4年に1度の祭典「サッカー欧州選手権」2016年版は、6月10日に開幕、7月10日に幕を閉じた。
そのうち優勝決定戦を含む後半トーナメントを、南イタリア・プーリア州サレント半島の海のコテージでテレビ観戦した。
一ヶ月にも渡った大会は珍しく退屈なものだった。
2年前のワールドカップ、さらにその2年前のサッカー欧州選手権、と興奮しながらテレビにかじりついていたことを思うと、奇妙な成り行きだが紛れもない事実だった。
理由はいくつもある。
贔屓のイタリアチームに少しも魅力を感じなかったこと。
イタリア以外の強豪国、英独仏スペインなども陳腐なパフォーマンスを繰り返すばかりで、やはり魅力的と呼ぶには程遠いチーム状況だったこと。
出場チームが16から一気に24に増えて、ワインを水で割ったのでもあるかのように薄味、いや悪趣味になったこと。
出場枠が水増しされたおかげで参加できた弱小チームのアイスランド、ウエールズ、またベルギー、ポーランドなどが勝ち進んで、違和感があったこと。
それとまったく矛盾するが、それらの弱小国が勝ち進む意外な展開は同時に、ちょっと魅力的ではあったこと。
とはいうもののその魅力には、強豪国の不調がもたらす退屈をカバーするほどの力はなかったこと。etc、etc...
2008年から世界サッカーを席巻してきたスペインの常勝トレンドは、2014年W杯で完全に終わって、同大会の優勝チーム・ドイツの常勝トレンドが始まったと見えた。
ところが、どうやらそれは僕の思い違いだった。
少なくとも欧州においてはドイツの圧倒的優勢は無く、トレンドという意味ではいわば端境期(はざかいき)にあるようだ。
イタリア、ドイツ、スペインなどの強豪が不振の中、弱小チームが活躍したり、ダークホースのポルトガルが優勝したりしたのも、トレンド端境期の混乱がもたらしたもの、という見方ができなくもない。
C・ロナウドの強さを意識するファンは、僕がポルトガルをダークホースと呼ぶことにあるいは違和感を覚えるかもしれない。
だがポルトガルは、C・ロナウドの天才を別にすれば、凡庸なプロたちの集団だ。そしてサッカーは決して1人ではできない。
他との違いを演出する1人の(あるいは複数の)優れた選手を囲む、残りの選手たちの質でチームの強弱が決まるのだ。
C・ロナウドを支えるポルトガルの10人の選手の集団の能力は、強豪国の独仏伊スペインなどを凌がない。むしろそれらの国より劣る。
だが、ポルトガルにはC・ロナウドがいる。他の国々はC・ロナウドを有さない。だからポルトガルが勝った。それだけのことだ。
つまりC・ロナウドは、他国よりも劣るチームメートの10人の力の足りない部分を補って、さらに余りある能力があることを証明した。
決勝戦でのC・ロナウドの負傷退場でさえ、彼自身の力量を示すエピソードの一環になった。
頼みの綱のキャプテンを失ったポルトガルは、強い衝撃を受け危機感に打ちひしがれた。結果、いつも以上に奮起して力を出し切った。だから優勝できた。
他のチームに、たとえC・ロナウド級は無理でも、“違い”を演出できる優れた選手が備わっていれば、ゲームの一つひとつはきっともっとずっと面白かったに違いない。
それがない分、各ゲームの内容は凡庸で面白みに欠ける、と僕は感じた。
一対一ならC・ロナウドに匹敵する力を持つ選手はいた。例えばスウェーデンのイブラヒモヴィッチだ。
だがイブラヒモヴィッチ以外のスェーデンの10人の選手の能力の総体は、ポルトガルより劣る。イングランドにも負ける。
ましてや強豪国の独仏伊スペインなどの足元にも及ばない。だからスウェーデンは中々勝てない。
イタリア・セリアAのテレビ生中継なども仕事にしてきた僕は、W杯や欧州選手権などのビッグイベントの際には、中継現場にいない場合には特に、逸る心のままに記事を書きまくることが多い。
が、今回の欧州選手権ではゲームを逐一と形容してもよい頻度で観戦していたにも関わらず、記事をアップする気持ちがまったく起きなかった。
僕は結構あくびをかみ殺しながら各試合を観ていた。決勝戦でさえ、C・ロナウドの負傷、退場にまつわる両チームの心理動静を別にすれば、実に退屈な試合だった。
それは冒頭の理由に加えて、繰り返しになるが、総合能力が高い英独仏伊スペインなどの強豪国に「違いを演出できる」傑出したプレーヤーがいなかったことによる。
そうした状況が僕の目には端境期と映るのだ。
トーナメントは進み、終わった。僕はその間まったく記事を書かなかった。書く気分になれなかった。
今やっと、不完全燃焼のまま時間が過ぎた状況を書いておく気になった。