【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

テレビ屋が観るテレビ

アンチNHKまでは行かないが、辛いねNHK

parabola奥に雪山



1990年に放送を開始したNHK傘下のJSTV(ロンドン拠点)の必要性は、ネットをはじめとする各種媒体が隆盛する2023年の今は増々高まっている。決してその逆ではない。

時代の流れに逆行して日本語放送を停止するNHKの真意はどこにあるのだろう。NHKは世界から目を逸らしてドメスティックな思考に溺れているとしか思えない。

JSTVは欧州からアフリカを経て中近東までを包含し、ロシアを含む中央アジア全域に住まいまた滞在する日本人と、日本語を学ぶ外国人及び日本に興味を持つあらゆる人々の拠り所にもなっている媒体だ。

NHKJSTVを存続させて、ネットという便利だが危険性も高い媒体に対抗し、補正し、あるいは共生しつつ公に奉仕するべきではないか。後退ではなく前進するのが筋道と考える。

33年も続いたビジネスモデルを今になって突然捨てるとは、当初の成功がネットに押されて立ち行かなくなった、ということだろう。

NHKはネットに対抗する変革とビジネス努力をしっかりと行ってきたのだろうか。

ビジネスだからいくら努力をしてもうまくいかなかったということもあるだろう。それでも、あるいはだからこそ「公共放送」を自認するNHKは、傘下にあるJSTVを存続させる努力をするべきだ。

なぜなら ― 繰り返しになるが ― 33年前に必要とされた欧州・アフリカ・中東・ロシア&中央アジアをカバーする日本語放送は、2023年の今はもっとさらに必要とされているからだ。

ニーズは断じて減ってはいない。

時勢に逆行する施策にこだわるNHKは内向きになっている。昨今は日本中が内向きになりがちだ。従って世相から隔絶して存在することはできないメディアの、その一部であるNHKがトレンドに巻き込まれるのは分からないでもない。

だが同時に、NHKは日本のメディアを引っ張る最重要な機関でもある。内向きになり、心を閉ざし、排外差別的になりがちな風潮を矯正する力でもあるべきだ。

世界は日本ブームである。その大半は日本の漫画&アニメの力で引き起こされた。

世界中の多くの若者が日本の漫画&アニメを介して日本文化に興味を持ち、日本語を習い、日本を実際に訪ねたりしてさらに日本のファンになってくれている。

それらの若者がそれぞれの国で頼りにし、親しみ、勉強にも利用する媒体のひとつが日本語放送のJSTVだ。

日本の文化を愛し、日本語を話す外国人は、日本にとって極めて重要な人的リソースになる。

彼らは平時には日本の文化を世界に拡散する役割を担い、日本が窮地に陥る際には日本の味方となって動いてくれる可能性が高い。

ある言語を習得した者は、その言語の母国を憎めなくなる。ほとんどの場合はその言語の母国を愛し親しむ。日本語を習う外国人が、習得が進む毎にさらに日本好きになって行くのはそれが理由だ。

テレビに頼らなくてもむろん今の時代は情報収集には困らない。ネットにも情報があふれているからだ。

だがそこには残念ながら、欺瞞や曲解や嘘や偏見、また思い込みや極論に基づくフェイク情報なども多いのが現実だ。

そういう状況だからこそNHKは、踏ん張ってJSTVの放送を続けるべきだ。フェイクニュースやデマも多いインターネットに対抗できるのは、一次情報を豊富に有するNHKのような媒体だ。

膨大な一次情報を持つNHKの信条は、不偏不党と公平中立、また客観性の重視などに集約される。

個人的には僕は不偏不党の報道の存在には懐疑的だが、NHKがそこを「目指す」ことには大いに賛同する。

NHKの傘下にあるJSTVの哲学も、本体のNHKと同じである。特に報道番組の場合はNHKのそれが日本との同時放送で流れるから変りようもない。

その意味でもNHKJSTVの存続に力を注ぐのは、むしろ義務と言っても過言ではないと思う。

NHKが自ら報告する年次予算の決済はほぼ常に黒字だ。それを例年内部留保に回しているが、そのほんの一部を使ってJSTVを立て直すことも可能と見えるのにその努力をしない。

そうしない理由は明白だ。日本の政治と多くの企業がそうであるように、NHKも内向き志向の保守・民族主義勢力に支配されているからだ。

NHKにはむろん進歩的な国際派の職員もいる。だが彼らは多くの場合「平家・海軍・国際派」の箴言を地で行く存在だ。強い権力は持たない。

もしも彼ら、特に国際派の人々が権力の中枢にいるなら、NHKJSTVを見捨てないことの重要性を理解してその方向に動く筈だが、折悪しく状況は絶望的だ。



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「怪物」より怪物的に面白い「アバウト・シュミット」  

about Shmidt JNicolson650

 映画「怪物」の退屈にうんざりした直後、イタリアへと飛ぶ飛行機の中で、たまたまジャック・ニコルソン主演の米映画「アバウト・シュミット」を観た。

面白く心を揺さぶられる内容だった。映画の良さを再確認した。そこで先日批判した「怪物」との決定的な違いについて書いておくことにした。

ジャック・ニコルソン演じるウォーレン・シュミットは、一流保険会社からの定年退職をきっかけに自身の人生を見つめなおす環境に置かれる。

妻のヘレンと2人で悠々自適の生活のはずが、仕事のない日常は退屈で不満だらけ。ストレスがたまっていく。

わずかな救いは、アフリカの貧しい子供を救うプロジェクトに参加してささやかな寄付をし、手紙を通して6歳の男の子の養父となっていることだった。

そんな中、妻が突然亡くなり、遠くに住む一人娘とはたまにしか会えない。ひとりで悶々と暮らすうちに、死んだ妻が親友と浮気していたことを知り彼の心はすさむ。

彼は妻と2人で行くはずだったキャンピングカーを運転して、ひとりで自分探しの旅に出る。孤独と挫折を経験しながら、シュミットは次第に人生の意味を学んでいく。

最後には、自身が養父になっているアフリカの少年とのつながりも、美しい人生のひと駒であることを悟って、はらはらと涙をこぼす、という展開である。

「アバウト・シュミット」は、派手なアクションや麻薬や陰謀や殺人や戦闘シーン等々の活劇が無いヒューマンドラマである。その意味では「怪物」の系譜の映画だ。

「アバウト・シュミット」が「怪物」と決定的に違うのは、出だしは少したるい展開だが時間経過と共にストーリーが俄然面白くなる点だ。

「怪物」は逆に始まりが興味深く、時間経過と共に話は重くわかりづらくなる。思い入れたっぷりの展開がうっとうしい。

「アバウト・シュミット」では、観る者は観劇の途中で余計なことは何も考えずにストーリーに引き込まれて行く。そして笑い、ホロりとさせられ、感動する。

あげくには「観劇後に」いろいろと考えさせられる。優れた映画の典型的な作用である

片や「怪物」では、観客はストーリーを追いかけるのに苦労し理解しようと考え続け、ついには「映画館で」疲れ果ててしまう。

つまらない映画を観る観客がたどる典型的な道筋である。

実を言えば僕は「アバウト・シュミット」という映画の存在を知らなかった。

日本からイタリアまでの長いフライトに疲れてビデオ画面をいじくるうちに、ジャック・ニコルソンらしい画面が目に入った。

僕はジャック・ニコルソンのファンだ。「アバウト・シュミット」が21年も前の作品だとは気づかず、俳優が今も若いことをかすかに喜びながらストーリーに引き込まれて行った。

映画が2002年の制作で、ジャック・ニコルソンが先日死去したイタリアのベルルスコーニ元首相とほぼ同じ年齢の86歳と知ったのは、イタリアに戻ってネット検索をした時である。

僕は名優のファンだが彼の年齢には無頓着だった。もはや86歳と知って少し寂しくなった。

同時に21年の歳月を経ても色あせない「アバウト・シュミット」の名画振りを思い、改めて感慨に浸った。



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舞い上がりそうな「舞いあがれ」かも、かい?

砂漠離陸650

いつまでも舞い上がらない朝ドラの「舞いあがれ」は、舞い上がらないままに面白くないこともないが、ドラマとしての連続性がないのがもどかしい。

だが主人公・舞の親友の久留美が、なぜか長崎の総合医療病院でフライトナースになるらしい展開は、主人公の舞がいよいよ「舞上がる」ための伏線、と読めないこともない。

つまり舞は、久留美を追いかけて長崎の島々を結ぶ医療関連の飛行機のパイロットになる、という話の流れではないか。

あるいは先日FB友の方がここのコメントで指摘されたように、五島などの離島に飛んでいる航空会社の飛行機を舞が作って且つそのパイロットになる、という筋書きかもしれない。

そうなれば舞がパイロットとして舞い上がる、というドラマの暗黙の約束が果たされることになる。

だが僕はそんな経過になっても不満である。なぜなら舞には多くの旅客を運ぶ飛行機のパイロットになってほしいからだ。

ドラマは初っ端、夢の中で旅客機の機長となった舞が機内アナウンスをするところから始まった。

続いて男尊女卑のパイロット界で女性飛行士の舞が奮闘するストーリーが強く示唆され続けた。

それなのに、主人公が町工場の改革者になったり、小型飛行機のパイロットに納まったりするのはちょっと物足りない。

脚本や演出にとっては、舞がジェンダーギャップを乗り越えて男社会で活躍していくストーリーは荷が重すぎたのだろうか?

ドラマはまだ終わっていないので詰めの展開は分からない。

僕はストーリーが最後には舞い上がるのかどうか、という興味もあって朝ドラを見続けている。







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舞い上がらない「舞いあがれ」を舞い上がらせたい

飛ぶ舞切り取り650

寂しい出来だったNHK朝ドラ「ちむどんどん」に続く「舞いあがれ」を欠かさず見ている。

ロンドン発の日本語放送が1日に5回も放送をする。そのうちの1回を録画予約しておき、空き時間にクレジットを速回しで飛ばして時間節約をしながら目を通す。

このやり方だとほぼ見逃すことがない。

存在自体があり得ないデタラメな登場人物・ニーニーが、ドラマをぶち壊しにした前作とは違い、「舞いあがれ」は落ち着いた雰囲気で安心して見ていられる作りになっている。

ところが今回作は、ドラマツルギー的には「ちむどんどん」よりもさらに悪い出来になりかねない展開になっている。

「舞いあがれ」はこれまでのところ、前半と後半が全く違う展開になっているのだ。そのままで終われば構成が破綻した話になるのが確実だ。

主人公の舞がパイロットになるため勉強に励む前半と、パイロットになる夢を捨てて町工場を立て直そうと奮闘する後半が分裂と形容しても構わないほどに互いに独立した内容になっている

ひとりの若者が夢を諦めてもう一つの人生を歩む、というのは世の中にいくらでもある話だ。従って主人公が家業を手伝う流れは自然に見える。

だがこのドラマの場合は、ひとりの女の子がパイロットになるという夢を抱いてまい進する様子が前半の核になっている。いや、物語の全てはそこに尽きている。

成長した主人公の舞は、大学を中退してまで航空学校に入学し、パイロットになる夢を追いかけて格闘する。その内容はきわめて濃密だ。

パイロット養成学校の内幕と人間模様を絡めつつ、「男社会のパイロット界で、女性が道を切り開いていくであろう未来を予想させながら、説得力のあるドラマが続く。

そこに父親の死と家業存続の危機が訪れる。舞はプロのパイロットになる直前で一時歩みを止めて、家業の手助けをする決心をする。

そこには時代の流れで、舞の就職先の航空会社が採用を先延ばしにする、というアクシデントが絡まる。だから話の推移は納得できる。

舞は一度立ち止まるが、どこかで再びパイロットになるために走り出すだろう、と誰もが思う。なぜならドラマは冒頭からそれを示唆する形で進んできたからだ。

ドラマの内容のみならず、「舞いあがれ」というタイトルも、紙飛行機が舞うクレジットのイラスト映像も、何もかもがそのことを雄弁に語っている。

ところがドラマは、町工場の再建悪戦苦闘する舞と家族の話に終始して、パイロットの話は一向に「舞いあがらない」。忘れ去られてしまう。

この先にそこへ向けてのどんでん返しがあることをひそかに期待しつつ、ドラマがこのまま「町工場周辺の話」で終わるなら、それはほとんど詐欺だとさえ言っておきたい。

ドラマツルギー的にも構成がデタラメな失敗作になる。

ところが― 矛盾するようだが ―パイロット養成学校とその周辺の成り行きが主体の前半と、町工場の建て直しがコアの後半の内容はそれぞれに面白い。

大問題は、しかし、このままの形で終わった場合、前半と後半が木に竹を接いだように異質で一貫性のないドラマになってしまうことだ。

朝ドラは前作の「ちむどんどん」を持ち出すまでもなく、細部の瑕疵が多い続き物だ。

物語が完結したときに、それらの瑕疵が結局全体としては問題にならない印象で落ち着くことが、つまり成功とも言える愉快なシリーズだ。

「ちむどんどん」はそうはならなかった。主人公の兄の人物像が理解不可能なほどにフェイクだったのが大きい。

「ちむどんどん」の大きな瑕疵はしかし、飽くまでも細部だった。話の本体は主人公暢子の成長物語である。

一方「舞いあがれ」がパイロットの物語を置き去りにして町工場周辺の話のみで完結した場合、それは細部ではなくストーリーの主体が破綻したまま終わることを意味する。

そうなればドラマツルギー的には呆れた駄作になること請け合いだ。

それとは別に個人的なことを言えば、パイロットの育成法や彼らのプロとしての生き様に強い関心を抱いている僕は、それらが中途半端にしか描かれないことにさらなる不満を抱く。

加えて女性パイロットが、いかにして「冷静沈着」な職業パイロットへと成長して男どもと対峙し、また理解し合い、飛行時の困難や危険を回避して「舞いつづける」かも見たかったので腹が立つ

今が旬のジェンダーギャップ問題にも大きな一石を投じる機会だったのに、と余計に残念だ。

「舞いあがれ」は複数の脚本家が担当しているという話を聞いた。そのせいで前半と後半のストーリーが違う、という言い訳もあるようだ。だがそれはおかしな主張だ。

構成が破綻した脚本を受け入れる演出家も、その成り行きを許すプロデュサーも理解しがたい。前作の「ちむどんどん」に関しても僕はほとんど同じ疑問を呈した。

NHKは大丈夫か?とさえ締めくくりたくなるが、流石にそれはできない。なぜならNHKのドラマ部門は、報道やドキュメンタリー部局に全く引けを取らない充実した作品を作り続けているからだ。

衛星放送のおかげで、外国に居住しながらNHKの番組を多くを見続けている僕はそのことを知悉している。

朝ドラの不出来は、やはり一本一本の瑕瑾と見なすべきものだ。

その伝で言えば「ちむどんどん」にはがっかりしたが、「舞いあがれ」は欲求不満でイラつくというふうである。

むろん、どんでん返しでパイロットのストーリーが展開されれば話はまた別、とあらかじめ言っておきたい。

だが、終盤が近い今の段階で展開が変わっても、尻切れトンボになる気配が濃厚であるように思う。

物語を元の軌道に戻すには町工場の話が長過ぎたと見える。それを力ずくで大団円に持ち込むことができるなら演出の力量はすばらしいものになる。

僕はここまでドラマツルギーと言い、構成と言い、一貫性や破綻などと言った。あるいは論理や方法論などを持ち出して批判することもある。だがそれらは飽くまでも傍観者の評論である。

論理や方法論で人を感動させることはできない。たとえそれらが破綻していても、視聴者を感動させ納得させることができればそれが優れたドラマだ。

朝ドラはよくそれをやってのける。

ここから終幕まで、演出のお手並み拝見、といきたい。




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型の「型ぐるしさ」は人間をロボットにする


チーズ木型650

衛星を介してNHKの番組をよく見る。なかでもニュースはほぼ毎日欠かさずに見ている

時間がないときは録画してでも見る番組もある。日本ではBS1で放送され、総合テレビの深夜にも再放送されているらしい「国際報道2022」である。2014年に始まり毎年年号だけを変えて続いている。

この番組は世界各地のニュースをまとめて掘り下げて見せる、NHKならではの見甲斐がある内容だから、外国に住む身としては親近感も覚える。

同時に僕はBBCCNNEuroNewsAl Zzeeraなどの英語放送とイタリアのNHKであるRAIの報道番組等も欠かさず見ている。なので「国際報道2022」を情報収集というより“日本人による世界の見方”という観点で注視することが多い。

番組の内容は世界中に張り巡らされたNHKの取材網を駆使して構成され面白く深い。だがそれを伝えるスタジオの構成に違和感を覚える。

このことは2017年に番組のメインキャスターになった花澤雄一郎記者にからめても書いた

それは物知りの兄貴に教えを請うおバカな妹、という設定への疑問だ。花澤キャスター時代に始まり、次の池畑修平キャスター時代へと受け継がれた。

設定は相変わらずだったが、池畑キャスターはもしかすると時代錯誤な設定への疑問が内心あったのではないか、という雰囲気が感じられた。

それでも番組の構成が変わることはなかった。ちなみにおバカな妹役のサブキャスターは増井渚アナから酒井美帆アナへと変わった。

油井秀樹キャスターに変わってから国際報道には別の不穏な仕様も加わった。

番組の冒頭で、カメラに向かって斜めに並び立っている3人のキャスターが、次のカットで切り替わるカメラに向かって回れ右をする。

その動きが3人共に完璧でまるでロボットのように少しのズレもない。日本的な完全無欠の動作だが、とても違和感がある。忌憚なく言えばほとんど滑稽だ。

カットはその日のニュース項目を表示するために成される。カメラを引いて大きくなった画面に項目をスーパーインポーズするのである。

だがそのシーンは、3人の出演者が「ロボット的」という以外には何の豊かさも番組にもたらさない。項目を表示したいなら初めから画面を広げておくなど、幾らでも方法はある。

珍妙なシーンが毎回繰り返されて飽きないのは、制作者が滑稽に気づかず且つ3人の動きが「型」として意識されているからだと考えられる。

「型」になった以上、それは自由よりもはるかに重要な要素と見なされるのが日本社会であり、日本的メンタリティーだ。

型の奇怪さは多々あるが、例えば教会での結婚式の際のバージンロードの歩き方などもそうだ。

バージンロードという和製英語はさておき、絨毯を父親と花嫁が歩く際に一歩一歩を型にはめて歩くのは珍妙だ。結婚式場業界が作った型にからめとられているのが悲しい。

結婚式はドラマだからそれでいいという考えもあるかもしれない。だが、不自然すぎて居心地が悪い。

確かに結婚式は晴れ舞台だが、型が肝心の歌舞伎や能などの芸能舞台ではないのだから、型にはめずに自由に動くほうがいい。

型には型の美しさがある。だが「型を破る」という型もあることを認めて、もう少し精神や発想の自由を鼓舞するほうが人間らしいし、より創造的だ。

型にこだわり過ぎる「国際報道2022」のオープニングは、「報道のNHK」の一角を担う重要な番組の絵造りとしては寂しい、と毎回違和感を覚えつつ見るのはかなり辛い。



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「ちむどんどん」の俳優は皆ど~んと輝いていた

4人海で横長

演出の罪

「ちむどんどん」スペシャルを見た。比嘉家の4兄妹が終わったばかりの番組について素の俳優に戻って語り合う、という趣向だった。

和気あいあいとした彼らの語りはすがすがしく納得できる内容だった。役回りについての4人のそれぞれの思いもきっちりと伝わった。

進行役を務めた川口春奈の自然でユーモラスで思いやりに富んだ語り口が印象的だった。僕ははたちまち彼女のファンになった。

4人の俳優のトークは、彼らが人間的にすばらしい若者たちで、且つプロの優秀な役者であることをあらためて示していた。それを確認できたことを僕は嬉しく思った。

僕は「ちむこんどん」については否定的な立場でこれまでに何度もそう書いてきた。僕のネガティブな見方は、繰り返して述べたように演出をはじめとする制作者へのものだった。

特に演出への批判は尽きなかった。脚本が悪いという意見も多くあったようだが、そして僕もそのことを否定はしないが、脚本は演出によっていくらでもダメ出しができる。

従って脚本にダメ出しをしなかった演出はもっとさらに責められるべきだ。

僕は演出家を筆頭にする「ちむどんどん」の制作陣の名前は一切知らない。ドラマの中身だけを見て批評した。それができたのは番組を録画して、クレジットの部分を飛ばして見続けたからだ。

そこには時間節約の意味もあったが、名前よりも制作のコンセプト、つまり演出の意図と彼の役割のみを重視したいという考えがあった。

日本の制作環境

僕はドキュメンタリー制作者だが下手な演出家でもある。その僕の数少ない劇作の経験によると、日本では演出の責任が少しあいまいであるように記憶している。

僕は劇作をする場合、脚本に注文をつけることを恐れない。というか、演出家は自己責任において脚本を管理下に置くべきだ。

管理下に置くことはほとんど義務だ。なぜなら脚本を含む劇作の全ての責任は演出にあるからだ。重ねて言いたいが、作品の結果の責任は、成功、失敗の区別なく一切が演出にある

ところが日本では、ドラマ作りのような極めてクリエイティブな世界でも和の精神が生きていて、演出の絶対的な権威よりもスタッフ全員の合意を重視するように感じた。

そういう環境では作品の核がぼやける危険がある。

そして日本のドラマ制作ではその危険が現実化するケースが多い。「ちむどんどん」はまさにその陥穽にはまったのだと思う。

和の重視は笑いの敵

恐らく制作の現場では出演者や技術系を含む全てのスタッフが、演出側と共ににーにーの演技に笑い、楽しみ、存在を盛り上げたに違いない。和の精神で全員が高揚する場面が見えるようだ。

それは良いのだが、全ての責任を負っている演出は、そこから一歩引いて、現場の笑いが直接に茶の間の笑いになるのではないことを冷静に見極めなければならない。

スタッフと共に盛り上がる演出はそのことを忘れたフシがある。和の精神に引きずられて、演出の責任を共有するとまでは言わないが、演出の実存である「孤独」と「責任」を放棄している。

それでなければ、にーにーが牽引する杜撰なシーンがこれでもかとばかりに提示され続けた理由が分からない。演出が独りで考え断固として差配していれば起こりにくいことだ。

現場でスタッフが大笑いするシーンは、得てして茶の間にシラケを呼び込む。演出は劇中の笑いが、彼とスタッフが鬼面になり苦しんで作り上げるものであることを軽視している。僕にはそう感じられる。

そこには「劇作りは演出が全て」という厳しい掟がおざなりになって、スタッフ全員が“共同で”シーンを作り上げていく、という和の精神の横溢が見える。既述のようにそれは往々にして作品の核を破壊する。

脚本の不備も演出の罪

演出は脚本が提示したにーにーのキャラクターに、それがドラマの大いなる欠陥であることに気づくことなくOKを出し、その結果引き起こされるさまざまなエピソードも良しとした。

のみならず彼自身も大いに自己投影して、にーにーが視聴者にたくさんの“笑いを届け得るキャラクター”だと信じ切り、劇作りの現場でそのように演出した。

その結果、映画「男はつらいよ」の寅さんを強く意識した、馬鹿で惚れっぽい愛すべき男の形象がふんだんに詰め込まれた。しかし全てが空回りした。

空回りしたのは同じようなシーンが頻出したからだ。たとえに-にーが本物の馬鹿であっても、現実世界でなら必ず歯止めがかかるはずの成り行きが、そうはならずに何度も見過ごされた。

しかも再三提示される(演出が面白いと信じているらしい)にーにーの動きは、ひたすら鬱陶しいだけだった。視聴者が疲れていることに気づけない演出の独りよがりはさらにもっとつまらなかった。

半年にも渡ってほぼ毎日放映される朝ドラは、ドラマツルギー的には全体にゆるい軽いものにならざるを得ない。従ってソープオペラよろしくある意味では批評に値しない。

それでも僕が批評じみた文章を書いたのは、ドラマの瑕疵が大きく、しかもそれは役者の問題ではなく「演出の問題」であることを指摘したかったからだ。

素晴らしい俳優たち

筆者は「ちむどんどん」スペシャルに顔を出した4人の俳優のうち、3人の演技を別番組で見て既に知っていた。

主人公の暢子役の黒島結菜はNHKドラマの「アシガール」、 にーにー役の竜星 涼は日本テレビの「同期のサクラ」、良子の川口春奈はNHK大河ドラマ「麒麟が来る」でそれぞれが好演していた。

彼らはドラマの内容も、それぞれの役のキャラクターも全く違う「ちむどんどん」の世界でも、きちんと仕事をこなした。彼らはいずれ劣らぬ有能な俳優なのだ。

末っ子の歌子を演じた上白石萌歌は「ちむどんどん」で初めて知ったが、おそらく彼女の場合も同じでだろう。難しい役回りの歌子をしっかりと演じていたのを見ればそれは明らかだ。

彼ら4人を含む「ちむどんどん」の多くの出演者は、脚本を支配する(しているはずの)演出の指示のままに彼らの高い能力を十二分に発揮して、それぞれの役を演じた。

その長丁場のドラマは、竜星 涼という役者が彼の優れた演技能力を思い切り示して演じた、にーにーというキャラクターとエピソードがNGだったために、大いに品質を落とした。

それは断じて役者の咎ではなく、これまで繰り返し述べたように演出の責任だ。演出は ― くどいようですが― 脚本をコントロールできなかったことも含めて批判されなければならないのだ。

一方、役者は脚本と演出が示すキャラクターを十全に演じ切った。そうやって愚劣なエピソードが積み重ねられ、リアリティのない不出来一辺倒のにーにーという人物像が一人歩きをした。

にーにーほどの不出来ではないが、主人公の暢子の人物像も感心できないものだった。本来なら前向きで明るいはずの主人公の暢子のキャラクターも、にーにーとの絡みで混乱した。

彼女もまたニーニーに似て、いい加減で鈍感な女性、と英語本来の意味での「ナイーブ」な視聴者に認識されてしまったフシがある。

再び言いたい。暢子の問題は断じて演者である黒島結菜の問題ではなく、暢子と劇を作り上げた制作者の、もっと具体的に言えば演出の責任である。

リメイク版があるならば

「ちむどんどん」は、にーにーのエピソードを思い切り短縮して、且つ人物像をリアルなものにしない限り、ドラマ全体の救済はできない。

それができれば、にーにーとの関わりで視聴者の不評をかった暢子の場面の改善や削減もできる。そしてその改定場面は連鎖して必ずほかの場面の内容の向上にもつながる。

だがそれは、たとえ番組のリメイクが許されたとしても恐らく実現しない。なぜならスペシャル版では、スピンオフ物語として性懲りもなくにーにーの物語がまた挿入されていたからだ。しかも再び長々と。

つまり制作サイドは、にーにーの存在の疎ましさがドラマの最大の瑕疵だと気づいていない。あるいは気づいていても認めたくないようだ。

一方で、4人の兄弟を始めとする出演者の全員はそれぞれがキラ星のごとく輝いていた。誰もが胸を張って今後のキャリアに邁進してほしいと思う。

中でも僕は、特に演出の失態の損害を被ったように見える黒島結菜に大きなエールを送りたい。





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「ちむどんどん」の微妙な大団円

魂よび650

NHKの朝ドラ「ちむどんどん」が終了した。大団円と形容しても良いフィナーレも相変わらず微妙だった。

だが、時間を一気に40年も飛ばした後で元に戻して終わる正真正銘の最後は、フィクション(ドラマ)の基本である時間経過の魔法を上手く使っていると感じた。

その一手だけでも、6ヶ月に渡った消化不良の一部がきれいさっぱり無くなった気がした。

結局、この長丁場のドラマの最大の欠陥は、これでもかとばかりに愚劣なエピソードを重ねた“にーにー”の存在だったこが明白になった。

多くの視聴者は、主人公の暢子のキャラクターにも好感を抱かなかったようだ。それが嵩じて役者自体の評判も悪くなっている風潮もあるらしい

主人公の暢子は料理にひたむきに取り組む一本気な女性として描かれる。彼女は料理に没頭するあまり、人情の機微に疎いKY(死語?)な女性であり続ける。

終盤では妹とその恋の相手が、衆目集まる前で感動の抱擁に至る直前、無謀にも2人の間に割って入って、恋人を押し退け妹を思い切り抱きしめることまでする。

多くの視聴者が「は?」と首を傾げた)に違いない演技は、役者ではなく演出のキテレツな感性が生み出したタワケだ。

演出は“暢子の愛すべきキャラクター”の一環としてそのシーンを描いている節がある。だが、そこだけに限らず、笑いを目指しているらしいエピソードの全てが空回りしている。

演出家にはユーモアのセンスがない。鈍感な暢子という視聴者の評判があるらしいが、そうではなくて演出が鈍感なのである。

断っておきたいが、僕は監督が誰なのか知らない。エンドクレジットも見ていない。彼(彼女)は明らかに能力のある演出家だ。全体の差配力も高い。何よりもNHKが演出を任せた監督だ。実力がない訳がない。

僕はドラマの演出も少し手がけた者として「ちむどんどん」を批判的に見ていて、脚色の不手際を指摘しつづけている。しかしそれはいわば細部の重大な欠点についてのもので、演出家の存在の全体を批判したいのではない。

完璧な演出家も完璧な演出もこの世には存在しない。それは「ちむどんどん」の場合も同じだ。僕は「ちむどんどん」の実力ある演出家の失点を敢えてあげつらって、ドラマの出来具合を検討してみたいだけなのである。

主人公の暢子のエピソードも人物像も、にーにーのそれも、つまるところ、前述のように演出家のユーモアのセンスの無さが生み出す齟齬、と僕の目には映る。

すべりまくるシーンのほとんどは、明らかに笑いを誘う目的で描かれている。だが一切うまく機能していない。

暢子の故郷である沖縄山原(やんばる)、東京、横浜市鶴見のシーンは割合に巧く描かれていると思う。だがしつこいようだが、主人公の暢子とその兄のにーにーの人物像とエピソードが辛い。

それはどちらも細部だ。しかし、物語の中核あたりにちりばめられた大きな細部であるため、結局ドラマ全体に深い影を落としてしまった。

視聴者の眉をひそめさせ、考えさせる優れたドラマの制作は難しい。多くのドラマがそこを目指して失敗する。

そして視聴者を笑わせるドラマを作るのは、もっとさらに至難だ。

さらに言えば、視聴者を笑わせ同時に考えさせるドラマは、天才だけが踏み込める領域だ。例えばチャップリンのように。

「ちむどんどん」は全体としては一定の水準を保つドラマながら、制作が非常に困難な笑いのシーンのほぼ全てでコケた、というのが僕の評価だ。

長帳場の朝ドラだから、資金力と能力のあるNHKとはいえ、安手のシーンや展開が頻繁に見られるのは仕方がない。

それらの瑕疵は以前にも言及したように、終わりが良ければ全て良しという雰囲気で仕舞いになるのが普通だ。「ちむどんどん」もそうだと言いたいが、やはり少し厳しい。

最終回の前日、重要キャラクターのひとりである歌子が昏睡(危篤?)状態になり、暢子に率いられた兄妹が、他人も巻き込んで海に向かって助けを求めて叫ぶシーンが放送された。

それは「理解不能だ」「もはやカルトだ」などとネット民の大ブーイングを呼んだらしい。だがネット民ではなくても、恐らく多くの視聴者が展開の唐突と場面の意味不明に驚いたのではないか。

何の説明も無く挿入された物語を僕は次のように解釈した。

あれはいわゆる「魂(たま)呼び」あるいは「魂呼ばい」の儀式である。死にかけている人の名を呼んで、肉体から去ろうとする魂を呼び戻し生き返らせようとする古俗の名残だ。

今のように科学が進んでいない時代の人々は、愛する者の死の合理的な意味が良くわからない分、恐らくわれわれよりもさらに強く死を恐れた。同時に奇跡も信じた。

恐れと祈りに満ちた強い純真な気持ちが、 魂(たま)呼びという悲痛な儀式を生んだ。そのやり方は地方によって違う。

井戸の底に向かって呼びかけたり、西に向かって叫んだり、屋根の上で号泣したりもする。井戸は黄泉の国につながっている。西方浄土は文字通り西にある。屋根に上れば西方への視界も開ける。

時代劇などで、人々が井戸の底に向かって死者や危篤者の名を呼ぶシーンを見たことがある読者も多いのではないか。井戸はあの世につながっているばかりではなく、底にある水が末期の水にも連動している。

沖縄の民間信仰では死後の理想郷は海のかなたにある。いわゆるニライカナイである。儀来河内とも彼岸浄土とも書く。それは神話の「根の国」と同一のものであり、ニライは「根の方」という意味である。

そこで沖縄の兄妹は、必死に海に向かって助けを求めて叫ぶのである。しかし呼ばれたのは病人の歌子の名前ではなく、死んだ父親の魂だ。

僕が知る限り沖縄には魂呼びの風習はない。だから危篤の歌子の名前ではなく、ニライカナイにいる亡き父の魂に呼びかけて助けを求めた、と解釈した。

だが兄妹が突然海に向かって叫ぶ場面の真の意味を、いったい何人の視聴者が理解していただろうか?極めて少数ではないか。もしかするとほぼゼロだったかもしれない。

ニライカナイという概念を知っている沖縄の視聴者でさえ首を傾げた可能性が高い。それほど唐突な印象のエピソードだった。

そんな具合にすっきりしないまま、ドラマは翌日の最終回を迎えて、歌子は元気に年齢を重ねて40年が過ぎた、という展開になる。

中途半端や荒唐無稽や独りよがりの多いドラマだったが、ニライカナイの概念と魂呼びの風習に掛けたらしい挿話を、突然ドラマの終わりに置いた意図も不明だ。

あのシーンはもっと早い段階で展開させたほうが、珍妙さが無くなって深みのあるストーリーになったと思う。

返す返すも残念な仕上がりだった。






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絵空事の真実と虚無~国葬の意義、君主の価値

道路ユニオンジャック翻る

2022年9月19日、イタリア時間午前11時55分頃、習慣で定時のBBCニュースをチェックしようと衛星放送をONにした。

するとエリザベス女王の葬儀の模様が目に飛び込んできた。

スペクタクルな絵の連続と荘厳な雰囲気にぐいと惹きつけられた。

イタリア公共放送RAINHKEURONEWSAlJazeeraCNNと次々にチャンネルを変えてみた。全ての局が生中継で儀式の様子を伝えていた。

このうちNHKの7時のニュースは、冒頭の数分間のみの生中継で別ニュースに変わった。

BBCに戻り、腰を落ち着けて観始めた。

BBCの生中継は、その後えんえんと6時間も続いた。

RAIは見事な同時通訳付きでBBCの放送を同じく最後まで中継した。

EURONEWSも全体を生放送で伝え続けた。CNNAljazeerahaはその後は確認しなかったが、おそらく同じ状況だったと思う。

エリザベス女王がいかに英国民と英連邦の住民に敬愛されていたかが分かる式典だった。

彼らの思いは全世界の人々に伝播し、感動が感動を呼んだ。世界中の放送局が熱く報道し続けたのがその証拠である。

式典にはまた、イギリスが国の威信をかけて取り組んだ跡がまざまざと刻印されていた。

エリザベス女王の死去を受けてすぐに行われた一般弔問から、遺体が埋葬されるウインザー城まで展開された壮大な葬儀式は、10年以上も前から周到に準備され、繰り返しシミュレーションされ訓練され続けてきたものである。

軍隊が式典の核を占めているからこそ完成できた大きな物語だと思う。

そこには大英帝国時代からのイギリスの誇りに加えて、Brexit(英国のEU離脱)の負の遺産を徹底して抑える意図などが絡んでいる。

むろん70年という異例の長さで英国を支え、奉仕し、国民に愛された巨大な君主を葬送する、という単純明快な意味合いもあった。

運も英国と女王に味方した。つまりコロナパンデミックが収まった時期に女王は逝去した。

だから英国政府は式典に集中することができ、英国のみならず世界中の膨大な数の人々がそれに参画した。

式典の終わりに近い時間には、偶然にも米バイデン大統領が「アメリカのコロナパンデミックは終息した」と正式に述べた。

僕は式典の壮大と、BBCの番組構成の巧みと、歴史の綾を思い、連想し、感慨に耽りながら、ついにウインザー城内での最後の典礼まで付き合ってしまった。

強く思い続けたのは、間もなく行われるであろう安倍元首相の国葬である。

エリザベス女王の無私の行為の数々と崇高で巨大な足跡に比べると、恥ずかしいほどに卑小で、我欲にまみれた一介の政治家を国葬にするなど論外だと改めて思う。

自民党内の権力争いの顕現に過ぎない賎劣な思惑で、国葬開催に突き進む岸田政権は、もはやプチ・ファシズム政権と形容してもいい。

今からでも国葬を中止にすれば、岸田首相は自らを救い、日本国の恥も避けることができるのに、と慨嘆するばかりだ。

いまこの時の日本に国葬に値する人物がいるとすれば、それは上皇明仁、平成の天皇以外にはない。

平成の天皇は世界的に見れば、かつての大英帝国の且つ第2次大戦の戦勝国である英国君主の、エリザベス女王ほどの重みを持たない。

だが平成の天皇は、戦前、戦中における日本の過ちを直視し、自らの良心と倫理観に従って事あるごとに謝罪と反省の心を示し、戦場を訪問してひたすら頭を垂れ続けた。

その真摯と誠心は人々を感服させ、日本に怨みを抱く人心を鎮めた。そしてその様子を見守る世界の人々の心にも、静かな感動と安寧をもたらした。

平成の天皇は、その意味でエリザベス女王を上回る功績を残したとさえ僕は考える。なぜならエリザベス女王は、英国の過去の誤謬と暴虐については、ついに一言も謝罪しなかった。

英国による長い過酷な統治は、かつての同国の植民地の人々を苦しめた。むろんエリザベス女王は直接には植民地獲得に関わっていない。だが英国の君主である以上、彼女は同国の責任から無縁ではありえない。

エリザベス女王は、人として明らかに平成の天皇に酷似した誠心と寛容と徳心に満ちた人格だった。

だが彼女は、第2時世界大戦によってナチズムとファシズムと日本軍国主義を殲滅した連合国の主導者、英国の君主でもあった。

彼女には第2次大戦について謝罪をする理由も、意志も、またその必要もなかった。むしろ専制主義国連合を打ち砕いた英国の行為は誇るべきものだった。

その現実は過去の植民地経営の悪を見えなくする効果があった。だから女王はそのことについて一言の謝罪もしなかった。その態度は世界の大部分にほぼ無条件に受け入れられた。

だが、英国に侵略され植民地となった多くの国々の人々の中には、女王は謝罪するべきだったと考える者も少なくない。彼らの思いは将来も生き続ける。

その意味では、過去の過ちを謝罪し続ける平成の天皇は、エリザベス女王の上を行く徳に満ちた人格とさえ言えると思う。

岸田政権は姑息な歴史修正主義者の国葬に時間を潰すのではなく、世界にも誇れるそして世界も納得するに違いない、上皇明仁の国葬のシミュレーションをこそ始めるべきだ。

英国政府が10余年も前からエリザベス女王の国葬の準備を進めていたように。



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ダイコン役者ではなくダイコン演出家が罪作りである

ちむ4兄弟650

NHKの朝ドラ「ちむどんどん」の役者がつまらないなら、それは演出がダイコンでありプロデュサーがボケだからである。

役者の力量は役者自身の責任である。役者はそれを背負って出演依頼の声がかかるのを待つ。あるいは出演審査のオーディションに向かう。

役者の力量は目に見えている。それを見抜けないのがダイコン演出家である。

役者の力量を見抜けない彼は、撮影現場では役者の拙い演技に気づかず従ってアドバイスもダメ出しもでずきない。

むろん彼は役者のオーバーアクション(演技過剰)も制御できない。そうやって例えばにーにーの大げさなクサい芝居が次々に繰り出される。

役者がオーバーアクションをするのは、つまり彼が役者だからだ。彼には役者の素質があるのである(素人には過剰演技はできない。過剰演技どころか固まって何もできないのが素人だ)。だから彼は撮影現場まで進出できた。

役者をコントロールするのが演出だ。この場合のコントロールとは、もちろん役者を縛ることではない。演出の意図に合うように彼らを誘導することだ。

役者は台本を読み、演出家と打ち合わせをして、必ず演出の意図に合う芝居を心がけている(大物役者が演出を無視して勝手に動く問題はまた別の議論だ)。

だが役者は独立した一個の個性だから、彼の個性で台本を解釈し演出の意図を読み取り表現しようとする。

演出家は役者の表現が自らの感性に合致しているかどうかを判断してOKを出す。あるいはダメ出しをする。実に単純明快な構図である。

ダイコン演出家は自らの意図が何であるかが分からない。だからコンテンツが乱れ、混乱する。そうやって下手なドラマが完成していく。

「ちむどんどん」の不出来の責任は全て、脚本の下手を見抜けず役者を誘導できない演出の責任である。その演出家を選んだプロデュサーの責任も重い。

だが最大最悪の罪は、脚本を把握し、役者を手中に置き、現場の一切を仕切る演出(監督)にある。

もう一度言う。ドラマがすべりまくるのは役者が下手なのではなく、演出家がダイコンだからだ。

ダイコン演出家の手にかかると脚本も役者もそしてドラマそのものも「大ダイコン」にすべりまくる。

一方で演出は、ドラマが成功すれば脚本の充実も役者の輝きも全て彼の力量故という評価を得る。

演出とはそんな具合に怖い、且つ痛快な仕事だ。

だから視聴者は役者ではなく、「痛快」を楽しむことができるのにそうしない(できない)演出家を罵倒するほうが公平、というものである。



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「ちむどんどん」はド~ンと悲しい

ちむどんどん

NHKの朝のテレビ小説「ちむどんどん」をほぼ毎回見ている。

ロンドン拠点にするNHK系列のペイTV早朝、朝8時、昼、さらに夜と一日に4回放送する。そのうちの早朝か8時の放送を見ている。

時間が合わない場合は録画をしておいて鑑賞する。

ドラマとしては突っ込みどころ満載の欠陥作品と言って良い。え?と思わず目や耳を疑うシーンや展開が多い。

だが長丁場のテレビ小説だ。細部の瑕疵は、全体として最終的にうまくまとまれば通常はたいして気にならなくなる。目くじらをたてることはない。

しかし「ちむどんどん」はどうも具合が悪い。ひっかかる小疵が多すぎるばかりではなく、致命的と呼んでもいい欠点も幾つかある。

なんといっても主人公、暢子の兄であるニーニーの人物像がひどい。バカのように描かれているが、彼は実はバカではない。

ドラマで描かれるバカは、演出が確かならバカなりに視聴者はその存在を信じることができる。ところがそこで描かれているニーニーは、存在自体が信じられない。

あり得ない人物像だから彼はバカでさえないのである。

ニーニーは「男はつらいよ」の寅さんのパロディーでもある。しかし完全に空回りしていて目を覆いたくなるほどの不出来なキャラクターになっている。

そこに脚本の杜撰と演出の未熟が負の相乗効果となって、見ている者が恥ずかしくなるようなつらいシーンが、これでもかとばかりに繰り返される。

その展開を許しているプロデューサーの罪も重い。

パロディーはコメディーと同様に作る側は決して笑ってはならない。作る側が面白がる作品は必ずコケる。

「ちむどんどん」の演出は脚本の軽薄を踏襲して、「どうだニーニーは寅さんみたいな愉快な男だろう、皆笑え」と独り合点で面白がり盛り上がっている。

ニーニーは演出家と等身大の人間ではなく、劇中のつまり架空のアホーな存在に過ぎない。そのように描くから面白い。だから皆笑え、というわけだ。

だが劇中でバカを描くなら、演出家自らもバカになって真剣にバカを描かなければ視聴者は決して納得しない。

「ちむどんどん」では演出家はニーニーより賢い存在で、バカなニーニーを視聴者とともに笑い飛ばそうと企てている。

換言すると演出家はニーニーを愛していないし尊敬もしていない。人間的に自分より下のバカな存在だと見なして、そのバカを上から目線で笑おうとしているだけだ。

だから人間としてのニーニーに魂が入らず、作りものの嘘っぱちなキャラクターであり続けている。

怖いことに演出家の姑息な意図はダイレクトに視聴者に伝わる。

視聴者は笑わないし、笑えない。しらける。ニーニーの実存が信じられない。当たり前だ。演出家自身が信じていないキャラクターを視聴者が信じられるわけがない。

演出家は作品の第一番目の視聴者だ。最初の視聴者が身につまされないドラマは、続く視聴者にも受けないのである。

おそらく今後はニーニーは、辛い過去を持つ清恵と結ばれてハッピーエンドとなる展開だろうが、あり得ない登場人物のハッピーエンドもまた空しいものになるだろう。

「ちむどんどん」の最大の瑕疵は、しかし、実存し得ないニーニーの存在の疎ましさではない。

沖縄から上京した主人公の暢子が、いつまで経っても沖縄訛りの言葉を話し続けるという設定が最大の錯誤だ。

沖縄本島のド田舎、北部の山原で生まれ育った暢子は、料理人になるために東京・銀座のイタリアレストランに就職する。

ところが暢子は、厨房のみならずフロアにも出て客と接触し言葉使いも厳しくチェックされる環境にいながら、いつまで経っても重い沖縄訛りの言葉を話し続ける。

沖縄の本土復帰50周年を記念するドラマであり、沖縄を殊更に強調する筋立てだから、敢えて主人公に沖縄訛りの言葉をしゃべらせているのだろう。

だがそれはあり得ない現実だ。日本社会は、東京に出た地方出身者が堂々と田舎言葉で押し通せるほど差別のないユートピアではない。

例えばここイタリアなら、各地方が互いの独自性を誇り尊重し合うことが当たり前だから、人々は生まれ育った故郷の訛りや方言をいつでもどこでも堂々と披露しあう。

お国言葉を隠して、標準イタリア語の発祥地とされるフィレンツェ地方の訛りや、都会のローマあるいはミラノなどのイントネーションに替えようなどとは、誰も夢にも思わない。

多様性と個性と独自性を何よりも重視するのがイタリア社会だ。一方日本は、その対極にある画一主義社会でありムラ共同体だ。異端の田舎言葉は排斥される。

地方出身者の誰もが堂々とお国言葉を話せるならば、日本社会はもっと風通しの良い気楽な場所になっているだろう。

だが実際には地方出身の人間は、田舎言葉を恥じ、それに劣等感を感じつつ生きることを余儀なくされる。なるべく早く田舎訛りを直し、或いは秘匿して共通語で話すことを強いられる。

共通語で話せ、と実際に誰かに言われなくても、田舎者はそうするように無言の、そして強力な同調圧力をかけられる。画一主義が全てなのだ

日本には全国に楽しい、美しい、愛すべき田舎言葉があふれている。だが一旦東京に出ると、田舎言葉は貶められ、バカにされ、否定される。

多様性と個性と‘違い’が尊重されるどころか、軽侮されのが当たり前の全体主義社会が日本だ。言わずと知れた日本国最大最悪の泣き所のひとつだ。

そんな重大な日本社会の問題を無視し、あるいは独りよがりに暢子は問題を超越しているとでも決めつけているのか、彼女いつまでも地方言葉を話し続けるのは、手ひどい現実の歪曲だ。

その設定は、ニーニーの杜撰な人物造形法のさらに上を行くほどの巨大な過失とさえ僕の目には映る。





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ドラマのウソの本気度 


『70才、初めて産みます~セブンティウイザン。』

NHKドラマ『70才、初めて産みますセブンティウイザン』は、面白さと違和感がないまぜになった不思議なドラマだった。

高齢の夫婦が子供を授かった場合にあり得るであろう周囲の反応や、実際の肉体的また精神的苦悩が真剣に描かれていて、それが非常によかった。

従ってそのドラマは質の良い番組の一つと僕は見なしている。

だが、ドラマの内容に関しては、ドラマそのものが成立し得ないであろう、と考えられるほどの根本的な疑問を抱き続けた。

つまりほぼ70歳の男女が、普通に交接して女性が妊娠することがあり得るのかどうか、という点である。

あり得ない、というのが答えではないか。

ここからは高齢者の性愛について書くので、そういう題材を不快に思う人は先に進まないでほしい


『70才、初めて産みますセブンティウイザン』では、小日向文世竹下景子が演じる夫婦が、実際に性交して妻が自然妊娠する。

ほぼ70歳の男女が肉体的に交合するのは、もちろん大いにあり得ることだろう。だが女性が妊娠するのはほぼ不可能なのではないか。

世界には超高齢出産の例がある。

まず体外受精による妊娠のギネス記録は66歳のスペイン女性。ギネスには載っていない世界記録は73歳または74歳とされるインド人の女性である。

ちなみに日本での最高齢は60歳女性。最近では自民党の野田聖子議員が、51歳で卵子提供を受けて出産したことが話題になった。

それらは全て体外受精による妊娠、出産記録だ。

男女の通常の性行為による妊娠、出産ではない。

通常交渉による自然妊娠・出産では、ギネス記録が米人女性の57歳。ギネスに載っていない世界記録としては 59歳のイギリス人女性の例が知られている。

つまり女性は60歳くらいまでは普通に性交をして妊娠する可能性がある、ということである。

そうでない場合は性器と性器の交接ではなく、体外受精による妊娠だけがあり得る。

ところがドラマの主人公の夫婦は、2人ともほぼ70歳なのに通常に性交して、その結果妻が妊娠する。

体外受精ではないのだ。

それは奇跡という名の嘘である。

ドラマに嘘は付き物だ。しかし、その嘘は大き過ぎて僕はなかなか溜飲を下げることができなかった。

そのことにも関連するが、高齢の男女があたかも若者のように何も問題なくセックスする、という設定にも違和感を持った。

江戸の名奉行大岡越前は、不貞をはたらいた男女の取調べの際、(年上の)女が自分を誘った、との男の釈明に納得ができなかった。

そこで彼は自らの母に「女はいつまで性欲があるのか」と訊いた。すると母親は黙って火鉢の灰をかき回して、「灰になるまで。即ち死ぬまで」と無言で告げた。

母親は江戸時代の女性だから、男女の秘め事を言葉にして語るのをはばかったのである。

ここイタリアでは2015年、84歳の女性が88歳の夫が十分に性交してくれない。セックスの回数が少なすぎる。だから離婚したい、と表明して世間を騒がせた。

両方のエピソードはたまたま女性が主人公だが、男性もおそらく同じようなものだろう。

人間は死ぬまでセックスをするのだ。

だがそれは年齢が進むに連れて丸みを帯びていく。性器と性器の結合よりも、コミュニケーションを希求する触れ合いのセックスへと移行する。

仕方なくそうなるのだ。

なぜなら年齢とともに男性は勃起不全やそれに近い足かせ、女性はホルモン障害によって膣に潤いがなくなり、性交痛とさえ呼ばれる困難を抱えたりするからである。

そのため彼らの情交は、愛の言葉に始まり、唇や手足や胸や背中に触れ合って相手をいつくしむ、というふうに変化するとされる。

むろん高齢になっても男性機能が衰えず、女性も潤いを保つケースもまた多いことだろう。ドラマの夫婦もそういうカップルのようだ。

妻は通常性交で妊娠するのだからからまだ閉経していない。従ってホルモンのバランスも良好で膣も十分に濡れる、と理屈は通っている。

一方「普通に」身体機能が衰えていく高齢者のセックスでは、体のあらゆる部分が性器だとされる。それは男女が全身を触れ合う「豊かな癒し合い」という意味に違いない。

同時にそれはもしかすると、若者のセックスよりもめくるめくような喜びを伴なうものであるのかもしれない。

なにしろ体全体が性器だというのだから。

『70才、初めて産みますセブンティウイザン』の夫婦のセックスは、癒し合いではなく性器と性器の交接である。そうやって妻はめでたく妊娠するのだ。

繰り返しになるが人は死ぬまでセックスをする生き物である。従ってドラマの夫婦の性交は当たり前だ。

ドラマはその当たり前を、当たり前と割り切って、一切の説明を省いて進行する。

そして進行する先の内容は十分に納得できる。

面白くさえある。

それでも僕は70歳の女性の自然妊娠という設定を最後まで消化できなかった。

それを引き起こした老夫婦の、「普通の性交」にもかすかな引っかかりを覚え続けた。

高齢の男女は、誰もが肉体的に大なり小なりの問題を抱えている。性的にもむろんそうだ。そのことについては既に触れた。

ドラマの趣旨はそこにはない。高齢の男女の性愛のハードルを越えた先にある「人間模様」が主題である。

それは前述のように面白い。

だが-しつこいようだが-70歳にもなる男女が、夫はどうやら普通に勃起し、(閉経していない!)妻は濡れて、問題なく交わって妊娠のおまけまで付いた、という部分が苦しい。

ドラマの夫婦ほど高齢ではないものの、もはや全く若くもない僕は、ハードルのその部分も気になって仕方がなかった。

そんなわけで、残念ながら完全無欠に「お話」の全てを楽しむことはできなかった。





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ドラマと実録のハザマで楽しむ  

2仮面+子供650

コロナ禍が拡大して以来、仕事と仕事の残滓と、仕事まがいの状況や思案に追われて日々を過ごしている。

日英伊の報道や報道ドキュメント(ニュースより長いがドキュメンタリーよりは短い時事や時事問題報告)をTV画面で追いかけ、日英伊語の新聞や雑誌記事を読み、ネットで同様の行為を毎日欠かさずにやっている。

その合間に読書をしテレビドラマを見菜園を耕す。食料を中心とする買い物にも出かける。

秋から冬の間は菜園での仕事はほとんどないが、他の事案は春夏秋冬ほぼ同じように存在する。

春から秋には旅に出ることも多い。

それらは全て好きなことである。食料の買い出しさえ楽しむ。それは趣味の料理につながっているからだ。

あ、そうだ。料理もよくする。

趣味であり仕事(自分と家族への義務という意味)であり、そしてやはり好きなことである。

「仕事と仕事の残滓と仕事まがいの状況や思い込み」とは、TVドキュメンタリー監督である僕の生活の変化のこと。

僕は近年TV関連の仕事を減らし続けてきて、それは新型コロナパンデミックで加速し、映像ではなく紙媒体やWEBに文章を書くジャーナリストまがいのもの書きになった

一連の行為は仕事のみならず自らの知識欲のためにもやっている。

実は僕はドラマが好きである。

日本の大学を卒業してロンドンの映画学校に進学したのも、映画、ドラマ、つまりフィクションが好きだったからである。

僕はフィクションである映画制作を目指し、シナリオや小説も書いた。

だが学校を終えて仕事を始めると、ドキュメンタリーに魅かれてその道のプロになった。

テレビの仕事をしつつ、新聞雑誌にも雑文をけっこう書いた。

それらの仕事はいま思えばフイィクション作りから遠ざかるプロセスでもあった。

劇場映画ではなくTVドキュメンタリーの監督となり、同じくフィクションである小説は書かず、エッセイやコラムや紀行文などの雑文を書いた。

「書いた」とはプロとして-つまり原稿料をもらって-書いた、という意味である。

プロではないものの、それでも、前述のように小説も書いた。短い作品が小説新潮の月間新人賞の佳作に選ばれたこともある。文芸誌に掲載された作品もある。

だがそれだけである。プロとしては、後は鳴かず飛ばずだった。

僕は、書き、制作し、読み、見るの全てにおいて、どちらかといえば実録よりも虚構が好きである。

虚構はプロとして書いたり制作しなかったから苦しくなく、だからより好きなのだろうと思う。

僕は読書にもかなりの時間を割く。

日常の中での読書は、食べ、眠り、活動することと同じ命の一部である。生きがいでもあり存在証明でもある。

それに比較するとテレビを観る行為はよっぽど重要度が落ちる。だが、それでも結構見る。

すぐ死ぬんだから400


ドラマは有料の衛星日本語放送で観るのがほとんどだ。

ロックダウンや準ロックダウンで自宅待機が多い2020年以降は、普通よりも多くのテレビドラマを観た。NHKがほとんどだが、ロンドンを拠点にする有料放送は民放のドラマも流す。

民放の番組は日本より数ヶ月遅れで電波に乗ることが多い。放送局がNHK系列だからだろう。

パンデミック勃発から今日まで見たドラマの中で最も強く印象に残っているのは、三田佳子が主演したNHKの「すぐ死ぬんだから」である。

信頼しきっていた夫に裏切られた妻が、「死後離婚」という珍しい戦いを繰り広げる。彼女が執念深い行動に出るのは、夫が遺言書で裏切りの全てを明らかにしたからだ。

夫は死んだ後に妻をいたぶる仕打ちをした。だから彼女の偏執的な動きにも、おそらく多くの視聴者が感情移入できる。そういう仕組みになっている。

斬新な視点と目覚しいストーリー展開が見る者をひきつけてやまない。

三田佳子の演技は達者を通り越して秀逸だった。ちょっとした仕草や表情が状況を雄弁に物語る、まさに名優の演技の極み。

そこに小松政夫のペーソスあふれる芝居と余貴美子の説得力あふれる所作言い回しが絡む。

そればかりではない。いわくいいがたい安藤玉恵の怪演や、松下由樹、村杉蝉之介、田中哲司ほかの達者な役者たちの面白いやり取りが加わる。

ほかにも長い感想や鑑賞記を書く材料に事欠かない優れたドラマや面白い番組があった。

むろん首をかしげる出来の作品もあった。それらについて既に少し書いた。

次は『70才、初めて産みましたセブンティウイザン。』という物語について書く。

ドラマに関してはいったんそこで筆をおくつもりでいる。



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ドラマチックにダサいドラマたち

歩くひと640

のエントリーでNHKのドラマが無条件にすばらしいと誤解されかねない書き方をしたように思う。

そこでつまらないドラマについてももう少し明確に書いておくことにした。

前項でも少し触れたようにNHKのドラマにも無論たいくつなものはある。

実際に言及したものの中では 『子連れ信兵衛 』『ノースライト』『岸辺露伴は動かないⅡ』などが期待はずれだった。

また『正義の天秤』では、人間性とプロ意識が葛藤する場面で、主人公が弁護士バッジを外したり付けたりするアクションで問題を解決するシーンに‘噴飯もの’と形容したいほどの強い違和感を抱いた。

それは最も重要に見えたエピソードの中での出来事だったため、それ以外の面白いストーリーの価値まで全て吹き飛んだような気分になった。

また『70才、初めて産みましたセブンティウイザン』は、超高齢の夫婦が子供を授かった場合にあり得るであろう周囲の反応や、実際の肉体的また精神的苦悩が真剣に描かれていて、それが非常によかった。

しかし僕はそのドラマの内容に関しては、ドラマそのものが成立し得ないであろう、と考えられるほどの致命的且つ根本的な疑問を持ち続けた。それについては長くなるので次の機会に回すことにする。

山本周五郎原作の 『子連れ信兵衛 』は、周五郎作品に時々見られる軽易な劇展開を真似たようなシーンが多々あった。   

人物像も皮相で説得力がなかった。なによりもドラマの展延が偶然や都合のよいハプニングまた予定調和的なシーンに満ちていて、なかなか感情移入ができなかった。

山本周五郎の作品は周知のように優れた内容のものが多いが、中にはおどろくほど安手の設定や人間描写に頼るドラマもまた少なくない。それは多作が原因だ。

多作は才能である。周五郎を含めた人気作家のほぼ誰もが多作であるのは、彼らの作品が読者に好まれて需要が高いからにほかならない。

そして彼らはしっかりとその需要に応える。才能がそれを可能にするのである。

だがおびただしい作品群の中には安直な作品もある。それは善人や徳人や利他主義者などが登場する小説である場合が多い。

それらの話は、勧善懲悪を愛する読者の心を和ませて彼らの共感を得る。徹底した善人という単純さが眉唾なのだが、一方では周五郎の深い悪人描写にも魅せられている読者は、気づかずに心を打たれる。

小説の場合には、絵的な要素を読者が想像力で自在に補う分、全き善人という少々軽薄な設定も受け入れやすい。だが、映像では人物が目の前で躍動する分、緻密に場面を展開させないと胡乱な印象が強くなる。

それをリアリティあふれる映像ドラマにするためには、演出家の力量もさることながら、小説を映像に切り換える道筋を示す脚本がものを言う。

さらに多くの場合は、リアリティを深く追求すればするほど制作費が嵩む、などのシビアな問題も生まれて決して容易ではない。

それは2022年2月現在、ロンドン発の日本語放送で流れている「だれかに話したくなる  山本周五郎日替わりドラマ2 」でも起きていることである。

今このとき進行しているドラマでつまらないものをもう一本指摘しておきたい。

「歩くひと」である。

NHKの説明では「ちょっと歩いてくるよ」と妻に言い残して散歩に出た主人公が、日本各地の美しい風景の中に迷い込み、触れ、楽しみ、そしてひたすら歩く話、だそうだ。

そして“これまでにない、ファンタジックな異色の紀行ドラマ”がキャッチコピーである。

だが僕に言わせればそんな大層な話ではない。

紀行ドキュメンタリーではNHKはよくリポーターを立てる。リポーターは有名な芸能人だったりアナウンサーだったりするが、要するに出演者の目線や体験を通して旅を味わう、とう趣旨だ。

「歩くひと」では、井浦新演じる主人公が日本中を歩く。えんえんと歩く。歩く間に確かに美しい光景も出現する。

だが、「だからなに?」というのが正直な僕の思いだ。退屈極まりない。

僕はこの番組のことを知らず、従ってそれを見る気もなくテレビをONにした。すると見覚えのある顔の男が、酒でも飲んだのか路上で寝入る場面にでくわした。

それが主人公の井浦新なのだが、僕はそこでは彼の名前も知らないまま思わず引き込まれた。

それというのも井浦が出演するもうひとつのNHKドラマ、『路〜台湾エクスプレス〜』 の続編がちょうどこの時期オンエアになっていて、彼の顔に馴染みがあったのだ。

『路〜台湾エクスプレス〜』でも、井浦が演じる安西という男が酒を飲んで荒れる印象深いシーンがある。僕は突然目に入った「歩くひと」の一場面と『路〜台湾エクスプレス〜』を完全に混同してしまった。

『路〜台湾エクスプレス〜』が放送されているのだと思った。展開を期待して見入った。だが男は森や畑中や集落の中を延々と歩き続けるだけである。

番組が『路〜台湾エクスプレス〜』ではないと気づいたときには、僕はもうすでに長い時間を見てしまっていた。退屈さに苛立ちつつも、我慢して見続けた自分がうらめしかった。

この記事を書こうと思いついて念のために調べた。日本語放送の番組表なども検分した。そうやって僕は初めて井浦新という俳優の名を知り、「歩くひと」という新番組の存在も知った。

NHKは僕の専門でもあるドキュメンターリー部門で、「世界ふれあい街歩き」という斬新な趣向の番組を発明し、今も制作し続けている。

カメラがぶれないステディカムや最新の小型カメラを駆使して撮影をしている。その番組が登場した時、僕は「なんという手抜き番組だ!」と腹から驚いた。

世界中の観光地などを、観光客があまり歩かないような地域も含めてカメラマンひとりがえんえんと撮影し続けるのだ。ディレクターである僕にはあきれた安直番組と見えた。

ところが僕は次第にその番組にはまっていった。

今では訪ねたことのない街や国をそこで見るのが楽しみになっている。また愉快なのは、既に知っている国や街の景色にも改めて引き込まれて見入ることだ。

前述のように観光客があまり行かず、紀行番組などもほとんど描写しないありふれた場所などを、丹念に見せていく手法が斬新だからである。

「歩くひと」にももしかするとそんな新しい要素があるのかもしれない。

だが僕がそれを好きになることはなさそうだ。歩く主人公は僕が大嫌いな紀行物のリポーターにしか見えないからだ。

また景観をなめ続けるカメラワークにもほとんど新しさを感じないからだ。

ひたすら歩くだけの人物はさっさと取り除いて、景色をもっと良く見せてくれ、と思いつつテレビのスイッチを切った。

おそらく、少なくない割合の視聴者が自分と同じことを感じている、と僕はかなりの自信を持って言える。

今後番組の評判が高まって、シリーズが制作され続ければ、視聴者としては大いなる日和見主義者である僕は、あるいは改めてのぞいて見るかもしれない。

が、今のままではまったく見る気がしない。時間のムダ、と強烈に感じる。



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息苦しい報道キャスターは見ているこちらも息苦しい

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NHKの主だった番組は衛星を介してよく見ている。見過ぎるほど見ていると言ってもいいかもしれない。

僕はBBCほかの衛星英語チャンネルとイタリアの地上波も見ているが、両者はニュースとドキュメンタリー、またスポーツ番組以外はほとんど見ない。

一方、日本語の衛星放送は、ニュース、ドラマ、バラエティ、ドキュメンタリー、スポーツなど、あらゆるジャンルの番組をひんぱんに見ている。

僕がテレビをよく見るのは、自身が番組作りをするテレビ屋で且つテレビ番組が大好きだからである。それに加えて日本語や日本文化への渇望感があることが大きい。

かつてはインターネットはおろかテレビの日本語放送などなかった。

その頃は帰国するたびに、大量の本や雑誌を買い込んでイタリアに戻るのが僕の習いだった。週刊誌などはイタリアにいる時は広告までむさぼるように読んだ。

本は昔も今も変わらずに読む。読書は僕の最大の娯楽だ。しかし、日本語のテレビ放送の視聴に費やす時間が増えた分、読書量は減った。

昨今はそこにインターネットで遊ぶ時間も加わって、読書量がさらに削られることは否めない。

しかし、インターネットではかつて本で得ていた情報も得られるので、その領域の場合は時間的には差し引きゼロというところかもしれない。

役に立たない小説などの読書量が減ったのが少し苦しい。

情報や数字や理屈や経済などを語る本は人間を豊かにしない。知識が増え理屈っぽくなり論難に長けた専門バカ風の人間が出来上がるだけだ。

役に立たない小説本ほかの書籍の中にこそ、心を豊かにし情緒を鍛え他者を慮る繊細を伸ばす力が詰まっている。

前置きが長くなった。

NHKをはじめとするテレビの報道番組のキャスターについて語りたい。

僕は仕事でもまた視聴者としてもNHKに大きくお世話になっている。NHKのファンである。

ファンであるばかりではなく、世界のテレビ局とも付き合ってきたプロのテレビ屋としても、NHKを高く評価している。

NHKは報道、ドキュメンタリー、それにドラマ部門で英国のBBCに匹敵する。それらの3部門でBBCに劣るのは、報道における「時の政権」への批判精神だけだ。

いや、批判精神はあるのだろうが、日本の政治また社会風土ゆえに表立ってそれを標榜できず、結局権力に屈するような報道姿勢が垣間見える。

それでもNHKは日本のメディアの宝だ。BBCがイギリスの至宝であるように。

さて報道のうちの、NHKの顔とも言える夜9時のニュースキャスターが最近気になる。今このときで言えば和久田麻由子アナウンサーの身ごなし。

和久田麻由子アナは、美しい顔を皮膚のすぐ下あたりからこわばらせてしゃべる癖がある。

その時は彼女は、ひとりで懸命に深刻になっていて、あたかも世の中を嘆いてみせることがキャスターの役目と弁えているようだ。

聞くところによると彼女は学生時代に演劇を勉強した経験があるという。

表情の豊かさはそのあたりから来ているのだろう。しかし、報道は演技ではない。彼女はもっと淡々と語り、読み、表現するべき、と思う。

彼女が例えば難民の子どもの苦しい生活や、世界の悲劇や、貧困者の苦難や殺人事件などを報道するとき、まるで世界の悲しみをひとりで背負っているのでもあるかのように眉をひそめ、苦悶の表情をするのは少しうっとうしい。

相方の話に相槌をうちつつ、テレビ目線でこちら(テレビカメラ)に向かって流し目を送るのも、全く最善とは言いがたい。

彼女の意図は分かる。視聴者をリスペクトして視聴者の感興を求めて彼女はカメラに視線を投げている。だがそれは行過ぎた所作だ。やはり演技が過ぎるように思う。

キャスターが余計な表現をする習慣は、前任の桑子真帆アナウンサーあたりから顕著になった。

一つ一つのニュースを読み上げた直後に、桑子アナは唇をくいと大げさに引き締める。読後に唇がかすかに開くことを戒めているのだろうが、なんとも不自然な表情だった。

そのスタイルは相方の有馬嘉男キャスターが始めて、桑子アナも真似した印象が強い。むろん有馬キャスターのその仕草も決して見栄えの良いものではなかった。

和久田麻由子アナはその習いを受け継いで、さらに悪化させたと僕の目には映る。

報道番組のキャスターの態度が見ていてつらいこと以外にも、和久田アナの行状が好ましくないもっと重大な理由がある。

悪いニュースにことさら反応して胸の内を表現するなら、彼女は自分が気にいらないニュースにはいつも眉をひそめたり悲しんだり怒ったりしなければならない。

さらに例えば、彼女が支持しない政党の候補者が選挙で当選した場合も不快な気分を露わにしなければならない。報道キャスターとしてそれが許されないのは明らかだ。

彼女は以前、イタリアのベニスで女性受刑者を追いかけるバラエティドキュメントのリポーターをしたことがある。

僕はリポーターが誰なのか全く知らずにその番組を見ていた。若い女性リポーターからは、性質の素直と思いの深さがあふれ出ていて、美しいほどだった。大分あとになって僕はそれが和久田麻由子アナだと知った。

彼女はその分野にふさわしいキャラだと思う。

バラエティ系のドキュメンタリーやソフトニュースなどよりも、定時のニュース番組が格上という暗黙の理解がNHKにはある。

だから和久田アナも定時番組のキャスターになったことで、必要以上に固まって深刻さをアピールする傾向があるようだ。才能豊かな人だけにそれはとても残念だ。

和久田アナは報道ではなく、例えば小野文恵アナウンサーのようにバラエティ系番組の中でこそ最も輝くと思う。その方向に行かないのなら、彼女はもっと感情を抑えて報道しニュースを読む努力をすべきではないか

和久田アナに似たケースが、イタリアの公共放送RAIでも起きている。

RAIの看板番組である夜8時の女性キャスターの一人も特異な報道をする。

見ていてひどく居心地が悪い。

彼女の名前はラウラ・キメンティ(Laura Chimenti)。ニュースを読むのに大きく声を張り上げ挑むような調子で進む。

報道局内でセクハラやパワハラに遭っていて、それを告発したい思いが奇妙な調子になっているのではないか、とさえ僕などは意地悪く考えたくなる。

その枠にはほかにも3人のメインのキャスターがいる。男性2人と女性1人。

そのうちの女性キャスターはエンマ・ダクイノ(Emma D`aquino 。彼女は、例えばフランス2の有名キャスター、アンヌ・ソフィー・ラピ(Anne-Sophie Lapix)を彷彿とさせる。

落ち着いた、自然体の 、従って知性味にもあふれた優れたキャスターである。

和久田麻由子アナも、ここイタリアのラウラ・キメンティアナも、エンマ・ダクイノキャスターやアンヌ・ソフィー・ラピキャスターの爪の垢を煎じて飲めとまでは言わないが、少し見習って出直したほう良い。

この際なのでひとつ余計なことも付け加えておきたい。

和久田アナがときどき披露する、思わずのけぞってしまうほどにひどいファッションセンスは、歌手の夏川りみとどっこいどっこいの、どうでもよいことだと笑い、流して見ていられる。

が、彼女の余計な仕草や思い入れはそうは捉えられない。時間とともに少なくなっているようにも見えるが、ぜひとも改めてほしい。

一人の NHKファンとして切に願う。

もうひとつNHKへの苦言があるが、長くなるので次に回すことにした。




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女王陛下の平凡な、だが只ならぬ孤独  

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エディンバラ公爵フィリップ殿下の死去に伴う英王室関係の報道を追いかけていて最も印象的だったのは、教会の席に黒い小さな塊となって丸まり、頭をたれている老女王の姿だった。

73間年も連れ添った伴侶をなくして悲しみにくれるエリザベス女王は、落ちぶれたとはいえ強大な権威に包まれ人々の畏怖を集める、大英帝国の君主ではなく、どこにでもいる孤独な老女に過ぎなかった。

加えて、大英帝国あるいはイギリス連邦の君主のイメージと、小さな黒い塊との間の途方もない落差が、彼女をさらに卑小に無力に見せて哀れを誘った。

丸まって黒くうずくまっている94歳の女王はおそらく、夫の棺を見つめながら自らの死についても思いを巡らしていたのではないか。

彼女が自らの死を予感しているという意味ではない。

生ある限り人は死を予感することはできない。生ある者は、生を目いっぱい生きることのみにかまけていて、死を忘れているからだ。それが生の本質である。

生きている人は死の「可能性」について思いを巡らすことができるだけだ。そして思いを巡らすところには死は決してやってこない。死はそれを忘れたころに突然にやって来るのである。

夫の死に立会いつつ自らの死の影も見つめている老いた女性は、ひ孫世代までいる大家族の中心的存在である。彼女の職業はたまたま「英国女王」という存在感の大きな重いものだ。

職業あるいは肩書きのイメージ的には、背筋を伸ばし傲然と座っていてもおかしくない人物が、背中を丸め小さく固まっている姿はいたいけだった。そこに世界の同情が集まったのは疑いがない。

夫の棺をやや下に見おろす教会の席で、コロナ感染予防の意味合いからひとり孤独に座っている女王の姿には、悲しみに加えて、自らの人生の終焉を直視している者の凄みも感じられて僕はひどく撃たれた。

英国王室の存在意義の一つは、それが観光の目玉だから、という正鵠を射た説がある。世界の注目を集め、実際に世界中から観光客を呼び込むほどの魅力を持つ英王室は、いわばイギリスのディズニーランドだ。

おとぎの国には女王を含めて多くの人気キャラクターがいて、そこで起こる出来事は世界のトピックになる。むろんメンバーの死も例外ではない。エディンバラ公フィリップ殿下の死がそうであるように。

最大のスターである女王は妻であり母であり祖母であり曾祖母である。彼女は4人の子供のうち3人が離婚する悲しみを経験し、元嫁のダイアナ妃の壮絶な死に目にも遭った。ごく最近では孫のハリー王子の妻、メーガン妃の王室批判にもさらされた。

英王室は明と暗の錯綜したさまざまな話題を提供して、イギリスのみならず世界の関心をひきつける。朗報やスキャンダルの主役はほとんどの場合若い王室メンバーとその周辺の人々だ。だが醜聞の骨を拾うのはほぼ決まって女王だ。

そして彼女はおおむね常にうまく責任を果たす。時には毎年末のクリスマス演説で一年の全ての不始末をチャラにしてしまう芸当も見せる。たとえば1992年の有名なAnnus horribilis(恐ろしい一年)演説がその典型だ。

92年には女王の住居ウインザー城の火事のほかに、次男のアンドルー王子が妻と別居。娘のアン王女が離婚。ダイアナ妃による夫チャールズ皇太子の不倫暴露本の出版。嫁のサラ・ファーガソンのトップレス写真流出。また年末にはチャールズ皇太子とダイアナ妃の別居も明らかになった。

女王はそれらの醜聞や不幸話を「Annus horribilis」、と知る人ぞ知るラテン語に乗せてエレガントに語り、それは一般に拡散して人々が全てを水に流す素地を作った。女王はそうやって見事に危機を乗り切った。

女王は政治言語や帝王学に基づく原理原則の所為に長けていて、先に触れたように沈黙にも近いわずかな言葉で語り、説明し、遠まわしに許しを請うなどして、危機を回避してきた。英王室の人気の秘密のひとつだ。

危機を脱する彼女の手法はいつも直截で且つ巧妙である。英王室が存続するのに必要な国民の支持を取り付け続けることができたのは、女王の卓越した政治手腕に拠るところが大きい。

女王の潔癖と誠実な人柄は―個人的な感想だが―明仁上皇を彷彿とさせる。女王と平成の明仁天皇は、それぞれが国民に慕われる「人格」を有することによって愛され、信頼され、結果うまく統治した。

両国の次代の統治者がそうなるかどうかは、彼らの「人格」とその顕現のたたずまい次第であるのはいうまでもない。

喪服と帽子とマスクで黒一色に身を固めて、小さな影のようにうずくまっているエリザベス女王の姿を見ながら、僕はとりとめもなく思いを巡らしたのだった。




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イタリアで観る月9劇 

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このブログのタイトルを≪【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信」≫としているのは、僕がテレビ番組の制作ディレクターだからである。主にドキュメンタリーと報道番組を監督する。

ロンドン、東京、ニューヨークと渡り歩いて、最後はイタリアのミラノに流れ着き、しばらく前までそこで事務所を構えていた。小さな番組制作プロダクションである。

会社組織にしてスタッフを入れると、NHKや民放など日本のテレビ局からの依頼もあって、事務所では番組制作の手伝いをするコーディネーターの仕事もこなした。

僕は自ら企画を練り、テレビ局に提案して、番組を制作することが大好きだが、実はテレビを「観る」こともそれに劣らず好きである。

見るテレビはイタリアの地上波はもちろん、衛星放送でBBC, AlJazeera, CNN, Euronews, スポーツ専用局、そして日本のJSTVと多岐に渡る。

最近は、イタリアのテレビはニュースとスポーツ以外はほとんど見ない。見る価値がないと思っている。代わりにBBC,  Euronews、そしてJSTVをよく見る。

JSTVはロンドンに本拠がある。主に流しているのはNHKのほとんどの番組と民放のドラマなど。それらの番組とWEBを徘徊すれば、日本にいるのとほぼ同じ感覚で日々が過ぎる。

日本語放送やインターネットがなかった時代には、日本の情報に飢えていた。たまに週刊誌が手に入ったりすると、記事はもちろん広告なども食い入るようにして目を通していたほどだ。

今は衛星放送やインターネットのおかげで日本のことがほぼリアルタイムで分かる。英語と伊語の情報が日本語のメディアに加わる分、見方によっては日本国内の日本人よりも日本の情報を多く獲得しているかもしれない。

さて、そんな中で情報収集は別にして大いに楽しむのが日本語放送である。冒頭で触れたように僕はテレビ番組は制作も鑑賞も好きだ。そこで今後はイタリアで見るテレビ番組、特に日本のそれについても観覧記のようなものを書いていくことにした。

手始めはドラマ「監察医 朝顔」。民放番組の常で欧州では数ヶ月~半年ほどの遅れで放映される。監察医の主人公と刑事の父親と夫に絡めて、東日本大震災で行方不明になった母親と、彼らが仕事で関わる「遺体」を輻輳させ深化させる手法が面白い。

主人公の上野樹里は、NHの大河ドラマ『江~姫たちの戦国~』で、織田信長の姪で徳川2代将軍秀忠の妻のお江を演じた。当時番組をしばしば見ていた僕は、上野樹里の暗い無性格な印象の芝居に辟易した覚えがある。

ところが朝顔を演じる上野樹里は、きわめて自然体で微妙な演技のできる巧い俳優であることがわかった。少し驚き、好ましく思った。共演の風間俊介との真面目で軽快で雰囲気の良い「コンビ演技」も快い。

全体的に考証や設定や展開がしっかりして見ていて安心できる。ところが、第6話(5話だったかも・・)は消化不良が募った。認知症で徘徊していた老人が自宅に程近い場所で転倒して立ち上がれなくなる。

そのとき男が連れていた愛犬が彼を助けようとして前足を骨折。犬も立ち上がれなくなって男と犬はそこで衰弱死する。男と犬は白骨化して発見される。

老人と犬が都合よく足を骨折して起き上がれずに共に死ぬ仕掛け。しかも自宅近くが現場なのに、両者が白骨になるまで誰にも発見されない、という設定が嘘くさい。違和感に違和感が重なる展開だ。

だが致命的な消化不良感は次にやってくる。行き倒れた老人の息子が見つかるのだが、彼は父親を連れて帰ることを拒否し遺骨は警察で処理してくれという。

息子と生前の父親との間に何らかの問題があったことを知覚しつつも、主人公の朝顔が言う。「あなたのお父さんはこのままでは無縁仏になる。せっかく家族がいるのだから、そういったことは避けたほうがいい」と。

他者に優しい朝顔が死者の息子に食ってかかるのは、津波に流されて行方不明になっている母親への強い思いがあるからだ。せっかく発見された親を見捨てるな。私の母は未だに発見されてさえいないのだ!という心の叫びがある。

すると朝顔の心中を知らない息子が答える。「綺麗ごとを言わないでくれ。俺と親父のことなんか何も知らないくせに」と冷たく言い放つのである。きわめて劇的なセリフであり場面だが、父子のエピソードはそれきりで終わってしまう。

大きな消化不良が起こるのはまさにそこだ。いったいどのような壮絶なドラマが親子の間にあったのだろう、と視聴者は強く気を引かれる。なのに、ドラマはそのことには一切言及せずに別方向へと進行してしまうのである。

つまり行き倒れた老人とその息子の話はすっぽかして、朝顔夫婦が実家で父親と同居するに際しての、互いの気遣いや希望や愛や戸惑いが描かれる。そこには津波に呑み込まれて未だに行方が分からない既述の母親の記憶も強く作用する。

そして時間が一気に飛んで、一軒家で仲良く暮らす家族が描かれる。一連の場面には幼い子供がいて、親となった朝顔夫婦がいて優しいジイジになった朝顔の父親がいる。

相互に気遣う人々と、ほのぼのとした家族の物語は、視聴者の心を十分に引きつける。だが僕は、前述の白骨遺体と化した老人とその息子のドラマが見られなかった不満で、消化不良に陥ったまま番組を見終わった。ずさんなドラマ作りだという印象が強く残った。

老人と息子の葛藤話は次回に展開されるのかと思って続きも見たが、ドラマにはやはり彼らののエピソードは挿入されなかった。そんな手抜き(?)が起こるものだろうか。それとも僕が何か重大なことを見落としたのだろうか?

放送はまだ続くので、あるいはどこかで死者と息子の相克が挿入されるのかもしれない。それを期待しながら最後の最後まで観てみようと思う。




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