【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

ヤギ肉・羊肉料理

エーゲ海の島ヤギ・羊肉レシピ~ナクソス・パロス・ミコノス編

シェフ込み子羊子豚丸焼き650


2022年6月のギリシャ旅行でも恒例のヤギ・羊肉料理の食べ歩きをした。

一週間づつ滞在したパロス島とナクソス島では、いかにもギリシャの島々らしい美味しいヤギ・羊肉料理に出会った。

また乗り換え地として旅の終わりに短く滞在したミコノス島では、あっと驚く子羊のモツ料理に遭遇した。

子羊の内臓を腸に詰め込んで炭火でじっくりと炙り焼いたもので、レシピも味も強烈な印象を僕に与えた。

ミコノス島で行き合った激うまレシピを別にすれば、今回旅ではナクソス島のレストランの子羊の丸焼きがベストの味だった。

そのレストランは滞在した家とビーチの間にあった。歩いて1分もかからない。なにしろ家からビーチまではほんの50~60メートルしかなかったのだ。

地元の食材を使ったバラエティに富む料理を提供する店だった。キクラデス諸島で最も大きいナクソス島は、食料の自給自足ができるほどに豊穣な島だ。畜産も盛んで耕作地も山も多い。

店では毎日島産の子豚の丸焼きを提供し、週末には子羊の丸焼きを目玉にしていた。豚の丸焼きは絶妙の味がし、子羊のそれは食べ歩いた限りの島の全店の味を圧倒していた。

ヤギ・羊肉膳は、焼くよりも煮物の方が味に深みがありバラエティにも富む、というのが僕の意見だ。そして煮物は各店の秘伝のタレやスープで煮込まれるのが普通である。

タレやスープの味の違いの分だけ煮込みの数がある。つまり無限ということだ。

一方、肉を焼く場合には味付けは塩と胡椒が基本だ。下味を付けたりバターやタレを塗りこむ手法もあるが、そのやり方では素材の純度が薄れて目覚しい味にはならないようだ。

少なくとも僕が食べた焼きレシピの最上のものは、これまでは全て塩焼きばかりだ。胡椒にバラエティがありハーブなども使うが、基本は飽くまでも塩味である。

頻繁に通ったナクソス島の近場の店は、客からよく見える店内の一角に丸焼き用の釜をおいて、シェフが客の視線を受けながら調理をする。見た目にも食欲をそそる演出で繁盛していた。

パフォーマンスで客を楽しませる店は、見せ物にエネルギーを費やす分調理の力が削がれて味が落ちたりする。

だがその店には失策がなかった。無口で無骨な料理人は、人目などどこ吹く風というふうで肉焼きに集中していた。子豚の丸焼きも子羊肉と同じ手法で調理していてそちらの味も秀逸だった。

ナクソス島では子羊肉の煮物も食べた。ハズレはひとつもなかったが、先に触れたように家の隣の店の丸焼きにかなう味はなかった。同店は独自のソース煮も提供していたが、それも美味かった。

片やパロス島では、焼きレシピには一度も行き合わなかった。島内産のヤギ・子羊肉が豊富なナクソス島とは違って、丸焼きにする素材が少ないということもあるのかもしれない。

パロス島で印象深かったレシピは3点。

ひとつは漁港脇の店で食べた子羊肉のレモンソース煮込み。これは3年前にクレタ島で食べた子ヤギの煮込みによく似ていた。

味はきわめて良かったが、クレタ島の子ヤギのレモンソース煮込みは、これまでに僕が食べた中では1、2を争う味の一品だ。さすがにそれには及ばなかった。

肉の味もやや劣ったが、それを乗せているパスタがいけなかった。それはイタリア以外の国でよく見る茹で過ぎのたるいパスタで、僕は一口食べて文字通り匙を投げた。

ギリシャはイタリアのいわば隣国でパスタ人気も高いが、味は最悪の部類に入る。もっと不運だったのは、パスタの味が肉と全く調和していなかったこと。

肉とパスタがかみ合っていないのは、料理人が自分で食べてみればすぐに気がつくはずなのになぜ?といぶかるほど杜撰だった。

肉の味が悪くなかっただけにますます不思議に感じた。

それに比べてクレタ島のレモンソース煮込みには、白飯が添えられていてヤギ肉との相性が抜群に良かった。

2つ目は、うっそうと茂る木々が濃い影を作っている海際の食堂のエピソード。

店では影が一段と濃い大木の下のテーブル席に座った。するとすぐに年寄りの女性ウエイターが構ってくれた。

メニューに目を通しながら、潮気が皺に染み込んだような味わい深い顔のおばばウエイターとよもやま話をした。店の雰囲気の良さをほめ名物料理を聞いたりした。

テーブルから見える厨房で老人が炭火の世話をしていた。おばばウエイターにあの人がシェフかと聞くと、私がシェフで彼は私の夫、調理のアシスタント、と笑った。なんとおばばはオーナーシェフだったのだ。

オーナーシェフと敢えて言えば、瀟洒な店を想像されそうだが、大木も茂る広い庭付きの民家をレストランに改造した、という印象の店で、むしろ素朴でアットホームな雰囲気が強い。

僕は店と主人への敬意、また親しみを込めて、オーナーシェフをおばばシェフと呼ぶことに決めた。

「厨房に入っていなくてもいいのか」と給仕をするおばばシェフに聞くと、一緒に来なさいと店の中に誘われた。

追いて行くと、厨房の前のガラス棚の中に既に調理された膳部と仕込みの終わった食材が整然と並べられていた。

一日分のレシピをしっかり準備しておいて、できる限り客との接触も楽しむのだ、とおばばシェフは流暢な英語で語った。

シェフの得意料理だというムサカと肉団子、天ぷら風の揚げ物の3品に加えて、僕の目指す子羊の煮込みも頼んだ。

壷風の食器で供された子羊の煮込みは上等の味だった。先に頼んだ既述の3品も、おばばシェフ独自の工夫がてんこ盛りになっていて非常に美味だった。

3つ目はおばばの店の翌日。

島では最も山深いレストランに向かった。そこでの興味はひたすら子羊料理だった。山深い店には美味いヤギ・羊肉料理がある。これまでの経験がそう教えていた。

山の集落の入り口付近に子羊膳を提供している店があった。早速頼んだ。子羊のトマトソース煮込みに焼きジャガイモが添えられた一品が出てきた。

ここに書くくらいだから味が良かったのは言うまでもない。だが正直に言えば強烈に印象に残るほどのものではなく、普通以上に美味しい、というふうだった。

こうして見ると、今回旅ではミコノス島で出会った子羊モツの炙り焼きがやはり圧巻だった。その次に印象に残ったのが、ナクソス島の海際の、家から歩いてすぐの店の子羊の丸焼き。

旅ごとにまとめる、僕の独断と偏見によるヤギ・羊肉レシピのランク付けの1位と2位が、ソース煮込みではなくモツ焼きと子羊の丸焼きという「焼きレシピ」に収まったのは珍しい結果である。




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秘境のヤギ料理はチョー世界一の味がした

agora子ヤギ皿全体800pic
チヴィタ風カプレット(子ヤギ)煮込み


6月から7月初めにかけて滞在したカラブリア州では、いつものように地域グルメを満喫した。

今回の休暇でも、1日に少なくとも1回はレストランに出かけた。昼か夜のどちらかだが、初めの1週間はこれまた例によって1日に2度外食というのがほとんどだった。

だが時間が経つに連れて、美食また飽食に疲れて2度目を避けるようになったのも、再び「いつもの」成り行きだった。

海のリゾートなので食べ歩くレストランではまず魚介料理に目が行った。

海鮮のパスタは全く当たり外れがなく、全てが極上の味だった。

イタリアではそれが普通だ。パスタの味が悪いイタリアのレストランは「あり得ない」と断言してもいい。もしあるならそれはまともなレストランではない

イタリアにおけるレストランのレベルは、パスタを食べればすぐに分かる、というのが僕の持論である。

一方、魚そのものの料理の味わいは、いつも通りだと感じた。

つまり日本食以外の世界の魚料理の中では1、2を争う美味さだが、日本の魚料理には逆立ちしてもかなわない、という味である。

そんな訳で結局、魚介膳はパスタに集中することになった。

それに連れて、メインディッシュは肉料理が多くなった。

そこでもっとも印象に残ったのは、黒豚のロースト・秘伝ソース煮込みである。肉を切るのにナイフはいらず、フォークを押し当てるだけでやわらく崩れた。口に入れるととろりと舌にからんでたちまち溶けた。

芳醇な味わいと、甘い残り香がいつまでも口中に漂った。

黒豚皿全体800pic
黒豚のロースト秘伝タレ煮込み


肉料理に関してはさらに驚きの、全く予期しない出来事もあった。

なんと僕が追い求めているカプレット(子ヤギ肉)の煮込み料理に出会ったのだ。味も一級の上を行くほどの秀逸なレシピだった。

場所はカラブリア州コセンザ県の山中の町、チヴィタのレストランである。

チヴィタは15世紀頃にバルカン半島のアルバニアからイタリアに移り住んだ、「アルブレーシュ」と呼ばれる人々の集落である。アルブレーシュの集落がコセンツァ県には30箇所、カラブリア州全体では50箇所ほどあるとされる。

キリスト教のうちの正教徒であるアルブレーシュの人々は、彼らの故郷がイスラム教徒のオスマントルコに侵略されたことを嫌って、イタリア半島に移住した。

チヴィタは広大なポッリーノ国立自然公園内にある。よく知られた町でアルバニア系住民を語るときにはひんぱんに引き合いに出される。

アルブレーシュの人々は、むろん今はイタリア人である。彼らは差別を受けるのでもなければ、嫌われたりしているわけでもない。

イタリア人は、日本人を含む世界中の全ての国民同様に混血で成り立っている。

そのことをよく知り且つ多様性を誰よりも愛するイタリア人は、自らのルーツを忘れずに生き続けるアルブレーシュの人々を尊重し親しんでいる。

僕はそうした知識を持って滞在地から30キロほど離れた山中にあるチヴィタを訪ねた。

そこでチヴィタ独特のカプレット(子ヤギ)料理があると聞かされたのである。

それまでは「アルブレーシュ」の人々が、ヤギや羊肉料理に長けているとは思ってもみなかった。

僕はイタリアを含む地中海域の国々を訪ねる際には、いつもカプレットや子羊を含むヤギ&羊肉料理を食べ歩く。むろん他の料理も食べるが、ヤギや羊肉は地中海域独特の膳なので集中して探求するようになった。

初めは珍味どころか、ゲテモノの類いにさえ見えていたヤギ&羊肉膳は、最近ではすっかり僕の大好きな料理になっている。

以前はそれを見るさえいやだ、と怒っていた妻も、今では僕と同じか、あるいはさらに上を行くかもしれないほどのヤギ&羊肉料理愛好家になってしまった。

カラブリア州でも「ヤギ&羊肉を食べるぞ」計画を立てて乗り込んだが、海際のリゾート地にはそれらしい料理は見当たらなかった。

山中のチヴィタで初めて、思いがけなく出会ったのだ。

チヴィタで食べたカプレットの煮込みは、これまでに食べたヤギ&羊肉料理のなかでもトップクラスの味がした。

食べながら少し不思議な気がした。

ヤギや羊肉を好んで食べるのは、イスラム教徒を主体にする中東系の人々である。宗教上の理由で豚肉を避ける彼らは、自然にヤギや羊肉の調理法を発達させた。

アルバレーシュはキリスト教徒である。従ってイスラム教徒やユダヤ教徒、また中近東系のほとんどの人々のようにヤギや羊を好んでは食べない、と僕は無意識のうちに思い込んでいた。

だが思い返してみると実際には、地中海域のキリスト教徒もヤギや羊をよく食する。イスラム教徒の影響もあるだろうが、ヤギや羊は地中海地方のありふれた家畜だから、彼らも自然に食べるようになった、というのが歴史の真実だろう。

チヴィタでよく知られたレストランは、どこでもカプレット料理を提供していた。他のアルブレーシュの町や村でも同じだという。

アルブレーシュ風のヤギ・羊肉膳は、ソースやタレで和えた煮込みと焼き料理が主だが、肉を様々にアレンジしてパスタの具にする場合もある。

チヴィタでは日にちを変えて3件のレストランを訪ね、それぞれが工夫を凝らしたカプレット料理を堪能した。

また、滞在地から遠くない内陸の村にもアルブレーシュの女性が経営するレストランがあり、カプレット料理を出すことが分かった。チヴィタのレストランで得た情報である。

早速訪ねてカプレットの煮込みを食べてみた。そこの味も出色だった。

場所が近いのでもう一度訪ねて、今度はカプレットの炭火焼きに挑戦しようと思ったが、時間が足りずに叶わなかった。

そのレストランもチヴィタの店も、もう一度訪ねたい気持ちは山々だが、旅をしたい場所や国は多く、人生は短い。

果たして再び行き合えるかどうかは神のみぞ知るである。





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出前で食べた復活祭のハイライトごち



出前受け取り800


前記事「殺すことしかできない私からの輿子田女子への手紙」では触れなかったが、ことしの復活祭(4月5日)の定番Capretto(子ヤギ)料理は、レストランからの出前だった。

復活祭は毎年日付が変わる移動祝日。2020年の復活祭は4月12日だった。その頃イタリアは世界最悪のコロナ地獄の真っただ中にいた。

当時は息をひそめるようにして日々を過ごしていた。Capretto(子ヤギ)料理はほぼ毎年親戚や友人に招かれて食べる。

だが厳しいロックダウン中で人の往来は禁止。招待もない。

スーパーなどの食材店は営業していたので、素材を買って自宅で料理することは可能だった。だがそんな気分にはなれなかった。

羊肉&ヤギ料理は難しい。何度か試みたが未だに満足できる仕上がりにならない。だからこそそれをうまく扱う親戚宅や友人宅での食事を楽しむ。

家で調理をする気が起きなかったのはそれだけではない。前例のないコロナ恐慌の中では、敢えて珍味を求める食欲も皆無だった。

そうやって僕は昨年、ほぼ30年ぶりにCapretto(子ヤギ)料理を食べない復活祭を過ごしたのだった。

およそ1年後の、昨今のイタリアは、相変わらず新型コロナに苦しめられている。ワクチン接種が始まって希望は見えているが、供給量が不足して普及が思うように進まない。

そのために人の動きが激しくなる復活祭期間中の4月3日から5日までは、昨年と同じように全土にロックダウンが敷かれると早くから決まっていた。

そこでわが家でも、前もって復活祭の名物料理をレストランに出前してもらおうと決めた。それもまた生まれてはじめての体験だった。


caprettoポレンタ出前アルミ箱800


イタリアでは全土ロックダウンが始まった昨年から出前ビジネスが繁盛している。ロックダウンが解除されてもパンデミックは続き、飲食業は閉鎖や営業短縮を強いられている。

そんな中で出前だけはほぼ常に営業を許された。だから仕出しビジネスが拡大した。先日は出前の配達員を冷遇しているとして、ミラノの飲食業組合が告発された。

配達員はアフリカや中東からの移民が多い。飲食業界は移民の弱みにつけこんで彼らを搾取している、と批判されたのである。

出前によってレストランは潤い失業者が職を得る利点が生まれる。同時にほぼ決まって、欲に目がくらむ者が生み出す不都合も発生する。

アルバイトの大学生がわが家に届けてくれた出前は、梱包も中身も予想以上にちゃんとしたものだった。

肉のオーブン焼きには、北イタリアらしく、トウモロコシをすりつぶしたポレンタが添えられていた。

味は上の中というところ。いや、オーブン焼きであることを考慮に入れれば、最高級の部類の味と言ってもよかった。

僕の独断と偏見では、ヤギまた羊肉料理は煮込みにしたほうがまろやかで深い味になる。

だがイタリア語でumido(湿り気=煮込み)と通称されるヤギ及び羊肉の「煮物」は、わが家のあたりではあまり見られない。

炭火焼きやオーブン焼きがほとんどだ。

焼き物(=煮物ではない)、というハンディキャップを抱えてのヤギ料理としては、非常に得点が高いものだった。



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殺すことしかできない私からの輿子田女子への手紙

中ヨリ&UP合成800


輿子田さん


ことし、2021年4月4日の復活祭でも、子ヤギの肉を食べる罪を犯しました。あなたに責められても仕方がないと思います。

ただし私があなたの批判を甘んじて受けるのは、あなたが考えるような意味ではありません。私は子ヤギという愛くるしい動物の肉を食らった自分を悪とは考えません。

その行為によって、感じやすいやさしい心を持ったあなたの情意を傷つけたことを、心苦しく思うだけです。

私たちが食べる肉とは動物の死骸のことです。野菜とは植物の死体です。果物は植物の体の一部を切断したいわば肉片のようなものです。

私たち人間はあらゆる生物を殺して、それを食べて生きています。菜食主義者のあなたは動物を殺してはいませんが、植物は殺しています。

動物は赤い熱い血を持ち、動き、殺されまいとして逃げ、殺される瞬間には悲痛な泣き声をあげます。だから私たちは彼らを殺すことが怖い。

植物は血液を持たず、動かず、殺されても泣かず、私たちのなすがままにされて黙って運命を受け入れています。

彼らは傷つけられても殺されても痛みを覚えない。なぜなら血も流れず、逃げもせず、悲鳴も上げないから。だから私たちは彼らを殺しても、殺したという実感がない。

でも、私たちのその思い込みは本当に正しいのでしょうか?

私たち動物も植物も、炭素を主体にした化合物 、つまり有機化合物と水を基礎にして存在する生命形態です。

動物と植物の命の根源や発祥は共通なのです。だから私たち動物は植物と同じ「生物」と呼ばれ、そう規定されます。

同時に動物と植物の間には、前述の違いを含む多くの見た目と機能の違いがあります。私たちは、動物が持つ痛みや苦しみや恐怖への感覚が植物にはないと考えています。

しかし、その証拠はありません。私たちは、植物が私たちに知覚できる形での痛みや苦しみや恐怖の表出をしないので、今のところはそれは存在しない、と勝手に思い込んでいるだけです。

だがもしかすると、植物も私たちが知らない血を流し(樹液が彼らの血にあたるのかもしれません)、私たちが気づかない痛みの表現を持ち、私たちが知覚できない悲鳴を上げているのかもしれません。

私たち人間は膨大な事物や事案についてよくわかっていません。人間は知恵も知識もありますが、同時に知恵にも知識にも限界があります。

そしてその限界、あるいは無知の領域は、私たちが知るほどに広がっていきます。つまり私たちの「知の輪」が広がるごとに円周まわりの未知の領域も広がります。

知るとは言葉を替えれば、無知の世界の拡大でもあるのです。

そんな小さな私たちは、決して傲慢になってはならない。植物には動物にある感覚はない、と断定してはならない。私たちは無知ゆえに彼らの感覚が理解できないだけかもしれないのですから。

そのことが今後、私たちの知の進化によって解明できても、しかし、私たちは私たち以外の生命を殺すことを止めることはできません。

なぜなら私たち人間は、自らの体内で生きる糧を生み出す植物とは違い、私たち以外の生物を殺して食べることでしか生命を維持できません。

人が生きるとは殺すことなのです。

だから私は子ヤギの肉を食べることを悪とは考えません。強いて言うならばそれは殺すことしかできない「人間の業」です。子ヤギを食らうのも野菜サラダを食べるのも同じ業なのです。

それでも私は子ヤギを憐れむあなたの優しい心を責めたりはしません。その優しさは、私たち人間の持つ残虐性を思い起こさせる、大切な心の装置なのですから。





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ギリシャ・エーゲ海の島々の食日記~番外編



Local子羊650


ギリシャ・エーゲ海の島々の中でも最大、且つ最南端のクレタ島は、肉料理が豊富である。島でありながら肉料理が発達したのは、アラブ人の襲撃を恐れた古代の人々が海から遠い内陸部に住まいを定めたからだ。

ドデカネス諸島のうちの小さなレロス島では、豊富な魚介料理に出会った。その中では日本の刺身に影響された「刺身マリネ」の一生懸命さが印象的だった。

島が大きいほど肉料理が発達しているように見えるのは、陸地が広い分野生の動物も多い、というのが理由なのだろう。狩の獲物が増えればレシピも多様化する。

また家畜の場合でも、土地が潤沢なほど牧草や飼料が充溢するから飼育が盛んに行われる。そうやってまたレシピが充実する、という当たり前の状況もあるに違いない。

数年前に滞在した同じギリシャのロードス島には、肉料理と魚介料理がほぼ似通った割合で存在し、レシピも盛りだくさんで、味もとても良かった。

ロードス島はギリシャ国内4番目の広さの島。大きくもなく小さくもない規模。あるいは大きいとも小さいとも言える島。そのせいで料理も肉と魚が満載、というところか。

10年程度をかけて中東や北アフリカを含む地中海域を旅する、という僕の計画はイスラム過激派のテロのおかげで頓挫した。そこに新型コロナが加わってさらに状況が悪くなった。

僕は命知らずの勇気ある男ではないので、テロや誘拐や暴力の絶えない地域を旅するのは御免である。また新型コロナ禍中での旅もぞっとしない。

だが来年以降は、たとえコロナワクチンが開発されなくても少しづつ旅を再開しようと思う。ここまでの体験で、感染防止策を徹底すれば旅先でも大丈夫ではないか、と考えるようになっている。

しかし、ワクチンがない場合には、僕の地中海紀行は来年以降もギリシャを中心に回る腹づもり。アラブまた北アフリカの国々は、「将来機会がある場合のみ訪ね歩く」ときっぱり割り切っている。

その際の食の探訪のひとつは、アラブ圏で大いに楽しもうと考えていた、ヤギ&子ヤギまた羊肉料理をしっかりとメジャーに据えて、食べ歩くことである。

これまでにトルコでもギリシャのクレタ島でもドデカネス諸島でも、はたまたスペインのカナリア諸島でも、ヤギ&羊料理は目に付く限り食べ、目に付かない場合も探して食べ歩いた。

また、テロが横行していなかった頃のチュニジアでも同じ料理を求めた。そうした中での驚きは、なんと言っても昨年のクレタ島。ヤギ&羊肉料理の豊富と美味しさに魅了された。

そこで食べられるのは家畜化された普通のヤギ&羊肉。その一方でクレタ島には、クリクリと呼ばれる原始的な野生ヤギが生息していて、島のシンボルとして大切にされている。

クリクリ種の野生ヤギは絶滅危惧種。保護されていて食べることはおろか捕獲も厳禁だが、島人にはクリクリヤギへの特別な思い入れがあるようだ。

クレタ島は四国の半分弱ほどの大きさの島。見方にもよるだろうが決して小さくはない。そこでの僕のこれまでのヤギ料理食べ歩きは、島の第2の都市ハニア郊外にあるリゾートの周辺域のみだ。

そこだけでも多様で目覚ましいヤギ&羊肉料理に出会った。島全体を巡り歩けばさらに豊かなレシピに出会えるに違いない。

世界には一生かけても訪ねきれない素敵な場所がゴマンとある。そこも旅したいが、クレタ島のヤギ料理探訪も中々捨てがたいのである。


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珍味のトリセツ



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~珍味のトリセツ~

新型コロナの影も形もなかった2019年9月、ギリシャのクレタ島に遊んでヤギ料理を堪能した。
 
クレタ島のシンボルはヤギである。ヤギはヤギでもこの島だけに生息するクリクリ種という野生のヤギ。絶滅危惧種で厳重に保護され食べることはもちろん捕獲も禁止されている。島で食べられるのはクリクリ種とは別の家畜化された普通のヤギである。
 
西洋ではヤギは1万1千年ほど前にトルコ、イラク、キプロスなどで家畜化され、およそ9千年前に家畜法と共にクレタ島にも伝わった。そこから欧州全体に広まるのにあまり時間はかからなかった。

一方クリクリ種のヤギは家畜化される前の野生ヤギの特徴を保持しているとされ、その姿がデザイン化されて島の役場や観光業界の文書、またヤギ料理を提供するレストランなどのエンブレムとしても用いられている。

原始的な不思議なその動物は、食べることはできないが島人に大いに愛されているのである。

クリクリヤギは過去に乱獲されて数が激減した。乱獲のエピソードで有名なのは、ナチスドイツに抵抗するギリシャ・パルチザンの男たちの物語。彼らは山に潜んでナチスと闘争を展開した際、ほとんど何も食べるものがなかったためにクリクリヤギを捕らえて食べては命をつないだ。

そのときの乱獲も大きくたたってクリクリヤギは絶滅の危機にひんしている。

片や食用になる家畜のヤギは島には非常に多い。羊も多い。当然ヤギ肉や羊肉料理もよく食べられる。レシピも多彩だ。味も抜群に良い。
 
クレタ島のヤギ料理は煮込みと炭火焼きが主体。ワインやハーブやオリーブ油などで作った独特のタレで味付けをする。タレはそれぞれの家庭やレストラン秘伝のものも多い。

あらゆるタレは肉の臭みを消すと同時に素材に芳醇な味わいを加えるのが主眼。個性的で斬新で美味なケースが少なくない。

その点、初めて食する人に肉の臭みが敬遠されることもある、例えば沖縄諸島のヤギ料理などとはかなり趣が違う。

もっとも沖縄諸島のヤギ料理の場合は、肉の臭みを敢えて風味と見なしてそれを売りにすることで、少数の熱狂的な愛好家に支持されているらしいから、それはそれで面白い。





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クレタ島ヤギ料理列伝



看板&メニュー合成1000


ギリシャのクレタ島のシンボルはヤギである。ヤギは1万1千年ほど前に中近東域で家畜化され、やがてギリシャにも伝わった。クレタ島には家畜化される前の原始的な生態を保持する、クリクリ種という固有の野生ヤギが生息している。

島のシンボルにもなっているクリクリ種のヤギは絶滅危惧種。厳格に保護されていて、食用にすることはもちろん捕獲もできない。だが島にはクリクリ種とは関係のない家畜化された普通のヤギも多い。

家畜のヤギは、これまた島にたくさんいる羊と共に食肉処理されて大いに食卓にのぼる。レストランでもヤギや羊肉のレシピは豊富だ。冒頭の写真に見るようなヤギのエンブレムが目印の専門店もよく見かける。

新型コロナの影も形もなかった2019年9月、クレタ島に遊んでヤギ・羊肉料理(以下ヤギ料理に統一)を堪能した。滞在中はほぼ毎日、昼か夜に必ずヤギ料理を食べた。

きわめて美味い店が多かったが、観光客を相手にする店ではその逆のレシピも結構あった。そこで滞在中に出会ったヤギ料理について、味の良かった膳と逆のそれをランク順に書いておくことにした。

良い味のレシピは最高ランクから下へ。悪いほうも同じ。最後が最悪の味、という趣向である。

最高の味はヤギ肉ライス。

山羊ライス皿全体ショット650


一日遠出をした海際のレストランで出会った。品の良さとは縁のないこのシンプルな見た目のヤギ肉煮込みには、ミノア文明を生み出したクレタ島の人々の、数え切れないほどの試行と錯誤と、また錯誤と試行を繰り返した歴史のエッセンスが詰まっている、というほどの絶妙な味わいの一品だった。創意工夫の究極の賜物。

タレの主役は品書きにあったレモンのようだ。むろんそれに店特有のハーブやワインやリキュールやetc,etcの「秘密の品々」が加えられているのは間違いない。「(企業)秘密の品々」が、各店の味の違いを生む。ここで使われるのは体重10~15キロのヤギの肉。子ヤギの部類に入るが肉の臭みはもう一人前。その臭みを芳醇な味わいに変えるのがシェフの腕の見せどころだ。ヨーロッパでは珍しい白米との相性も新鮮だった。が、ライスがほとんど余計な気遣いに思えるほどヤギ煮込みそのものの味が秀逸だった。

第2位は週末だけ子羊の丸焼きを提供する店のひと皿。

肉中ヨリ650


少し内陸部にあるので観光客が少ないところがミソ、と思ったが期待に違わなかった。ヤギ・羊肉は、煮込みレシピのほうがバラエティー豊富で、味の深みもある。一方、焼きレシピは単調な味が多い。この店の丸焼きは数少ない例外。出色の味わいがあった。

絶妙な味は秘伝のタレを塗って出していると思うが、使うのは塩だけという意外な可能性もある。薪にしろ炭にしろ、焼いてこれだけの「違いのある味」を出すのは至難の業。イタリア・サルデーニャ島に塩だけを使って(薪の)熾火で骨付きの成獣羊肉を焼く店がある。僕はそれを独断と偏見で世界一の「❛成獣❜羊肉膳」、と勝手に決めつけているが、このひと皿は、「焼き」羊肉としてはサルデーニャの店に肉薄するくらいの目覚ましい味がした。

続いての一品は肉の炙り焼きを見世物にしているレストランのひと皿。

ラムシチュー+ポテト引きヨリ650


伝統のタレで煮込んだ一品。タレの素材は分からないが、店独自の要素を白ワインとからめて煮込んだものだろうと思う。デリケートな柔らかさに煮込まれた肉は、ヤギ・羊肉の味わいある「匂い」ではなく、「芳香」の域にまで達していた。添えられたポテトとの相性も秀逸。店は紹介で訪れた「クレタ島伝統食レストラン」の一つ。この一品の味は一級のさらに上のあたり。 ただし日をあらためて食べた同じレストランの見世物の炙り焼きは、この一品とは別物だった。それは残念ながら後編に組み入れることにした。

最後はホテルの紹介で訪れた少し内陸部の店のひと皿。

皿全体650


客層は地元民と移住英国人が主体だった。肉は焼いたように見えるが、実は煮込み料理。これもまた店一流の深い味が出た一品。タレは地元ワインとオニオンが中心らしい。料理レポートを書いても舌の味は伝わらない。実際に食べてみるしかない。このひと皿は見た目も上品だった。ヤギ・羊肉が嫌いな女性もトライしやすいだろう。食べたら必ずヤギ・羊肉ファンになること請け合いの一品。

ヤギ・羊肉料理の美味い店のメニューには、この店がやっているように「オイル(だいたいオリーブ油)、オニオン、ワィン煮込み」などと説明されている場合が多い。だが素材を3種も明かしているのは珍しい方。レモン煮込みとかワイン煮込みなど、素材の数を少なく示して、店の秘伝のタレの中身をできるだけ明かさないようにしているのが普通である。




ここからは逆に、やや不作味のヤギ・羊肉膳から、まったく不作味の品々までを記しておきたい。

前編に記した肉の炙り焼きを見世物にしている店のひと皿。

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店には2種類のヤギ肉レシピがある。伝統手法で煮込んだとされる前述のヤギ肉は極めて美味だったが、こちらの一品は、料理中の肉の美味そうな見た目とは違って少しも味わいがなかった。焼かれた肉とトマトソースが主体のタレの相性が悪いと感じた。店の外に設えられた肉炙り焼き機は風情があって面白かった。料理は見た目もご馳走の一つ、と考えれば前編の味の良いレシピランクのビリに入れても良かったが、やはりためらいが残った。

これは子羊のすね肉の煮込み。

合成800


大量のチーズ、トマト、ごった煮野菜、ジャガイモなどの下に隠されていた主役の子羊のすね肉が右の絵。大量具材は肉の味を良くするつもりの創作だろうが、肉そのものの味を高めるのではなく、「夾雑物」の食材で誤魔化そうとしているから不味いばかりではなく品も落ちる。シンプルにすね肉だけを表に出し、付け合わせもポテト一品などに単純化すれば、一級の料理になる筈なのに。。

ひたすら大量・てんこ盛りの食皿を好む北欧人やバルカン半島人など、その地に非常に多かった観光客に媚びると、こんなつまらない料理が出来上がるということなのかもしれない。観光地の悲哀。

その一方で同じ「子羊のすね肉煮込み」は、実は僕はイタリアで何度も「絶品級」の味に出会っている。たとえばこんなふうに骨付きのまま煮込んだ一品。

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ヤギ料理の美味いものはほとんど常に店の秘伝のタレで煮込んだシンプルなレシピだ。イタリアの店のひと皿もそうだ。余計な食材をトッピングすると、ほぼ間違いなく肉の貧しさをごまかそうとする作業と同じになって、シェフの意図するところとは逆の印象の味になる。


続いての崖っぷちレシピは「羊肉のパン生地包み焼き」。

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見た目は美しいLamb肉煮込み。薄いパン生地で包んでいる。花に見立てたふわりとした外観は上品でオイシそうだったが、味は最後に掲載するLamb肉パイとどっこいどっこいの最悪味。

開封中身800


すっぱい味がしたのは、定番の大量具材にヨーグルトが混じっていたからだと思うが、それはLamb肉とは全く相性がよくない。北欧&バルカン半島系テイストの大味・残念レシピ。これを美味そう、と感じる人は、食べてもやっぱりオイシイとつぶやくのだろうか。僕はひと口食べてフォークを置いた。大げさではなく、オエッとなりそうな味だった。約2000円強を丸々捨てたことになるが、惜しいとは思わなかった。不味い料理がなくては美味しい料理の良さは分からない。勉強と思えば2000円は安い。

最後に最悪味の羊肉パイ。

ピザ生地包み焼き800


こちらも見た目はとても美味しそうだが、中身はあらゆる具材がぐちゃぐちゃに入り混じった地獄レシピ。すっかり忘れていたが、食べたその場で書いておく僕の一口メモの備忘録には、この料理は前の一品「羊肉パン生地包み焼き」とともに❛~ンコ飯❜と記されていた。

ヤギ・羊肉の炙り&焼きレシピは何度も書いているように難しい。味が単調になり勝ちだ。だが出色のものは非常に美味い。一方、各店またシェフの秘伝のタレで煮込むヤギ・羊肉膳はバラエティーに富んでいて味も良く深みがある。ワインで言えば「焼きヤギ・羊肉」は白ワイン。「ヤギ・羊肉煮込み」は赤ワイン。前者は選択肢が狭く後者は限りなく広い。味も同じ。。と思う。


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ヤギ食えばおのこが立つかも島の宿


則料理ヨリ800


子ヤギ肉と成獣肉

先日、例によってイタリア・サルデーニャ島で子羊及び子ヤギ料理を探し求めていた筆者は、これまで味わった中では最も美味い羊の「成獣肉」膳に出会いました。子羊肉は中東や欧州ではありふれた食材ですが成獣肉のレシピはまれです。

筆者がヤギや羊肉料理(以下ヤギ肉に統一)にこだわるのは、単純にその料理が美味くて好き、というのがまず第一ですが、自分の中に故郷の沖縄へのノスタルジーがあるせいかも、と考えないでもありません。

沖縄の島々ではヤギ肉が食べられます。筆者が子供の頃は、それは貴重な従って高級な食材でしたので、豚肉と同様にあまり食べることはできませんでした。たまに食べるとひどく美味しいと感じました。

島々が昔よりは豊かになった今は、帰郷の際にはその気になればいくらでも食べることができます。が、昔のように美味いとは感じなくなりました。料理法が単調で肉が大味だからです。

ところがここイタリアを含む欧州や地中海域で料理される“子ヤギの肉”は、柔らかく上品な味がしてバラエティーにも富んでいます。ヤギ肉独特のにおいもありません。

貧困ゆえの食習慣

沖縄では子ヤギは食べません。成獣のみを食べます。子ヤギを食べないのは貧困ゆえの昔の慣習の名残りだろう、と筆者は勝手に推測しています。

小さなヤギは、大きく育ててから食肉処理をするほうがより多くの人の空腹を満たす食材になります。ですから島の古人は、子ヤギを食べるなどという「贅沢」には思いいたらなかったのです。

ヤギの成獣には独特のにおいがあります。それは多くの人にとっては不快な臭気です。だが臭気よりは空腹の方がはるかに深刻な問題です。それなので貧しい島人たちは喜んでヤギ肉を食べました。

食べるうちに人は臭みに慣れていきます。やがて臭みは臭みではなくなって食材の個性になります。さらに食べると、むしろ臭みがないと物足りない、というところまで味覚が変化していきます。それが島々のヤギ料理です。 

筆者の遠い記憶の中には、貧しかった島での、ヤギ肉のほのかなイメージがあります。たまにしか口にできなかったその料理のにおいは臭みではなく、「風味」だったのだと思います。

その風味は、筆者の中では今は成獣肉のそれではなく「子ヤギ肉の風味」に置き換えられています。つまりここイタリアを含む地中海域の国々で食べる「子ヤギ」肉の味と香りなのです。

子ヤギの肉にはヤギの成獣の肉の臭みはありません。肉の香ばしさだけがあります。食肉処理される子ヤギとは、基本的には草を噛(は)む前の小さな生き物だからです。

成獣肉の行方

筆者が知る限り、ここイタリアではヤギの成獣の肉は食べません。羊も同じ。牧童家や田舎の貧しい家庭などではもちろん食されているとは思いますが、市場には出回りません。臭みが強すぎるからです。

しかし、スペインのカナリア諸島では、筆者は一級品のヤギの成獣の肉料理を食べた経験があります。それにはヤギの臭みはなく肉もまろやかでした。秘伝を尽くして臭いを処理し調理しているのです。

トルコのイスタンブールでも、羊の成獣の肉らしい美味い一品に出会いました。その店はカナリア諸島のように「成獣の肉」と表立って説明してはいませんでしたが、風味がほんのりと子羊とは違っていました。

子ヤギや子羊肉を伝統的に食する文化圏の国々には、そんな具合に成獣の肉をうまく調理する技術が存在します。イタリアでも隠れた田舎あたりではおそらくそうなのだろう、と筆者が憶測するゆえんです。

人工処理

実は「レシピ深化追求」の歴史がなくともヤギの臭みをきれいに消すことはできます。そういう料理に筆者はなんとヤギ食文化「事件」当事者の沖縄で出会ったのです。ほんの数年前のことです。

ヤギ料理をブランド化し観光客にもアピールしよう、という趣旨で自治体がレストランに要請して、各シェフに新しいヤギ料理を考案してもらい、それを試食する会が那覇市内のホテルで開かれました。

たまたま帰郷していた筆者もそこに招待されました。びっくりするほど多彩なヤギ料理が提供されていました。どれも見た目がきれいで食欲をそそられます。

食べてみるとヤギ肉独特の臭みがまったくと言っていいほどありません。まずそのことにおどろかされました。だが味はどれもこれもフランス料理の、ま、いわば「二流レシピの味のレベル」という具合でした。

どの料理もシャレていて美しいのですが、味にあまり個性がない。ヤギ肉の臭みを消す多くの工夫がなされる時間の中で、肉の風味や個性も消されてしまった、とでもいうふうでした。

多くの場合、島々の素朴を希求して訪れる観光客に、それらのヤギ肉料理が果たして好まれるだろうか、と筆者はすぐに疑問を持ちました。

それらは全て美しくまとまり味がこってりとしていて、ひと言でいえば洗練されています。でもなにかが違います。いかにも「作り物」という印象で、島々の素朴な風情と折り合いがつかない。居心地がわるいのです。

女性が食の流行をつくる

言葉を替えれば、この飽食の時代に、ほとんどの日本人にとっては新奇、もっといえばゲテモノ風のヤギ肉料理が、はたして食欲をそそる魅力を持っているかどうか、という根本の疑念が筆者にはありました。

さらにいえば、それらの料理が女性の目に魅力的に映るかどうか、ということも気になりました。食の流行はほとんどの場合、女性に好まれたときに起きます。

それらの料理の「見た目の美しさ」はきっと、特に女性に好感をもたれるでしょう。だが、そもそもヤギ肉という素材自体には魅力を感じない女性の「嫌気」はどうするのか、という疑問がどうしても消えません。

肉の臭みが取れても、「ヤギは癒し系の動物」というイメージも食欲のジャマをしそうです。もっともヤギに限らず、全ての家畜とほとんどの野生動物は癒し系だと思いますが。

そうした疑念を吹き飛ばすほどの訴求力が、それらのヤギ料理にあるとは思えませんでした。案の定それ以後、披露された新しいヤギ料理が、島で流行ったり観光客の評判になった、という話は聞きません。

ヤギ肉料理喧伝法

ちょっと大げさに言えばヤギ肉料理を流行させる秘策が筆者にはあります。それは前述とは逆に、女性に嫌われるかたちでのヤギ肉料理のありかたです。つまりヤギ肉の持つ特徴を科学的に解明して、それを徹底的に宣伝し売り込む方法です。

ヤギ肉には精力増進作用があるといわれます。ならばその精力を、ズバリ「性力」と置き換えても構わないような、ほのかな徴(しるし)が肉の成分に含まれてはいないか。もしそれがあればシメたものです。

ヤギ肉を食べれば男の機能が高まる、精力絶倫になる、バイアグラならぬヤギアグラを食して元気になろう!などと喧伝すればいい。

もしもそれが露骨すぎるというのなら、少しトーンを落として「ヤギ肉を食べれば活力が生まれる」ヤギ肉はいわば「若返り薬」だ、などと主張してもいい。

もちろん女性にも好感を持ってもらえるような特徴的な成分がヤギ肉に含まれているのなら、そこを強調すればさらに良い。

たとえば、やはり「若返り作用」の一環で肌がみずみずしくなる、シミなどを抑える。あるいは牛肉や豚肉などと比較するとダイエットに良い効果が期待できる、など、優れた点を徹底的に探して喧伝するのです。

料理の見た目や味やレシピではなく、ヤギ肉が持つ他の食材とは違う「根本的な特徴」というものでも発見しない限り、ヤギ肉料理が日本で大向こう受けするのはきわめて難しいように思います。

それならばいっそ、今のまま、つまり昔からある料理法のままで、「珍味」が好きな少数の観光客に大いに喜んでもらえる努力をしたほうが良いのではないか。要するに薄利多売ではなく、「臭み」という希少価値を売り物にする元々の島ヤギ料理の商法です。



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クレタ島のごちそうLAMB 



LAMB焙り焼き
ヤギ肉炙り焼き


クレタ島は羊よりもヤギの多い島である。野生ヤギの一種kri-kri(クリクリ)の生息地でもある。むろんヤギ肉料理も豊富だ。

今回旅では、「クレタ島伝統食」レストランあるいは「ギリシャ伝統食」食堂と銘打つ幾つもの店で、実に美味いヤギ及び羊肉料理(以下:ヤギ・羊肉料理)に出会った。

しかもそんな伝統料理店は至るところにあって、英語の子羊即ちLAMB(ラム)料理という触れ込みで提供されるケースがほとんどだ。

子羊のそれほどほどひんぱんではないが、ヤギ料理もこれまた多くの店で普通に目にすることができる。

そしてもっとも肝心なことは、それらの店で食べるヤギ・羊肉料理は、ほぼ間違いなく美味い、という事実だ。

ヤギ・羊肉料理以外の肉料理はイタリアで大いに食べている。またギリシャには肉の串焼きスブラギやギロスといった独特の肉料理もあり、むろんそれらも食する。

だがギリシャの普通の肉料理は、一度味見をしてしまうと正直繰り返して食べたいとは思わない。イタリア料理を超えるほどの味ではないのだ。

そのせいもあってギリシャ、特にクレタ島ではヤギ・羊肉レシピに目が行きやすい。それらの料理は魅力的だ。何しろ長い歴史の中で試行錯誤されて完成したレシピがほとんどだから興味はつきない。

クレタ島のソウルフードは肉料理だ。島なのに魚料理がコアにならなかったのは、島が外敵の侵略にさらされ続けて、住民が内奥の山々に逃げ込みそこに居ついたからだ。

地中海にあって、アラブまたイスラム教徒と欧州の対立の矢面に立たされたのが、クレタ島やイタリアのサルデーニャ島などに代表される島々なのだ。

肉料理の中でもヤギ・羊肉膳が多く発達したのは、島に侵入したイスラム教徒の影響も大きい。豚肉を食べない彼らはヤギ・羊肉を好んで食べる。

近年急激に発達した観光業のおかげで、クレタ島の魚料理もかなり発展した。伝統的なタコ料理のほかにもいろいろ旨い魚介膳が提供される。

そうした点もイタリアのサルデーニャ島に似ている。サルデーニャ島の魚介膳はイタリア本土由来のレシピが主で、イタメシだけに味が極めて良い。

クレタ島の場合も、押し寄せる観光客のうちの舌の肥えた人々に合わせるために、海鮮料理が大きく前進した。今では伝統の肉料理に匹敵するほどの味のレシピも多い。

だがそうした魚料理も、ヤギ・羊肉以外の肉料理と同じで、あまり僕の気持ちをひきつけない。日本料理の魚介膳を知っているからだ。それは実はイタメシの場合も同じ。

イタメシの魚介のパスタは秀逸だが、魚介そのものの味付けは逆立ちしても日本料理にかなわない、というのが僕の独断と偏見による今のところの結論だ。

申し訳ないが、クレタ島を含むギリシャの海鮮料理の味はイタリアのそれの後塵を拝している。従ってそれは、イタメシに輪をかけて僕の食欲をそそらない部類のレシピに入る。

牛肉、豚肉、鶏肉料理なども、ギリシャよりもイタリアの方が魅力的だ。決してギリシャ料理が不味いのではない。それどころかギリシャ料理は、僕の中では世界で5番目に美味しい調理だ。

再び僕の独断と偏見による世界料理のランク付けは、美味しい順に日伊中華トルコ、続いてギリシャだ。フランスやスペインよりもギリシャが上位にあるのだ。

クレタ島には北欧人やバルカン半島の旧共産主義国の人々も多くバカンスに訪れる。彼らを意識した料理も極めて多い。それらは残念ながら驚くほど美味いとは言えない。

そうしたレシピの特徴は、超大盛皿、素材のゴッタ混ぜ、大味、強いバター臭などに象徴される劣悪テイストである。ギリシャ伝統の自然たっぷりの食味がぶち壊されたものがほとんどだ。

そうした中で、ほぼ100%美味しいのがヤギ・羊肉料理、と言いたいところだが、観光客向けのメニューを中核にしている店では、ヤギ・羊肉料理にも盛りだくさんの素材を加算して、本来のそれの味を損ねているものが多い。

ヤギ・羊肉膳の場合は、煮込みにしろオーブン焼きにしろスモークや炙り煮また丸焼きにしろ、肉の臭みを取るためのハーブやワインや独自の素材のほかには、何も加えないシンプルな仕上げの方が間違いなく美味い、と思うのである。


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またもや世界一美味いヤギ料理に出会った



サフラン煮込みヤギ肉800
ヤギ成獣肉のサフラン煮込み


2019年6月、イタリア・サルデーニャ島でバカンスを過ごした。前年と合わせて2年連続での同島への休暇旅になった。自然が豊かなサルデーニャ島では、名所旧跡巡りよりもビーチで過ごす時間や食ベ歩きが主な楽しみになる。

サルデーニャ島の、いわばソウルフードともいうべき深みのある郷土食また伝統食は、肉料理である。島でありながら魚料理よりも肉料理が充実したのは、外敵の侵略にさらされ続けた島人が、内陸部に逃げ込んで定住した歴史があるからだ。

島の肉料理の素材は、豚・牛・鶏・羊・山羊・馬・猪・鹿・驢馬等々である。驢馬を別にすればそれらの食材は欧州ではありふれたものだ。また驢馬肉はサルデーニャ島でも珍しい部類の食品。ひんぱんには見られない。

サルデーニャ島の有名肉料理にポルケッタ(島語ではporceddu=ポルチェッドゥ)がある。子豚の丸焼きである。乳飲み子豚が最高級品とされる。また牛、豚、羊、ヤギなどは肉以外の内臓や器官もよく食べられる。ポルケッタを別にすれば、僕は島のヤギ及び羊料理が好きである。

牧羊が盛んな島なのでヤギ肉や羊肉(以下=ヤギ・羊肉)も良く食べられているが、豚や牛や鶏肉などに比較すると目立たない。通常食材の豚・牛・鶏肉が多く食べられるのは、島が「イタリア本土化」し、経済的に豊かになったからである。かつては ヤギ・羊肉 は島の食文化の中心にあった。

島の「イタリア本土化」つまり島の近代化は、魚介料理の発達ももたらした。魚料理は昔からもちろん島にはあった。だが現在の豊富な魚介膳は、イタリア本土の金持ちバカンス客らによって導入された側面が大きい。そしてリゾート地としての同島の中心食は、今や海鮮料理である。

四方が海の島だけにサルデーニャの海産物は新鮮だ。新鮮であれば魚介は何でも既に美味い。刺身が美味なのがその証拠だ。そこにさらに、本土由来の豊穣なイタリア料理のレシピが導入されたのだから、島の魚介膳が飛躍的に発展したのもうなずける。

特に魚介を使ったパスタは今では、イタリア全国でも屈指の美味さを誇るほどになった。僕は島ではいつものように肉料理、中でもヤギ・羊肉料理を探し求めたが、同時に魚料理も積極的に食べた。ただ魚料理といってもメインコースではなく、魚介パスタのファーストコースが主だった。

今回旅ではアサリとボッタルガ(カラスミの一種)をはじめとする、ミックス魚介のパスタに見るべきものが多くあった。秀逸な具材の組み合わせと味付けは、舌の肥えたバカンス客を相手にすることが多い、サルデーニャ島のレストランならではの品々だと痛感した。

だが実は僕は昨年、ほぼ同じ作りのパスタで最悪の味の一皿にまさにそのサルデーニャ島で出会っている。その店の顧客は多くが北欧や旧共産主義圏のバルカン半島からの観光客だった。彼らは食物の味におおらかでイタメシなら何でも美味い、と思い込んでいるとも評価される。

それが理由の一つなのかどうか、その店のアサリとボッタルガのスパゲティは両方とも水っぽく、具材の良さが完全に失われた粗悪な一品だった。パスタの本場のイタリアでは麺料理はほぼ常に美味い。それだけに店の不手際は少し異様にさえ見えた。

今回の旅の初めでは魚介の美味い店は多かったが、肉料理には見るべきものがなかった。それでも情報を集めてポルケッタが美味いと評判のアグリツーリズモにたどり着いた。しかし店構えは良かったものの、そこの料理の味は昨年食べたポルケッタのそれには遠く及ばなかった。

やはり昨年、島の北部のレストランで堪能した、サルデーニャ本来の少し風変わりだが濃厚な味の肉料理を探すことは諦めて、それ以後はイタリア本土が起源の、だが島独自の要素もふんだんに盛り込んだ、海鮮料理に的をしぼって食べ歩くことにした。


アサリ&ボッタルガ
アサリ&ボッタルガのスパゲティ

前述のようにハズレがほとんどない美味い店の連続だった。その中でも海辺のレストランで食べた、上の写真のアサリ&ボッタルガのスパゲティが超一級品だった。昨年、似たような立地のビーチレストランで食べたパスタとは、似ても似つかない素晴らしい味だったのである。

僕はバカンスでは「何もしないことが休暇」というモットーで、連日ビーチでのんびり過ごすが、食事や観光や史跡また名所巡りなどにも、「何もしない」のと同じくらいの情熱で車を駆ってどんどん出掛ける。今回は滞在先に近い島の中心都市カリャリにも足を伸ばした。

カリャリでは昨年のサルデーニャ肉料理店と良く似た体験をした。想定外のおどろきのヤギ肉料理に出会ったのである。成獣のヤギ肉をサフランで煮込んだ一皿で、去年の一大発見である「羊の成獣の骨付き焼肉」に勝るとも劣らない風味を閉じ込めた絶品だった。

冒頭の写真がそれだ。見た目は、例えば沖縄のヤギ汁から汁だけを取り除いたような一皿だが、味わいはヤギ汁とは雲泥の差のある極上、且つ上品なものだった。上質なヤギ・羊肉料理の常で、独特の豊かな風味は残しながら、それらの肉の最大の欠点である異臭がきれいさっぱり消し去られていた。

ヤギや羊の成獣の肉には、独特の臭気という深刻な障害がある。そこで出色の店は、ハーブや香辛料やワインや酢やリキュール等々を駆使して肉をさばいて臭みを消す。その店ではサフランに加えて、おそらくワインも併用して見事に消臭を成し遂げていた。

またヤギ&羊の成獣肉には肉質が硬いという難点もある。成功した調理法では、異臭を消すと同時に、肉も柔らかく且つ上品な歯ごたえに改良されているケースがほとんどだ。僕が知る限りでは舌触りも必ずまろやかになっている。むろんその店の仕上がりも同様だった。

店は丘の上に広がるカリャリの旧市街、カステッロ地区にある。地区の入り口付近にあるエレファンテの塔(Torre dell'Elefante)を通過し左に歩いてすぐの場所だ。 海と市街を見渡す路上にテーブルを並べた同店は、昨年の島の北部のレストランと同じサルデーニャ伝統の肉料理専門店。

全くの偶然で見つけた。昨年のレストランよりもより豪快で素朴な肉料理に徹していた。だが海鮮料理店がひしめいているカリャリで、島伝来の肉料理にこだわるところは、海際の街にありながらやはり島伝統の肉料理に集中していた、昨年の店と心意気は同じだと思った。

ヤギ肉のサフラン煮込みとは正反対のサプライズもあった。子羊の骨付き肉のローストを頼んだところ、肉がタイヤのように硬くて、ナイフで切り分けるのも一苦労、という信じがたい代物が出てきたのである。ようやく切り分けて口に含むとやはり異様に硬い。

味は、ま、普通の味だが肉質の硬さが料理を完全にぶち壊しにしていた。成獣肉のサフラン煮込みという見事なレシピを編み出したシェフが、なぜこんなにも粗悪な料理を提供するのか、と僕は不審になった。よほどクレームを入れようかと思ったが、やめた。

子羊肉はサルデーニャでは秋から春が旬の食材、という話を思い出したからだ。牧羊が盛んなサルデーニャ島では、子羊料理が一年中食べられると思い込んでいた僕は、再び昨年、子羊料理は季節限定の品だとレストランで告げられてひどくおどろいた経験がある。

冷凍技術が発達した現在では、子羊肉はイタリアでは一年中出回っている。ましてや牧羊が活発なサルデーニャ島なのだからいつでもどこでも食べられると思ったのだ。だが牧羊が盛んで羊肉を良く知っているからこそ、サルデーニャの人々は新鮮な子羊肉にこだわるということらしい。

間違った季節に子羊料理を注文した自分が悪い、と僕は思い直した。ヤギ成獣肉のサフラン煮込みのあまりの美味さが、子羊料理のガッカリ感を吹き飛ばしていたこともある。また最高と最悪の味が同居している島の食環境は面白い、という思いもあった。

昨年は最悪の味のアサリとボッタルガのスパゲティを食べた。今年は一転して、妙妙たる口当たりのアサリ&ボッタルガのパスタに出会った。そして今、超ド級の味覚のヤギ成獣肉を頬張りつつ、木切れのように味気ない子羊肉も咀嚼している。実に面白い、とひとり密かにつぶやいた。

そうやって僕のヤギ・羊肉料理体験記には、また一つ「世界一」と格付けしたくなる極上レシピがリストに加えられた。そのリストは実は、子ヤギ・子羊料理のランク付けとして始まったものだが、いつの間にかヤギ・羊の「成獣肉」料理の一覧になりつつある。

ヤギ・羊の成獣肉は、子ヤギ・子羊の肉よりもはるかに臭気が強く肉質も硬い。従って料理の切り盛りも幼獣肉のそれよりずっと難しい。良く言えば珍味、もっと良く言えばゲテモノ(!)のヤギ・羊の成獣肉を、目覚ましい食材に変貌させるシェフたちの意気と技量に、僕ははなはだ感じ入ることが多くなった。


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また犯した「子ヤギ食らい」という自罪

皿盛り食べかけヨリ600



4月21日はイタリアのパスクアだった。イギリスではイースター。日本語では復活祭。イエス・キリストの復活を寿ぐキリスト教最大のイベント。ハイライトは祭り当日に供される子ヤギまたは子羊料理。

不信心者の僕にとっては、パスクアは神様の日というよりも、ほぼ一年に一度だけ食べる子ヤギ料理の日。イタリアでは子羊料理は一年中食べられるが、子ヤギのそれはきわめて難しい。

ことしは初めてレストランで子ヤギ料理を食べた。去年までは家族一同が自宅で、または親戚や友人宅に招かれて食べるのが習いだった。

実はことしも親戚に招かれていたが、子ヤギも子羊も供されない普通の肉料理の食事会、と知って遠慮した。年に一度くらいは特別料理を食べたい。

復活祭前夜の一昨日、友人からも子ヤギ料理への誘いがあった。しかし、レストランを予約してしまっているという不都合もあったので、そちらもやはり遠慮した。

結論をいえば、レストランでの食事は大成功だった。12時半から4時間にも渡った盛りだくさんの料理のメインコースは、もちろん子ヤギのオーブン焼きである。

それは成獣肉を含むこれまでに食べたヤギおよび羊肉料理の中でも第一級の味だった。来年も同じ店で食べてもいいとさえ思っている。

イタリアのレストランでは子羊料理は一年中提供される。だが子ヤギ料理は復活祭が過ぎるとほぼ完全に姿を消す。理由はよく分からない。単純に子ヤギの絶対量が子羊に比べて少ないからではないかと思う。
 
この国を旅すると、羊飼いと牧羊犬に連れられた羊の大群によく出会う。牧草地ばかりではなく、時には田舎町の道路を羊の群れが渡っているのに出くわしたりもする。

羊は数が多い。羊には羊毛の需要もあるから数が多くなるのだろう。それに比べてヤギの姿はめったに見かけない。探せば見つかるが、羊のように頻繁に目にすることはない。

ヤギは山羊、つまり「山の羊」と呼ばれるくらいだから、飼育や繁殖がむつかしくて数が少ないということもあるのかもしれない。

復活祭になぜ子羊や子ヤギ料理を食べるのかというと、由来はキリスト教の前身ともいえるユダヤ教にある。古代、ユダヤ教では神に捧げる生贄として子羊が差し出された。

子羊は犠牲と同義語である。イエス・キリストは人間の罪を贖(あがな)って磔(はりつけ)にされて死んだ。つまり犠牲になったのである。

そこで犠牲になったもの同士の子羊とイエス・キリストが結びつけられて、イエス・キリストは贖罪のために神に捧げられる子ヒツジ、すなわち「神の子羊」とみなされるようになった。そこから復活祭に子羊を食べてイエス・キリストに感謝をする習慣ができた。

復活祭に子羊を食べるのは、そのようにユダヤ教の影響であると同時に、「人類のために犠牲になった子羊」であるイエス・キリストを食する、という意味がある。

救世主イエスを食べる、という感覚はなかなか理解できないという日本人も多い。だがよく考えてみれば、実はそれはわれわれ日本人が神仏に捧げたご馳走や酒を後でいただく、という行為と同じことである。

神棚や仏壇に供された飲食物は、先ず神様や仏様が食べてお腹の中に入ったものである。その後でわれわれ人間は供物を押し頂いて食べる。それはつまり神仏を食するということでもある。

われわれは供物とともに神様や仏様を食べて、神仏と一体化して煩悩にまみれた自身の存在を浄化しようと願う。キリスト教でもそれは同じ。そんなありがたい食べ物が子羊料理なのである。

僕は冒頭でことわったように不信心者なので、神や霊魂や仏や神々と交信するありがたさは理解できない。ただ、おいしいものを食べる幸せを何ものかに感謝したい、とは常々思う。

イタリアでは歴史的に、一年を通して400万頭内外の子羊や子ヤギが食肉処理され、その多くが復活祭の期間中に消費される。

しかし、その数字は年々減ってきて、ここ数年は200万頭前後に減少したという統計もある。不景気のあおりで人々の財布のヒモが堅いのが理由だ。子ヤギや子羊の肉は、豚肉や牛肉などのありふれた食材に比べて値段が張るのだ。

一方で消費の落ち込みは主に、動物愛護家や菜食主義者たちの反対運動が功を奏しているという見方もある。最近はいたいけな子ヤギや子羊を食肉処理して食らうことへの批判も少なくないのである。

2017年にはあのベルルスコーニ元首相が「復活祭に子羊を食べるのはやめよう」というキャンペーンを張って、食肉業者らの怒りを買った。

ベジタリアンに転向したという元首相は、彼の内閣で観光大臣を務めたブランビッラ女史と組んで、動物愛護を呼びかけるようになった。アニマリストから拍手喝采が起こる一方で、ビジネス界からは反発が出た。

僕は正直に言ってその胡散臭さに苦笑する。突然ベジタリアンになったり動物愛護家に変身する元首相も驚きだが、子羊だけに狙いを定めた喧伝が不思議なのである。食肉処理される他の家畜はどうでもいいのだろうか。

動物の食肉処理の現場は凄惨なものである。僕は以前、英国で豚の食肉処理場のドキュメンタリー制作に関わった経験がある。屠殺される全ての動物は、次に記す豚たちと同じ運命にさらされる。

彼らは1頭1頭がまず電気で気絶させられ、失神している20秒~40秒の間に逆さまに吊り上げられて喉を掻き切られる。続いて血液を抜かれ、皮を剥がれ、解体されて、またたく間に「食肉」になっていく。

その工程は全て流れ作業だ。すさまじい光景だが、工程が余りにも単純化され操作がスムースに運ばれるので、ほとんど現実感がない。肉屋やスーパーに並べられている食肉は全てそうやって生産されたものだ。

菜食主義者や動物愛護家の皆さんが、動物を殺すな、肉を食べるな、と声を上げるのは尊いことだと思う。それにはわれわれ自身の残虐性をあらためて気づかせてくれる効果がある。

だが、人間が生きるとは「殺すこと」にほかならない。なぜなら人は人間以外の多くの生物を殺して食べ、そのおかげで生きている。肉や魚を食べない菜食主義者でさえ、植物という生物を殺して食べて生命を保っている。

人間が他の生き物の命を糧に、自らの命をつなぐ生き方は誰にもどうしようもないことだ。それが人間の定めだ。他の生命を殺して食べるのは、人間の業であり、業こそが人間存在の真実だ。

大切なことはその真実を真っ向から見据えることだ。子羊や子ヤギを始めとする小動物を慈しむ心と、それを食肉処理して食らう性癖の間には何らの矛盾もない。

それを食らうも人間の正直であり、食わないと決意するのもまた人間の正直である。僕はイタリアにいる限りは、復活祭に提供される子ヤギあるいは子羊料理を食べる、と心に決めている。



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ヤギ料理にこだわる理由(わけ)


子やぎ太もも肉



子ヤギ肉と成獣肉

2018年7月、イタリア・サルデーニャ島で子羊及び子ヤギ料理を探し求めていた僕は、これまで味わった中では最も美味い羊の「成獣肉」膳に出会った。子羊肉は中東や欧州ではありふれた食材だ。が、成獣肉のレシピはまれである。

僕が子ヤギや子羊料理(以下子ヤギに統一)にこだわるのは、単純にその料理が美味くて好き、というのがまず第一だが、自分の中に故郷の沖縄へのノスタルジーがあるのだと思う。

沖縄の島々ではヤギ肉が食べられる。僕が子供の頃は、それは貴重な従って高級な食材なので、豚肉と同様にあまり食べることはできなかった。たまに食べるとひどく美味しいと感じた。

島々が昔よりは豊かになった今は、帰郷の際にはその気になればいくらでも食べられる。が、昔のように美味いとは感じなくなった。料理法が単調で肉が大味だからだ。

ところがここイタリアを含む欧州や地中海域で料理される子ヤギの肉は、柔らかく上品な味がしてバラエティーにも富んでいる。ヤギ独特のにおいもない。

貧困ゆえの食習慣

沖縄では子ヤギは食べない。成獣のみを食べる。子ヤギを食べないのは貧困ゆえの昔の慣習の名残りだろう、と僕は勝手に推測している。

小さなヤギは、大きく育ててからつぶす方がより多くの人の空腹を満たす食材になる。だから島の古人は子ヤギを食べるなどという「贅沢」には思いいたらなかった。

ヤギの成獣には独特のにおいがある。それは不快な臭気である。だが臭気よりは空腹の方がはるかに深刻な問題だ。だから人々は喜んでそれを食べた。

僕の遠い記憶の中には、貧しかった島での、ヤギ肉のほのかなイメージがある。たまにしか口にできなかったその料理のにおいは臭みではなく、「風味」だったのだと思う。

その風味は、僕の中では今は「子ヤギ肉の風味」に置き換えられている。つまりここイタリアを含む地中海域の国々で食べる子ヤギ肉の味と香りである。

子ヤギの肉にはヤギの成獣の臭みはない。食肉処理される子ヤギとは、基本的には草を噛(は)む前の小さな生き物だからだ。肉の香ばしさだけがあるのだ。

成獣肉の行方

僕が知る限り、ここイタリアではヤギの成獣の肉は食べない。羊も同じ。牧童家や田舎の貧しい家庭などではもちろん食されているとは思うが、市場には出回らない。臭みが強すぎるからだ。

だが、スペインのカナリア諸島では、僕は一級品のヤギの成獣の肉料理を食べた経験がある。それにはヤギの臭みはなく肉もまろやかだった。秘伝を尽くして臭いを処理し調理しているのだ。

トルコのイスタンブールでも、羊の成獣の肉らしい美味い一品に出会った。その店はカナリア諸島のように「成獣の肉」と表立って説明してはいなかったが、風味がほんのりと子羊とは違った。

子ヤギや子羊肉を伝統的に食する文化圏の国々には、そんな具合に成獣の肉をうまく調理する技術が存在する。イタリアでも隠れた田舎あたりではおそらくそうなのだろう、と僕が憶測するゆえんである。

人工処理

実は「レシピ深化追求」の歴史がなくともヤギの臭みをきれいに消すことはできる。そういう料理に僕はなんとヤギ食文化「事件」当事者の沖縄で出会ったのだ。ほんの数年前のことである。

ヤギ料理をブランド化し観光客にもアピールしよう、という趣旨で自治体がレストランに要請して、各シェフに新しいヤギ料理を考案してもらい、それを試食する会が那覇市内のホテルで開かれた。

たまたま帰郷していた僕もそこに招待された。びっくりするほど多彩なヤギ料理が提供されていた。どれも見た目がきれいで食欲をそそられる。

食べてみるとヤギ肉独特の臭みがまったくと言っていいほどない。まずそのことにおどろかされた。だが味はどれもこれもフランス料理の、いわば「普通の味のレベル」という具合だった。

どの料理もシャレていて美しいが、味にあまり個性がない。ヤギ肉の臭みを消す多くの工夫がなされる時間の中で、肉の風味や個性も消されてしまった、とでもいうふうだった。

多くの場合、島々の素朴を希求して訪れる観光客に、それらのヤギ肉料理が果たして好まれるだろうか、と僕はすぐに疑問を持った。

それらは全て美しくまとまり味がこってりとしていて、ひと言でいえば洗練されている。でもなにかが違う。いかにも「作り物」という印象で、島々の素朴な風情と折り合いがつかない。居心地がわるい。

女性が食の流行をつくる

言葉を替えれば、この飽食の時代に、ほとんどの日本人にとっては新奇、もっといえばゲテモノ風のヤギ肉料理が、はたして食欲をそそる魅力を持っているかどうか、という根本の疑念が僕にはあった。

さらにいえば、それらの料理が女性の目に魅力的に映るかどうか、ということも気になった。食の流行はほとんどの場合女性に好まれたときに起きる。

それらの料理の「見た目の美しさ」はきっと女性に好感をもたれるだろう。だが、そもそもヤギ肉という素材自体には女性は魅力を感じないのではないか、という疑問も消えない。

肉の臭みが取れても、「ヤギは癒し系の動物」というイメージが食欲のジャマをしそうだ。もっともヤギに限らず、全ての家畜とほとんどの野生動物は癒し系なのだけれど。

そうした疑念を吹き飛ばすほどの訴求力が、それらのヤギ料理にあるとは思えなかった。案の定それ以後、披露された新しいヤギ料理が、島で流行ったり観光客の評判になった、という話は聞かない。

ヤギ肉料理喧伝法

ちょっと大げさに言えばヤギ肉料理を流行させる秘策が僕にはある。それは前述とは逆に、女性に嫌われるかたちでのヤギ肉料理のありかたである。つまりヤギ肉の持つ特徴を科学的に解明して、それを徹底的に宣伝し売り込む方法だ。

ヤギ肉には精力増進作用があるといわれる。ならばその精力を、ズバリ「性力」と置き換えても構わないような、ほのかな徴(しるし)が肉の成分に含まれてはいないか。もしそれがあればシメたものだ。

ヤギ肉を食べれば男の機能が高まる、精力絶倫になる、バイアグラならぬヤギグラを食して元気になろう!、などと喧伝すればいい。

もしもそれが露骨すぎるのなら、少しトーンを落としてヤギ肉を食べれば活力が生まれる、ヤギ肉はいわば「若返り薬」だ、などと主張してもいい。

もちろん女性にも好感を持ってもらえるような特徴的な成分がヤギ肉に含まれているのなら、そこを強調すればさらに良い。

たとえば、やはり「若返り作用」の一環で肌がみずみずしくなる、シミなどを抑える。あるいは牛肉や豚肉などと比較するとダイエットに良い効果が期待できる、など、優れた点を徹底的に探して喧伝するのだ。

料理の見た目や味やレシピではなく、ヤギ肉が持つ他の食材とは違う「根本的な特徴」というものでも発見しない限り、ヤギ肉料理が大向こう受けするのは難しいように思う。

それならばいっそ、今のまま、つまり昔からある料理法のままで、「珍味」が好きな少数の観光客に大いに喜んでもらえる努力をしたほうが良いのではないか。要するに薄利多売ではなく、「臭み」という希少価値を売り物にする元々の商法である。


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サルデーニャ食紀行 ~ 勘違いからボタモチ



Lilione羊肉一日目800
絶妙な味がした成獣羊肉


6月終わりから7月半ばまで滞在したサルデーニャ島では、海とビーチを忘れて観光や食巡りに終始したが、サルデーニャ島の食に関しては、僕は一つ大きな勘違いをしていた。

それは島の重要な味覚の一つである子羊料理が、一年中食べられるもの、と思い込んでいたことだ。島では子羊料理は晩秋から春にかけて提供される季節限定の膳だと聞かされて驚いた。

冷凍技術の発達で、子羊の肉はイタリアではいつでも、どこでも手に入る。ましてや羊肉の本場のサルデーニャでは一年中食べられるに違いない、と思い込んでいた。

ところが子羊料理はどこのレストランにもメニューに載っていなかった。代わりに多く目についたのが、サルデーニャ島のもう一つの有名肉料理「ポルケッタ(Porchetta)」、つまり子豚の丸焼きである。

ポルケッタにされる子豚は幼ければ幼いほど美味とされ、乳飲み子豚のそれが最高級品とされる。そのコンセプトは子羊や子ヤギの肉の場合とそっくり同じである。

ヒトの食料にされる動植物は、果物を除けばほぼ全てにおいて、残念ながら幼い命ほど美味とされる。それどころか誕生前のさらに幼い命である卵類でさえも、ヒトは美味いとむさぼり食らう。

ポルケッタ寄り800カリカリに焼けた皮が旨いポルケッタ

ポルケッタは2軒のレストランで食べた。皮ごと提供されるその料理は、通ほどカリカリに焼けた皮を好むとされる。僕は通ではないが、見事に焼きあがった皮の美味さに舌を巻いた。

肉そのものも絶妙な柔らかさに焼きあがって舌ざわりが良く、且つ香ばしい。口に含むとほんのわずかな咀嚼でとろりと溶けた。2軒の膳ともにそうだった。

店の一軒目は壁画アートが熱いオルゴーソロの店。路上にテーブルを出しているほとんど屋台同然の質素な場所だったが、味は極上だった。

2軒目は滞在先のすぐ近くにあるレストランだった。その店は海際の街にありながら魚料理を一切出さず、島のオリジナルの「肉料理」にこだわって評判が高い。

ポルケッタを食べに初めて足を運んだあと、その店には一週間ほど毎日通った。山深い島の内陸部でなければ食べられないような肉料理が盛りだくさんだったからだ。

ポルケッタの次には普通の牛ステーキに始まって、成獣羊肉や牛の内臓や豚のそれを焼き上げた料理を一週間、毎日メニューを変えて味わった。はほぼ全ての膳が出色の出来栄えだった。

店のメインの肉料理は炭ではなく徹底して薪の熾火で焼かれる。また味付けはほぼ塩のみでなされるのが特徴で、胡椒などもほとんど使わない。

料理される内臓は主に牛の心臓、肝、肺、腎臓、横隔膜、脳みそなど。また豚の睾丸なども巧みな火加減と塩使いで焼かれて提供される。

ステーキ切り分け前800切り分ける前のステーキ

それらはいずれも秀逸な味付けだった。ごく普通の牛ステーキでさえもちょっとほかでは味わえないような 妙々たる風味があった。有名なフィオレンティーナ・ステーキも真っ青になるような豊かな味覚なのである。

パスタもミンチ肉や内臓の細切り煮込みやチーズなどを活かしたソースを使って、とにもかくにも「サルデーニャ島内陸部の伝統肉料理」にこだわったものである。

サルデーニャ島の料理の基本は肉である。島でありながら魚介料理よりも肉料理が好まれたのは、住人が海から襲ってくる外敵を避けて内陸の山中に逃げ、そこに移り住んだからだ。山中には魚はいない。

現在のサルデーニャ島には魚介料理が溢れていて味も素晴らしい。だがそれは島オリジナルの膳ではなく、沿岸部を中心とするリゾート開発の進行に伴って、イタリア本土の金持ちたちが持ち込んだレシピだ。

魚料理、特にパスタに絡んだサルデーニャ島の魚介料理は、イタリア本土のどの地域の魚介パスタにも引けを取らない。当たり前だ。元々がイタリア本土由来のレシピなのだから。

店で出される島オリジナルの肉料理はなにもかもが珍しく、またどれもが目覚ましい味わいだったが、その店での最高の料理は「羊の成獣の骨付き焼肉」だった。僕の料理紀行を読んでいる人は、「また羊にヤギ肉か」と苦笑するかもしれない。

だがそれは羊肉とヤギ肉が好きな僕の手前みそな評価ではなく、同伴している妻の評価でもあったのだ。妻はどちらかと言えば羊肉やヤギ肉が好きではない類の女性である。

初日に予約していたポルケッタを食べた僕は、メニューに「焼き羊肉」があることを知って小躍りした。そしてレストラン通い2日目に早速それを頼んだ。

目を洗われるような味わいの焼き方だった。しっとりと焼き上げられた羊肉は、肉汁はほとんどないのに肉汁のうま味がジワリと口中に広がるような不思議な秀逸な味がするのだ。

羊の成獣肉の臭みはきれいに消し去られている。だが「子羊肉」にも共通する羊肉独特の風味はきちんと残っている。もしかすると熟成肉なのかとも思ったが確認しなかった。

焼きソーセージを頼んだ妻が、僕の皿の羊肉の一切れをフォークで自分のそれに移して味見をした。僕らはお互いに違う料理を頼んでは2人で分け合うのが習いである。できるだけ多くの種類の地元料理を味わいたいからだ。

妻は羊肉の絶妙な味におどろいて目を丸くしている。おいしい、おいしいと何度も繰り返して言った。そして僕の皿からさらに一切れを取って食べ続けた。

それだけでも驚きだったが、彼女はなんとレストラン通いの最終日にどうしてももう一度味わいたい、と言って今度は自ら焼き羊肉を注文したのだ。

羊肉がむしろ嫌いな部類の女性である妻の反応だけを見ても、その料理がいかに目覚ましいものであったかが分かってもらえるのではないかと思う。

羊(及びヤギ)の成獣の肉料理は僕の中では、これまでカナリア諸島で食べた一皿が一番の味だった。が、今回のサルデーニャ島の焼き羊肉がそれを抑えてあっさりとトップに躍り出た。

それは飽くまでも羊(及びヤギ)の「成獣の肉」の味である。成獣よりも上品でデリケートな味わいのある「子羊の肉」は一体どんな素晴らしい味がするのだろう、と考えるとわくわくする。

僕は再三、今度は子羊料理の旬だという晩秋から春の間に、サルデーニャ島を訪ねようと決意したほどである。


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動物愛好家の“食罪”~復活祭のごちそう子羊~ 

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カナリア諸島・フエルテベントゥーラ島1番の味とされる子ヤギ料理


人が子羊や子ヤギの肉を食らう罪深い季節がまたイタリアにやって来た。すなわちパスクア。日本語で復活祭。イエス・キリストが死後3日目に再生したことを祝う、キリスト教最大のイベントである。

復活祭では各家庭の食卓に多くの伝統料理が並ぶ。主役は卵と子羊である。子羊は子ヤギにも置き換えられる。新しい命を宿した卵はイエス・キリストの再生の象徴。また子羊はイエス・キリストそのものを表す。

復活祭になぜ子羊料理なのかというと、イエス・キリストが贖罪のために神に捧げられる子羊、即ち「神の子羊」だとみなされて、子羊を食べてイエス・キリストに感謝をする習慣ができた。子羊の肉はやがてそれに似た子ヤギの肉にも広がっていった。

歴史的にイタリアでは、1年を通して400万頭内外の子羊や子ヤギが食肉処理され、その多くが復活祭の期間中に消費されてきた。

しかし、その数字は年々減ってきて、ここ2年間では半分に減少したという統計もある。消費の落ち込みは主に動物愛護家や菜食主義者たちの反対運動が功を奏したと言われている。

今年はあのベルルスコーニ元首相が「復活祭に子羊を食べるのはやめよう」というキャンペーンを張って、食肉業者らの怒りを買った。

ベジタリアンに転向したという元首相は、彼の内閣で観光大臣を務めたブランビッラ女史と組んで、動物愛護を呼びかけるようになった。アニマリストから拍手喝采が起こる一方で、ビジネス界からは反発が出ている。

僕は正直に言ってその胡散臭さに苦笑する。突然ベジタリアンになったり動物愛護家に変身することも驚きだが、子羊だけに狙いを定めた喧伝が不思議なのである。食肉処理される他の家畜はどうでもいいのだろうか。

動物の食肉処理の現場は凄惨なものである。僕は若いころ英国で豚の食肉処理場のドキュメンタリー制作に関わった経験がある。屠殺される全ての動物は、次に記すそこでの豚と同じ運命にさらされる。

彼らは1頭1頭がまず電気で気絶させられ、気絶している20秒~40秒の間に逆さまに吊り上げられて喉を掻き切られ、血液を抜かれ、皮を剥がれ、解体されて、またたく間に「食肉」になっていく。

その工程は全て流れ作業だ。すさまじい光景だが、工程が余りにも単純化され操作がスムースに運ばれるので、ほとんど現実感がない。肉屋やスーパーに並べられている食肉は全てそうやって生産されたものだ。

菜食主義者や動物愛護家の皆さんが、動物を殺すな、肉を食べるな、と声を上げるのは尊いことだと思う。それにはわれわれ自身の残虐性をあらためて気づかせてくれる効果がある。

だが、人間が生きるとは「殺すこと」にほかならない。なぜなら人は人間以外の多くの生物を殺して食べ、そのおかげで生きている。肉や魚を食べない菜食主義者でさえ、植物という生物を殺して食べて生命を保っている。

人間が他の生き物の命を糧に、自らの命をつなぐ生き方は誰にもどうしようもないことだ。それが人間の定めだ。他の生命を殺して食べるのは、人間の業であり、業こそが人間存在の真実だ。

大切なことはその真実を真っ向から見据えることだ。子羊や子ヤギを始めとする小動物を慈しむ心と、それを食肉処理して食らう性癖の間には何らの矛盾もない。

それを食らうも人間の正直であり、食わないと決意するのもまた人間の正直である。僕は1年に一度、イタリアにいる限りは復活祭の子ヤギあるいは子羊料理を食べると決めている。

ただし今年は、3月に旅したカナリア諸島で美味いヤギ料理を十分に食べたので、明日の復活祭には定番の子羊も子ヤギもやめて魚を食べることにした。

カナリヤ諸島では、島で1番といわれる子ヤギ料理店を訪ねた。そこの炭火焼き子ヤギ肉は疑いなく一級品だった。だが島ではもっとすごいヤギ料理に出会った。

ヤギの成獣の肉料理を提供するレストランがあったのだ。ヤギの成獣の肉は、イタリアでは皆無と言って良いほど食べられない食材である。強烈な臭いが嫌われるのだ。

その料理には臭みが全くなかった。恐らくハーブや香辛料やワインまた蒸留酒なども駆使して、異臭を除き肉を柔らかくすることにも成功しているのだろう。味も秀逸である。僕は地元の人々が、島1番の味と言う前出の子ヤギ料理よりもこちらに軍配を上げた。

その味は僕がこれまでに体験したヤギ料理のうち、2番目に美味いものだった。僕が独断と偏見で判定しているこれまでの1番の味は、数年前にギリシャのロードス島の山中の料理屋で食べた子ヤギ料理である。

今年の復活祭でも供される料理はありがたくいただこうと思う。しかし、年々食材は「食罪」だという感覚が強くなっている。中でも動物を食することはなんとも罪深い業だ。深い食罪を意識しつつ、それでも今のところは食べるのみである。


復活祭のごちそう~子ヤギを食らう罪と快楽~

今日4月5日はキリスト教の「復活祭」である。イタリア語ではパスクア。英語のイースター。イエス・キリストが死後3日目に復活したことを祝う祭。

キリスト教の祭典としては、その賑やかさと、非キリスト教国を含む世界中で祝される祭礼、という意味で恐らくクリスマスが最大のものだろう。が、宗教的には復活祭が最も重要な行事である。

なぜならクリスマスはイエス・キリストの誕生を祝うイベントに過ぎないが、復活祭は磔(はりつけ)にされたキリストが、「死から甦る」奇跡を讃える日だからだ。

誕生は生あるものの誰にでも訪れた奇跡である。が、「死からの再生」という大奇跡は神の子であるキリストにしか起こり得ない。それを信じるか否かに関わらず、宗教的にどちらが重要な出来事であるかは明白である。

イエス・キリストの復活があったからこそキリスト教は完成した、とも言える。キリスト教をキリスト教たらしめているのが、復活祭・イースターなのである。

復活祭のメインの催しは、キリストが十字架を背負って刑場のゴルゴタの丘まで歩いた「via crucis(悲痛の道)」をなぞって、信者が当時の服装を身にまとって各地を練り歩くイベント。

同時に各家庭では復活祭特有のご馳走の嵐が吹き荒れる。中でも特徴的なのは、生まれたての子ヤギの肉を使ったカプレット料理。それにはグルメの国・イタリアの膳らしくヤギ独特の臭いが無く、且つ口にいれると柔らかく舌にからんでとても上品な味がする。

復活祭になぜヤギ料理なのかというと、イエス・キリストが贖罪のために神に捧げられる子ヒツジ、すなわち「神の子羊」だとみなされることから、復活祭に子 ヒツジを食べてイエス・キリストに感謝をする習慣ができた。子ヒツジの肉はやがてそれに似た子ヤギの肉にも広がっていった。

子やぎは癒し系の愛くるしい生き物である。よちよちと近寄ってきたり、無防備に人に体を預けたり、触れられても嫌がったりしないことが多い。目元も顔つきも姿の全体も実にかわいい。

そのせいかどうか、子ヤギ料理は日本では全く人気がない。ヤギ肉を食する習慣がある南の島の、粗大ゴミかと見紛うゴリ顔の男でさえ、イタリアの子ヤギ料理の話をすると皆一様に「????」という表情になって、挙句には「かわいそー」などとのたまう。

だがそれを言えば、子牛の肉や若鶏のから揚げや卵や小魚やいくらなども食べるのは言語道断、「かわいそー」ということになりかねない。食材としての動物は、悲しいことに幼いものほど美味という傾向もある。

人間が生きるとは殺すことだ。人は人間以外の多くの生物を殺して食べ、そのおかげで生きている。肉や魚を食べない菜食主義者の人々でさえ、植物という生物を殺して食べていることに変りはない。

人間が他の生き物の命を糧に、自らの命をつなぐ生き方は仕方のないことだ。も しもそれが悪であり犯罪であるなら、われわれ人間は一人残らず悪人であり罪人である。

乳飲み子でさえそうだ。なぜなら赤子は、生物を食べて生きる母親が与える母乳を頼りに生存している。従って、何かを殺して食べること自体を否定したり非難したりするのは無意味である。子ヤギとてその例にもれない

だが、人間とはまた強欲な存在でもある。ゼイタクのためにも人は生き物を殺す。たとえば究極のグルメとは、親牛の子宮に手を突っ込んで胎子を引っ張り出して、これを料理して食らう、というものである。それは実際に行われてきたことであり、今でも行われていると言われる。

子宮に手を突っ込んで胎子を引っ張り出す、というのは恐らく秘密を守るグルメたちの偽悪の装いか、それらの人々を憎む者たちの陰口だろう。実際には母牛を 屠刹して、胎子を取り出して料理するのではないか。胎子を食らうために母牛までも犠牲にする図は、彼らが自らの「裕福また成金振り」に自己満足を覚えたり、あるいはそれを喧伝したりするには格好の材料 だ。

そうした行為は糾弾されても仕方のないことだ。が、強欲も人間存在の重大な一構成要素だと認めれば、おのずと見えるものが違ってくる。つまり、そうした行為を容認するのは政治的正邪(ポリティカル・コレクトネス)に照らし合わせれば、邪である。だが人間を業に捉われた存在として見れば、なんら奇怪なことではない。

人間から業を取り去れば清浄無垢な何ものかが立ち現れるのだろう。だが、そんな存在はもう人間ではない。神に近い何ものかであり、人間の対極にあるものである。つまり理想という名の虚偽だ。

人間の良さは、業に縛られた存在である己を知り、己の罪深さを見つめて、それから少しでも解放されようと業にまみれて呻吟することである。

理想は実現できないからこそ理想なのである。あるいは実現することが限りなく不可能に近い難事だからこそ、理想なのである。従って理想に向かって懊悩する「プロセスそのもの」が、つまりは理想的な生き方ということなのではないか。

子ヤギといういたいけな生き物を殺して食べるのは、人間の業であり、業こそが人間存在の真実だ。大切なことはその真実を真っ向から見据えることだ。子ヤギを慈しむ心とそれを食肉処理して食らう性癖の間には何らの齟齬もない。

それを食らうも人間の正直であり、食わないと決意するのもまた人間の正直である。僕は一年に一度、イタリアにいる限りはイースターの子ヤギ料理を食べると決めた。

その罪と快楽の一部を示すURLを次に貼り付けて、食材となる子ヤギたちに深く感謝をしたい。

子ヤギレシピ⇒ https://www.google.co.jp/search?q=capretto+ricetta&hl=ja& amp;source=lnms&tbm=isch&sa=X&ei=H9UeVa_xN42p7Abi44CIBA&ved=0CAgQ_AUoAQ&biw=1152&bih=586
         ⇒「画像」へ
 

復活祭のごちそう②



復活祭の時期にイタリアでたくさん食べられる子やぎの肉は、祭りが終わるとほとんど需要がなくなる。

一方、子羊の肉(英語で言うラム)は一年を通してよく食べられる。肉屋やスーパーでも一年中売られているし、レストランなどのメニューでも子羊(agnelloアニエッロ)料理を見つけるのは難しくない。しかし、子やぎ(caprettoカプレット)料理の文字を見ることは稀(まれ)である。その理由は分からないが、単純に子やぎの絶対量が少ないからではないか、と僕は思う。

 

ドキュメンタリーや報道番組の撮影、リサーチなどでイタリア中を巡っていると、羊飼いと牧羊犬に連れられた羊の群れによく出会う。牧草地ばかりではなく、時には田舎町の道路を羊の大群が渡っているのに出くわしたりする。シチリア島では僕は実際にそういう場面を何度も撮影したりもした。映画「ゴッド・ファーザー」の一場面かと見まがうようなシーンが、ごく普通に見られるのである。

 

羊には羊毛の需要もあるから数が多くなるのであろう。それに比べてやぎの姿はめったに見かけない。探せば見つかるが、羊のように頻繁に目にすることはない。もしかすると、やぎの場合は山羊、つまり「山の羊」と呼ばれるくらいだから、飼育や繁殖がむつかしくて数が少ないということもあるのかもしれない。

 

羊とやぎの乳からは、ペコリーノとカプリーノという独特のチーズが作られる。世界最古のチーズの一つ、いわゆるロマーノ・チーズで、どちらも肉の臭みに近い独特の風味がある。ここでも羊乳から作られるペコリーノの方が、やぎ乳が原料のカプリーノよりも一般的である。

 

食肉という観点からは、羊もやぎも成獣の肉はほとんど価値がなく、イタリアでは市場に出回ることはまずない。どちらの家畜の肉も、もしも食べられる場合には、それを飼っている農家とその周辺でひっそりと消費されるだけらしい。成獣の肉は、羊もやぎもそれほどにおうので人の口には入りにくい、ということなのだろう。

 

そういうわけで市場に出回り食卓にものぼるのは、子羊と子やぎの肉だけである。そして両者は、実はここが一番言いたかったのだが、味に大差はないと僕は思う。どちらもおいしいのである。

 

ただし、レストランなどで出される子羊料理は、僕が知る限りたいしたものはない。骨付き肉を炭火でさっと焼き上げたシンプルな料理が多く、仕上がりの少しの違いで、肉がやわらかかったり固かったりすることはあるが、どこでもほぼ同じ味という印象がある。2時間も3時間もかけてじっくりと調理をする分、あくまでも復活祭などで出される家庭料理の方がうまいのである。

 

子羊や子やぎの料理は、イタメシの中ではマイナーな存在である。ところが、イタリアを少し離れて東ヨーロッパのイスラム教国やギリシャやトルコなどに移動すると、特に子羊の肉はメジャーな食材に変貌して、料理法も多彩になる。もちろん味も素晴らしい。

 

僕がこれまでに食べた子やぎ料理のベストは、ギリシャのロードス島の山中の食堂、また子羊料理の筆頭は、クロアチア国境に近いボスニア・ヘルツェゴビナのレストランの一品である。

 

僕は今後10年くらいをかけて、地中海の国々を少しづつ巡り歩く計画を立てている。そこのイスラム教国では子羊の肉がよく食べられる。僕は今から、ボスニア・ヘルツェゴビナで食べた子羊料理を上回る味に出会うこともあるのではないか、とひそかに期待している。

 

しかし子やぎ料理の場合は、恐らくロードス島で食べたもの以上の味には出会えないような気がする。なぜならそれらの国々でも子やぎの肉は一般的ではないから・・

 

復活祭のごちそう①



4月24日の日曜日は復活祭(伊語パスクア、英語イースター)である。十字架にかけられて死んだイエス・キリストが、三日目に復活したことを祝う祭り。

 

復活祭の僕の楽しみは、招かれて行く妻の実家で必ず食卓に出るやぎ料理である。

 

イタリアのやぎ料理には、やぎ独特の強烈なにおいがない。料理に使われているのが、まだ乳離れもしない生まれたての子やぎ(caprettoカプレット)の肉だからである。子やぎは乳離れをしてひとくちでも草を食むと、その肉にはやぎ独特の臭(くさ)みがこもり始めるという。従って良い肉ほど若いやぎのそれということになる。


炭火やオーブンでじっくりと焼き上げられた子やぎの肉は香ばしく、口にいれると柔らかく舌にからんで、とても上品な味がする。

 

イタリアには「さすがはグルメの国」と感心させられるような料理がたくさんあるが、僕にとっては、復活祭の子やぎ料理もそんな食べ物の一つである。

 

復活祭になぜやぎ料理なのかというと、イエス・キリストが贖罪のために神に捧げられる子羊、すなわち「神の子羊」だとみなされることからくる。そこで復活祭に子羊を食べてイエス・キリストに感謝をする習慣ができたが、子羊の肉はやがてそれに似た子やぎの肉にも広がっていった。

 

日本のやぎ料理といえば南の島々のそれであろう。また北海道のジンギスカン料理も島のやぎ料理に少し近いかもしれない。

 

島々のやぎ料理は良く言えば珍味、もっと良く言えばゲテモノ(笑)である。

 

やぎの成獣は羊よりもくさい。その肉はもっとくさい。初めてやぎ料理を食べる人が仰天するのは、鼻もひん曲がるようなその強烈なにおいである。僕の意見では料理法にも問題があると思うが、なによりもまず肉の刺激臭が初心者の障害になる。

 

食べ慣れた人にはやぎ肉のにおいはもちろん気にならない。いわば納豆やくさややブルーチーズなどの「におう」食べ物と同じで、好きな人にはむしろその独特の臭みがおいしさの源の一つになったりする。

 

それにしても、生まれて間もない子やぎをつぶして食べるとは、なんというゼイタクだろうか。カワイソーなどと偽善的な言葉は口に出すまい。そんなことを言えば成長したやぎをつぶすことだってカワイソーということになるのだから。


島の古人たちが子やぎを食べることを思いつかなかったのは、それを「かわいそう」などと思ったからでは断じてない。

 

貧しかったからだ。

 

やぎは大きく育ててからつぶす方がより大量の食材になる。より多くのひもじい人々の口に行き渡る。だから大きく育ててから食べた。成長したやぎの肉はにおう。だが、においよりは空腹の方がはるかに切実な問題だから、くさくても食べた。

 

食べるうちに人は臭みに慣れる。やがて臭みは臭みではなくなって食材の個性になる。むしろ臭みがないと物足りないという風に味覚が変化していく。それが島々のやぎ料理である。 

 

一方ローマ帝国を持ったこともある豊かなイタリア人は、空腹を満たそうとする切実な行動よりも、より美味いものを食べたいというグルメな欲求を優先させてやぎ料理を考えることができた。

 

だから量は多いが、くさい成熟したやぎ肉よりも、少量だがおよそくさみとは無縁の、子やぎの肉を使って料理をする方法を編み出した。それが洗練されたイタリアのやぎ料理であろう。

 

僕は妻の実家で子やぎ料理のレシピを習って、ときどき自分でも試したりする。長い伝統のある料理法だから簡単にはものにできないが、ときどき「それらしく」仕上がることもある。

 

レシピは僕の大ざっぱなやり方では次のようになる。

1)  オーブン用の皿にバターをたっぷりと敷く。

2)  その上に食べやすい大きさに切った肉を載せ敷く。

3)  塩を振る。その時さらにバターも少々肉に塗る。

4)  薬味のサルビアとローズマリーを大量に載せる。

5)  白ワインとコニャックを上にかける。

6)  ときどき肉を裏返しながら、180℃で2時間じっくりと焼く。 

※あるいは少し低い温度で3時間前後焼く場合も。
※どちらの場合も肉が干上がらずに適度な湿り気を保つよう、溶けたバターや脂をスプーンなどですくっては、肉にかける作業を続けることが肝心。



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