルデーニャ島には、もっと深刻な部分でも沖縄との類似点が多い。

サルデーニャ島は、古代からアラブ人を含む多くの力に支配された後、18世紀にイタリア本土のピエモンテを本拠とするサヴォイア公国の支配下におかれた。

琉球王国と称したかつての沖縄が、本土の島津藩に支配された史実と「表面上」は同じなのである。

もっともサルデーニャ島は沖縄島(琉球王国)と違って独立国だったことは一度もないが。

サルデーニャ島を獲得したサヴオイア家のサヴォイア公国は、以後自らの領土を「サルデーニャ王国」と称した。

国名こそサルデーニャ王国になったものの、しかし、サルデーニャ王国の本拠地はイタリア本土のピエモンテであり、首都も現在のピエモンテ州都と同じトリノだった。

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加えて王国の一部であるサルデーニャ島民は、サヴォイア家を始めとする権力中枢からは2等国民と見なされた。


1861年、支配者のサヴォイァ家がイタリア統一を成し遂げたため、サルデーニャ島は自動的に統一イタリア王国の一部となった。

しかし「依然として」サルデーニャ島は、イタリア本土のエリート階級にとっては、異民族にも見える特殊なメンタリティーを持つ人々が住む、低人口の「どうでもよい」島であり続けた。

それは第2次大戦後イタリアが奇跡の経済成長を成し遂げた時代になっても変わらず、サルデーニャ島民の不満が募った。

結果、島には一時期イタリアからの独立を求める動きが活発化した。全体の
41%ものサルデーニャ島民が、イタリアからの独立に賛成、という統計さえある。

深刻な独立運動は現在は下火になったが、サルデーニャ島にはイタリア駐在NATO軍全体の60%にも当たる部隊が置かれ、イタリア本土との経済格差も大きいことなどが常に島民を苛立たせる。

不当な扱いを受けながらも深刻な独立運動が影を潜めているのは、イタリア本土由来の経済発展が島にも徐々にもたらされている現実があるからだ。

米軍基地の過重負担と中央権力及びメディアによる構造的差別に悩まされながらも、経済発展という目先の利益も無視できない沖縄のジレンマとうり二つなのである。


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ニラツナ・パスタ



ニラ大地の出産投稿済み




日本にある一般的な野菜の中でイタリアにはないもののひとつがニラである。僕はニラが好きなので仕方なく自分で育てることにした。

わが家はミラノ郊外のブドウ園に囲まれた田舎にあるので、菜園用の土地には事欠かない。

日本に帰った際にニラの種を買って戻って、指定された時期にそれを菜園にまいた。が、種は一切芽を出さなかった。
 
イタリアは日本よりも寒い国だから、と時期をずらしたりして試したが、やはり駄目だった。10年以上も前のことである。

いろいろ勉強してプランターで苗を育てるのはどうだろうかと気付いた。

次の帰国の際に故郷の沖縄からニラ苗を持ち込んでプランターに植えた。今度はかなり育った。かなりというのは日本ほど大きくは育たないからである。

成長すれば30~40センチはあるりっぱなニラの苗だったのだが、ここではせいぜい15~20センチ程度しかなく茎周りも細い。

しかし、野菜炒めやニラ玉子を作るには何の支障もないので、頻繁に利用している。

そればかりではない。ニラはニンニク代わりにも使える。特にパスタ料理には重宝する。

わが家ではツナ・スパゲティをよく作るが、そこではニンニクを使わずニラをみじん切りにして加える。ニンニクほどは匂わずしかもニンニクに近い風味が出る。

またニンニクとオリーブ油で作る有名なスパゲティ「アーリオ・オーリオ・ペペロンチーノ」にニラをみじん切りにして加えると、味が高まるばかりではなく、ニラの緑色が具にからまって映えて、彩(いろど)りがとても良くなる。
 
見た目が美しいとさらに味が良くなるのは人間心理の常だから、一石二鳥である。


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反EU 伊新政権の危うさ

過半数を制する政党がなかった3月4日の総選挙を受けて、イタリアの政治不安が続いている。支持率1位の五つ星運動と2位の同盟は、議席を合計すれば過半数に達することから連立政権樹立を目指してきた。

5月21日、両党は政権合意に達し首相候補として法学者のジュゼッペ・コンテ氏をマタレッラ大統領に推薦。ところがその直後にコンテ氏の学歴詐称問題が飛び出して、政権発足が再び頓挫しそうな状況に。 

大統領はもともと五つ星運動と同盟の連立政権には懐疑的な立場。両党は分かりやすく言えば左右のポピュリスト(大衆迎合主義)勢力。バラマキとも批判される政府歳出の大幅な拡大と「反EU(欧州連合)&反移民差別主義」をかかげて支持を伸ばしてきた。

増大する難民・移民への反感はイタリアのみならずEU各国に共通した現象。イタリアの特異な点は2010年に始まった欧州債務危機の後遺症からまだ回復していない点だ。EU圏内最大の約300兆円もの累積債務を抱えて呻吟している。

EUは借金を減らせ、緊縮財政を続けろ、とイタリアに強く迫っている。ところが五つ星運動と同盟は、EUと合意している財政緊縮策をほごにして政府支出を大幅に増やすと主張。マタレッラ大統領はそこに異議を唱えている。

彼は憲法の規定によって首相候補の認否権を持つため判断が注目されている。

財政赤字を解消するどころか、さらに借金を増やそうとする連立政権は船出をすれば即座にEUと対立するだろう。新政権は最悪の場合、英国に続いてEUからの離脱を要求するかもしれない。

それは自殺行為と形容しても過言ではない愚かな策だ。たとえ「反EU」を掲げ続けても、連立政権はEUとの対話を模索し決して離脱を考えるべきではない。


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地中海難民と沖縄米軍基地



群集路上マネキン無関心600picに拡大


地中海を渡ってイタリアに流入する難民・移民はとどまることを知らない。彼らの救助と救助後の面倒見に翻弄されているイタリアは、EU(欧州連合)の介入と手助けを必死に呼びかけているが、独仏をはじめとするEU各国は「イタリアに同情する」「イタリアを1人にはしない」「イタリアの痛みを分かち合う」などなど、口先ばかりの「連帯」を表明して実はほぼ無関心と言っても良い態度を貫いている。

それどころかEUの問題児のハンガリーは、同国のオルバン首相の名で「イタリアは難民排斥のために全ての港を閉鎖するべき」と呼びかけてこの国を非難した。それにはチェコ共和国、スロベニア、ポーランドの元共産主義国で今や難民・移民排斥の急先鋒の国々の代表が同調した。

イタリアには中東やアフリカからの難民・移民が押し寄せている。今年はその数は、7月末現在までに約10万人にのぼる。その数字は、海が静かな夏の間は確実に増え続けると見られている。それらの難民・移民の大半の「最終目的地」は、実は「ヨーロッパ全体」であってイタリアではない。イタリアにとどまろうとする者は少数なのだ。

つまりそれはEU各国はもちろん欧州全体の安全保障の問題である。ところがEU加盟国を始めとする欧州の大半の国と国民は、それをイタリアだけの問題とみなして、口先だけの連帯を唱えて無関心でいるのだ。それどころか先の東欧4カ国は、EUのメンバー国でありながらイタリアを避難するような声明を出すありさまである。

ハンガリーをはじめとする東欧の国々は、EUに参加はしたものの、いわゆる西側諸国に比べると経済的には弱者である。経済大国ドイツはもちろん、仏伊ほかの国々と比べても豊かさではかなわない。彼らが難民受け入れに反対するのは、経済的な負担を避けたいからである。それは理解できることだ。だがそれだけではない事情もある。

かつてソ連の庇護の下にあった東欧4カ国には、人種差別にあまり罪悪感を覚えない人々が多く住む、という説がある。そうした人々の大半は、第二次世界大戦中のドイツ人やオーストリア人などと同様にユダヤ人を虐殺したり、虐殺に手を貸したりなどしてナチスにぴたりと寄り添い協力した過去を持っている。いわゆるポグロムである。それにもかかわらず、戦後は共産主義世界に組み込まれて戦時の総括をしないままに日を過ごした。

やがてソビエト連邦が崩壊し、現在ではEU(欧州連合)の メンバー国にまでなる幸運を得ながら、先の対戦への総括がなかったために昔風の反ユダヤ主義やイスラムフォビア(嫌悪)やアジア・アフリカ差別などの心理を払拭できずにいる、というのである。もしもその説が正しいならば、難民問題は過去2千年に渡るユダヤ人迫害事案などを始めとする、欧州のもう一つの暗い歴史をあぶりだしていると言える。

ところで、難民・移民問題に関する欧州内の有りさまを見ながら、僕は何かに似ていると思い続けてきたが、イタリアに対するハンガリー主導の先日の4カ国の非難声明を見て、ようやくそれが何であるのかが分かった。要するにそれは辺野古および沖縄米軍基地を巡る日本国内の状況にそっくりなのである。

つまり日本全体の安全保障のための基地過重負担にあえぐ沖縄に、「同情」し「沖縄に寄り添い」「痛みを分かちたい」と口先ばかりの「連帯」を言う安倍政権と多くの日本国民は、欧州の大半の国とその国民に似ている。またイタリアを非難する東欧4カ国は、沖縄の反基地闘争は補助金や補償金が目当て、と誹謗中傷するネトウヨ・ヘイト系の人々に酷似している、と気づいたのである。

沖縄には同情するが、でも米軍基地は「NIMBY=Not In My Back Yard(私の裏庭には持ってこないで)」と願う人々の気持ちは理解できるものだ。欧州各国が難民の重責をイタリア一国に押し付けたがる気持ちもまた同じ。それは世界中のどこの地域のどんな事案にも当てはまる現象なのである。

だからといってその不条理を不条理のまま捨て置くのは許されない。日本国民と欧州各国は見て見ぬ振りをするのではなく、そろそろ沖縄とイタリアの負担軽減に向けて自らの身も削ることを考えるべきだ。その動きが出ないならば、沖縄とイタリアはさらに強くさらに声高に要求し闘い続けるべきだ。

なぜなら米軍基地は沖縄一県ではなく日本全体の安全保障の問題であり、地中海難民問題はイタリア一国ではなく欧州全体の同じく安全保障の問題だからである。沖縄とイタリアに生じた安全保障の綻(ほころ)びは、応力集中を引き起こしてそれぞれの地域の崩壊につながる可能性もあることに、人々はそろそろ気づくべきである。


麻薬大国 ~モディカ・クアンティタ~


大麻解禁

2014年9月20日、イタリア政府はこれまで禁止されていた大麻の栽培を軍施設に限って解禁すると発表した。欧米では、特に痛みの軽減に効果があるとし て医療用に大麻を使うケースが増えている。イタリアも例外ではなく2007年から医療用大麻の販売や使用が合法化された。

しかしイタリアにおける医療用の大麻は、それが普通に流通している「大麻先進国オランダ」からの輸入がほとんどで、しかも値段が高いために一般化していない。そこでイタリア政府は、医療向けの安い大麻を軍の厳しい管理のもとに生産する決定をした。

その数日後、まるで呼応するように、地中海の島嶼州サルデニアで82歳の麻薬密売人の女ステファニア・マルーが逮捕された。老女は数人の若い男を配下に置いて麻薬密売にいそしんでいて、1962年の初仕事以来50年以上に渡って麻薬を売ってきた猛者だった。

また昨年末にはローマでも80歳になる女密売人が逮捕された。彼女はローマ中心街の自宅窓から、通りを歩く客に麻薬を渡して素早く金を受け取る、という方法で薬物を売っていた。同女も長年に渡って麻薬の密売を続けてきた手練れである。

医療用大麻の生産を解禁したイタリア政府の動きは滑稽なほどに鈍かった。それはイタリアに麻薬が蔓延している状況と無縁ではない。中毒患者数を始めとするイタリアの麻薬事情は年々改善傾向にあるが、たとえ医療用とはいえ、それを解禁することが社会にもたらす心理的な影響を考慮して、イタリア政府は二の足を踏んでいたのだと考えられる。

大麻栽培を解禁した政府の動きと、それに前後して麻薬密売の罪で逮捕された2人の老女のエピソードは、実は直接に関連するものではない。しかし、あたかも政府発表に合わせるかのように老密売人2人が逮捕された事実は、僕にはイタリアの麻薬事情を端的に表す逸話のようにも見える。

麻薬汚染都市ミラノ

あまり言いたくないが、僕が長く仕事の拠点にしてきたミラノは実は、世界でも有数の麻薬汚染都市である。過去には「世界最悪の」という有難くない 烙印まで押されたことがある。人口10万人当たりの麻薬関連の死亡者数を比較検討したところ、ミラノが世界第1位に躍り出てしまったことがあるのだ。

そうした統計でワーストNO1に輝くのは米国のサンフランシスコと相場が決まっていた。ミラノはそこを抑えてトップになった。繰り返しになるが、イタ リアには麻薬が蔓延している。国中が麻薬にまみれているという現実が先ずあって、ミラノの問題が出てきた。それは決して偶然のでき事ではない。

イタリアに麻薬が蔓延している理由は、ごく単純に言ってしまえばイタリア社会が豊かだからである。米英独仏蘭などに代表される欧米の国々で麻薬がはびこっ ているのと同じ社会背景があって、イタリアにも麻薬が広がっていった。つまり「豊かさに付いてまわる負の遺産」がこの国の麻薬問題である。

ところがイタリアという国は、何事につけ人騒がせなところがあって、麻薬の場合にもまたまた他人とは違う独特のやり方というか、あり方というか、不可解な「イタリア的事情」をいかんなく発揮して、前述の国々とは異なる麻薬環境を国中に作り出してしまった。

モディカ・クアンティタ

イタリアの麻薬関連法には通称「モディカ・クアンティタ(小量保持)」というコンセプトがある。これは個人が使用する分と考えられる小量の麻薬(モディカ・クアンティタ)の所持を認めるというものである。つまり麻薬は、1人1人の個人の責任において、これを所持し使用する分にはお構いなしという規定だ。

かつてはイタリアの麻薬関連法も、薬物の量の大小に関わらずにそれの保持を厳しく規制していた。それが1970年代を境にモディカ・クアンティタのコンセプトが導入されて規制がゆるくなった。ただし、麻薬を大量に所持してこれを売る者
(売人)は、その生産者と同じく飽くまでも厳しい罰則の対象ではある。

モディカ・クアンティタ(小量保持)の「小量」には具体的な規定がない。いや、あることはあるのだが、すぐに内容が変わるなど厳格さに欠けるため、言葉の解釈をめぐって大きな混乱が起きる。麻薬所持で捕 まった売人が、個人使用の分量だと主張し、裁判の度に有罪になったり無罪になったりもする。

少量の麻薬保持は罪に問わないという法の在り方には、イタリア人得意の物の考え方が関わっている。即ち、麻薬を所持し使用することは個人の問題なのだから、これを他人(国)がとやかく言うべきではない、という立場である。それがモディカ・クアンティタの原則というか基本的な哲学である。

モディカ・クアンティタの廃止・・・?

言葉を変えればそれは、厳罰主義を嫌うイタリア国民の強い意志の表明でもある。少量の麻薬保持を容認する態度の根っこには、人間は罪深い存在であり、間違いを犯すものであり、従って許されるべき存在であるというキリスト教的な死生観がある。

モディカ・クアンティタのコンセプトの根源は宗教的である分これを否定したり、矯正、改削することが難しい。加えてそこには、マリファナやハシシなどのいわゆる「軽い麻薬」を、酒や煙草よりも健康被害の少ない嗜好品、と見なす欧米社会の通念に近い考え方もあるからなおさらである。

2014年現在、イタリアの麻薬法は少量保持も禁止、という立場を取っている。しかしながら依然として罰則はゆるく、初犯の場合にはお構いなし。再犯やそれ以降でも運転免許証やパスポートが一時的に停止される場合もある、という程度である。 モディカ・クアンティタの精神を良しとする社会風土は、法の規定にはお構いなく歴然として存在する。

モディカ・クアンティタという厄介な考え方のおかげで、イタリアの麻薬環境は半ば野放し状態になった、という風に僕は考えている。そうしたイタリアの社会状況の中で、多くの麻薬患者は言うまでもなく、麻薬から最も遠いところにいると見える前述の2人の老婆のような者まで密売人になった。

麻薬はそうやってイタリアの日常茶飯の出来事の一つになって行った。
                        
                       (つづく・随時)

マフィアの亡霊



加筆再録



僕はイタリア・シチリア島にたくさんの友人がいて、ロケ撮影やリサーチなどの仕事のほかにプライベートでも良く島を訪ねる。シチリアにはドキュメンタリー にしたい題材が多いが、一番魅力的なテーマはなんと言ってもマフィアである。しかし僕がこれまでにシチリア島で取材したドキュメンタリーも、また今後ロケ をするチャン スをうかがっている作品も、今のところマフィアとは直接には関係がない。

それでいながら僕は、シチリアで何かの作品を制作することは、どこかで既にマフィアを描くことにつながっていると考えている。なぜならマフィアとはシチリア島そのものだからである。シチリアの島民の全てがマフィアと関わっているという意味ではもちろんない。

それどころか彼らは犯罪の被害者であり、誰よりも強くマフィアの撲滅を願っている人々である。しかし島民は、恐怖と誇りという2つの感情の鎖で心をがんじがらめに縛りつけられているために、結果としてマフィアに協力してしまう行動を取ることさえある。
 
マフィアにはオメルタ(沈黙)という鉄の掟がある。組織のことについては外部の人間には何もしゃべってはならない。裏切り者は本人はもちろんその家族や親 戚、果ては必要ならば友人知己まで抹殺してしまう、というすさまじいルールである。オメルタは長い間に村や町や地域を巻き込んで、最終的にはシチリア島全 体の掟になってしまった。

シチリアの人々はマフィアについては誰も本当のことをしゃべりたがらない。しゃべれば報復されるからだ。報復とは死である。人々を恐怖のどん底に落とし入れる方法で、マフィアはオメルタをシチリア島全体の掟にすることに成功した。
 
しかし、恐怖を与えるだけでは、マフィアはおそらくシチリアの社会にこれだけ深くオメルタの掟を植えつけて行くことはできなかった。シチリア島民が持って いる シチリア人としての強い誇りが、不幸なことにマフィアへの恐怖とうまく重なり合って、オメルタはいつの間にか抜き差しならない枷(かせ)となって人々にの しかかっていったのである。

シチリア人は独立志向の強いイタリアの各地方の住民の中でも、最も強く彼らのアイデンティティーを意識している人々である。四方を海に囲まれた島国の人間というのは共同体意識が強く、常に内と外を分けて考える性癖が身についているのは周知の事実である。

それは時代が進み近代化の波が押し寄せる過程で薄れていくものだが、シチリア島にはその波がゆっくりとした速度でしか寄せてこなかった。そのためにシチリア島には、イタリアの中でも前近代的な側面を最も強く持つ社会が今も残ることになった。
 
そうしたことに加えてシチリア島は、紀元前のギリシャ植民地時代以来、ローマ帝国、アラブ、ノルマン、フランス、スペイン、等と 次々に異国に征服されてきた。外の力に支配されつづけたシチリア人は、その反動でますます彼ら同志の結束を強め、かたくなになり、シチリアの血を意識して それが彼らの誇りになった。

シチリアの血を強烈に意識する彼らのその誇りは、犯罪のカタマリである秘密結社のマフィアでさえ受け入れてしまう。いや、むしろそれをかばって、称賛する心根まで育ててしまう。なぜならば、マフィアもシチリアで生まれシチリアの地で育った、シチリアの一部だからである。

かくしてシチリア人はマフィアの報復を恐れて沈黙し、同時にシチリア人としての誇りからマフィアに連帯意識を感じて沈黙するという、巨大な落とし穴にはまってしまった。

1861年にイタリアは統一された。 この出来事は異民族の支配下にあったシチリアの立場を良くするどころか、むしろ人々の疎外感を強める結果になった。統一はイタリア北部の主導で成されて、 北部の発展だけに寄与する体制だとシチリア人は感じたのである。事実統一後のイタリア国家は、現在でも北部と南部の経済格差が激しい国情である。

シチリアの島民は、統一が異民族の支配からの脱却などではなく、新たな異民族つまりイタリア北部人によるシチリア島の征服である、とはっきりと悟った。以 来彼らはシチリアの一部であるマフィアに対する連帯意識をさらに強めて、北部がローマを隠れみのにくり出してくるマフィア撲滅を目的にした国家権力、つま り警察には一切協力しない方向に傾いていった。

シチリアの人々はマフィアについては誰も本当のことを語らない。従って警察もなかなかマフィアのシッポをつかむことができない。マフィアの構成員と考えら れる犯罪者を捕らえても、目撃者や被害者をはじめとする周囲の人々が沈黙を守るために、決定的な証拠が不足してしまうのである。

マフィアを一掃できないのは、イタリアの官憲がだらしないからだと良く聞く。それにも一面の真実がある。しかし、シチリア島のおよそ500万人の住民が官憲に対して敵意に近い感情を持ち、結果としてマフィアをかばう図式があることも、また事実なのである。

そうした現実は、イタリア人を含むシチリア島以外の世界中の人々が、島や島人をマフィアそのものと見なしてしまう態度になって彼らにはね返り、シチリアの 人々をさらにかたくなにしていく。かたくなになって、彼らはマフィアに関してはなお一層口をつぐんでしまい、マフィアはいよいよそれに助けられる、という 悪循環にあえいでいるのがシチリア島の状況である。

マフィアはシチリア島の現実だが、島民を含む世界中の人々の恐怖心と嫌悪と怒りによって拡大解釈され、とめどもなく膨れあがって、ついには制御のきかなくなったいわば亡霊のような側面がある。

僕は冒頭で、マフィアとはシチリア島そのものである、と言った。それはシチリアの置かれた特殊な環境と歴史と、それによって規定されゆがめられて行ったシチ リアの人々の心のあり方を象徴的に言ったものである。シチリアの人々を何かにつけてマフィアそのもののように見なす風潮には、僕は加担しない。
 
もう一度冒頭の自分の言葉にこだわって言えば、マフィアとはシチリア島そのものであるが、シチリア島やシチリアの人々は断じてマフィアそのものではない。 島民が全てマフィアの構成員でもあるかのように考えるのは、シチリア島にはマフィアは存在しない、と主張するのと同じくらいにバカ気たことである。



イタリア史上最年少首相はもしかして年若い老人?



イタリア史上最年少、39歳のマッテオ・レンツィ首相が誕生した。カリスマ的な男は弱冠34歳でフィレンツェ市長になり、昨年は38歳でイタリア最大政党民主党の党首に選ばれた。

レンツィ氏には国政経験はないものの、最近は全国的な人気も高まって、政治腐敗と財政危機に苦しむイタリア共和国の救世主になるのも時間の問題と見られていた。

僕自身も氏にずい分と注目し期待を膨らませてきた。またこの若き政治家への期待をそこかしこで結構熱く語ったり書いたりもしてきた。期待通り、彼は今イタリアのトップになろうとしている。僕は大いに満足するはずなのに、どうしても手放しでは喜べない気分でいる。

それというのも、レンツィ氏が政権を手中にした一連の動きになんとしても違和感を覚えてしまうのだ。「革命」と表現するのは言い過ぎだろうが、イタリア政界に大きな変革をもたらしてくれるであろう男にしては、政権を獲得した手法がひどく古臭くて気持ちに引っかかる。

レンツィ氏は、昨年4月に発足したばかりの同じ民主党主導のレッタ内閣を、政治経済改革の進行が遅いとして激しく責め立てて崩壊させ、党友のエンリコ・レッタ首相を辞任に追い込んだ。

その後、ナポリターノ大統領からの首班指名を受けて各党と協議を進めて来たが、その過程では多くの醜聞にまみれた天敵のベルルスコーニ元首相とも会って、選挙制度改革案 について合意を取りつけたりしている。

そうした動きを大胆として評価する声もあるが、僕はどうも腑に落ちない。もちろん駆け引きも重要な政治手腕だ。でもそれは時と場所を間違うと因循姑息に見えかねない。そして、レンツィ氏の一連の行動は、残念ながら僕には策動とも呼びたくなるような行為にさえ見える。

レンツィ氏が政権に至る形は僕の中のイメージでは次のようなものだった。

彼は近い将来満を持して総選挙に打って出る。氏は高い人気と実力で有権者の心を鷲づかみにして、民主党が地すべり的な大勝利を収める。僕は別に民主党の支持者でもなんでもないが、同党が選挙に勝つことが、レンツィ氏の政権樹立につながる。だからそう期待してきたのだ。

選挙後に晴れて首相に就任する彼は、国民の熱い支持を背景に一気に政治改革を断行。また経済、雇用、社会保障その他の多くの懸案にも大ナタを振るい、守旧派を一掃してイタリア共和国をよみがえらせる…。

イタリア政界に彗星のごとく現れたレンツィ氏には、十分にそんな能力と運と哲学と知略が備わっているように見える。なのに彼が選んだのは、密室政治と非難されても仕方のない「選挙を経ない」政権樹立の道だった。

イタリアは曲がりなりにも民主主義国家である。国民の圧倒的な支持と負託がなくてはこの国の根深い構造的問題は解決できない。

根深い構造的問題の一つが政治である。そしてイタリアの政治の根本問題とは、ひとことで言えば「合意できない」国政ということである。多くの政党が乱立してそれぞれが勝手なことを言い合って紛糾するのが、イタリアの国会である。

なぜそうなるか。直接の原因の最大のものは、上院と下院が全く同等の権限を持つ、という政治システムである。それはかつてムッソリーニに権限が集中したことへの反省から生まれた仕組みだ。歴史と文化の要因もある。つまりイタリア共和国が徹底した多様性重視の国である、という恐らく政治制度よりも重要な契機だ。

古代ローマ帝国が崩壊した後、イタリア半島には多くの都市国家が乱立して繁栄した。国々の独立自尊の精神は、統一国家が成立した1861年以降も色濃く残って、今日でも多様性が最重視される。それは国家が一枚岩になって政治を遂行する際の大きな障害になる。多様性という言わばイタリア共和国のもっとも輝やかしい部分が、政治的にはこの国の最重篤な欠陥となるのだ。

だからこそこの国には、選挙で一番多くの支持を得た政党が、たとえ過半数に満たなくても「過半数に見合う勝利を得た」という形にして政権を担う、という法律が導入された。いわば総選挙におけるボーナス制度だ。昨年2月の総選挙で、過半数に満たない得票しかなかった民主党が、政権党となってレッタ内閣が発足したのもその制度のおかげである。

イタリアでは上下両院ともに比例代表制で、有権者が支持する候補者に直接投票できない。それは問題だとする意見が根強い。また前述の選挙結果ボーナス制度も、昨年12月に最高裁で憲法違反という判決が出ている。問題だらけなのだ。

だからといって、気軽にその制度を無くしてしまえば、小政党やグループや個人の主張と要求と論戦が頻発して収拾がつかなくなる。今でも激しい喧嘩や言い合いや誹謗中傷合戦が、さらにエスカレートするのが目に見えている。つまり政権の運営はおろか、政権の樹立さえ困難な状況が慢性的に続く可能性さえあるのだ。

現下のイタリアの政治状況では、そうした閉塞をただちに打破するおそらく最善の方法は一つ。若いカリスマ的なリーダーのレンツィ氏が、選挙に打って出て圧倒的多数で勝利を収めることである。国民的人気を持つ強い指導者が、一気に中央突破を図る以外には解決の道はないように見える。

そしてレンツィ氏には十分にその可能性があった。「あった」と過去形で言うのは、今回彼が朋友のレッタ首相を追い落として自らが組閣する道を画策したことで、せっかくの可能性をつぶしてしまったのではないか、と危惧するからである。今あわてて頂点に立つよりも、もうしばらく我慢して国民的要望が燃え上がるのを待つべきだったのではないか。そのときに選挙に打って出て大勝すれば理想的だったのではないか、と。


好意的に考えれば、レンツィ氏が総選挙を要求しなかった、あるいはできなかったのは、選挙制度が違憲、という最高裁判断に不安を覚えたからかも知れない。だが、それだからこそ、そのことを争点の一つに総選挙に持ち込んで勝利して、ひと息に選挙制度を改革することができた、という考え方もある。

今の状況ではレンツィ政権には強い支持基盤がない。彼が引きずり倒したレッタ前政権同様、党外に協力者を求めて連立政権を打ち立てるしかないし、また実際にそうなった。つまり、政権基盤はレッタ内閣とほぼ同じなのである。そしてレンツィ氏が改革の遅滞を指弾したレッタ前政権はまさに、主として連立政権内の守旧派及び抵抗勢力によって行く手を阻まれ続けたのだ。その同じ障害を彼はどのようにして手なずけ克服して行くのだろうか。

レンツィ新首相の若さとカリスマ性が求心力を発揮して、奇跡が生まれる可能性ももちろん大いにある。だが僕には、選挙で民意を問わずに成立したレンツィ政権が、果たして魑魅魍魎の跋扈するイタリア国会をまとめ、説得し、納得させて一大改革を成し遂げられるのか、疑問も残るのだ。やり方が拙速に過ぎたような気がしてならないのである。

僕はイタリア政界の変革を心から待ち望んでいる。「レンツィ氏はもしかすると年若い老人なのではないか」という、にわかに沸き起こった自分の中の不安が杞憂(きゆう)であることを願いつつ、新政権の行方を注意深く見詰めて行こうと思う。


ネルソン・マンデラ;キング牧師の夢を実現した英雄 逝く


南アフリカのネルソン・マンデラ元大統領の訃報が、世界中を駆け巡っています。95歳でした。

周知の通りマンデラ元大統領は、南アフリカの悪名高いアパルトヘイト・人種隔離政策に立ち向かい、それの撤廃を求める激しい闘争の中で27年間に渡って投獄されました。獄中からも黒人解放を訴え続け、1990年に釈放。翌年、アフリカ民族会議(ANC)議長に選ばれました。そして1993年ノーベル平和賞を受賞。1994年には同国初の黒人大統領に就任したのでした。

今年2013年は、あるいは黒人解放運動の節目の年として歴史に大きく刻印されるかも知れません。というのも本年は、公民権運動の指導者キング牧師が「I have a dream」演説を行なってからちょうど50年の節目であり、同時にそれを積極的に支持したケネディ大統領がダラスで暗殺されてからやはり半世紀の銘記年でもあります。

 また今年4月に開催されたローマ教皇選出会議・コンクラーベでは、当選には至らなかったものの、ガーナ出身の黒人司教ピーター・タークソン卿が、多くの支持者を集めるという出来事もありました。

 黒人のタークソン卿がカトリック教会の最高位聖職者、つまりローマ教皇の座に就くことは、アメリカ合衆国に史上初めて黒人の大統領が誕生したことよりももっと大きな意味を持つ、歴史の輝かしいターニングポイントになるところでした。なぜならオバマ大統領はアメリカ一国の指導者に過ぎませんが、教皇は世界各国にまたがる12億人のカトリック教徒の精神的支柱となる存在だからです。

 南アフリカで虐げられてきた黒人のために、そして世界中の抑圧された人々のために、ひいては人類全体の進歩のためでもある闘争を戦い抜いた偉大な人物が、また一人亡くなったのは悲しいことです。しかし、元大統領が世界の人種差別運動の節目の年に他界した事実は、今後も繰り返し思い出され話題になって、さらに深く歴史に刻まれて行く事も意味しますから、偶然とはいえ何かの因縁も感じます。

 マンデラ元大統領は、南アフリカの人種差別に敢然と立ち向かったのですが、それは脈絡もなく始まったのではなく、米国における黒人解放運動と深く連動していました。

 公民権運動に代表される米国の人種差別反対運動は、1862年のリンカーンによる奴隷解放宣言から1955年のローザ・パークスの抵抗を経て、キング牧師による50年前の「I have a dream」演説のうねりを介し、ついには2009年、アメリカ初の黒人大統領の誕生という大きな歴史の転換を迎えました。

 そうした米国での歴史変革の波は、南アフリカの反アパルトヘイト運動にも強い影響を与え、南アフリカの鳴動は翻ってアメリカにも力添えをする、というグローバルな人種差別反対運動の奔流となって今日に至っています。

 マンデラ元大統領の歩みをざっと見てみますと、ちょうどキング牧師のワシントン大行進の頃、反アパルトヘイト運動の闘士だった彼は国家反逆罪で逮捕。その後、27年間に渡って収監されますが、獄中でも決して怯まずに闘争を続けました。

 彼が戦いを続けられたのは、米国での絶え間ない反人種差別運動とそれを支持する国際世論が、同時に南アフリカの人道無視政策を非難し獄中のマンデラ氏を一貫して支援したからです。

 ネルソン・マンデラは1990年に釈放され、前述したように94年には黒人初の大統領に就任。それに合わせて、彼の釈放の前後から段階的に撤廃されてきた南アフリカのアパルトヘイトも、ついに完全撤廃されました。

 世界に大きなインパクトを与えた南アフリカの変化は、米国内の人種差別反対運動にも連動し、それを鼓舞し、さらに勢いを与えて、ついに2009年1月、ネルソン・マンデラを人生の師でありお手本だと公言するバラック・オバマが、黒人初の米国大統領に上り詰めたのでした。

 そうした世界変革のうねりは、われわれの住むこの世界が差別や偏見の克服へ向けて一歩また一歩と確実に前進していることの証に他なりません。

 半世紀前に「I have a dream」と格調高く訴えて世界中を熱狂させたキング牧師の夢を、完成に向けて確実に前進させたマンデラ元大統領の偉大な足跡を偲びつつ、ほぼ無力に等しい全くの微力ながら、そこへ向けて自分も「何かできないか」と問い続けて行きたいと思います。

 

 


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