加筆再録
W杯準決勝でイングランドがアルゼンチンに負けたのは、トゥヘル監督の采配ミスという論説が大手を振って歩いている。
イングランドが先制した後、守りに入った戦術が間違い、という訳である。
後付けのもっともらしい解説だが、それを言う者はイングランドが1-0で逃げ切っていたなら、監督の采配をベタ褒めしていたことだろう。
イングランドが勝てないのは、つまり優勝できないのは、一戦一戦のデティールの問題ではなく、深い心理マインドのなせる業というのが僕の一貫した主張である。
監督の采配の是非を語るのは、今回大会の場合ブラジルのアンチェロッティのケースの方がよっぽど重大で興味深い。
イタリア人のアンチェロッティは一流の常勝監督だが、ネイマールを招集しながら彼をベンチに温存するという戦術を採って、準々決勝で敗れ去った。彼の大ポカである。
メッシやエムバペにも匹敵するファンタジスタを控えに回した彼の作戦は、常勝監督という自らの立場を過信した愚かな動きだった。
イングランドが過去60年間ほぼ常に優勝候補とみなされながら、また実際にベスト4に2回、ベスト8に4回進出しながらどうしても優勝できないのは、彼らがサッカーを飽くまでもスポーツと見做す悪魔のマインドコントロール下にあるから、というのが僕の考えだ。
僕はロンドンに足掛け5年住んだ経験がある。そこではたまにプレミアリーグの試合も観戦した。その後はプロのテレビ屋として、イタリアサッカーとそこにからまる多くの情勢も取材した。
サッカーは同時に僕の最も好きなスポーツである。少年時代には実際にプレーもした。僕は当時「ベンチのマラドーナ」と呼ばれて相手チームの少年たちを震え上がらせる存在だった。
時は過ぎて、日本、英国、アメリカ、そしてここイタリアとプータロー暮らしを続けながらも、僕は常に世界のプロサッカーに魅了されてきた。
その経験から僕は-むろん自身の独断と偏見によるものだが-なぜイングランドサッカーが大舞台で勝てないのかの理由を知っている。
イングランドのサッカーは、直線的で力が強くて速くてさわやかでスポーツマンシップにあふれている 。
同時にそこにはアマチュアのフェアプレイ至上主義、あるいは体育会系のド根性精神みたいなものの残滓が漂っていて、僕は少し引いてしまう。
言葉を変えれば、身体能力重視のイングランドサッカーは退屈と感じる 。僕はサッカーを、スポーツというよりもゲームや遊びと捉える考え方に共感を覚える者だ。
サッカーの文明化
サッカーがイングランドに生まれたばかりで、ラグビーとの区別さえ曖昧だったころは、身体能力の高い男たちがほぼ暴力を行使してボールを奪い合いゴールに叩き込む、というのがゲームの真髄だった。
イングランド(英国)サッカーは、実はその原始的スポーツ精神の呪縛から今も抜け出せずにいる。
彼らはその後に世界で生まれたサッカーのさまざまな戦術やフォーメーションを、常に密かに見下してきた。
サッカーにはかつてさまざまなトレンドがあった。イングランド発祥の原始人サッカーに初めて加えられた“文明”が、例えばWMフォーメーションである。
その後サッカー戦術の改良は進み、時間経過に沿って大まかに言えばトータルフットボール、マンマーク (マンツーマン)、ゾーンディフェンス、4-2-2フォーメーションとその多くの発展系が生まれる。
あるいはイタリア生まれのカテナッチョ(鉄壁のディフェンス)、オフサイド・トラップ、カウンターアタック(反転攻勢)、そしてスペインが完成させて今この時代には敗れ去ったと考えられている、ポゼッション等々だ。
子供の夢
イングランドのサッカーは子供のゲームに似ている。
サッカーのプレイテクニックが稚拙な子供たちは、試合では一刻も早くゴールを目指したいと焦る。
そこで七面倒くさいパスを避けてボールを長く高く飛ばして、敵の頭上を越え一気に相手ゴール前まで運びたがる。
そして全員がわーっとばかりに群がってボールを追いかけ、ゴールに蹴りこむために大騒ぎをする。
そこには相手陣営の守備の選手も参加して、騒ぎはますます大きくなる。
混乱の中でゴールが生まれたり、相手に跳ね返されてボールが遠くに飛んだり、自陣のゴール近くにまで蹴り返されたりもする。
するとまた子供たちが一斉にそのボールの周りに群がる、ということが繰り返される。
相手の頭上を飛ぶ高く速いボールを送って、一気に敵陣に攻め込んで戦うというイングランド得意の戦法は、子供の稚拙なプレーを想起させる。
イングランドの手法はもちろん目覚しいものだ。選手たちは高度なテクニックと優れた身体能力を活かして敵を脅かす。
そして往々にして見事にゴールを奪う。子供の遊びとは比ぶべくもない。
子供たちが長い高い送球をするのは、サッカーの王道である低いパスをすばやくつないで敵を攻めるテクニックがないからだ。
パスをするには正確なキック力と広い視野と高度なボール操作術が必要だ。
またパスを受けるには、トラップと称されるボール制御法と、素早く状況を見渡して今度は自分がパスをする体勢に入る、などの高いテクニックがなくてはならない。
その過程で独創と発明と瞬発力が重なったアクションが生まれる。
優れたプレーヤーが、敵はもちろん味方や観衆の意表を衝くパスや動きやキックを披露して、拍手喝采をあびるのもそこだ。
そのすばらしいプレーが功を奏してゴールが生まれれば、球場の興奮は最高潮に達する。
スポーツオンリーの競技
イングランドのプレーヤーたちももちろんそういう動きをする。テクニックも確立している。
だが彼らがもっとも得意とするのは、直線的な印象を与える長い高いパスと、それを補足し我が物にしてドリブル、あるいは再びパスを出して、ゴールになだれ込む戦法だ。
そこではアスリート然とした、速くて強くてしかも均整の取れた身体能力が要求される。
そしてイングランドの選手は誰もがそんな印象を与える動きをする。
他国の選手も皆プロだから、むろん身体能力が普通以上に高い者ばかりだ。だが彼らの場合にはイングランドの選手ほどは目立たない。
彼らが重視しているのがもっと別の能力だからだ。
つまりボール保持とパスのテクニック、回転の速い頭脳、またピッチを席巻する狡猾なアクション等が彼らの興味の対象だ。
言葉を変えれば、低い短い正確なパスを多くつないで相手のスキを衝き、だまし、フェイントをかけ、敵を切り崩しては出し抜きつつじわじわと攻め込んで、ついにはゴールを奪う、という展開である。
そこに優れたプレーヤーによるファンタジー溢れるパフォーマンスが生まれれば、観衆はそれに酔いしれ熱狂する。
子供たちにとっては、サッカーの試合は遊びであると同時に身体を鍛えるスポーツである。
ところがイングランドのサッカーは、遊びの要素が失われてスポーツの側面だけが強調されている。
だからプレーは速く、強く、きびきびして壮快感がある。だが、どうしても、どこか窮屈でつまらない。
子供のころ僕も楽しんだサッカーの手法が、ハイレベルなパフォーマンスとなって展開されるのだが、ただそれだけのことで、発見や発見がもたらす高揚感がないのである。
準決勝での先制点が、ケインの空飛ぶ長いパスを基点に生まれたのが象徴的だった、その後イングランドは沈黙し、アルゼンチンはメッシのファンタジー溢れるプレーでイングランドを翻弄した。
高速回転の知的遊戯
サッカーのゲームの見所は、短く素早く且つ正確なパスワークで相手を攻め込んで行く途中に生まれる意外性だ。意表を衝くプレーにわれわれは魅了される。
もう一つの準決勝、フランスvsスペイン戦では、いわばラテン系特有の多くの意外性があり、おどろきがあった。それを楽しさと言い換えることもできる。
運動量豊富なイングランドの戦法また展開も、それが好きな人には楽しいものだったに違いない。
だが彼らの戦い方は「またしても」勝利を呼び込むことはなかった。
飽くまでもイングランドプレーの印象だが、高く長く上がったボールを追いかけ、捉え、再び蹴るという単純な作業は予見可能な戦術だ。
そしてサッカーは、予測を裏切り意表を衝くプレーをする者が必ず勝つ。
それは言葉を変えれば、高度に知的で文明的でしかも高速度の肉体の躍動が勝つ、ということだ。
ところがイングランドの身体能力一辺倒のサッカーには、肉体の躍動はあるが、いわば知恵者の狡猾さが欠けている。だからプレーの内容が原始的にさえ見えてしまう。
イングランドは彼らの「スポーツサッカー」が、スペイン、フランス、イタリア、ブラジル、アルゼンチンなどの「ゲーム&遊戯サッカー」を凌駕する、と信じて疑わない。
でも、イングランドにはそれらの国々に勝つ気配が一向にない。1966年のワールドカップを制して以来、ほぼ常に負けっぱなしだ。
イングランドは「夢よもう一度」の精神で、1966年とあまり変わり映えのしない古臭いゲーム展開にこだわる。
継続と伝統を重んじる精神は尊敬に値するが、イングランドは本気でフランスほかのサッカー強国に勝ちたいのなら、退屈な「スポーツサッカー」を捨てるべきだ。
世界サッカーの序列
今回のワールドカップでも、イングランドが優勝するのではないか、という多くの意見があった。イングランドが好調を維持していたからだ。
イングランドは、見方によってはワールドカップ以上に需要で面白い欧州選手権でも、いいところまで行くが優勝できない。ここ2大会は連続して決勝で敗退している。
僕は今回大会でももイングランドを評価せず、1次リーグが進んだ段階でも優勝候補とは考えなかった。だが彼らが準々決勝でノルウェーに勝った試合を観て、お、と目を瞠った。
その試合で2点を入れたべリンガムが、もしかするとメッシやエムバペの域に近づきつつある真正の“ファンタジスタ”かもしれないと思ったのだ。
だがそうではなく、ベリンガムはイングランドに典型的な身体能力の優れたスポーツマンプレーヤーに過ぎないことが明らかになった。
イングランドサッカーが目指すべき未来は、今の運動量と高い身体能力を維持しながら、フランス、イタリア、ブラジル、スペインほかのラテン国、あるいはラテンメンタリティーの国々のサッカーの技術を徹底して取り込むことだ。
取り込んだ上で、高い身体能力を利してパス回しをラテン国以上に速くすることだ。つまりポゼッションも知っているドイツサッカーに近似するプレースタイルを確立すること。
そこに真正のファンタジスタが加われば、イングランドはかつてのイタリア程度の強さを易々と獲得するだろう。
生き馬の目を抜く世界サッカー事情
欧州と南米のサッカー強国は常に激しく競い合い、影響し合い、模倣し合い、技術を磨き合っている。
一国が独自のスタイルを生み出すと他の国々がすぐにこれに追随し、技術と戦略の底上げが起こる。するとさらなる変革が起きて再び各国が切磋琢磨をするという好循環、相乗効果が繰り返される。
イングランドは、彼らのプレースタイルと哲学が、ラテン系優勢の世界サッカーを必ず征服できると信じて切磋琢磨している。その自信と努力は尊敬に値するが、彼らのスタイルが勝利することはない。
なぜなら世界の強豪国は誰もが、他者の優れた作戦や技術やメンタリティーを日々取り込みながら、鍛錬を重ねている。
そして彼らが盗む他者の優れた要素には、言うまでもなくイングランドのそれも含まれている。
イングランドの戦術と技術、またその他の長所の全ては、既に他の強国に取り込まれ改良されて、進化を続けているのだ。
イングランドは彼らの良さにこだわりつつ、且つ世界サッカーの「強さの秘密」を戦略に組み込まない限り、永遠に欧州のまた世界の頂点に立つことはない。
そうは言うもののイングランドは、しかし、今回大会でのベリンガムのプレーを見る限り、ファンタジスタの重要性に気づきそこへ向けてまい進しているようにも見える。
イングランドがメッシに匹敵するようなファンタジスタを作り上げるのか、イタリアがエムバペに肉薄するようなファンタジスタを誕生させるのか、今後気をつけて見て行こうと思う。
それは日曜日に行われるスペインvsアルゼンチンの決勝戦を見るくらいにわくわくするイベントである。







