
今日は復活祭。イエス・キリストが死後3日目によみがえったことを祝う祭り。イタリアでは伝統的に子羊や子ヤギの肉が多く食される。
イエス・キリストが贖罪のために神にささげられる子羊、すなわち「神の子羊」とみなされることから、復活祭に子羊を食べてイエス・キリストに感謝をする習慣ができた。
子羊の肉はやがてそれに似た子ヤギの肉にも広がっていった。
僕はイタリアでは1年に一度、復活祭の日に子ヤギの肉を食べるのが習わしである。その習いが高じて、地中海域を旅するときは各地の子ヤギ料理を食べ歩くようになった。
地中海域の国々では、子羊や子ヤギの肉がよく食べられ味も素晴らしい。
子ヤギ料理にこだわるのは、単純にその料理が「おいしくて好き」というのがまず第一だが、自分の中に故郷の沖縄へのノスタルジーがあるからだと思う。
島が貧しかった子どものころは、ヤギ肉は貴重かつ高級な食材なので、豚肉と同様にあまり食べることはできなかった。たまに食べるとひどくおいしいと感じた。
島々が豊かになった今は、帰郷の際にはその気になればいくらでも食べられる。が、昔ほどうまいとは感じなくなった。嫌いではないが料理法が単調で肉が大味と思うようになったのだ。
イタリアを含む地中海域の子ヤギの肉は柔らかく上品な味がする。調理法もバラエティーに富んでいてヤギ独特のにおいもない。成獣の肉ではなく草を食(は)む前の小さなヤギの肉だからだ。
生まれて間もない子ヤギをつぶして食べるのは罪深くかつ大きなぜいたくである。
“かわいそう”などと偽善的な言葉は口に出すまい。それを言えば全ての家畜をつぶすことがかわいそうということになるのだから。
人間が生きるとは殺すことだ。植物のように自らの体内で生きる糧を生み出すことができない人間は、人以外の多くの生物を殺して食べ、そのおかげで生きている。
肉や魚を食べない菜食主義者の人々でさえ、植物という生物を殺して食べて生命を維持している。
人間が他の生き物の命を糧に、自らの命をつなぐ生き方は仕方のないことだ。も しもそれが悪であり犯罪であるなら、われわれ人間は一人残らず悪人であり罪人である。
僕は子ヤギや子羊の肉を食べることを悪とは考えない。それは強いて言うならば、殺すことしかできない人間の「業」だ。
子ヤギを食らうのも野菜サラダを食べるのも同じ「業」なのである。
人間から業を取り去れば清浄無垢な何ものかが立ち現れるのだろう。だが、そんな存在はもう人間ではない。神に近い何ものかであり、人間の対極にあるものである。
つまり理想という名の虚偽だ。
理想は実現できないからこそ理想なのである。あるいは実現することが限りなく不可能に近い難事だからこそ、理想なのである。
故に理想に向かって懊悩する「プロセスそのもの」が、つまりは理想的な生き方ということなのかもしれない。
子ヤギを慈しむ心とそれを食肉処理して食らう性癖の間には何らの齟齬もない。
それを食らうも人間の正直であり、食わないと決意するのもまた人間の正直である。