【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

テレビ屋が観るテレビ

ドラマのウソの本気度 


『70才、初めて産みます~セブンティウイザン。』

NHKドラマ『70才、初めて産みますセブンティウイザン』は、面白さと違和感がないまぜになった不思議なドラマだった。

高齢の夫婦が子供を授かった場合にあり得るであろう周囲の反応や、実際の肉体的また精神的苦悩が真剣に描かれていて、それが非常によかった。

従ってそのドラマは質の良い番組の一つと僕は見なしている。

だが、ドラマの内容に関しては、ドラマそのものが成立し得ないであろう、と考えられるほどの根本的な疑問を抱き続けた。

つまりほぼ70歳の男女が、普通に交接して女性が妊娠することがあり得るのかどうか、という点である。

あり得ない、というのが答えではないか。

ここからは高齢者の性愛について書くので、そういう題材を不快に思う人は先に進まないでほしい


『70才、初めて産みますセブンティウイザン』では、小日向文世竹下景子が演じる夫婦が、実際に性交して妻が自然妊娠する。

ほぼ70歳の男女が肉体的に交合するのは、もちろん大いにあり得ることだろう。だが女性が妊娠するのはほぼ不可能なのではないか。

世界には超高齢出産の例がある。

まず体外受精による妊娠のギネス記録は66歳のスペイン女性。ギネスには載っていない世界記録は73歳または74歳とされるインド人の女性である。

ちなみに日本での最高齢は60歳女性。最近では自民党の野田聖子議員が、51歳で卵子提供を受けて出産したことが話題になった。

それらは全て体外受精による妊娠、出産記録だ。

男女の通常の性行為による妊娠、出産ではない。

通常交渉による自然妊娠・出産では、ギネス記録が米人女性の57歳。ギネスに載っていない世界記録としては 59歳のイギリス人女性の例が知られている。

つまり女性は60歳くらいまでは普通に性交をして妊娠する可能性がある、ということである。

そうでない場合は性器と性器の交接ではなく、体外受精による妊娠だけがあり得る。

ところがドラマの主人公の夫婦は、2人ともほぼ70歳なのに通常に性交して、その結果妻が妊娠する。

体外受精ではないのだ。

それは奇跡という名の嘘である。

ドラマに嘘は付き物だ。しかし、その嘘は大き過ぎて僕はなかなか溜飲を下げることができなかった。

そのことにも関連するが、高齢の男女があたかも若者のように何も問題なくセックスする、という設定にも違和感を持った。

江戸の名奉行大岡越前は、不貞をはたらいた男女の取調べの際、(年上の)女が自分を誘った、との男の釈明に納得ができなかった。

そこで彼は自らの母に「女はいつまで性欲があるのか」と訊いた。すると母親は黙って火鉢の灰をかき回して、「灰になるまで。即ち死ぬまで」と無言で告げた。

母親は江戸時代の女性だから、男女の秘め事を言葉にして語るのをはばかったのである。

ここイタリアでは2015年、84歳の女性が88歳の夫が十分に性交してくれない。セックスの回数が少なすぎる。だから離婚したい、と表明して世間を騒がせた。

両方のエピソードはたまたま女性が主人公だが、男性もおそらく同じようなものだろう。

人間は死ぬまでセックスをするのだ。

だがそれは年齢が進むに連れて丸みを帯びていく。性器と性器の結合よりも、コミュニケーションを希求する触れ合いのセックスへと移行する。

仕方なくそうなるのだ。

なぜなら年齢とともに男性は勃起不全やそれに近い足かせ、女性はホルモン障害によって膣に潤いがなくなり、性交痛とさえ呼ばれる困難を抱えたりするからである。

そのため彼らの情交は、愛の言葉に始まり、唇や手足や胸や背中に触れ合って相手をいつくしむ、というふうに変化するとされる。

むろん高齢になっても男性機能が衰えず、女性も潤いを保つケースもまた多いことだろう。ドラマの夫婦もそういうカップルのようだ。

妻は通常性交で妊娠するのだからからまだ閉経していない。従ってホルモンのバランスも良好で膣も十分に濡れる、と理屈は通っている。

一方「普通に」身体機能が衰えていく高齢者のセックスでは、体のあらゆる部分が性器だとされる。それは男女が全身を触れ合う「豊かな癒し合い」という意味に違いない。

同時にそれはもしかすると、若者のセックスよりもめくるめくような喜びを伴なうものであるのかもしれない。

なにしろ体全体が性器だというのだから。

『70才、初めて産みますセブンティウイザン』の夫婦のセックスは、癒し合いではなく性器と性器の交接である。そうやって妻はめでたく妊娠するのだ。

繰り返しになるが人は死ぬまでセックスをする生き物である。従ってドラマの夫婦の性交は当たり前だ。

ドラマはその当たり前を、当たり前と割り切って、一切の説明を省いて進行する。

そして進行する先の内容は十分に納得できる。

面白くさえある。

それでも僕は70歳の女性の自然妊娠という設定を最後まで消化できなかった。

それを引き起こした老夫婦の、「普通の性交」にもかすかな引っかかりを覚え続けた。

高齢の男女は、誰もが肉体的に大なり小なりの問題を抱えている。性的にもむろんそうだ。そのことについては既に触れた。

ドラマの趣旨はそこにはない。高齢の男女の性愛のハードルを越えた先にある「人間模様」が主題である。

それは前述のように面白い。

だが-しつこいようだが-70歳にもなる男女が、夫はどうやら普通に勃起し、(閉経していない!)妻は濡れて、問題なく交わって妊娠のおまけまで付いた、という部分が苦しい。

ドラマの夫婦ほど高齢ではないものの、もはや全く若くもない僕は、ハードルのその部分も気になって仕方がなかった。

そんなわけで、残念ながら完全無欠に「お話」の全てを楽しむことはできなかった。





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ドラマと実録のハザマで楽しむ  

2仮面+子供650

コロナ禍が拡大して以来、仕事と仕事の残滓と、仕事まがいの状況や思案に追われて日々を過ごしている。

日英伊の報道や報道ドキュメント(ニュースより長いがドキュメンタリーよりは短い時事や時事問題報告)をTV画面で追いかけ、日英伊語の新聞や雑誌記事を読み、ネットで同様の行為を毎日欠かさずにやっている。

その合間に読書をしテレビドラマを見菜園を耕す。食料を中心とする買い物にも出かける。

秋から冬の間は菜園での仕事はほとんどないが、他の事案は春夏秋冬ほぼ同じように存在する。

春から秋には旅に出ることも多い。

それらは全て好きなことである。食料の買い出しさえ楽しむ。それは趣味の料理につながっているからだ。

あ、そうだ。料理もよくする。

趣味であり仕事(自分と家族への義務という意味)であり、そしてやはり好きなことである。

「仕事と仕事の残滓と仕事まがいの状況や思い込み」とは、TVドキュメンタリー監督である僕の生活の変化のこと。

僕は近年TV関連の仕事を減らし続けてきて、それは新型コロナパンデミックで加速し、映像ではなく紙媒体やWEBに文章を書くジャーナリストまがいのもの書きになった

一連の行為は仕事のみならず自らの知識欲のためにもやっている。

実は僕はドラマが好きである。

日本の大学を卒業してロンドンの映画学校に進学したのも、映画、ドラマ、つまりフィクションが好きだったからである。

僕はフィクションである映画制作を目指し、シナリオや小説も書いた。

だが学校を終えて仕事を始めると、ドキュメンタリーに魅かれてその道のプロになった。

テレビの仕事をしつつ、新聞雑誌にも雑文をけっこう書いた。

それらの仕事はいま思えばフイィクション作りから遠ざかるプロセスでもあった。

劇場映画ではなくTVドキュメンタリーの監督となり、同じくフィクションである小説は書かず、エッセイやコラムや紀行文などの雑文を書いた。

「書いた」とはプロとして-つまり原稿料をもらって-書いた、という意味である。

プロではないものの、それでも、前述のように小説も書いた。短い作品が小説新潮の月間新人賞の佳作に選ばれたこともある。文芸誌に掲載された作品もある。

だがそれだけである。プロとしては、後は鳴かず飛ばずだった。

僕は、書き、制作し、読み、見るの全てにおいて、どちらかといえば実録よりも虚構が好きである。

虚構はプロとして書いたり制作しなかったから苦しくなく、だからより好きなのだろうと思う。

僕は読書にもかなりの時間を割く。

日常の中での読書は、食べ、眠り、活動することと同じ命の一部である。生きがいでもあり存在証明でもある。

それに比較するとテレビを観る行為はよっぽど重要度が落ちる。だが、それでも結構見る。

すぐ死ぬんだから400


ドラマは有料の衛星日本語放送で観るのがほとんどだ。

ロックダウンや準ロックダウンで自宅待機が多い2020年以降は、普通よりも多くのテレビドラマを観た。NHKがほとんどだが、ロンドンを拠点にする有料放送は民放のドラマも流す。

民放の番組は日本より数ヶ月遅れで電波に乗ることが多い。放送局がNHK系列だからだろう。

パンデミック勃発から今日まで見たドラマの中で最も強く印象に残っているのは、三田佳子が主演したNHKの「すぐ死ぬんだから」である。

信頼しきっていた夫に裏切られた妻が、「死後離婚」という珍しい戦いを繰り広げる。彼女が執念深い行動に出るのは、夫が遺言書で裏切りの全てを明らかにしたからだ。

夫は死んだ後に妻をいたぶる仕打ちをした。だから彼女の偏執的な動きにも、おそらく多くの視聴者が感情移入できる。そういう仕組みになっている。

斬新な視点と目覚しいストーリー展開が見る者をひきつけてやまない。

三田佳子の演技は達者を通り越して秀逸だった。ちょっとした仕草や表情が状況を雄弁に物語る、まさに名優の演技の極み。

そこに小松政夫のペーソスあふれる芝居と余貴美子の説得力あふれる所作言い回しが絡む。

そればかりではない。いわくいいがたい安藤玉恵の怪演や、松下由樹、村杉蝉之介、田中哲司

ほかの達者な役者たちの面白いやり取りが加わる。

ほかにも長い感想や鑑賞記を書く材料に事欠かない優れたドラマや面白い番組があった。

むろん首をかしげる出来の作品もあった。それらについて既に少し書いた。

次は『70才、初めて産みましたセブンティウイザン。』という物語について書く。

ドラマに関してはいったんそこで筆をおくつもりでいる。



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ドラマチックにダサいドラマたち

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のエントリーでNHKのドラマが無条件にすばらしいと誤解されかねない書き方をしたように思う。

そこでつまらないドラマについてももう少し明確に書いておくことにした。

前項でも少し触れたようにNHKのドラマにも無論たいくつなものはある。

実際に言及したものの中では 『子連れ信兵衛 』『ノースライト』『岸辺露伴は動かないⅡ』などが期待はずれだった。

また『正義の天秤』では、人間性とプロ意識が葛藤する場面で、主人公が弁護士バッジを外したり付けたりするアクションで問題を解決するシーンに‘噴飯もの’と形容したいほどの強い違和感を抱いた。

それは最も重要に見えたエピソードの中での出来事だったため、それ以外の面白いストーリーの価値まで全て吹き飛んだような気分になった。

また『70才、初めて産みましたセブンティウイザン』は、超高齢の夫婦が子供を授かった場合にあり得るであろう周囲の反応や、実際の肉体的また精神的苦悩が真剣に描かれていて、それが非常によかった。

しかし僕はそのドラマの内容に関しては、ドラマそのものが成立し得ないであろう、と考えられるほどの致命的且つ根本的な疑問を持ち続けた。それについては長くなるので次の機会に回すことにする。

山本周五郎原作の 『子連れ信兵衛 』は、周五郎作品に時々見られる軽易な劇展開を真似たようなシーンが多々あった。   

人物像も皮相で説得力がなかった。なによりもドラマの展延が偶然や都合のよいハプニングまた予定調和的なシーンに満ちていて、なかなか感情移入ができなかった。

山本周五郎の作品は周知のように優れた内容のものが多いが、中にはおどろくほど安手の設定や人間描写に頼るドラマもまた少なくない。それは多作が原因だ。

多作は才能である。周五郎を含めた人気作家のほぼ誰もが多作であるのは、彼らの作品が読者に好まれて需要が高いからにほかならない。

そして彼らはしっかりとその需要に応える。才能がそれを可能にするのである。

だがおびただしい作品群の中には安直な作品もある。それは善人や徳人や利他主義者などが登場する小説である場合が多い。

それらの話は、勧善懲悪を愛する読者の心を和ませて彼らの共感を得る。徹底した善人という単純さが眉唾なのだが、一方では周五郎の深い悪人描写にも魅せられている読者は、気づかずに心を打たれる。

小説の場合には、絵的な要素を読者が想像力で自在に補う分、全き善人という少々軽薄な設定も受け入れやすい。だが、映像では人物が目の前で躍動する分、緻密に場面を展開させないと胡乱な印象が強くなる。

それをリアリティあふれる映像ドラマにするためには、演出家の力量もさることながら、小説を映像に切り換える道筋を示す脚本がものを言う。

さらに多くの場合は、リアリティを深く追求すればするほど制作費が嵩む、などのシビアな問題も生まれて決して容易ではない。

それは2022年2月現在、ロンドン発の日本語放送で流れている「だれかに話したくなる  山本周五郎日替わりドラマ2 」でも起きていることである。

今このとき進行しているドラマでつまらないものをもう一本指摘しておきたい。

「歩くひと」である。

NHKの説明では「ちょっと歩いてくるよ」と妻に言い残して散歩に出た主人公が、日本各地の美しい風景の中に迷い込み、触れ、楽しみ、そしてひたすら歩く話、だそうだ。

そして“これまでにない、ファンタジックな異色の紀行ドラマ”がキャッチコピーである。

だが僕に言わせればそんな大層な話ではない。

紀行ドキュメンタリーではNHKはよくリポーターを立てる。リポーターは有名な芸能人だったりアナウンサーだったりするが、要するに出演者の目線や体験を通して旅を味わう、とう趣旨だ。

「歩くひと」では、井浦新演じる主人公が日本中を歩く。えんえんと歩く。歩く間に確かに美しい光景も出現する。

だが、「だからなに?」というのが正直な僕の思いだ。退屈極まりない。

僕はこの番組のことを知らず、従ってそれを見る気もなくテレビをONにした。すると見覚えのある顔の男が、酒でも飲んだのか路上で寝入る場面にでくわした。

それが主人公の井浦新なのだが、僕はそこでは彼の名前も知らないまま思わず引き込まれた。

それというのも井浦が出演するもうひとつのNHKドラマ、『路〜台湾エクスプレス〜』 の続編がちょうどこの時期オンエアになっていて、彼の顔に馴染みがあったのだ。

『路〜台湾エクスプレス〜』でも、井浦が演じる安西という男が酒を飲んで荒れる印象深いシーンがある。僕は突然目に入った「歩くひと」の一場面と『路〜台湾エクスプレス〜』を完全に混同してしまった。

『路〜台湾エクスプレス〜』が放送されているのだと思った。展開を期待して見入った。だが男は森や畑中や集落の中を延々と歩き続けるだけである。

番組が『路〜台湾エクスプレス〜』ではないと気づいたときには、僕はもうすでに長い時間を見てしまっていた。退屈さに苛立ちつつも、我慢して見続けた自分がうらめしかった。

この記事を書こうと思いついて念のために調べた。日本語放送の番組表なども検分した。そうやって僕は初めて井浦新という俳優の名を知り、「歩くひと」という新番組の存在も知った。

NHKは僕の専門でもあるドキュメンターリー部門で、「世界ふれあい街歩き」という斬新な趣向の番組を発明し、今も制作し続けている。

カメラがぶれないステディカムや最新の小型カメラを駆使して撮影をしている。その番組が登場した時、僕は「なんという手抜き番組だ!」と腹から驚いた。

世界中の観光地などを、観光客があまり歩かないような地域も含めてカメラマンひとりがえんえんと撮影し続けるのだ。ディレクターである僕にはあきれた安直番組と見えた。

ところが僕は次第にその番組にはまっていった。

今では訪ねたことのない街や国をそこで見るのが楽しみになっている。また愉快なのは、既に知っている国や街の景色にも改めて引き込まれて見入ることだ。

前述のように観光客があまり行かず、紀行番組などもほとんど描写しないありふれた場所などを、丹念に見せていく手法が斬新だからである。

「歩くひと」にももしかするとそんな新しい要素があるのかもしれない。

だが僕がそれを好きになることはなさそうだ。歩く主人公は僕が大嫌いな紀行物のリポーターにしか見えないからだ。

また景観をなめ続けるカメラワークにもほとんど新しさを感じないからだ。

ひたすら歩くだけの人物はさっさと取り除いて、景色をもっと良く見せてくれ、と思いつつテレビのスイッチを切った。

おそらく、少なくない割合の視聴者が自分と同じことを感じている、と僕はかなりの自信を持って言える。

今後番組の評判が高まって、シリーズが制作され続ければ、視聴者としては大いなる日和見主義者である僕は、あるいは改めてのぞいて見るかもしれない。

が、今のままではまったく見る気がしない。時間のムダ、と強烈に感じる。



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息苦しい報道キャスターは見ているこちらも息苦しい

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NHKの主だった番組は衛星を介してよく見ている。見過ぎるほど見ていると言ってもいいかもしれない。

僕はBBCほかの衛星英語チャンネルとイタリアの地上波も見ているが、両者はニュースとドキュメンタリー、またスポーツ番組以外はほとんど見ない。

一方、日本語の衛星放送は、ニュース、ドラマ、バラエティ、ドキュメンタリー、スポーツなど、あらゆるジャンルの番組をひんぱんに見ている。

僕がテレビをよく見るのは、自身が番組作りをするテレビ屋で且つテレビ番組が大好きだからである。それに加えて日本語や日本文化への渇望感があることが大きい。

かつてはインターネットはおろかテレビの日本語放送などなかった。

その頃は帰国するたびに、大量の本や雑誌を買い込んでイタリアに戻るのが僕の習いだった。週刊誌などはイタリアにいる時は広告までむさぼるように読んだ。

本は昔も今も変わらずに読む。読書は僕の最大の娯楽だ。しかし、日本語のテレビ放送の視聴に費やす時間が増えた分、読書量は減った。

昨今はそこにインターネットで遊ぶ時間も加わって、読書量がさらに削られることは否めない。

しかし、インターネットではかつて本で得ていた情報も得られるので、その領域の場合は時間的には差し引きゼロというところかもしれない。

役に立たない小説などの読書量が減ったのが少し苦しい。

情報や数字や理屈や経済などを語る本は人間を豊かにしない。知識が増え理屈っぽくなり論難に長けた専門バカ風の人間が出来上がるだけだ。

役に立たない小説本ほかの書籍の中にこそ、心を豊かにし情緒を鍛え他者を慮る繊細を伸ばす力が詰まっている。

前置きが長くなった。

NHKをはじめとするテレビの報道番組のキャスターについて語りたい。

僕は仕事でもまた視聴者としてもNHKに大きくお世話になっている。NHKのファンである。

ファンであるばかりではなく、世界のテレビ局とも付き合ってきたプロのテレビ屋としても、NHKを高く評価している。

NHKは報道、ドキュメンタリー、それにドラマ部門で英国のBBCに匹敵する。それらの3部門でBBCに劣るのは、報道における「時の政権」への批判精神だけだ。

いや、批判精神はあるのだろうが、日本の政治また社会風土ゆえに表立ってそれを標榜できず、結局権力に屈するような報道姿勢が垣間見える。

それでもNHKは日本のメディアの宝だ。BBCがイギリスの至宝であるように。

さて報道のうちの、NHKの顔とも言える夜9時のニュースキャスターが最近気になる。今このときで言えば和久田麻由子アナウンサーの身ごなし。

和久田麻由子アナは、美しい顔を皮膚のすぐ下あたりからこわばらせてしゃべる癖がある。

その時は彼女は、ひとりで懸命に深刻になっていて、あたかも世の中を嘆いてみせることがキャスターの役目と弁えているようだ。

聞くところによると彼女は学生時代に演劇を勉強した経験があるという。

表情の豊かさはそのあたりから来ているのだろう。しかし、報道は演技ではない。彼女はもっと淡々と語り、読み、表現するべき、と思う。

彼女が例えば難民の子どもの苦しい生活や、世界の悲劇や、貧困者の苦難や殺人事件などを報道するとき、まるで世界の悲しみをひとりで背負っているのでもあるかのように眉をひそめ、苦悶の表情をするのは少しうっとうしい。

相方の話に相槌をうちつつ、テレビ目線でこちら(テレビカメラ)に向かって流し目を送るのも、全く最善とは言いがたい。

彼女の意図は分かる。視聴者をリスペクトして視聴者の感興を求めて彼女はカメラに視線を投げている。だがそれは行過ぎた所作だ。やはり演技が過ぎるように思う。

キャスターが余計な表現をする習慣は、前任の桑子真帆アナウンサーあたりから顕著になった。

一つ一つのニュースを読み上げた直後に、桑子アナは唇をくいと大げさに引き締める。読後に唇がかすかに開くことを戒めているのだろうが、なんとも不自然な表情だった。

そのスタイルは相方の有馬嘉男キャスターが始めて、桑子アナも真似した印象が強い。むろん有馬キャスターのその仕草も決して見栄えの良いものではなかった。

和久田麻由子アナはその習いを受け継いで、さらに悪化させたと僕の目には映る。

報道番組のキャスターの態度が見ていてつらいこと以外にも、和久田アナの行状が好ましくないもっと重大な理由がある。

悪いニュースにことさら反応して胸の内を表現するなら、彼女は自分が気にいらないニュースにはいつも眉をひそめたり悲しんだり怒ったりしなければならない。

さらに例えば、彼女が支持しない政党の候補者が選挙で当選した場合も不快な気分を露わにしなければならない。報道キャスターとしてそれが許されないのは明らかだ。

彼女は以前、イタリアのベニスで女性受刑者を追いかけるバラエティドキュメントのリポーターをしたことがある。

僕はリポーターが誰なのか全く知らずにその番組を見ていた。若い女性リポーターからは、性質の素直と思いの深さがあふれ出ていて、美しいほどだった。大分あとになって僕はそれが和久田麻由子アナだと知った。

彼女はその分野にふさわしいキャラだと思う。

バラエティ系のドキュメンタリーやソフトニュースなどよりも、定時のニュース番組が格上という暗黙の理解がNHKにはある。

だから和久田アナも定時番組のキャスターになったことで、必要以上に固まって深刻さをアピールする傾向があるようだ。才能豊かな人だけにそれはとても残念だ。

和久田アナは報道ではなく、例えば小野文恵アナウンサーのようにバラエティ系番組の中でこそ最も輝くと思う。その方向に行かないのなら、彼女はもっと感情を抑えて報道しニュースを読む努力をすべきではないか

和久田アナに似たケースが、イタリアの公共放送RAIでも起きている。

RAIの看板番組である夜8時の女性キャスターの一人も特異な報道をする。

見ていてひどく居心地が悪い。

彼女の名前はラウラ・キメンティ(Laura Chimenti)。ニュースを読むのに大きく声を張り上げ挑むような調子で進む。

報道局内でセクハラやパワハラに遭っていて、それを告発したい思いが奇妙な調子になっているのではないか、とさえ僕などは意地悪く考えたくなる。

その枠にはほかにも3人のメインのキャスターがいる。男性2人と女性1人。

そのうちの女性キャスターはエンマ・ダクイノ(Emma D`aquino 。彼女は、例えばフランス2の有名キャスター、アンヌ・ソフィー・ラピ(Anne-Sophie Lapix)を彷彿とさせる。

落ち着いた、自然体の 、従って知性味にもあふれた優れたキャスターである。

和久田麻由子アナも、ここイタリアのラウラ・キメンティアナも、エンマ・ダクイノキャスターやアンヌ・ソフィー・ラピキャスターの爪の垢を煎じて飲めとまでは言わないが、少し見習って出直したほう良い。

この際なのでひとつ余計なことも付け加えておきたい。

和久田アナがときどき披露する、思わずのけぞってしまうほどにひどいファッションセンスは、歌手の夏川りみとどっこいどっこいの、どうでもよいことだと笑い、流して見ていられる。

が、彼女の余計な仕草や思い入れはそうは捉えられない。時間とともに少なくなっているようにも見えるが、ぜひとも改めてほしい。

一人の NHKファンとして切に願う。

もうひとつNHKへの苦言があるが、長くなるので次に回すことにした。




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女王陛下の平凡な、だが只ならぬ孤独  

女王黒い塊のような800

エディンバラ公爵フィリップ殿下の死去に伴う英王室関係の報道を追いかけていて最も印象的だったのは、教会の席に黒い小さな塊となって丸まり、頭をたれている老女王の姿だった。

73間年も連れ添った伴侶をなくして悲しみにくれるエリザベス女王は、落ちぶれたとはいえ強大な権威に包まれ人々の畏怖を集める、大英帝国の君主ではなく、どこにでもいる孤独な老女に過ぎなかった。

加えて、大英帝国あるいはイギリス連邦の君主のイメージと、小さな黒い塊との間の途方もない落差が、彼女をさらに卑小に無力に見せて哀れを誘った。

丸まって黒くうずくまっている94歳の女王はおそらく、夫の棺を見つめながら自らの死についても思いを巡らしていたのではないか。

彼女が自らの死を予感しているという意味ではない。

生ある限り人は死を予感することはできない。生ある者は、生を目いっぱい生きることのみにかまけていて、死を忘れているからだ。それが生の本質である。

生きている人は死の「可能性」について思いを巡らすことができるだけだ。そして思いを巡らすところには死は決してやってこない。死はそれを忘れたころに突然にやって来るのである。

夫の死に立会いつつ自らの死の影も見つめている老いた女性は、ひ孫世代までいる大家族の中心的存在である。彼女の職業はたまたま「英国女王」という存在感の大きな重いものだ。

職業あるいは肩書きのイメージ的には、背筋を伸ばし傲然と座っていてもおかしくない人物が、背中を丸め小さく固まっている姿はいたいけだった。そこに世界の同情が集まったのは疑いがない。

夫の棺をやや下に見おろす教会の席で、コロナ感染予防の意味合いからひとり孤独に座っている女王の姿には、悲しみに加えて、自らの人生の終焉を直視している者の凄みも感じられて僕はひどく撃たれた。

英国王室の存在意義の一つは、それが観光の目玉だから、という正鵠を射た説がある。世界の注目を集め、実際に世界中から観光客を呼び込むほどの魅力を持つ英王室は、いわばイギリスのディズニーランドだ。

おとぎの国には女王を含めて多くの人気キャラクターがいて、そこで起こる出来事は世界のトピックになる。むろんメンバーの死も例外ではない。エディンバラ公フィリップ殿下の死がそうであるように。

最大のスターである女王は妻であり母であり祖母であり曾祖母である。彼女は4人の子供のうち3人が離婚する悲しみを経験し、元嫁のダイアナ妃の壮絶な死に目にも遭った。ごく最近では孫のハリー王子の妻、メーガン妃の王室批判にもさらされた。

英王室は明と暗の錯綜したさまざまな話題を提供して、イギリスのみならず世界の関心をひきつける。朗報やスキャンダルの主役はほとんどの場合若い王室メンバーとその周辺の人々だ。だが醜聞の骨を拾うのはほぼ決まって女王だ。

そして彼女はおおむね常にうまく責任を果たす。時には毎年末のクリスマス演説で一年の全ての不始末をチャラにしてしまう芸当も見せる。たとえば1992年の有名なAnnus horribilis(恐ろしい一年)演説がその典型だ。

92年には女王の住居ウインザー城の火事のほかに、次男のアンドルー王子が妻と別居。娘のアン王女が離婚。ダイアナ妃による夫チャールズ皇太子の不倫暴露本の出版。嫁のサラ・ファーガソンのトップレス写真流出。また年末にはチャールズ皇太子とダイアナ妃の別居も明らかになった。

女王はそれらの醜聞や不幸話を「Annus horribilis」、と知る人ぞ知るラテン語に乗せてエレガントに語り、それは一般に拡散して人々が全てを水に流す素地を作った。女王はそうやって見事に危機を乗り切った。

女王は政治言語や帝王学に基づく原理原則の所為に長けていて、先に触れたように沈黙にも近いわずかな言葉で語り、説明し、遠まわしに許しを請うなどして、危機を回避してきた。英王室の人気の秘密のひとつだ。

危機を脱する彼女の手法はいつも直截で且つ巧妙である。英王室が存続するのに必要な国民の支持を取り付け続けられたのは、女王の卓越した政治手腕に拠るところが大きい。

女王の潔癖と誠実な人柄は―個人的な感想だが―明仁上皇を彷彿とさせる。女王と平成の明仁天皇は、それぞれが国民に慕われる「人格」を有することによって愛され、信頼され、結果うまく統治した。

両国の次代の統治者がそうなるかどうかは、彼らの「人格」とその顕現のたたずまい次第であるのはいうまでもない。

喪服と帽子とマスクで黒一色に身を固めて、小さな影のようにうずくまっているエリザベス女王の姿を見ながら、僕はとりとめもなく思いを巡らしたのだった。




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イタリアで観る月9劇 


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このブログのタイトルを≪【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信」≫としているのは、僕がテレビ番組の制作ディレクターだからである。主にドキュメンタリーと報道番組を監督する。

ロンドン、東京、ニューヨークと渡り歩いて、最後はイタリアのミラノに流れ着き、しばらく前までそこで事務所を構えていた。小さな番組制作プロダクションである。

会社組織にしてスタッフを入れると、NHKや民放など日本のテレビ局からの以来もあって、事務所では番組制作の手伝いをするコーディネーターの仕事もこなした。

僕は自ら企画を練り、テレビ局に提案して、番組を制作することが大好きだが、実はテレビを「観る」こともそれに劣らず好きである。

見るテレビはイタリアの地上波はもちろん、衛星放送でBBC, AlJazeera, CNN, Euronews, スポーツ専用局、そして日本のJSTVと多岐に渡る。

最近は、イタリアのテレビはニュースとスポーツ以外はほとんど見ない。見る価値がないと思っている。代わりにBBC,  Euronews、そしてJSTVをよく見る。

JSTVはロンドンに本拠がある。主に流しているのはNHKのほとんどの番組と民放のドラマなど。それらの番組とWEBを徘徊すれば、日本にいるのとほぼ同じ感覚で日々が過ぎる。

日本語放送やインターネットがなかった時代には、日本の情報に飢えていた。たまに週刊誌が手に入ったりすると、記事はもちろん広告なども食い入るようにして目を通していたほどだ。

今は衛星放送やインターネットのおかげで日本のことがほぼリアルタイムで分かる。英語と伊語の情報が日本語のメディアに加わる分、見方によっては日本国内の日本人よりも日本の情報を多く獲得しているかもしれない。

さて、そんな中で情報収集は別にして大いに楽しむのが日本語放送である。冒頭で触れたように僕はテレビ番組は制作も鑑賞も好きだ。そこで今後はイタリアで見るテレビ番組、特に日本のそれについても観覧記のようなものを書いていくことにした。

手始めはドラマ「監察医 朝顔」。民放番組の常で欧州では数ヶ月~半年ほどの遅れで放映される。監察医の主人公と刑事の父親と夫に絡めて、東日本大震災で行方不明になった母親と、彼らが仕事で関わる「遺体」を輻輳させ深化させる手法が面白い。

主人公の上野樹里は、NHの大河ドラマ『江~姫たちの戦国~』で、織田信長の姪で徳川2代将軍秀忠の妻のお江を演じた。当時番組をしばしば見ていた僕は、上野樹里の暗い無性格な印象の芝居に辟易した覚えがある。

ところが朝顔を演じる上野樹里は、きわめて自然体で微妙な演技のできる巧い俳優であることがわかった。少し驚き、好ましく思った。共演の風間俊介との真面目で軽快で雰囲気の良い「コンビ演技」も快い。

全体的に考証や設定や展開がしっかりして見ていて安心できる。ところが、第6話(5話だったかも・・)は消化不良が募った。認知症で徘徊していた老人が自宅に程近い場所で転倒して立ち上がれなくなる。

そのとき男が連れていた愛犬が彼を助けようとして前足を骨折。犬も立ち上がれなくなって男と犬はそこで衰弱死する。男と犬は白骨化して発見される。

老人と犬が都合よく足を骨折して起き上がれずに共に死ぬ仕掛け。しかも自宅近くが現場なのに、両者が白骨になるまで誰にも発見されない、という設定が嘘くさい。違和感に違和感が重なる展開だ。

だが致命的な消化不良感は次にやってくる。行き倒れた老人の息子が見つかるのだが、彼は父親を連れて帰ることを拒否し遺骨は警察で処理してくれという。

息子と生前の父親との間に何らかの問題があったことを知覚しつつも、主人公の朝顔が言う。「あなたのお父さんはこのままでは無縁仏になる。せっかく家族がいるのだから、そういったことは避けたほうがいい」と。

他者に優しい朝顔が死者の息子に食ってかかるのは、津波に流されて行方不明になっている母親への強い思いがあるからだ。せっかく発見された親を見捨てるな。私の母は未だに発見されてさえいないのだ!という心の叫びがある。

すると朝顔の心中を知らない息子が答える。「綺麗ごとを言わないでくれ。俺と親父のことなんか何も知らないくせに」と冷たく言い放つのである。きわめて劇的なセリフであり場面だが、父子のエピソードはそれきりで終わってしまう。

大きな消化不良が起こるのはまさにそこだ。いったいどのような壮絶なドラマが親子の間にあったのだろう、と視聴者は強く気を引かれる。なのに、ドラマはそのことには一切言及せずに別方向へと進行してしまうのである。

つまり行き倒れた老人とその息子の話はすっぽかして、朝顔夫婦が実家で父親と同居するに際しての、互いの気遣いや希望や愛や戸惑いが描かれる。そこには津波に呑み込まれて未だに行方が分からない既述の母親の記憶も強く作用する。

そして時間が一気に飛んで、一軒家で仲良く暮らす家族が描かれる。一連の場面には幼い子供がいて、親となった朝顔夫婦がいて優しいジイジになった朝顔の父親がいる。

相互に気遣う人々と、ほのぼのとした家族の物語は、視聴者の心を十分に引きつける。だが僕は、前述の白骨遺体と化した老人とその息子のドラマが見られなかった不満で、消化不良に陥ったまま番組を見終わった。ずさんなドラマ作りだという印象が強く残った。

老人と息子の葛藤話は次回に展開されるのかと思って続きも見たが、ドラマにはやはり彼らののエピソードは挿入されなかった。そんな手抜き(?)が起こるものだろうか。それとも僕が何か重大なことを見落としたのだろうか?

放送はまだ続くので、あるいはどこかで死者と息子の相克が挿入されるのかもしれない。それを期待しながら最後の最後まで観てみようと思う。




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