【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

バチカン

麻生太郎最高顧問は得意の組長ファッションでレオ14世就任式に出席するのだろうか

マフィアとサメの脳みそ

明日5月18日に行われる新ローマ教皇レオ14世の就任式には、世界各国から国家元首やら首脳やらを始めとする要人が多数出席することになっている。

その顔ぶれの多くは、欧米やアフリカを中心に4月21日に亡くなったフランシスコ教皇の葬儀出席者に重なる。

欧米の何人かをピックアップすれば、例えば当事国イタリアのマタレッラ大統領とメローニ首相、英国からはウイリアム王子に代わるエドワード王子とスターマー首相、フランスのマクロン大統領、ドイツのメルツ首相、フォン・デア・ライエン欧州委員会委員長などである。

またアメリカからは、トランプ大統領の危なっかしいイデオローグでカトリック教徒のバンス副大統領と、同じくカトリック教徒のルビオ国務長官が出席する。

ウクライナのゼレンスキー大統領も顔を出す予定だ。

わが日本は誰が出席するのかと見てみれば、なんと麻生太郎自民党最高顧問だそうだ。

麻生氏はカトリック教徒だから妥当な人選という見方もあるだろうが、噴飯ものの組長ファッションで教皇就任を祝うバチカンのミサに出席するかも、と考えると個人的にはちょっとコワイような、でも見てみたいような。

だが冗談はさておき、ここはやはり皇室の誰かが出席したほうが、世界の評判的には格段に良かったのではないかと思う。

ちなみに主だった世界の王室関連の出席者は、ベルギーのフィリップ国王、前述のイギリス・エドワード王子、 モナコ公アルベール2世、 オランダのマクシマ王妃、スペインのェリペ国王とレティシア王妃など、など。

天皇皇后の出席が無理なら、せめて秋篠宮など重みのある皇室の一員が顔を出せば、日本の面目が大いに立つのに、と僕は思う。

存在そのものがジョークにも見える麻生太郎最高顧問を地上の大舞台である教皇就任式に送り込むのは、情誼外交の重大を理解しない日本政府の、相も変わらぬ世間知らずの現れだとしか僕には思えない。



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新ローマ教皇レオ14世が図らずも成し遂げた大事業

ルイ14世初顔出し650

新ローマ教皇レオ14世が誕生して一週間が過ぎた。

新教皇が生まれる時はいつもそうであるように、イタリアはまだまだ祝賀ムード一色に染まっている、と言いたいところだが、2013年のフランシスコ教皇誕生時とは違って興奮は急速に収まった。

ウクライナ戦争終結を目指してトランプ米大統領が中東入りすることや、プーチン大統領がトルコに出向く、いや出向かないなど、戦争をめぐる大きな動きがメディアの最大の関心事になって、新教皇関連のニュースは二の次になっている。

レオ14世はウクライナとガザの2つの戦争を念頭に、選出以来あらゆる機会を捉えて平和の重要性を指摘し停戦を呼びかけている。当然のことである。

新教皇へのイタリア人の、そして世界のカトリック教徒の暖かい声援は尽きない。それは初々しい教皇に対する人々のごく普通の反応だが、今回は少し違う。

教皇が史上初のアメリカ出身という事実が後押しして、アメリカ国民の関心が異様に高くなっている。バチカンや教皇とは何ぞや、ということを初めて知った人々も多いに違いない。

それらの人々が無邪気に喜ぶさまが、欧州や当のアメリカのメディア上で躍っている。

それは先月、教皇フランシスコの死去に伴って、新教皇選びの秘密選挙・コンクラーベが開かれることになり、タイミング良く公開された映画「コンクラーベ・教皇選挙」の視聴者が、米国内で爆発的に増えた現象に続く目覚しい事態だ。

トランプ大統領がアメリカ人教皇の誕生を大いに喜び、国にとって極めて名誉なことだと表明したことが象徴的に示すように、普段はバチカンや教皇に関心のないアメリカ人が手放しで浮かれる様子はとても興味深い。

そうした朴直な大衆は、ヨハネ・パウロ2世の出身国のポーランド、次のベネディクト16世のドイツ、そして前教皇フランシスコの母国のアルゼンチンなどでも雲霞の勢いで出現した

つまりメリカで、大量のアメリカ人教皇ファンが増えていること自体は何も特別なことではないのである。それがアメリカであることが印象的なのだ。

アメリカは今、トランプ政権のけたたましい反民主主義的、あるいはファシズム的でさえある政策や思想信条に席巻されている。それはバチカンが伝統的に否定し対峙してきた政治体勢である。

アメリカ国民の半数近くはバチカン思想信条と親和的だろう。だが半数以上の国民は、バチカンのスタンスとは相容れないトランプ主義の支持者でありそれの容認者だ。

片や、彼らと同じアメリカ人のレオ14世は、民主主義の信奉者であると同時にフランシスコ教皇の足跡をたどって弱者に寄り添い、慎ましさを武器に強者にも立ち向かっていくことが期待されている力だ。

トランプ主義を容認する国民のうちの何割かがこの先、レオ14世に感化されて転向すれば、トランプ政権は行き詰まる。あるいは4年後の選挙で瓦解する可能性が高くなる。

それは荒唐無稽な話ではない。過去にはローマ教皇をめぐってもっと大きな歴史的事件も多く起きている。

例えば2005年に亡くなった第264代教皇ヨハネ・パウロ2世は1980年代、、故国ポーランドの民主化運動を支持し、「勇気を持て」鼓舞して同国に民主化の大波を発生させた。

その大波はやがて東欧各地に伝播して、ついにはベルリンの壁を崩壊させる原動力になった、とも評価される

教皇ヨハネ・パウロ2世の当時の敵は共産主義だった。

レオ14世が真にフランシスコ教皇の足跡を辿るなら、彼の敵の一つは必ずファシズムまがいのトランプ主義だろう。

トランプ主義を打倒するのは、気の遠くなるような壮大な事業だった共産主義破壊活動に比べれば、何ほどのこともない。やすやすと達成が可能な政治目標のようにも見える。

だがその前に新教皇は―再び言う ― トランプ大統領を含む膨大な数のアメリカ国民の目を彼自身とバチカンに引き付ける、という大事業を軽々と成し遂げた.

今後のレオ14世の活躍がとても楽しみである。




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新教皇レオ14世は彼が何者かではなく「何を為すか」で歴史の審判を受ける

新教皇システィーナ礼拝堂凱旋(天井画全込み)650

アメリカ出身のローマ教皇が誕生した。

5月8日、予想よりも短い時間で教皇選出の秘密選挙・コンクラーベが終わって、予想外の男が世界14億の信徒を導く最高位司教の座に就いた。

予想外の男という印象を与えるのは、心魂を司るのが王道の宗教組織のトップが、金と欲と争いにまみれた俗世の物質文明に君臨するアメリカ出自の者であってはならない、という考えがバチカンの底流にあったからである。

アメリカ出自の教皇を阻止するいわばファイアーウォールが、ローマ教会に存在するのは公然の秘密だった。

それは、自国中心主義を掲げて世界を絶望の淵に落としている、ファシスト気質のトランプ政権が居すわる昨今は、特に重要だと見られていた。

ところがこともあろうに今この瞬間に、出自故にトランプ政権に親和的であっても不思議ではないはずの教皇が出現したのである。

それは不吉な出来事にも見える。余りにも出来過ぎた符号は、あるいはトランプ大統領がコンクラーベに裏から手を回して操作したのではないか、という荒唐無稽な憶測さえ呼んだ。

なにしろトランプ大統領はコンクラーベに際して、次期教皇に相応しい枢機卿がニューヨークにいる、などとうそぶいていた事実もあるのだ。

一方で新教皇レオ14世は、トランプ政権に対しては批判的であったことが知られている。特に政権の移民排除策に関しては、「壁ではなく橋を作れ」と異見したフランシスコ教皇に倣う立場だと見られている。

アメリカ出身のレオ14世が、自国の強権力者のトランプ大統領に歯向かうのか擦り寄るのか。それはレオ14世の正体が見える試金石になるだろう。

レオ14世とバチカン司教団は、「われわれはトランプ大統領の対抗勢力ではない」という趣旨の声明を出している。それが真実であるか外交辞令であるかは、遠くない将来に明らかになるはずだ。

言葉を替えればレオ14世は、今この時の世界不安の元凶であるトランプ大統領に、前教皇フランシスコが示したような、穏やかだが断固とした態度で立ち向かえるのかどうかを試されることになる。

個人的には僕は、レオ14世はトランプ主義に異を唱えるバチカンの良心になる、と少しのポジショントークをまじえながら考えている。

その理由は彼がコンクラーベにおいて、「予想外」の速いスピードで教皇に選出された事実である。

120~135人ほどの枢機卿が互選で教皇を選出するコンクラーベは紛糾することが多い。そこには様々な政治的駆け引きが展開される。いつのコンクラーベでも改革派と守旧派が勢力を競い合う。

そしてバチカンは、多くの宗教組織がそうであるように、守旧派が強い力を持つ。そこにはクーリアと呼ばれる官僚組織があり、彼らがコンクラーベにも隠然たる影響を及ぼす。対立は分断を呼んで選挙が複雑になり長引く傾向がある。

今回のコンクラーベは特にその傾向が強くなると考えられた。理由は次の如くだ。

フランシスコ教皇は、信者の多いアジア、アフリカを始めとする地域に多くの枢機卿を任命して、欧州偏重から多様性へとシフトする政策を続けた。

それを受けて、世界71国から投票資格を持つ枢機卿が集まったため、意見が錯綜して余計に選挙が長引くと見られていた。

レオ14世は枢機卿時代、フランシスコ教皇の改革運動を支持する進歩派の内のやや中道寄り、というスタンス見られていた。やや中道寄りと言うのは、例えば彼は同性愛者などに対して、フランシスコ教皇ほど好意的ではなかったからだ。

だが彼の保守性は、フランシスコ教皇が率いる改革派に属しながら、守旧派の賛同も得やすいという効用ももたらした。

そうした状況が、出自が多彩な、従って意見の相違も大きいフランシスコ教皇派の枢機卿団と、保守派の意見の一致を速やかに演出して、結果素早い教皇選出になった。

彼は改革派と保守派また世界の分断にも橋を架ける能力のある人物、と選挙人である双方の枢機卿団が判断し、レオ14世に票が集まった、という理屈である。

ではなぜそうなったかと考えるとき、そこには故フランシスコ教皇の強い遺志が影響してしたのではないか、と僕は考えている。

清貧と弱者への奉仕を最大の義務と定めて、信徒の熱い信望を一身に集めたフランシスコ教皇は晩年、病と闘う日々の中で自らの葬儀を簡略にするためあらゆる改革を実行した。のみならず遺言にも残した。

死して後も、信者と共に謙虚と誠心の中に生きようとした教皇は― 先に触れたように― 在任中にアジア、アフリカまた中南米など、欧州を凌駕して信者が増え続ける地域で、教皇選出権を持つ枢機卿を多く任命した。

フランシスコ教皇は、死期が近づき病と闘う時間が重なった頃、自らが見出してその思想信念を教え諭した枢機卿らに、彼の死後のコンクラーベでは誰に投票するべきか、あるいは誰に投票して欲しいかを言い残していた可能性がある。

言葉を替えれば、教会の分断を解消し対立に橋を渡して信徒を救い、同時に世界にも貢献できるローマ教会の指導者は誰であるべきかを、「示唆」し続けた可能性が高い。

それゆえにコンクラーベでは、自分を含む大方の予想を裏切って迅速な結果が出たのではないか、と僕は推察するのである。

何はともあれ新教皇レオ14世は、世界14億のカトリック教徒とその共鳴者や友人、またその逆の人々までもが注視する唯一至高の聖職首座に就いた。

彼は「何者か」になったのである。

選ばれた「何者か」は、彼が誰であるのかではなく、「彼が何を為すのか」によって歴史の審判を受ける。

彼の前任である偉大な教皇フランシスコ、またその2代前のヨハネパウロ2世を含む、過去266人の全てのローマ教皇がそうであったように。

あるいは平成の天皇である明仁上皇が、 戦前、戦中における日本の過ちを直視し、自らの良心と倫理観に従って事あるごとに謝罪と反省の心を示し、戦場を訪問してはひたすら頭を垂れ続けて世界を感服させたように。





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映画「コンクラーベ」と「真正コンクラーベ」を較べて見れば

仕切り役650

4月初旬、映画Conclaveを日本からイタリアに飛ぶ便の中で観た。映画の日本語タイトルが「教皇選挙」であることは後にネットで知った。

内容は「新しい映画とは何か」という問いに十分に答え得るもので、そのことについて書こうと思っていた矢先、フランシスコ教皇が亡くなってリアルな教皇選挙、コンクラーベが開催されることになった。

僕はフランシスコ教皇が選出された2013年のコンクラーベの際に少し勉強して、秘密選挙であるコンクラーベについてある程度の知識を得ていた。それなので映画の内容がすんなりと腑に落ちた。

腑に落ちたというのは、リアルなコンクラーベの詳細を知った上で、フィクションである映画Conclaveのメッセージに納得したという意味である。

ローマ教皇は世界におよそ14億人いるカトリック教会の最高指導者。「イエス・キリストの代理人」とも位置づけられて信者の道徳的規範を体現する大きな存在である。

彼は同時にバチカンの国家元首として司法、立法、行政の全権も行使する。コンクラーベはそのローマ教皇を決める選挙である。選ぶのは教皇を補佐するバチカンの枢機卿団。

選挙人数は80歳以下の枢機卿120人とされる。だが一定ではない。今回のコンクラーベでは135名の枢機卿が投票資格を持つが、うち2人が病気で参加できないため133人が集って秘密選挙を行うと見られている

なぜ秘密選挙なのかというと、世界中から結集した枢機卿はバチカンのシスティーナ礼拝堂に籠もって、外界との接触を完全に絶った状況で選挙に臨むからだ。

電話やメールを始めとする通信手段はいうまでもなく、外部の人間との接触も一切許されない。メディアや政治家また権力者などの俗界の力が、選挙に影響を及ぼすことを避けるためだ。

選挙方法は枢機卿の互選による投票で、誰かが全体の3分の2以上の票を獲得するまで続けられる。第1回目の投票は5月7日の午後に行われ、そこで当選者が出ない場合は翌日から午前2回と午後の2回づつ毎日投票が実施される。

権力者を決める重大な選挙であるため、枢機卿の間では駆け引きと権謀術数と裏切りと嘘、また陣営間の切り崩しや脅しや足の引っ張り合いが展開されるであろうことは想像に難くない。

そこにはしたたかな選挙戦が進む過程で、最も職責にふさわしい人物が絞り込まれていく、という効用もある。

映画Conclaveは、現実のコンクラーベでは伺い知ることのできないそうした内実を描いている。無論フィクションだが、選挙にまつわる清濁の思惑、特に濁の魂胆が激しく錯綜する極めて世俗的な政治ショーを余すところなく見せる

映画の新しさとは、表現法や視点の面白さと、それを実現するに足る斬新な撮影テクニックの存在、中身に時代の息吹が塗り込められていることなどがある。

例えば1950年に発表された黒澤明の「羅生門」は、複数の人間が同じ事件を自身のエゴに即して全く違う視点で見、語るという表現法が先ず斬新だった。

さらに太陽にカメラのレンズを向けるというタブーを犯して暑さを表現したこと、移動レールに乗ってカメラが藪の中を疾駆するとき、木の枝がレンズにぶつかってはじける臨場感満載のシーン、殺し合う2人の男が怒りと恐怖で疲労困憊しながら獣の如く戦いのたうち回るリアリズムなど、思いつくだけでも数多い。

また「用心棒の」冒頭で斬り落とされた人間の腕を咥えた犬が走るカット、ラストで血が爆発的に噴き出す斬撃シーン、「蜘蛛の巣城」で弓矢が銃弾さながら激しく降り突き刺さるシーン、影武者の戦陣シーンで部隊の動きを長回しのカメラが流暢に追いかける計算されつくした構成、などなど数え上げれば切りがない。

それらは例えばクエンティン・タランティーノの「パルプフィクション」で死者がふいに起き上がるシーンや、「キルビル」で主人公が地中の棺桶から出て地上に這い上がる場面などにも通底する発明であり、発見であり、エンターテイメントだ。優れた映画、ヒットした映画、面白い映画には必ずそうした驚きがちりばめられている。

映画Conclaveには撮影テクニックや表現法などの新しい発明はない。その部分ではむしろ陳腐だ。だが今の時代の息吹を取り込んでいるという新しさがある。それがイスラム過激派のテロとLGBTQ+だ。

映画では人間のどろどろした動きが丹念に描かれるが、選挙の結論は中々出ない。行き詰まったかに見えたとき、イスラム過激派による爆破事件が起こり投票所(システィーナ礼拝堂を暗示する)の窓も破壊される。

すると保守派の有力候補が、イスラム教への憎悪をむき出しにして宗教戦争だ、彼らを殲滅するべきと叫ぶ。

それに対して1人の候補が「戦争ではキリスト教徒もイスラム教徒も同様に苦しみ、死ぬ。我らと彼らの区別はない。戦争は憎しみの連鎖を呼ぶだけだ」と説く。

その言葉が切り札となって、次の投票では彼に票が集まり、結局その候補が新教皇に選出される。

そして実は新教皇に選ばれたその人は「インターセックス」という性を持つ人物であることが、伏線からの流れで無理なく明らかにされる。

イスラム過激派のテロとLGBTQ+という、いま最もホットな事案のひとつをさり気なくドラマに取り込むことで、映画Conclaveは黴臭い古いコンクラーベを描きつつ新しさを提示している。

映画での新教皇の演説は、亡くなったフランシスコ教皇が2013年のコンクラーベで「内にこもって権力争いに明け暮れるのではなく、外に出て地理的また心理的辺境にまで布教するべき」という熱いスピーチを行って票を集めた史実を踏襲している。

またフランシス教皇が保守派の強い抵抗に遭いながらも、LGBTQ+の人々に寄り添う努力をした事実などもドラマの底流を成している。

2025年4月21日に亡くなったフランシスコ教皇の後継者を決める秘密選挙・コンクラーベは、間もなく蓋を開ける。

そこではフランシスコ教皇の改革路線を継承する人物が選ばれるかどうかが焦点になるだろう。

世界中に14億人前後いると見られるカトリック教徒のうち、約8割は南米を筆頭に北米やアフリカやオセアニアなど、ヨーロッパ以外の地域に住んでいる。

ところが聖ペドロ以来265人いたローマ教皇の中で、ヨーロッパ人以外の人間がその地位に就いたことはなかった。

内訳は254人がヨーロッパ人、残る11人が古代ローマ帝国の版図内にいた地中海域人だが、彼らも白人なのであり、現在の感覚で言えば全てヨーロッパ人と見なして構わないだろう。

ところが2013年、ついにその伝統が途絶えた。

南米アルゼンチン出身のフランシスコ教皇が誕生したのだ。先日亡くなったフランシス教皇その人が、史上初めて欧州以外の国から出た教皇だったのである

フランシスコ教皇は、教会の公平と枢機卿の出自の多様化を目指して改革を推し進め、アジア、アフリカを中心に多くの枢機卿を任命した。

5月7日から始まるコンクラーベで投票権を持つ135人のうち108人は、フランシスコ教皇が任命した枢機卿だ。出身国は71カ国に及び、ヨーロッパ中心主義が薄れている。

このうちアジア系とアフリカ系は41人。ラテンアメリカ系は21人いる。ヨーロッパ系は53人いて依然として最多ではあるが、かつてのようにコンクラーベを支配する勢いはない。

バチカンの行く末は、信徒の分布の広がりを反映した多様性以外にはあり得ない。それに対応して、将来はヨーロッパ以外の地域が出自の教皇も多く生まれるだろう。

フランシスコ教皇はアルゼンチンの出身だが、先祖はイタリア系の移民だ。つまり彼もまたヨーロッパの血を引いていた。

だがそうではない純粋のアジア、アフリカ系の教皇の出現も間近いだろう。あるいは今回のコンクラーベで実現するかもしれない。

その場合、アジアのフランシスコとも呼ばれるフィリピンのルイス・アントニオ・タグレ枢機卿などが、もっとも可能性があると考えられる。

そうはいうものの、しかし、下馬評の高かった候補が選ばれにくいのが、コンクラーベの特徴でもある。5月7日が待ち遠しい。









フランシスコ教皇の唯一の失策は中国との関係改善かもしれない

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フランシスコ教皇の葬儀が無事に終わり、バチカンは次の教皇を選ぶ選挙、コンクラーベの日取りを5月7日開始と定めた。

世界中から集まる133名の枢機卿が、バチカンのシスティーナ礼拝堂に籠もって秘密選挙を行う。

清貧を力に教会を改革し世界14億人の信徒の敬愛を一身に集めた第266代フランシスコ教皇に一点の曇りがあるとするなら、それは彼が長く対立していたバチカンと中国の和解を実現させたことだろう。

中国はカトリック教徒を弾圧していて国が認めた教会以外での礼拝を禁じている。

バチカンはそのことなどを主な理由に1951年から中国と国交を断絶している。

フランシスコ教皇は就任以来、その状態を改めて関係を修復しようと努めた。

そして2018年、司教の任命はバチカンと中国政府がそれぞれの関与を認め合う、という形で合意し和解した。

それはフランシスコ教皇が、中国に約1000万人いるとされる信者との結びつきを回復したいと願ったからである。

そうすることは教会の分断を食い止めるという信仰上の大義にも叶った。

だが信徒が共産党の権威に挑戦するのを防ぐため、「宗教の中国化」を掲げてカトリックへの締め付けをエスカレートさせる、習近平指導部と折れ合うことへの批判もバチカン内には強かった。

しかし対立よりも協調を重視しようとする教皇の強い意志によって、最終的には和解が成立した。

中国との関係では、フランシスコ教皇のロールモデルとも言える旧東欧出身のヨハネ・パウロ二世が、中国共産党を決して信用せず同国に厳しい態度で臨み続けたことと対照的である。

僕はその件に関してはどっちつかずの感慨を抱いている。

唯我独尊、反民主主義の独裁政権はおぞましいが、その悪とさえ対話し協調しようとする態度は千金に値する。

僕にはどちらの教皇の判断も正しいように見えるのである。



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死してなお民衆とともに生きる教皇フランシスコ

接写経て650

4月26日、第266代ローマ教皇フランシスコの葬儀が執り行われた。

キリスト教徒ではない僕は、教皇の就任式や葬儀、また彼らの普段の在り方等々に接する場合、ほぼ常に天皇と比較して見、考える癖がある。

今回も同じだったが、偉大な人物だったフランシスコ教皇の前には、彼に勝るとも劣らない先達がいたことを、先ず書いておくことにした。

「(移民を拒む)壁を作るな。橋を架けなさい」とトランプ大統領を諭したフランシスコ教皇の葬儀は適度に荘厳なものだった。

適度に荘厳とは、例えば2005年に行われた第264代教皇ヨハネパウロ2世や、3年前に死去したエリザベス英国女王の絢爛豪華な葬儀などに比べれば質素、という意味である。

儀式全体の慎ましさはフランシスコ教皇の遺志によるものだった。僕はそこに、いかにも清貧を重んじたフランシスコ教皇の弔いらしさを見て心を打たれた。

葬礼はバチカンの伝統に則って執り行われた。従って威風堂々たるものだった。だが参加者の顔ぶれや人数や式次第などは、前述の2人の葬儀に比較すると見劣りがした。

それはフランシス教皇自身が、華美を徹底的に排した式次第を生前に言い渡し、信徒に向けては私の葬儀に出席するのは止めてその分の費用を貧しい人に与えてください、と遺言していたことなどが影響したと考えられる。

また棺が従来よりも簡素なものになり、葬儀のあり方自体も徹底して絢爛が払拭された。埋葬そのものでさえ平易化 された。

埋葬場所がサンピエトロ寺院からサンタマリアマッジョーレ大聖堂に変更され、埋葬自体も教皇の家族のみで行わた。墓には簡潔にFrancescus(フランシスコ)とのみ刻まれた。

それらは全てフランシスコ教皇の遺言によって実行されたものである

「貧しい人々と弱者に寄り添え」と言い続けた教皇は、ただそう主張するだけではなく、実際に清貧のうちに生きて自らを律した。死して後も虚飾を否定して、真に民衆と共に歩む姿勢を明確に示した。

その哲学は独自のものだったが、同時に先達もいた。

彼の生き様は、歴代の教皇のうち、善良な魂を持つ少なくない数の教皇らの足跡をたどったものでもあった。

例えば素朴な羊飼いの杖が、時間経過と共に変遷進化して十字架の形をした笏杖(しゃくじょう)になり、十字に3本の横棒が付いたものは教皇だけが使用できる特別な用具になった。

第262代教皇パオロ6世は、それを教皇の権威の象徴であり思い上がりだと非難して、3本の横棒の付いた笏杖を廃止し十字架のキリスト像を導入した

十字架の笏杖は、着座33日で死去したヨハネ・パウロ1世を経て、パウロ6世を事実上引き継いだヨハネ・パウロ2世によって最大限に活用された。

ヨハネパウロ2世は26年余に渡って教皇の座に居た。彼は多くの功績を残したが、最も重要な仕事は故国ポーランドの民主化運動を支持し、鼓舞して影響力を行使。ついにはベルリンの壁の崩壊までもたらしたことである。

さらに彼は敵対してきたユダヤ教徒と和解し、イスラム教徒に対話を呼びかけ、アジア・アフリカなどに足を運んでは貧困にあえぐ人々を支えた。同時に自らの出身地の東欧の人々に「勇気を持て」と諭して、既述のようについにはベルリンの壁を倒潰させたと言われている。

ヨハネ・パウロ2世は単なるキリスト教徒の枠を超えて、宗教のみならず、政治的にもまた道徳的にも人道的にも巨大な足跡を残した人物だった。

ヨハネパウロ2世が好んで用いたのが十字架上のキリストをあしらった笏杖である。彼は笏杖を捧げ持ち頭を垂れて沈思黙考し、あるいは沈痛な面持ちで神に祈る構えの写真を多く撮られている。

それは彼自身とバチカンの戦略であり、同時にメディアが仕組んだ構図だとも考えられる。

その絵はヨハネパウロ2世の功績にぴたりとマッチするものだった。彼は民衆に寄り添うと同時に権威も兼ね備えた完璧な存在だった。

世界各地の問題に真摯に立ち向かいつつ、強者には歯向かう恐れを知らぬ勇者だった。強さと謙虚と慈悲心に満ちた偉大な宗教者であり人格であったのがヨハネパウロ2世だ。

人々は彼がひんぱんに捧げ持つ笏杖は、宗教的存在としての彼の手引きであり、人間存在としての彼の誠心の象徴だと捉えた。

今般亡くなったフランシスコ教皇は、ヨハネパウロ2世によって枢機卿に叙任された。そのことからも分かるように彼は終生ヨハネパウロ2世を崇敬しその足跡をたどった。

同時に彼独自のスタイルも編み出し堅持した。

ひと言で表せばそれは清貧である。彼は徹底して貧者と弱者に寄り添う道を行った。彼にとってはヨハネパウロ2世の笏杖でさえあるいは奢侈に見えた。だからめったにそれを手にしなかったのではないか。

彼の師であり憧れだったヨハネパウロ2世も、むろん弱者に目を向け貧者を救う行動を多くした。同時に彼は巧まざる権威とカリスマ性にも満ちた稀有な存在だった。

フランシスコ教皇は自らを「弟子」と形容することがよくあった。それは言うまでもなくイエス・キリストの弟子であり、民衆に仕える謙虚な僧侶また修道士という意味の弟子であると考えられる。

同時にそこには自らをヨハネパウロ2世の弟子と規定する意味もあったのではないか、と僕は推察するのである。

フランシスコ教皇の葬儀は、彼の死生観と生前に発意した質素な内容の式次第に沿って進行し、見ていて清々しいものだった。

そこには眼を見張るほどの荘重さはなかったが、故人の生き様を表象する清廉さに満ちていた。

フランシスコ教皇は質朴に生き、弱者に寄り添い、強者に立ち向かう一点において、ついに彼の師であり憧憬でもあったヨハネパオロ2世を超えてはるかな高みに至り、輝いていると思う。



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人間力で世界を魅了した教皇フランシスコ

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フランシスコ第266代ローマ教皇が死去した。

世界約14億人のカトリック信者の心の拠り所であるバチカンは、かつて大ヨハネ・パウロ2世の力で前進した。

だがバチカンは、彼の後任のベネディクト16世時代に後退、あるいは停滞した。

2013年、バチカンはフランシスコ教皇の誕生によって再び希望の光を見出し、前進を始めた。

フランシスコ教皇は徹底して弱者に寄り添う「貧者の教会」の主として、疎外され虐げられた人々を助け、同性愛者や破綻した信者夫婦の苦悩を受け留め、勇気を持って忠実に普遍的な愛に生きよ、と人々を鼓舞し続けた。

2019年には来日して、「核兵器の保有は倫理に反する」と呼びかけ核抑止論を真っ向から否定した。

彼はまたキューバとアメリカの関係改善に尽力し、バチカン自身と中国との和解劇も演出した。

同時にバチカンの改革も積極的に推進。シリア内戦に始まる世界紛争の終結を目指した活動にも余念がなかった。

フランシスコ教皇は、宗教的また政治的にも大きな存在だった。

だがそれよりも彼は、人間として偉大な人物だった。

清貧の象徴であるイタリア・アッシジの聖人フランチェスコの名を史上初めて自らの教皇名とした彼は、その名の通り飾らない性格と質素な生活ぶりで信徒は言うまでもなく異教徒にさえ愛され、尊敬された。

ローマ教皇という巨大な肩書きではなく、人格によって人々を平伏させたのがフランシスコ教皇だった。

それは現上皇である平成の天皇が、天皇という地位ではなく、人間力によって日本人と世界世論の深い尊敬を集めた事実とも重なる。





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Ratzingerの置き土産

Ratzi背中

ほぼ10年前、719年ぶりに自由意志によって生前退位し名誉教皇となったベネディクト16世が、12月31日に死去した。

葬儀は1月5日にバチカンで執り行われる。

厳しいようだが僕は彼に対しては、安倍晋三元首相と同様に「死ねばみな仏、悪口を言うな」という美徳を適用してはならないと考えている。

なぜならベネディクト16世は聖職者でありながら大いなる権力者でもあったからだ。

僕は彼の死に際しては、残念ながら3年前に彼が隠遁生活からふいにゾンビのようによみがえった時に覚えた違和感と同質の感慨しか抱けない。

その気分は次の記事の中に存分に盛り込まれている。

https://terebiyainmilano.livedoor.blog/archives/52299307.html


参照:

https://terebiyainmilano.livedoor.blog/archives/52298622.html







エーゲ海の島々の歓喜と少しのアンニュイ


裸族村教会屋根650

ゲイの島

ギリシャ・キクラデス諸島のうちのミコノス、パロス、ナクソス島を旅した。

このうちミコノス島には旅の初めに半日、終わりに一泊二日だけ滞在。乗り換えおよび中継地としてあわただしく通り過ぎた。

それでも島のにぎやかさと楽しさ、またオーバーツーリズム気味の歪みにも十分に触れたと感じた。同島では短い滞在の間に目からうろこの料理にも出会った。

ミコノス島はLGBTQの人々が好んで訪ねる島としても知られるが、それは最近になって出てきた拡大解釈で、ゲイの人々が愛する島、というのが元々の状況だろうと思う。

ミコノスタウンの通りやカフェ、バーなどではゲイらしい男性カップルを見かけたが、それは欧州のどこにでも見られる風景。そこだけが特別とは感じなかった。

情報ではそれらの皆さんが集まる店やビーチや溜り場などが別にあるようである。

僕はゲイではないが、明るくて愉快な彼らが好きでゲイの友人も多い。ミコノス島でも会えるのをどこかで期待していた。

なぜゲイ旅行者の人々がコノス島を目指すようになったかというと、元ケネディ大統領夫人だったあのジャクリーン・オナシスさんが、1970年代にゲイの島として推奨・紹介したのが発端だった。

それとは全く別に、僕はギリシャ神話のアポロンにまつわる話を考えていた。

美しい青年の神・アポロンは多彩な力を持ち恋愛にも多く関わった。相手は女性が大半だが、美少年のキュパリッソスやヒュアキントスとも愛し合った

アポロンはミコノス島の目と鼻の先にある古代遺跡のメッカ、デロス島に祭られている。ゲイの人々は、男を愛した美しいアポロンを慕って、隣のミコノス島に集まるようになった。。。

エピソードとしてはギリシャ神話にからめるほうが面白いと思うが、それはあくまでも僕の妄想である。

有名観光地のミコノス島には、欧州全域をはじめとする世界各国から旅行者が押し寄せる。むろんゲイではない人々が大多数だ。

宮古島よりも小さなミコノス島は開発が進み人があふれている。ギリシャ国内や世界の富裕層が、家や別荘を所有しているため土地建物は極めて高価だ。

物価もきわめて高いミコノス島は、将来は一般の観光客を締め出して、富裕層オンリーのリゾート地として特化されるのかもしれない。だが、現在のところはクルーズ船などを利用して押し寄せる大衆観光客もあふれている。

一見したころではオーバーツーリズム気味である。特に島の中心地のミコノスタウンの人出はすさまじい。


ミニ・ミコノス島

次に訪れたパロス島は、ミコノス島を追いかけて観光地化が急速に進み、滞在した島の第2の街ナウサは、ミニ・ミコノスタウンの趣きがあった。

洒落たカフェやバーやレストラン、各種店舗、またナイトスポッなどが目白押しだが、都会的な中にどうしても「垢抜け切れない」ような不思議な雰囲気が漂っていた。それは不快ではなく、むしろほほえましい印象で興味深かった。

今回はナウサのホテルに滞在したが、連日レンタカーで島の南岸のビーチに通った。一帯のビーチが広く静かで美しかったからだ。車では面白い体験もした。

レンタカー会社に「小型の車を」と予約しておいたら、なんとベンツに当たったのだ。ベンツを運転したのは初めての体験。実際にハンドルを握ってみてベンツがなぜ優れた車なのかを体感した。

路面をがっしりと掴んで一気に加速するような走りで、爽快かつ安全確実な印象を常に抱き続けた。

パロス島の物価はミコノス島に匹敵するほど高い。

だが、島の中心地のパリキアやナウサを離れると、野趣あふれる野山や素朴な集落を背景にビーチが多くあって、宿泊費用もやや安い印象があった。

食事も郊外のレストランがより美味しいと感じた。

ナウサの港には、数百から1千卓を並べて大型クルーズ船から吐き出される大量の観光客を受け入れているレストランなど、過剰に観光化した店も多くやや食傷させられた。

過度に観光化した全ての店の料理が不味いとは言えないだろうが、あまりにも多くのツアー客が群がる店に足を向けるのは勇気がいる。


魅惑のカスバ

パロス島のすぐ隣にあるナクソス島は、キクラデス諸島最大の島である。ビーチも多く山岳地帯も広がっている。

島の中心地のホラ(ナクソスタウン)には、北アフリカなどのカスバを髣髴とさせる一画があって非常に驚いた。古い歴史的マーケットで、地元の人はその町をオールドタウンと呼んでいる。

アルジェリアあたりのカスバ、あるいはイスタンブールのバザールなどを、規模を小さくした上で洗練された店やレストランや装飾などをはめ込んだ街、とでもいうような雰囲気がある。

建物の全体は古い時代のものがそっくり残されているが、そこに入っているあらゆるものがひどく趣があって垢抜けている。芸術的センスにあふれているのだ。

店やレストランを経営する人々もイギリスやフランス、アメリカや北欧出身者が多い。

地元の経営者に混じって店を切り盛りする、それらの人々の新しいアイデアやセンスや営業方針などが相まって、市場の雰囲気を磨き上げている、と見えた。

いわば「都会的に洗練されたカスバ」がホラの歴史的マーケットなのである。

パロス島ではホラから車で15分ほどのビーチ脇にアパートを借りた。

アパートからビーチに降りる小道の角にレストランがあった。

レストランでは子豚と子羊の丸焼きがほぼ毎日提供されていた。食べてみるとどちらも秀逸な味だった。特に子豚の丸焼きが印象深かった。

子羊の丸焼きも疑いなく特上級の味だったが、ナクソスでは他の店でも美味い子羊レシピが多々あったため、その分印象が薄れたのである。

ナクソス島は一級のバカンス施設を備えた魅惑的なリゾート地である。それでいながらミコノス島や隣島のパロス島と比べると、観光開発がすこし緩やかなペースで行われているように見える。

観光業以外にはほとんど産業のないキクラデス諸島内にあって、ナクソス島は畜産や農業が盛んで食料の自給率も圧倒的に高い。

雄大な自然と洒落たリゾート施設が共存するナクソス島は、キクラデス諸島のうちのミコノス、ミロス、サントリーニ、パロスなどの島々よりは知名度は低い。

だが僕にとっては、たちまち再訪したい島の筆頭格に躍り出た。




facebook:masanorinakasone









イタリア地震は天罰、と言い張る神父の「お化け」度

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カトリックの一人の神父が、約300人の犠牲者とおびただしい数の被災者を出したイタリア中部地震は「同性カップルの権利を認めたシビル・ユニオン法に対する神の罰」だ、発言して物議を醸している。

神父の名はジョバンニ・カバルコリ(Giovanni Cavalcoli)。彼は以前から強硬派の神学者として知られており、カトリック系のラジオ局の宗教番組の中で自説を展開した。

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カバルコリ神父

神父のトンデモ発言は、多くの犠牲者と住む家を失った被災者が続出した、8月24日のイタリア中部地震よりもさらに大きな揺れが来た、10月30日に飛び出した。

その日の地震の震度はマグニチュード6、6。8月24日以降11月4日までに続くおよそ2万3千回の余震はおろか、過去36年間の全てのイタリア地震の中でも最大の揺れだった。が、神父の宣言は、それにも勝るほどの激震を国中にもたらしたようだった。

神父の発言はどこかで聞いた話だと僕はすぐに思った。記憶の糸をたぐるまでもなく気がついた。世界の実相には目もくれずに日本土着の狭窄思想に頼って万事を怨嗟する「引きこもりの暴力愛好家」石原慎太郎氏が、東日本大震災は天罰、とのたまった事案と同じだ。

石原さんは彼独自の傲慢と無神経と酷薄から、他者への配慮に欠ける言動をすることが多い。その時の天罰発言もそれに類したものだったように思う。いわゆる天譴論(てんけんろん)ではなく、彼の十八番である「鈍感KY論」が炸裂したものだった。

一方、カバルコリ神父の天罰論は、天譴論そのものと言っても構わない。確信犯なのである。その証拠に彼の属するバチカンは、神父の公言は(神と)カトリック信者を冒涜し、信者ではない人々に恥をさらす行為だ、として厳しく非難した。

ところがカバルコリ神父は全くひるまず、彼はその後も、地震は人間の罪業と家族や結婚の尊厳を破壊するシビル・ユニオンに対する神の厳罰だ、と主張し続けている。

LGBT旗yoko300イタリアはLGBTへの対策がひどく遅れた国だが、その原因の多くはカトリック教にもある。LCBTを認めない同教の戒律に、9割以上がカトリック信者であるイタリア国民が強い影響を受けているのだ。

欧州の中ではもっとも遅れていた、同性カップルの権利を認めるイタリアのシビル・ユニオン法も、ようやく先月施行されたばかりだ。神父の主張はそうした流れに真っ向から対立する。

またローマ教会の改革を推し進めるフランシスコ教皇も、同性婚や同性カップルを認めることなどを始めとして、LGBTへの理解を示す方向でいることは明らかだ。教皇イラストyoko250pic

バチカンの最高権力者で、カバルコリ神父のボスでもある教皇の指弾をものともせずに、神父が自説を声高に叫ぶのはなぜか。

それはおそらく彼の背後に、バチカンの保守派官僚組織「クーリア」が控えているからだと考えられる。クーリアの官僚の一部あるいは多くは、とてもシビル・ユニオンに好意的とは言いがたい。

だからこそ同性愛者を受け入れようとするフランシスコ教皇のバチカン改革案も、遅々として進まない。教皇とクーリアの対立を象徴的に表しているのが、カバリコリ神父の不可解な動きなのではないか、と僕は思う。


巨大な足跡~ヨハネ・パウロ2世の聖人昇格を寿ぐ~




先日、バチカン大聖堂前広場で第261代ローマ教皇のヨハネ23世と第264代ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世の列聖式が行われた。列聖とは、キリスト教において信仰の模範となるような高い徳を備えた信者を、その死後に聖者の地位に叙することである。

ヨハネ3世は史上もっとも庶民に愛された教皇と形容されるが、正直に言って僕はヨハネ3世を歴史知識としてしか知らない。だが、ヨハネ・パウロ2世については、いわば同時代人として良く知っていると感じている。そこでここでは、自分の経験に即してヨハネ・パウロ2世の聖人昇格について、思うところを語っておこうと考えた。

何よりも先ず、僕はキリスト教徒ではないが、ヨハネ・パウロ2世の聖人昇格を心から喜ぶ者である。2005年に亡くなった教皇は、単なるキリスト教徒の枠を超えて、宗教のみならず政治的にも道徳的にも巨大な足跡を世界に残した人物だった。

彼は他宗教との交流や融和に積極的に取り組み、キリスト教徒と敵対してきたユダヤ教徒及びイスラム教徒に対話を呼びかけ、プロテスタント緒派や東方正教会等にも胸襟を開いて相互理解を模索し、和解を演出した。もちろん仏教などの他の宗教に対しても同様の姿勢を貫いた。彼は共存と相互尊重による真の和平を目指したが、それを理念や理想として語ったり呼びかけたりするだけではなく、実際の行動によって達成する方向を選んだ。

そのために世界中を旅し続け、1981年には広島と長崎を訪れて「戦争は死です」と日本語で訴えた。それは日本だけで成された特別な行為ではなかった。ヨハネ・パウロ2世は世界の行く先々で、現地の言語で語りかけるのを常としたのである。そこにはあらゆる人種、文化、宗教等を敬仰し親しもうとする、彼の真摯な思いが込められていた。

旅の多さから「空飛ぶ教皇」とも呼ばれた男は、病の中にあってさえ世界各地に足を運んで貧困や戦乱にあえぐ弱者に手を差し伸べ、慈しみ、支え、人々のために生きた。同時に自らの母国であるポーランドの人々に「勇気を持て」と諭して同国に民主化の大波を発生させた。その大波はやがて東欧各地に伝播して、ついにはベルリンの壁を崩壊させる原動力になった、とも評価される。

バチカンもキリスト教徒も、過去には多くの間違いを犯し、今もたくさんの問題を抱えている。ヨハネ・パウロ2世はそれらの負の遺産を認め、謝罪し、改善しようと多大な努力をした。そうした事績と彼の人徳が広く認められて、教皇は亡くなって間もない異例の早さで聖人に列せられた。

しかし実は、ヨハネ・パウロ2世の在位中の大半をイタリアに住んで、彼の仕事を目の当たりにし続けてきた僕の中では、教皇は生前から既に聖人の域に達している偉大な存在だった。列聖式はそれを追認する単なる典礼に過ぎない。

ところで、今回の列聖式の場合もそうだったが、僕はヨハネ・パウロ2世にまつわる何かが起こるたびに、2005年の同教皇の葬儀にまつわる日本政府の不可思議な行動を思い出すのが慣わしになっている。

亡くなったヨハネ・パオロ2世の追悼式は、世界中が固唾を飲んで見守る壮大な祭礼だった。そこにはヨーロッパ中の王室と政府首脳とアフリカ・アラブ・南北アメリカの元首がほぼ全員顔をそろえた。元首や国のトップを送りこんでいない国を探すのが難しいくらいだった。

例えば欧米主要国だけを見ても、当事国のイタリアから大統領と首相をはじめとするほとんどの閣僚が出席したのは当たり前として、イギリスからは、自らの結婚式まで延期したチャールズ皇太子と当時のブレア首相、フランスがシラク大統領、ドイツは大統領とシュレーダー首相、アメリカに至っては当時の現職大統領 ブッシュ、前職のクリントン、元職のブッシュ父の三代の大統領と、ライス国務長官という大物たちがそろって出席したのだった。

そればかりではなく、葬儀にはヨーロッパ中の若者と各国の信者がどっと押し寄せて、その数は最終的には500万人にものぼった。それは過去2000年、263回にも及んだローマ教皇の葬儀で一度も起きたことがない事態だった。ヨハネ・パウロ2世はそれほど人々に愛された。

世界に強い影響を与えた偉大な男の葬儀が、外交的に重大な舞台になることをしっかりと認識していたアメリカは、まず世界中に12億人いるとも言われるカトリック教徒の心情に配慮した。さらに2000 年も敵対してきたユダヤ教徒や、またイスラム教徒にも愛された彼の業績の持つ意味を知り、ベルリンの壁を崩壊させた彼の政治力に対する東欧の人々の心情を汲みあげた。加えて、世界各地に足を運んでは人々を勇気付けた彼の功労に敬意を表し、現職を含む3代の大統領と国務長官をバチカンに送り込む、という派手なパフォーマンスを演出して見せたのだった。さすがだと言わざるを得ない。

ではその大舞台でわが日本は何をしたか。

なんと、世界から見ればどこの馬の骨とも知れない程度の外務副大臣を送って、お茶をにごしたのである。日本政府は教皇の葬儀が外交上の檜舞台であり、わが国の真摯な心を世界に知らしめる絶好の機会だということを、微塵も理解していなかった。

…あの落差は一体何なのだろう、と今でも、そしていつも考える。    

日本という国はもしかすると、まだまだ「世界という世間」を知らない鎖国メンタリティーの国家なのではないか。また、当時おそらく日本政府の中には、教皇とはいえキリスト教の一聖職者の葬儀だから、仏教と神道の国である日本はあまり関係がない、という空気があったのではないか。あるいは単純に、まさかとは思うが、ヨハネ・パウロ2世が生前に行った大きな仕事の数々を知らなかったのか・・

いずれにしてもそれは、何ともひどい外交音痴、世間知らず、と世界から笑われても仕方のない間抜けな行動だった。

それはさておき、

世界12億の信者の心の拠り所であるバチカンは、大ヨハネ・パウロ2世の死後、前教皇ベネディクト16世の在位中に後退した。少なくとも停滞した。

しかし、昨年第266代フランシスコ現教皇が就任すると同時に、再び前進を始めた。清貧と謙虚と克己を武器に、バチカンの改革を推し進めている現フランシスコ教皇は、聖人ヨハネ・パウロ2世に似た優れた聖職者であるように見える。少なくともベネディクト16世とは似ても似つかない・・。

頼もしい限りである。

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