先日、イーロン・マスク氏の74歳になる母親のマイエ・マスクさんが、スポーツ誌の水着モデルになって話題を呼んだ。
水着姿の彼女は美しく「セクシー」だ、という意見やコメントや批評が躍った。
僕はそこに違和感を持った。
マイエ・マスクさんは外見的には高齢の普通の女性だ。
彼女が最高齢の水着モデルとして雑誌に採用されたのは、なにかと物議をかもすイーロン・マスク氏という億万長者の息子がいるからにほかならない。
イーロン・マスク氏の強い話題性に乗っかって一儲けしようとする魂胆が、母親を雑誌の水着モデルに仕立て上げた。
よくある話であり、ありふれた手法である。
ふつうなら黙って見過ごすところだが、いま触れたように彼女の水着姿を「セクシー」だと言い張る声に強いひっかかりを覚えた。
水着姿のマイエ・マスクさんは、かわいく元気そうな女性ではあるが、断じてセクシーではない。
老いてセクシーというのは、自然の摂理に反する空しいコンセプトだ。
そしてもしもある個人が、高齢になってもセクシーであろうと足掻くのは悲しい料簡だ。
セクシーとは性的な輝きのことだ。
ところが閉経し膣に潤いがなくなった女性は、輝きではなく性交痛に見舞われる。それは性交をするな、という自然の通達だ。
高齢になって性交し妊娠するのは、母体にとって危険である。出産はもっと危険だ。
だが自然はそれ以上の周到さで、高齢女性の性交を戒めている。
女性が高齢で生む子供は、障害や弱さや死にまとわれる可能性が高い。それは種の保存、継続にとっての最大の危機である。だから膣を乾かせる。
膣に潤いがなくなるのは年齢のせいではない。自然がそう命令するのである。
むろん自然は男性の側にも同様の警告をする。だから男は年を取ると勃起不全になり性的攻撃性が減退する。それもまた自然の差し金だ。
性交をしない、つまり性交ができない肉体はセクシーではありえない。美しくはあり得ても、それはセクシーではないのだ。女もむろん男も。
年齢を重ねると女も男も肉体がひからび、くすんでいく。自然現象だ。
自然現象だが、人間はまた自然現象に逆らうこともできる存在だ。意志があり心があるからだ。
ひからび、くすんでいく自然現象に立ち向かって、肉体を磨く人の行為は尊い。意志が、心がそれをやらせる。
肉体を磨く行為は、肉体を着飾る意思ももたらす。高齢になっても若やいだ、色鮮やかな装いをして颯爽と生きる人の姿は美しい。
ところで
肉体を磨くことに関しても衣装に関しても、特に女性の場合は日本人よりも西洋の女性のほうがより積極的であるように見える。
多くの場合日本人は、年齢を意識してより落ちついたデザインや色彩の衣装を身にまとう。そこにはノーブルな大人の美がある。
だが、ただでもかわいてくすんでいく肉体を、より暗い地味な衣装でくるんでさらに老いを強調するのは理に合わない、という考え方もある。
寂しい外見の肉体だからこそ、華やいだ衣装で包んで楽しく盛り上げるべき、という主張だ。
衣装が肉体の美を強調することになるかどうかはさておき、見た目が楽しくのびやかになるのは間違いがない。
年齢に縛られて、年相応にとか、年だから、などの言葉を金科玉条にする生き方はつまらない。
だが同時に、年齢に逆らって、望むべくもないセクシーさを追求するのは、悲しくもわびしい生きざまだ。
老いた肉体をセクシーにしようとすると無理がくる。苦しくなる。
老体の美は、セクシー以外の何かなのである。
何かの最たるものは心だ。
ひどく陳腐だが、結局そこに尽きる。
老いを、つまりセクシーではない時間を受け入れて、心を主体にした肉体の健全と平穏を追求することが、つまり美しく老いるということではないか。
60歳代になり老人の入り口に立っている僕は、既に老人の域にいるマイエ・マスクさんのことが他人事には見えない。
幸い、彼女を「セクシー」だとはやし立てているのは、金儲けとゴマすりが得意な周辺の人々であって、彼女自身はそうでもないらしいのが救いである。
それというのも彼女はこう言っている:
「もしも私が雑誌の水着モデルになれると思ったら、頭のおかしい女性として閉じ込められていたことでしょう」
と。
つまりマイエ・マスクさんは、自身の姿を客観視することができる健全な精神の持ち主なのだ。
彼女のその健全な精神が、自身を水着モデルに仕立て上げたのは、成功あるいは金儲けを追い求める世間だったのだ、と主張しているのである。