2023年6月9日、イタリア・ベネト州の保健当局および生命倫理委員会は、末期がんの78歳女性が申請していた自殺幇助の嘆願書を承認した。
一定の条件下では自殺幇助は訴追の対象外、とする憲法裁判所の判決に沿ったもので、史上4人目のケースである。
イタリアでは基本的に安楽死は認められていない。
憲法裁判所の裁定や生命倫理委員会の決定は、今のところは飽くまでもいわば例外規定だ。それがゆるぎない法律となるには国民投票を経なければならない。
自殺幇助には5年から12年の禁固刑が科される。そのため毎年約200人前後ものイタリア国民が、自殺幇助を許容している隣国のスイスに安楽死を求めて旅をする。
そのうちのおよそ6割は実際にスイスで安楽死すると言われる。
安楽死に対するイタリア社会の抵抗は強い。そこにはバチカンを抱える特殊事情がある。自殺は堕胎や避妊などと同様に、ローマ教会にとってはタブーだ。その影響力は無視できない。
安楽死は命を救うことが至上命題である医療現場に、矛盾と良心の呵責と不安をもたらす。イタリアではそこにさらにカトリック教会の圧力が加わる。
医者をはじめとする医療従事者は、救命という彼らの職業倫理に加えて、自殺を否定し飽くまでも生を賛美するカトリック教の教義にも影響され、安楽死に強い抵抗感を持つようになる。
安楽死を推進する人々に対しては、キリスト教系の小政党などからも「死の文化」を奨励するものだ、という批判が湧き起こる。
またカトリックの総本山であるバチカンは、自殺幇助は「本質が悪魔的な行為」として、飽くまでも声高に論難する。
それらは極めて健全な主張だ。生を徹頭徹尾肯定することは、宗教者のいわば使命であり義務だ。彼らが意図的に命を縮める安楽死を認めるのは大いなる矛盾だ。
安楽死を怖れ否定するのは、しかし、宗教者や医療従事者のみならず、ほぼ全ての人々に当てはまる尋常な在り方だろう。
生は必ず尊重され、飽くまでも生き延びることが人の存在意義でなければならない。
従って、例え何があっても、人は生きられるところまで生き、医学は人の「生きたい」という意思に寄り添って、延命措置を含むあらゆる手段を尽くして人命を救うべきである。
その原理原則を医療の中心に断断固として据え置いた上で、患者による安楽死への揺るぎない渇求が繰り返し確認された場合のみ、安楽死は認められるべきと考える。
安楽死は、命の炎が消え行くままに任せる尊厳死とは違い、本人または他者が意図的に命を絶つ行為である。
その意味では尊厳死よりもより罪深いコンセプトであり、より広範な論議がなされるべき命題と言えるかもしれない。
僕は安楽死及び尊厳死に賛成する。いわゆる「死の自己決定権」を支持し、安楽死・尊厳死は公的に認められるべきと考える。
回復不可能な病や耐え難い苦痛にさらされた不運な人々が、「自らの明確な意志」に基づいて安楽死を願い、それをはっきりと表明し、そのあとに安楽死を実行する状況が訪れた時には、粛然と実行されるべきではないか。
安楽死を容認するときの危険は、「自らの明確な意志」を示すことができない者、たとえば認知症患者や意識不明者あるいは知的障害者などを、本人の同意がないままに安楽死させることである。
そうした場合には、介護拒否や介護疲れ、経済問題、人間関係のもつれ等々の理由で行われる「殺人」になる可能性がある。親や肉親の財産あるいは金ほしさに安楽死を画策するようなことも必ず起こるだろう。
あってはならない事態を限りなくゼロにする方策を模索しながら-繰り返しになるが-回復不可能な病や耐え難い苦痛にさらされた不運な人々が、「自らの明確な意志」に基づいて安楽死を願うならば、これを受け入れるべきである。
実を言えば安楽死や尊厳死というものは存在しない。死は死にゆく者にとっても家族にとっても常に苦痛であり、悲しみであり、ネガティブなものだ。
あるべき生は幸福な生、つまり「安楽生」と、誇りある生つまり「尊厳生」である。
不治の病や限度を超えた苦痛などの不幸に見舞われ、且つ人間としての尊厳を全うできない生は、つまるところ「安楽生」と「尊厳生」の対極にある状態である。
人は 「安楽生」または「尊厳生」を取り戻す権利がある。
それを取り戻す唯一の方法が死であるならば、人はそれを受け入れても非難されるべきではない。
死がなければ生は完結しない。つまり、死は疑いもなく生の一部だ。
全ての生は死を包括している。むろん「安楽生」も「尊厳生」も同様である。