【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

極右を斬り、極左を撃つ

ハマスの攻撃もそれへの報復も同じ穴のムジナの蛮行だ 


 瓦礫子供抱いてさ迷う母親650

107日、ハマスがイスラエルを攻撃。残虐行為を働いた。被害者のイスラエルはすぐに応酬。ハマスに劣らない凶悪さでガザ地区住民を虐殺し続けている。

ところがイスラエルへの非難は、ハマスへのそれに比べると弱い。

ハマスが先に手を出したことと、戦闘員が子供の首を切り落とすなどの残忍非道な行いをしたことが、世界世論の憎しみを誘ったからだ。

同時に、繰り返しになるが、報復したイスラエル側の攻撃も酷いものになった。それにしては彼らに対する視線は寛容すぎるほど寛容だ。

欧米は反ハマス一辺倒である。それはイスラエル支持につながり、イスラエルのガザへの反撃は自衛のためのものだから正当、という議論を呼ぶ。

その延長で、ここイタリアでは反イスラエルまたパレスチナ擁護の立場の者への、魔女狩り的な動きさえ出ている。

イタリアのユダヤ人喜劇俳優 モニ・オヴァディアは、イスラエルの無差別攻撃を断罪して劇場から締め出された。

アラブ世界の抑圧的な政治を批判して英雄扱いされたエジプト人青年、パトリック・ザキは、ハマスの攻撃にはそれなりの理由があると発言しただけで、イタリアの名誉市民権を剥奪されようとしている。

またドイツでは、イスラエルに批判的なパレスチナ人女性作家アダニア・シブリが激しい論難にさらされている。

一方的にイスラエルだけを擁護する言説は危険だ。

ハマスのイスラエルへの残虐な無差別攻撃は、むろん許しがたいものだ。

だがそこに至るまでには、イスラエルによるパレスチナ人民への抑圧、侵略、虐殺行為などが頻発してきたのもまた事実だ。

パレスチナ人とユダヤ人は、2000年の長きに渡ってほぼ無縁の時間を過ごした後、イスラエル建国に続いたユダヤ人の一方的なパレスチナ占領によって、抑圧と抵抗が雪だるま式に膨れ上がり、連鎖していく悲劇に陥った。

血で血を洗う闘争は、ハマスに始まるアラブ強硬派とイスラエル右派またユダヤ原理主義勢力が消滅しない限り終わらない。

和平への道は常に彼らが閉ざしてきた。今回の武力衝突もパレスチナの過激派とイスラエルの極右勢力が引き起こしたものだ。そして2者は永遠に妥協もしなければ消滅もしないように見える。

武力衝突を止めさせる力を持つ欧米列強は、イスラエル支持でほぼ一枚岩になっていて、アラブまたパレスチナの敵意を喚起し続け、やはりどうしても虐殺の連鎖を断ち切ることはできない。

それはつまり、病院爆破に象徴されるイスラエルとパレスチナの無残な殺し合いは果てしなく続き、民間人の犠牲は今後も増え続けていくということである。






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危ういのは神道ではなく国家神道である

伊勢内宮入口鳥居650

僕は2023年4月、神社仏閣を次々に訪問参拝しながら宗教と神社神道(以下:純粋神道と呼ぶ)と国家神道に思いを巡らしていた。すると僕の旅が終わってほぼ一週間後の4月21日、高市早苗経済安全保障担当大臣が靖国神社に参拝した。

その出来事は、神道にまつわる僕の物思いを象徴的に示す性格を持っている。そこで高市氏の動きに言及しつつ神道と国家神道について意見を述べておくことにした。

高市大臣は毎年、春と秋の例大祭の期間中や8月15日の「終戦の日」に、靖国神社に参拝するという。従って今回の動きもいつもの彼女の習いと捉えて聞き流すこともできる。

しかし彼女は不遜にも放送法を曲解して、自らと仲間に批判的なメディアを弾劾しようと企てた疑惑にまみれている人物だ。

批判が沸き起こっている今この時は、物議を醸すことの多い靖国参拝を控えるのがあるべき姿だと思うが、高市氏は相変わらずの“仁義なき戦い”精神で靖国神社を訪問した。

彼女はその理由を「国策に殉じた方々の御霊に尊崇の念をもって哀悼のまことをささげる」ため、と靖国を訪れる保守系政治家の常套句を用いて説明した。

戦争で斃れた人々に哀悼の意を表するのは、思想の左右には関係なく人として当たり前の行為だ。だが彼女は国務大臣である。国を代表する公人だ。公人は常に国益を念頭に置きつつ国際情勢にも配慮して行動しなければならない。

戦争犯罪者も祀る靖国神社への参拝は、軍国主義日本を想起させるとして周辺国の反発を呼び、且つ国際社会も眉をひそめることが多いネガティブな事案だ。つまり国益に反するのが実情である。

神社は古来の日本人の心の拠りどころとして人々に賛美され親しまれている分には、何も問題はない。それどころか美しい施設であり伝統であり理念である。

だが人々の敬仰心を利用して国粋主義を煽り、純粋神道を歪曲して国家神道と成し、天皇を隠れ蓑に暴威を振るった軍国主義者の末裔が存在する限り、危険な施設でもあり続ける。

日本ではついに第2次大戦の徹底総括が行われないまま長い時間が過ぎてしまった。そのため軍国主義の心根を秘匿した勢力が徐々に意を強くしつつある。一歩間違えば国家神道に類する欺瞞が再び席巻しかねない。

具体的にはネトウヨ系政治・文化・財界人や安倍元首相追随者群また極右主義者などが、かつては彼らの抑圧者だったアメリカが口をつぐみ勝ちなのを幸いに、俄然勢いを増しているのが日本の今の姿だ。

そこに最近、ロシアによるウクライナ侵略が想起させる中国の覇権主義の暴走と台湾有事の可能性への怖れ、という新たなトレンドが加わった。人々のその怖れは真っ当なものだ。

だが大戦への総括どころか、歴史修正主義者ばかりが勢いを増すようにさえ見える状況はやはり危なっかしい。そして高市早苗氏は歴史修正主義勢力の旗手だった安倍元首相の追随者だ。

彼女が世間の批判の嵐に抗う形で靖国参拝を強行したのは、右派の支持を集めて自らの政治家生命の危機を乗り越えたい思惑があるようにも見える。

だが同時にその行為は、ファシスト気質の彼女が秘匿ファシストまた民族主義者などの歴史修正主義者に、国家神道の正当性を訴え確認する意味合いがあると捉えることもできる。

繰り返しになるが、神社も神道も古来の人々の純真素朴な信仰心を受け止めてそこにある限り美しいコンセプトだ。その心情も、心情に裏打ちされた建築スタイルも、装飾も儀式も全て目覚ましい。

だがそれが軍国主義者やファシストやナショナリストらの尊崇施設になり思想の拠り所になったとたんに、大いにキナ臭くなるのもまた真実だ。

高市早苗経済安全保障担当大臣の靖国参拝は、そのほかの右派政治家の参拝と同様に、まさにその負の兆しが透けて見える象徴的な動きだった。

僕は先日、伊勢神宮、出雲大社、厳島神社、太宰府天満宮、伏見稲荷などの神殿を訪ね歩いた。

過去には靖国神社、明治神宮、金刀比羅宮なども参拝し、全国各地の神社や杜や祠堂や地蔵また御嶽、位牌堂 、御霊屋等々も訪ね歩いている。

僕がそこで敢えて見ようとするのは、主にキリスト教の対抗軸としての教義や思想や実存根拠、またその信義や哲学である。

僕はキリスト教徒ではないがイエス・キリストを尊崇し仏陀を敬仰する者だ。同時に国家神道ではない純粋神道や凡霊説、さらにはイスラム教やユダヤ教も尊重する。

僕はあらゆる宗教を受け入れる自らのその立ち位置を規定して、「仏教系の無神論者」と称している。言葉を替えれば、僕は「仏教系の無神論者」という宗教の信者なのである。

全ての宗教を善しとする立場は、ある限りの「宗門の信者」に拒絶される可能性がある。

なぜなら一神教にしても多神教にしても、自らの信ずるものが絶対の真実であり無謬の存在だと思い込めば、それを受容しない者は彼らにとっては全て無神論者だろうからだ。

ところでなぜ僕がキリスト教や神道系ではなく「仏教系の無神論者」なのかというと、僕自身の中に仏教的な思想や習慣や記憶や日々の動静の心因となるものなどが、他の教派のそれよりも深く存在している、と感じるからである。

さらに言えば、仏教にはドグマ(教義)が存在する分、思索の基準が明確になりやすい。

一方ドグマが存在せず、本殿のご神体を秘匿して信者の畏怖心を煽る神道の在り方は、神社そのものの構造と共に僕の中の疑心を呼び起こすことがないでもない。

それでも日本人としての僕は、本来の純粋神道の精神に親しみを覚え尊重する。同時にそれを歪曲して国家神道と成し、その周りで狡知にうごめいては国民を支配しようとする勢力を嫌悪し、それに抗う側に立つ。

換言すれば高市早苗氏は、僕と同じく純粋神道の伝統が充満する日本社会に生まれ育ちながら、それを全く違う解釈で規定し実践する類の人物と見える。

具体的に言えば高市氏は僕の目には、純真素朴な神道の精髄を曲げて国家神道に作り変え、危険な政治道具に祭り上げようとする勢力の指導者のひとりと映るのである。

2023年4月21日の高市早苗経済安全保障担当大臣の靖国神社参拝に先立って、多くの社殿を訪ね歩いていた僕の中に錯綜していたのは、純粋神道への郷愁と国家神道への嫌悪感だった。




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高市早苗オヤジ型女性政治家はフェイクっぽい

安倍高市切り取り

「捏造でなければ辞職」と啖呵を切った、高市早苗経済安全保障担当相の驕りは、今に始まったことではないが相変わらず見苦しい

同じ穴のムジナだった安倍元首相に倣ったらしい宣言によって、彼女は思い上がりに思い上がってついに天井にぶつかり墜落す運命を選んだようにも見える。

ファシスト気質の高市氏は、性根が秘匿ファシストだった彼女のボスの安倍元首相よりもよりファシスト的というのが僕の見方だ。

だがジェンダーギャップの激しい日本で女性政治家が頑張る様子を、僕は政治的立場をさて置いてずっと応援する気持ちでいたことも告白しておきたい。

高市氏はここイタリアのジョルジャ・メローニ首相に似ているところがある。言うまでもなくファシスト的な気迫の政治スタンスやメンタリティーだ。

だが同時にふたりはかけ離れた右翼活動家でもある。ひとことで言えば、メローニ首相が明の右翼政治家、片や高市氏は陰にこもったキャラクターだ。

もっと言えば高市氏は自ら大いに右翼運動を担うのではなく、例えば安倍元首相に庇護されて四囲を睥睨したように威光を笠に着て凄むタイプ。

一方のメローニ氏は自ら激しく動いて道を切り開くタイプだ。

肩書きが人間を作る、というのは真実である。

イタリアで初の女性首相となったジョルジャ・メローニ氏は、ファシスト党の流れを汲む「イタリアの同胞」を率いて選挙を勝ち抜いた。

選挙中、彼女は右寄りの政策を声高に叫びつつ一つのスローガンをさらに大声で主張した。

いわく、「私はジョルジャだ。私は女性だ。私は母親だ。そして私はイタリア人だ」と。

「私はジョルジャだ」は自らが自立自尊の人格であることを、「私は女性だ」は女性であることを誇ると同時にジェンダー差別への抗議を、「私は母親だ 」は愛と寛容を、「私はイタリア人だ」は愛国の精神を象徴していると僕は見た。

メローニ氏はそうやって国民の支持を得て首相の座に上り詰めた。

上り詰めると同時に、彼女は激しい言葉を避け、険しい表情をゆるめ、女性また母親の本性があらわになった柔和な物腰にさえなった。

政治的にも極端な言動は鳴りをひそめ、対立する政治勢力を敵視するのではなく、意見の違う者として会話や説得を試みる姿勢が顕著になった。

彼女のそうした佇まいは国内の批判者の声をやわらげた。僕もその批判者のひとりだ。

また同氏に懐疑的なEUのリベラルな主勢力は、警戒心を抱きながらもメローニ首相を対話の可能な右派政治家、と規定して協力関係を構築し始めた。

ジョルジャ・メローニ首相は資質によってイタリア初の女性首相になったが、イタリアのトップという肩書きが彼女を大きく成長させているのも事実なのである。

高市大臣は、あるいは日本初の女性宰相となり、その肩書きによって人間的にも政治的にも成長するかもしれないと僕は秘かに考えていたが、少しバカらしくなってきた。

メローニ首相と同じ右翼政治家の高市大臣には、イタリアのトップに備わっている女性としての自立心や明朗な政治姿勢や誇りが感じられない。

その代わりに虎の威を借る狐の驕りや、男に遠慮する「女性オヤジ政治家」の悲哀ばかりが透けて見える。女性オヤジ政治家は旧態依然とした男性議員を真似るばかりで進取の気性がない。その典型が高市氏だ。

日本にはまた男に媚びる「ブリッコ・オバハン政治家」も多い。その典型は稲田朋美元防衛大臣だ。それらのブリッコ・オバハン政治家は人間としてのまた政治家としての在り様が不自然で主体性がない。

ブリッコ・オバハン政治家は女性オヤジ政治家の対極にあるようにも見える。だが彼女たちは“不自然で主体性がない“というまさにそのことによって、全員が女性オヤジ政治家に分類される存在でもある。

それらのタイプの政治家は実はイタリアにも多い。つまり「オヤジ型の女性政治家」が跋扈する社会現象は、まさにイタリアや日本などの「女性の社会進出が遅れている国」に特有のものなのである。

女性オヤジ政治家 は恐らく肩書きによっても変えられない存在だ。主体性と、そこから生まれるぶれない政治姿勢また真実が欠けているからだ。

肩書きによって作られる人格とはつまるところ、元々それらの特質を備えている人物が、責任ある地位に着くことでさらに磨かれていくことである。

メローニ首相は頑迷固陋なイタリア政界の壁を突き破って輝いた女性だ。

僕は彼女の政治姿勢には同調しないが、日本に似た男社会で見事に自己主張を貫き通す姿勢には拍手を送る。

拍手するその手を返して、高市早苗大臣の面前にかざしNOとひとこと言えればどんなにか胸がすくことだろう。




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マクロン勝利でも油断はできない

macron650

フランス大統領選は予想通りマクロン候補が勝った。喜ばしいことだ。

ウクライナ危機が大きく影響した選挙戦は、マクロン候補の大差のリードで始まり、その同じ危機の余波でフランス国内のインフレが高まると、ルペン候補に支持が急激に集まった。

投票直前の2候補のテレビ討論によってマクロン候補の挽回が伝えられたが、フランス国内では同候補への反感も強く、棄権する有権者の動向によってはルペン候補の逆転勝利の可能性もあった。

結局、どんでん返しはなく、マクロン大統領が再選された。

マクロン大統領は、ウクライナ危機対応で欧州が暴君プーチンと戦うために欠かせない存在だ。

片や極右のルペン候補は、選挙戦中は必死でプーチン大統領との仲を隠していたが、当選すれば独裁者プーチンに肩入れし、欧州各国はもちろんアメリカなどとも距離を置く可能性があった。

ひと言でいえば“ルペン大統領”は、欧州の民主主義と自由を否定して、プーチン・ロシアや中国が主導する世界の専制主義勢力と親和的な政権を構築する。

それはウクライナ危機でさえ、プーチン大統領に理があると主張する、世界のネトウヨヘイト系排外差別主義勢力と握手をする政権ということだ。

フランスは再び極右の脅威を退けた。しかし、ルペン候補への支持率は右肩上がりに上がっている。

それはフランス国内に親トランプまた親プーチン勢力が増えていることを意味する。

その状況は、世界がネトウヨヘイト系排外差別主義勢力に支配される方向へと、じわじわと進んでいることを示唆している。




炎上はのぞむところだ。けれど、オ~イ沖縄!マジ今のままでいいんか~いイイイ!?


辺野古・広大な埋め立て区域600
辺野古埋め立て予定地域


僕は個人的には沖縄の独立を支持しない。だが米軍基地問題にからんで怒っている沖縄が、その解決のために独立に向けて立ち上がるなら、僕はそれを否定しない。否定しないどころか、もしも必要ならば、僕はここイタリアを引き払ってでも、故郷の島に移り住み闘いに参加しようと思う。それが僕の噓偽りのない気持ちである。

自分の真意を秘匿して書いた「中露北朝鮮お友達&独立沖縄論」は、僕のブログ上では何も問題はなかったが(無視されただけ?)、新聞に転載されたとたんにネトウヨ・バナナ勢力からのバッシングに遭ったらしい。同時に新聞記事のWEB版には多くの賛同「いいね」もまた寄せられているという。

先のエントリーに書いた通り、新聞は僕の真意を知りつつ記事を掲載した。従って彼らも独立沖縄には反対なのだろうと僕は推察している。もっとも記事タイトルの「“独立沖縄” 論が起きてもいい」を、敢えて「“沖縄独立” 論が起きてもいい」と書き直した編集担当記者の真意は、また別にあるのかもしれないけれど。

掲載紙は、地方紙らしく地元の民意に寄り添う報道を続けているガッツのあるメディアだ。中央権力に媚びて地元を無視する地方紙などクソの役にも立たない。新聞は「普通に」反権力の、地元を深く愛することで結局日本国も愛しているリベラル紙だ。だからバナナのネトウヨ・ヘイト系人種からは、反日・国賊・売国奴などと罵られるわけだ。

新聞はバナナ人種らからのバッシングを大いに浴びるべし、と僕は普段から応援している。それというのも弱体な地方紙が生き延びるためには、全国的な注目を浴びる必要があるからだ。彼らは反権力の報道姿勢を保つことで、権力寄りのネトウヨ・バナナ勢力から攻撃を受けて注目度が上がる。地方紙にとっては願ってもないことだ。

新聞を罵倒しているのは、何度でも言うが、世界から目をそむけたまま日本という狭い家に閉じこもって壁に向かって怨嗟を叫ぶ、偏狭な排外国粋主義者のバナナつまり『引きこもりの暴力愛好家』らである。彼らが叩く相手は相も変わらず中露韓北朝鮮。そこに地方紙を含むリベラル系のメディアが加えられる。

中露北朝鮮はそれぞれ一党独裁、変形独裁、純粋独裁の、従って反民主主義のゴロツキ国家である。そこには自由もなく言論は抑圧され国家が人民を監視する恐怖政治が堂々と行われている。彼らと手を組めば、弱体な沖縄はたちまち飲み込まれて、中国におけるチベット化する可能性がある。

そうなったら沖縄には今のような自由もなく、民主主義は夢のまた夢、言論の自由に至っては影も形もなくなる、という事態が考えられる。嫌中韓露北朝鮮また反沖縄のバナナ勢力を含む、全国の懐疑主義者が真っ先に指摘するのもそこのところだ。

また沖縄地元の知識人やオピニオンリ-ダーなども、国内では抑圧されながらも民主主義と言論の自由がある。だが中露北朝鮮と手を結べばたちまち独裁権力の圧政にさらされる、として言下に彼らとの提携を否定し拒否する者が多い。僕はもちろん彼らの不信と不安がよく理解できる。

だが、沖縄が置かれている状況は、ゴロツキ国家が人民に与える不都合にも匹敵する無残な現実のように見えないこともない。民意は徹底的に無視され、構造的な差別が横行し、ネトウヨ・ヘイト系差別主義者らの攻撃に恒常的にさらされている。民主主義国家日本の一県でありながら、中露北朝鮮体制下の社会の一員でもあるかのような差別を受けているのだ。

ならば、危険と苦難を覚悟で、日本を捨てて彼らと手を結ぶ可能性を沖縄の為政者は検討してみてもいいのではないか。少なくともそういう生き方もある、と中央権力機構にたて突いて、彼らをあわてさせるぐらいのガッツまた覚悟を持ってもいいのではないか、という僕の提案を含むさまざまな意見を、満遍なく報道しているのがその地方紙である。

そうした報道姿勢と、民意を無視して辺野古新基地の建設を強行する施策に代表される、安倍政権への強い反発表明などが恨まれて、同紙は排外国粋主義者のバナナ・ネトウヨ勢力からの激しい攻撃を受けるのだ。偏向視点に凝り固まったバナナの目には、リベラル姿勢の新聞の報道は全て「偏向報道」に見えるのである。彼らは自らのその偏向に気づかない。だからいつまで経ってもネトウヨ・バナナのままなのだけれど。



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炎上はのぞむところだ。が、



バナナ持つサル着ぐるみ



ここに書いた記事の主旨が新聞に転載されたところ炎上したという知らせがあった。炎上とは見方を変えれば、記事が注目されたということだから望むところだ。炎上が怖くてはブログ記事など書いていられない。

ところが今回の炎上は、僕自身への非難というよりも記事を掲載した新聞への非難、という様相が強いということなので少し状況が違う。自分への攻撃なら無視するところだが、僕が原因の攻撃を他者が受けた、ということだから無視していられなくなった。

まずはっきりしておくが、僕は沖縄の独立には反対である。反対どころかそんな主張は笑止だとさえ考えている。また、中国、ロシア、北朝鮮は、それぞれ一党独裁、変形独裁、独裁そのものの、不自由で野蛮で人権無視の怖いゴロツキ国家だと思っている。

それならば、なぜ僕が沖縄独立の可能性を探り、且つそれらのゴロツキ国家を味方につけるべし、などと書いたのかというと、そのような屈辱的で苦しい手段まで編み出して突破口を探らない限り、安倍政権のひたすらの沖縄軽視、いや沖縄蔑視の施策が止むことはないと考えるからだ。

記事に書いた通り沖縄の選挙で米軍基地の辺野古移設ノーの民意が繰り返し出ても、さらに県民投票が同じ結果でも、安倍政権は態度を変えない。変えないどころか、民意をあざ笑うように基地用地作成のために土砂を海に投入する蛮行をくり返している。

それに対抗して沖縄県は何をするのかといえば、政権を糾弾する県民総決起大会の開催、というナントカの一つ覚えのような愚策を繰り出すばかりだ。いやそれ自体は重要なものだ。が、同じやり方を反復し続けることで、残念ながら効果がなくなり愚策と似た結果になる。

同じことの繰り返しでは中央権力は動かない。沖縄は彼らを驚かせ、あわてさせるぐらいの策を打たなければ何も変わらない、という思いからの提案が、僕の沖縄独立模索、中露北朝鮮お友達案だ。

荒唐無稽且つ売国的行為にさえ見えかねないそうした主張をすれば、国民の多くは怒って「勝手に独立しやがれ」と沖縄を突き放す可能性もある。その危険を見越した上で僕はあえて記事を書いた。現に僕のコラムが載った新聞に対しては、ネトウヨヘイト系の反沖縄勢力が口角泡を飛ばして反論をしているという。

ましてや沖縄の為政者らが僕の提案と同様の主張をすれば、事態は紛糾して現在は基地問題などで沖縄に親和的な思いを抱いている人々を失望させ、あまつさえ怒らせて沖縄離れ沖縄ヘイトの風潮が、ネトウヨ・ネットワークの殻を破って一般国民の間にも造成されるかもしれない。

だが、政権中枢はどうだろうか?日本とほぼ常に敵対している中露北朝鮮に沖縄が近づくと知れば、あるいは狼狽して態度を変えるかもしれない。沖縄の為政者は、政権を驚愕させるくらいの「何か」を打ち出さなければ、辺野古問題はこのままずるずると進んで、必ず安倍強権政府の思い通りになる、と僕は危惧する。

そこで、繰り返しになるが、辺野古問題の本質とそれへの対応、という意味もこめて中露北朝鮮さえ味方につけての“沖縄の独立”に言及してみた。独立とは、強い経済と軍隊によって得られる自由のことである。僕は沖縄県にそれが可能とは考えないし、たとえ可能でも沖縄の独立などこれっぽちも望まない。

飽くまでも沖縄「基地問題」を解決する糸口の一つとして、また沖縄への構造的差別に対抗するために、もっと具体的に言えば安倍晋三首相と周囲の権力中枢を慌てさせ、考えを変えさせるための作戦、戦略の一つ、として沖縄独立の“カードを切ってみる”手もあるのではないか、と沖縄地元の為政者に提案してみたかったのだ。

そんな重い提案をしながら、自らの沖縄独立論や中露北朝鮮お友達論は「ハッタリ」だと明かしてしまえば、提案の本気度の底が割れてしまう。だから僕は真意は伏せて、「沖縄の独立には反対の立場だが~」と言うだけにとどめて論を展開した。

さらに言えば、記事を載せた当の新聞もそのことは知っていた。なぜなら僕は寄稿するにあたって、コラムの担当者に記事の真の意味を説明しているからだ。僕は「沖縄独立」という言葉のあまりの重さを軽減する意味で、タイトルを「沖縄独立」ではなく『独立沖縄』としてくれとさえ要請した。

コラム担当記者(編集)には僕は正確に次のように言った:

「タイトルの“独立沖縄論が起きてもいい”に少しこだわりました。普通なら「沖縄独立」と言うべきだと思いますが、あえて「独立沖縄」としました。沖縄独立と言えば文字通り沖縄が政治的現実的に日本から独立する、という意味ですが「独立沖縄」とした場合には、思想的なまたは形而上学的な独立、あるいは精神的な自立、といったニュアンスがこもるように思います。私は沖縄の日本からの独立には真っ向から反対ですが、島の心情的な自立や独立には大いに賛成です。その意味合いをこめています。同時に沖縄の為政者は「沖縄の独立」というカードを辺野古問題打破に使うぐらいの肝を持つべきではないか、とも考えています」


だが担当者は、僕のその要請を無視して“独立沖縄”ではなく「“沖縄独立”論が起きてもいい」と敢えてタイトルを書き換えて記事を掲載した。編集担当の記者が、外部からの投稿記事を改善したつもりで、あるいは改善した振りで書き手の意思を無視し、自らの趣味や主張に合う表現に変えるのはよくあることだ。

古典的な新聞記者のいわば思い上がりに近い態度は、ネットが力を持った昨今も変わらない。多くの場合彼らは新聞に代表される紙媒体の失墜に気づかず、たとえ気づいてもそれを過小評価して、不都合な真実から目を逸らしていたい心理に強く捉えられていたりもする。

閑話休題

記事に対する批判が僕に向けられたものなら、僕は十中八九無視するか、記事の内容をそのまま前面に押し出して反論する。だが今回は批判の主な矛先が新聞社に向けられているとのことなので、内情を説明して庇いたいと考えた。違和感を抱かせる記者も少なくない新聞ではあるが、彼らが理不尽な批判にさらされても構わない、とは僕は考えない。

僕はブログ記事には、中露北朝鮮に加えてアメリカも沖縄の独立の後押しをする可能性がある、と示唆した。だがそれを新聞コラムに転載する際には、紙面の厳しい字数制限があるのでその部分は削除した。その事実も結果として、あたかも中露北朝鮮のみが沖縄の味方になる、というコンセプトを強調する形になった。

新聞を攻撃しているというネトウヨヘイト系のエセ愛国者らは、彼ら自身も黄色人種であることを忘れて、トランプ大統領に代表される「白人至上主義」者らとオトモダチのつもりでバナナ人間、つまり表が黄色で中身が白い滑稽な「白人」になってしまっている者がほとんどだ。

彼ら「黄色い白人」はまた、自らがアジア人であることも完全に失念して、中韓北朝鮮に代表される「アジアの国々と国民」への蔑視またヘイト感情に凝り固まり、何かというとこめかみに青筋を立てて隣国の人々を罵倒する。

アジアの3国にロシアを加えた国々には先にも述べたように、確かに問題が多い。だがネトウヨヘイト系の「反日」人種が蔑視しているのは、その国々の体制ではなく、国民だ。特に中韓北朝鮮の人々へのいわれのない優越感は、見ているこちらが「穴があれば入りたい」と感じるほどに恥ずかしく醜い。

僕は自らを「国際派の愛国者」と規定し、そう主張もしている者だ。その立場から見ると、ネトウヨヘイト系・排外差別主義者の国民や政治家また知識人などは、彼らが他者を攻撃するときに良く使う「反日」勢力そのものだ。

なぜなら彼らはアジア人でありながら白人目線でアジア人を見、そこから来る驕りでアジアと世界に迷惑をかけた過去も忘れて歴史を修正し無視しようと躍起になる。その態度は中韓北朝鮮はいうまでもなく世界の良識ある国々の反発も招く。そうやって日本国を貶めている彼らこそ「反日」勢力に他ならない。

そんな反日のバナナらが、主として中韓北朝鮮への蔑視感情とロシアへの反感から繰り出す罵詈雑言は、あまりにも陳腐で醜悪なために取り合うことさえ愚かしい。だが冒頭で述べたように僕の記事が原因で新聞が叩かれている、と知ったので自分の真意また見解をこうして披瀝しておくことにした。



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極右のロザリオ~黒い祈り



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イタリアのポピュリズム(大衆迎合主義)政権の一翼を担う極右政党「同盟」は先月(5月26日投開票)行われた欧州議会選挙で予想通り躍進した

同党の党首で副首相のサルヴィーニ氏は、選挙運動中にロザリオをかざして演説を行なうなどしてローマ教皇の怒りを買った。

ロザリオはカトリック教会で聖母マリアへの祈りを唱える時に使う、小さな十字架がついたネックレスのような数珠。

サルヴィーニ氏は、連立政権内で特に難民・移民の排斥を主体にした人種差別的政策を推し進めてローマ教皇と対立している。

イエス・キリストを持ち出すまでもなく、ロザリオに象徴される聖母マリアが貧しい難民・移民を放逐したり、人種差別的な行為を容認するわけがない。

だから教皇を頂点とするバチカンは、聖母マリアの教えと相対するサルヴィーニ氏がロザリオをかざして選挙運動をしたことに不快感をあらわにしたのである。

イタリアは国民の約70%がカトリック教徒とされるが、印象としてはほぼ100%が同教の信者、というのが住んでみての実感だ。9割以上の国民がカトリック教徒という統計も実際に多い。

そこでサルヴィーニ氏は信仰を よりどころに票獲得を企てたが、逆に信仰のシンボル的存在であるローマ教皇の返り討ちに遭った、というふうである。

日本人にはなじみが薄いローマ教皇をわかりやすく語るために、僕は敢えて沖縄に絡めて、沖縄の読者向けに次のような趣旨の文章を書いたことがある。

《ローマ教皇はカトリック教最高位の聖職者である。宗教的存在としての教皇は世界中に13億人程度いるカトリック教徒の精神的支柱だ。同時に彼は政治的な存在でもある。

政治的存在としてのローマ教皇は、われわれの住むこの世界で最も大きな影響力を持つ権力者の1人だ。

ローマ教皇の存在が、遠い極東の島国日本の、さらに外れに当たる沖縄にも影響を与え得る例を一つだけ挙げてみたい。

2011年、アメリカで起きた同時多発テロ事件は、米軍基地の多い沖縄もテロの標的になる可能性が高い、という風評を呼んで観光業に大打撃を与えた。

あの事件はイスラム過激派による反米闘争の一環として決行されたが、その前にはイスラム教とキリスト教のいがみ合いという何世紀にも渡る対立があり、それは現在でも続いている。

つまりひとことで言えば、もしもキリスト教世界とイスラム教世界が親和的な関係であったならば、イスラム過激派のテロは存在せず沖縄の観光産業が打撃を蒙ることもなかった。

そしてローマ教皇はその気になれば、2大宗教の対立に終止符を打つことも、このままま継続させることもできるほどの力を持つ大きな存在なのである。》


“風が吹けば桶屋が儲かる”的な論法に聞こえるかもしれない。が、ローマ教皇はあらゆる国や地域が密接に結びついて狭くなった世界で、一大勢力を持つカトリック教会のトップなのだ。

カトリック教最高位の聖職者たるローマ教皇は非世襲の終身職。コンクラーヴェと呼ばれる枢機卿団の構成員たちの互選投票で選ばれる。

そうしたことからローマ教皇を敢えて日本に例えて言うならば、万世一系の天皇ではなく、一大限りの天皇あるいは選挙で選出される天皇、と形容することもできる。

同盟のサルヴィーニ党首は、国民の圧倒的多数を占めるカトリック教徒に向けて「ロザリオと共に進もう!」と叫ぶことで、あるいはローマ教皇に挑もうと考えているのかもしれない。

極右系の政治家にありがちな彼の思い上がったやり方は、日本の安倍晋三首相が平成の天皇に逆らい、さらに即位したばかりの新天皇を篭絡しようとして躍起になっている、とされる姿にも重なるようだ。

僕は政治家のそうした動きには少しも驚かない。彼らはそうすることで自らの政治目標を達成しようとする。そして政治目標の達成こそが政治家にとっての正義だ。僕はサルヴィーニさんも安倍さんも支持しないが、彼らの飽くなき野心には感心するばかりである。


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