【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

日本人の問題

日本人に愛されたいと切望した大横綱白鵬の悲哀 


白鵬-宝富士切取550

おどろき

NHKスペシャル「横綱 白鵬 “孤独”の14年」というドキュメンタリー番組を見た。不可解な部分と妙に納得できる部分が交錯して、いかにも「異様な横綱」に相応しい内容だと感じた。

2007年に22歳の若さで横綱になった白鵬は、心技体の充溢したような強い美しい相撲で勝ち続けた。

途方もない力量を持つ白鵬の相撲が乱れ出したのは30歳を過ぎた頃からだ、とNHKスペシャルのナレーションは説明した。

加齢による力の衰えと、“日本人に愛されていない”という悩みが彼の相撲の劣化を招いた、というのである。

加齢は分かるが、白鵬には「日本人に愛されていないという悩みがあった」という分析は、新鮮過ぎて少しめまいがしたほどだった。

僕は引退前5~6年間の白鵬の動きにずっと違和感を抱いてきた。それは30歳を過ぎてから白鵬の相撲が乱れ始めた、という番組の見方とほぼ一致している。

だが僕は白鵬の変化を、彼の思い上がりがもたらしたものと考えてきた。一方NHKスペシャルは、彼の力の衰えと日本人に愛されたいといういわば「コンプレックス」が乱れの原因と主張するのだ。

大横綱の光と影

白鵬は2020年にコロナパンデミックが起きる前までは、荒っぽい取り口も多いものの常に力強い相撲を取っていると僕は感じていた。

今の時代、アスリートの力の衰えをは30歳で見出すのは中々むつかしい。20歳代後半から30歳前後がアスリートの最盛期というイメージさえある。

一方で取り組み前や取り組み後の彼の所作は見苦しかった。鼻や口を歪めてしきりに示威行為を繰り返し、仕切り時間一杯になるとタオルを放り投げたりする

取り組みで相手を倒すとダメ押し気味に殴る仕草をする。ガッツポーズは当たり前で腕を振り肩をいからせてドヤ顔を作る。威嚇する。

仕上げには賞金をわしづかみにして拝跪し、それだけでは飽き足らずに振り回し振りかぶる。日本人には中々真似のできないそれらの動きは品下って見えた。

見苦しい所作は、時間が経つにつれて増えていった。だが20歳代までの白鵬は、冒頭で触れたように心技体の充実した模範的な横綱に見えていたのた。

事実、横綱になって3年後の2010年には、彼の優勝を祝して館内に自然に白鵬コールが起こるほどに彼は尊敬され愛され賞賛されていた。後に目立つようになる醜い所作も当時はほとんど見られなかった。

功績

彼は優勝を重ね、全勝優勝の回数を増やし、双葉山に次ぐ連勝記録を打ち立て、北の湖、千代の富士の優勝回数を上回る記録を作った。そしてついには大鵬の優勝回数を超えてさらに大きく引き離した。

次々に記録を破り大記録を打ちたてながら、彼は相撲協会を襲った不祥事にも見事に対応した。賭博事件と八百長問題で存続さえ危ぶまれた相撲協会をほぼひとりで支えた。

名実ともに大横綱の歩みを続けるように見えた白鵬はしかし、日馬富士、鶴竜、稀勢の里の3横綱の台頭そして引退を見届けながら徐々に荒れた相撲を取るようになった。同時に取り組み前後の所作も格段に見苦しくなって行く

僕は彼の取り口ではなく、土俵上の彼の行儀の悪さを基に、白鵬は横綱としての品格に欠けると判断し、そう発言してきた。

白鵬が次第に品下っていったのは、彼の思い上がりがなせる技で、誰かが正せば直ると僕は信じていた。だが一向に矯正されなかった。そして彼はついに、僕に言わせれば「晩節を汚したまま」引退した。

だがNHKスペシャルは、白鵬の所作ではなく「取り口」が乱れたのだと力説した。それは横綱審議委員会と同じ見方である。

つまりどっしりと受けてたつ「横綱相撲」ではなく、張り手やかち上げを多用する立会いが醜い、とNHKスペシャルも横綱審議委員会も主張するのだ。

それは僕の意見とは異なる。僕は以前にこのブログで次のように書いた。


強い横綱は張り手やかち上げなどの喧嘩ワザはできれば使わないほうが品格がある、というのは相撲文化にかんがみて、大いに納得できることである。
だが僕は、白鵬の問題は相撲のルール上許されている張り手やかち上げの乱発ではなく、土俵上のたしなみのない所作の数々や、唯我独尊の心を隠し切れない稚拙な言行にこそあると思う。
白鵬が張り手やかち上げを繰り出して来るときには、彼の脇が空くということである。ならば相手はそこを利して差し手をねじ込むなどの戦略を考えるべきだ。
あるいは白鵬に対抗して、こちらも張り手やかち上げをぶちかますくらいの気概を持って立ち合いに臨むべきだ。
白鵬の相手がそれをしないのは、張り手やかち上げが相手を殴るのと同様の喧嘩ワザだから、「横綱に失礼」という強いためらいがあるからだ。
白鵬自身はそれらの技が相撲規則で認められているから使う、とそこかしこで言明している。横綱の品格にふさわしくないかもしれないが、彼の主張の方が正しいと僕は思う。
それらのワザが大相撲の格式に合わないのならば、さっさと禁じ手にしてしまえばいいのである。
要するに何が言いたいのかというと、横綱審議委員会は白鵬の相撲の戦法を問題にするなら、対戦相手の対抗法も問題にするべき、ということだ。
張り手やかち上げは威力のある手法だが、それを使うことによるリスクも伴う。白鵬はそのリスクを冒しながらワザを繰り出している。
対戦相手は白鵬のそのリスク、つまり脇が空きやすいという弱点を突かないから負けるのだ。横綱審議委員会はそこでは白鵬の品格よりも対戦相手の怠慢を問題にしたほうがいい。
もう一度言う。横綱としての白鵬の不体裁は相撲テクニックにあるのではなく、相撲規則に載っていない種々の言動の見苦しさの中にこそあるのだ。


晩節を汚した立ち合い

そんな具合に僕は横審ともNスペともちょっと違う意見を持っている。だが、自分の見解が果たして妥当なものであるかどうかの確信はない。それというのも白鵬は、彼の最後の土俵となったことしの名古屋場所で、またしても驚きの動きをしたからだ。

全勝で迎えた7月場所の14日目、白鵬は時間いっぱいの仕切りで、仕切り線から遠い俵際まで下がって立ち合いの構えに入った。館内がどよめき対戦相手の正代は面食らって立ちすくんだ。

NHK解説者の北の富士さんが「正気の沙汰とは思えない」と評価した立ち合いである。正代は訳がわからないままに立ち、白鵬は例によって張り手を交えた戦法でショックから立ち直れない正代を下した。

異様な相撲はそこでは終わらなかった。白鵬は翌日の千秋楽でも大関の照ノ富士を相手に、殴打あるいは鉄拳にさえ見える張り手を何発も繰り出して、相手の意表をつき小手投げで勝った。45回目のしかも全勝での優勝の瞬間だった。

白鵬は正代との一戦を「散々考え抜いた末に、彼にはどうやっても勝てないと感じたので、立ち合いを“当たらない”で行こうと決めた」とインタビューで語った。

立ち合いを当たらないとは、要するに変化する、逃げる、などと同じ卑怯な注文相撲のことである。

だが何が何でも勝ちに行く、という白鵬の姿勢は責められるべきものではない。相撲でも勝つことは重要だ。また、仕切り線から遠い俵際まで下がって立ち合いに臨むのも、反則ではない。かち上げや張り手が禁じ手ではないように。

それどころか仕切り線から遠くはなれて俵際から立ち合うという形は、ある意味では誰も思いつかなかった斬新な戦法である。ましてや横綱がそれをやるなどとは誰も考えないだろう。

文化と文明の相克

白鵬の張り手やかち上げを「まともな戦法」と主張する僕は、正代戦での彼の立ち合いもまっとうな戦術の一つ、と認めて庇護しなければならない。だが、全くそんな気分にはなれない。

その立ち合いと、立ち合いに続く戦いは、白鵬の土俵上の所作や土俵外での言動に勝るとも劣らない醜さだと僕は感じた。

白鵬の戦法は理屈では理解できる。しかし僕の感情が受け入れない。そしてこの感情の部分こそが、つまり、「文化」なのである。

勝つことが全て、という白鵬の立場は普遍的だ。相撲は勝負であり格闘技だから勝つことが正義だ。それはモンゴル人も、ヨーロッパ人も、アフリカ人も、われわれ日本人も、要するに誰もが理解している。

誰もが理解できるコンセプトとはつまり文明のことだ。白鵬の立ち位置は文明に拠っているためにいかにも正当に見える。だが僕を含む多くの日本人はそこに違和感を持つ。われわれにの中には文明と共に日本文化が息づいているからだ。

その日本文化が、大相撲はただ勝てば良いというものではない、とわれわれに告げるのである。

文化は文明とは違って特殊なものだ。日本人やモンゴル人やイタリア人やスーダン人など、あらゆる国や地域に息づいている独特の知性や感性が文化だ。そして文化は多くの場合は閉鎖的で、それぞれの文化圏以外の人間には理解不可能なことも珍しくない。

普遍性が命である文明とは対照的に、特殊性が文化の核心なのである。従って文化は、その文化の中で生まれ育っていない場合には、懸命に努力をし謙虚に学び続けない限り決して理解できず、理解できないから身につくこともない。

相撲は格闘技で勝負ごとだから何をしても勝つことが重要、という明晰な文明は正論だ。だがそれに加えて「慎みを持て」という漠たる要求をするのが文化である。日本文化全体の底流にあるそのコンセプトは、大相撲ではさらに強い。

文明のみを追い求める白鵬は、そのことに気づき克服しない限り決して横綱の品格は得られない。さらに言えば白鵬の場合、気づいてはいるものの克服する十分な努力をしていない、というふうにも見える。

驚きの“日本人に愛されたい症候群”

しかしながら白鵬の在り方のうちで最もよく分からないのは、彼が「日本人に愛されたいという強い願望を持っている」というNHKスペシャルの指摘である。

番組によると白鵬は、日本人に愛されたいと願っていて、それが叶わないために屈折しコンプレックスとなりプレッシャーになって相撲が乱れたのだという。

そうした白鵬の思い込みは、最後の日本人横綱である稀勢の里との対戦の際に、観客が日本人である稀勢の里のみを応援して自分を軽んじている、という見方を彼にもたらした。

彼はさまざまな場面でそんなひけ目や葛藤また孤独感を抱いて相撲ファンを恨み、それに沿った言動をして日本社会から隔絶していった。

それらが事実なら、反動で白鵬は優勝インタビューにかこつけて万歳三唱を観客に要請したり(2017年)、3本締めを強制したり(2019年)して顰蹙を買い、さらに溝を深めていった、という分析も可能だ。

僕は白鵬の土俵上の所作とともに万歳三唱や3本締めを冷ややかに見てきた。あまり利口なやり方ではない、と苦笑する思いでいた。従ってそのことに批判的らしい番組の方向性に納得した。しかしその原因が、いわば「日本人に愛されたい症候群」によるとは思いもよらなかった。

日本人に愛されたい願望がある、とは日本人に嫌われているということである。少なくとも白鵬自身はそう感じているということだ。

それはもしかすると、日本人の中にある執拗な人種差別あるいは排外感情を、白鵬が感じ続けているということなのかもしれない。

大相撲に絡んだ人種差別は、小錦騒動などでも明らかだった。僕はモンゴル人の鶴竜が横綱に昇進した時点で、人種差別は克服されたと書いた。

白鵬はバナナ日本人など恐れなくていい

だが圧倒的な強さを誇った白鵬が、そんな苦悩を抱えていたという意識とともに最後の優勝シーンを思い返してみると、ちょっとつらい気持ちになった。

名古屋場所の千秋楽に白鵬は家族を招待していた。彼が優勝を遂げた瞬間、奥さんと子供たちは嬉し泣きをした。僕はそれを、膝の怪我を克服して復活した白鵬を家族が喜び称える姿、と信じて疑わなかった。だがそこに人種差別的な要素が加わるとひどく違うシーンに見える。

白鵬の「日本人の奥さん」と「日本人の子供たち」は、理不尽な差別を受ける夫また父親が、重圧を跳ね返してまた優勝を遂げたことを祝い、賞賛し、誇る気持ちから喜びの涙にくれた、とも考えられるのである。

向かうところ敵なしの強さと、存在感を示し続けた白鵬を否定しようとする勢力があるとすれば、日本人であるということ以外には何にも誇るものを持たない「ネトウヨ・ヘイト系排外差別主義者」、あるいは皮膚は黄色いのに中身が白人のつもりのバナナ市民、つまり「国粋トランプ主義者」あたりだろう。

それらの下種な勢力は、モンゴル人だからという理由で白鵬を貶めようとすることも十分考えられる。

だが先に触れたように白鵬は、2007年に横綱に昇進して以降力強く美しい相撲で快進撃を続け、野球賭博や八百長問題で存続の危機にまでさらされた大相撲を救った立役者だ。

その意味では日本人以上に日本の最重要な伝統文化の一つを守った男なのだ。白鵬がもしもバナナ国民の中傷や攻撃を受けていたのなら、怖れることなく告発をするべきだ。

日本の国際的な評判を貶めるだけの反日・亡国の輩、すなわち「ネトウヨ・ヘイト系排外差別主義者」あるいは「国粋バナナ・トランプ主義者」等々を怖れる必要などないのである。





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口は災いの元、無口は災いそのもの


合成健さん&遠藤650

朴念仁首相を生んだ土壌

菅首相の退陣が決まったとたんに、これまで口を噤んでいた猫も杓子も誰もが、まるで石もて追うように批判の大合唱になっていると見えるのは、僕の思い過ごしだろうか。

多くの問題を抱えて迷走した菅首相だったが、もっとも重大な手落ちは絶望的なコミュニケーション能力だったのではないか。

それは失策というよりも彼の人となりや気質の問題ではあった。

だが何よりも奇妙なのは、発信力がほぼゼロの政治家が長く生き延び、あまつさえ総理の地位にまで登り詰めることができる日本の社会のあり方である。

短期間とはいえ彼が宰相の地位に留まることができたのは、コミュニケーション力をそれほど問題にしない日本独特の社会風習があるからだ。

無口や沈黙を許すのみならず、ほとんど賞賛さえするのが日本の文化である。


ふたりのスター

菅首相の訥弁を思うとき、僕はよく今は亡き銀幕の大スター高倉健と、大相撲の人気力士遠藤を連想する。

そこで日本人に愛される2人の例をひいて、日本人とコミュニケーションについて考えてみたい。

なお、あらかじめ断っておきたいが、僕は健さんと遠藤の大ファンである。

健さんの映画はたくさん観た。寡黙な男の中の男。義理や人情のためなら命も投げ出す「ヤクザの健さん」はいつもまぶしくカッコよかった。

力士の遠藤は、足が天井にまで投げ上げられるかと見える四股の美しさと、相撲のうまさが際立っている。もはや30歳にもなって出世は高くは望めないかもしれないが、いつまでも気になる力士である。

彼らふたりは通常の意味でのコミュニケーション力はゼロ以下だ。だがそのことは、健さんが優れた俳優であり、遠藤が優秀な力士である事実をなんら傷つけない。


ムッツリ遠藤

遠藤はNHKの大相撲中継において、横綱・大関を倒したときや勝ち越しを決めたときなどにインタビューされる。そのときの彼の受け答えが、見ている者が苦しくなるほどに貧しい。

相撲取りはしゃべらないことが美徳という暗黙の掟がある。しゃべる男は軽い、という日本のある種の社会通念に縛られて、無理やり感情の表出を抑える。

そしてその同じ行為を続けるうちに、習慣は彼らの中で血となり肉となってついには彼らの本性にまでなる。相撲社会全体を覆っている無言の行という風儀は、人工的に作られたものだ。しかし、もはやそれが自然と見えるまでに浸透し切っている。

しかし、遠藤の受け答えは自然ではない、と僕の目には映る。自らを強く律して言葉を発しないようにしていると分かる。だがその仕方に相手、つまりインタビューアーへの配慮がない。

自分がインタビューを迷惑がっていると分からせることを意識しているのか、顔や態度や言葉の端々に不機嫌な色を込めてしゃべる。それは見ていてあまり愉快なものではない。

遠藤のインタビュアーへの反感は、巡りめぐってファンや視聴者への反感として顕現される。それはつまりコミュニケーションの否定、あるいは彼自身が理解されることを拒絶する、ということである。

遠藤のあまりの言葉の少なさと、少ない言葉に秘められた一種独特な尊大さは、力士としての彼の力の限界が見えてきたことと相俟って、見ていて悲しい。

遠藤はかつて、大関くらいまではスピード出世するのではないかと見られた。だが、相撲の巧さが即ち相撲の小ささになってこじんまりとまとまってしまい、大関は夢のまた夢状態になった。

だがそれは彼のプロ力士としての力の現実であって、コミュニケーションを拒む彼の訥弁とはむろん関係がない。彼の訥弁を良しとする日本文化が問題なのである。相手を見下すのでもあるかのような遠藤のひどい訥弁も許されるから、彼は敢えてそれを改善しようとは考えない。

そうはいうものの、しかし、大相撲のダンマリ文化から開放された力士が、突然あふれるように饒舌になるのもまたよくあることだ。最近では 稀勢の里の荒磯改め二所ノ関親方が、引退したとたんに大いなるおしゃべりになって気を吐いている。

また元大関琴奨菊の秀ノ山親方 、同じく豪栄道の武隈親方 なども、引退して親方になるや否や饒舌になって、大相撲解説などで活躍している。 

彼らは心地良いしゃべりをする中々優れたコミュニケーターであり、語り口や語る内容は知性的でさえある。

そうしたことから推しても、力士の無口は強制されたものであることが分かる。遠藤のケースも同じなら、彼は現役引退後にハジけて饒舌になるのかもしれない。


だんまり健さん

高倉健の場合には、20015月に放送されたNHK『クローズアップ現代』で、国谷裕子のインタビューを受けた際に、彼の反コミュニケーション振りが徹底的に示された。

健さんはそこで国谷キャスターの質問の度に、じれったくなるほどの時間をかけて考え、短く、だが再び時間をかけてゆっくりと答えていく。

それは何事にも言葉を選んでしっかりと答える、という彼の美質として捉えられ、確立し、世に伝えられてもいる内容なのだが、僕の目には「言葉を選ぶ」というよりも「言葉が無い」状態に見えた。

あるいは考えを表現する言葉が貧弱、というふうにも。

その後はインタビューを介して、彼がスクリーンで演じる役柄と生身の高倉健自身が交錯し、合体して分別が不可能なほどに一体化していることが明らかになっていく。健さん自身もそのことを認める展開になる。

個人的には現実の人身と架空の役柄が渾然一体となる状態は優れた俳優の在り方ではない。しかし、高倉健という稀有な存在が、生身の自分と銀幕上の個性をそれとは知らずか、あるいは逆に意識して、融合させて生きている現実が明らかになるのは興味深い進展だった。

彼は男らしい男、男の中の男、また義理人情のためなら命も投げ出す高倉健、という日本人が好きなコンセプトに自身をしっかりとはめ込んで生きているのである。

そして高倉健という人間が、本名の小田剛一も含めて「俳優の高倉健」と完全に合体している姿に、彼自身が惚れている。

彼が惚れて自作自演している高倉健は、韜晦し過ぎるほどに韜晦する人間で、しかも彼自身はその韜晦するほど韜晦する高倉健が大好き、とういうのが彼の生の本質だ。

高倉健と力士遠藤は、韜晦し過ぎで且つ韜晦する自分が好きな男たちなのである。

健さんも遠藤も誰をはばかることもない成功者であり有名人だ。むろんそれで一向に構わない。それが彼らの魅力でもある。なぜなら「韜晦」は日本人のほぼ誰もが好きな概念だから。


目は口ほどにはものを言わない

一方、日本人のコミュニケーション力というコンセプトの中では、それらの朴訥な態様はきわめて陰鬱で且つ深刻な命題だ。

「口下手を賞賛する」とまでは言わなくとも、それを忌諱もしない日本文化があって、健さんの寡黙や遠藤の無言、果ては菅首相の訥弁が許されている。

繰り返すが、それはそれで全く構わないと思う。なぜならそれが日本の文化であり、良さである。おしゃべり過ぎる例えばここ欧米の文化が、逃げ出したくなるほど鬱陶しい場合も多々あるのだ。

言うまでもなく人のコミュニケーションや相互理解や国際親善等々は、言葉を発することでなされる。

言葉を用いないコミュニケーションもむろんある。表情やジェスチャーや仲間内の秘密の符丁やサインなど、などだ。

しかし思想や哲学や科学等々の複雑な内容の意思伝達は言葉で行われる。それ以外のコミュニケーションは、動物のコミュニケーションと同じプリミティブな伝達手段だ。

人間のコミュニケーションは「おしゃべり」の別名でもある。しゃべらなければ始まらないのだ。

ところが日本にはおしゃべりを嫌う沈黙の文化がある。寡黙であることが尊敬される。この伝統的な精神作用が、日本人を世界でも最悪な部類のコミュニケーターにする。

自らの考えを明確に伝えて、相手を説得し納得させて同意を得るのがコミュニケーションの目的である。

同時に相手の反論や疑問も受け入れて、それに基づいてさらに説得を試みる。そのプロセスの繰り返しがコミュニケーションだ。

おしゃべりであるコミュニケーションは、井戸端会議の「おしゃべり」に始まって、社会的な重要さを増すごとに「しゃべり」「話し合い」「議論」「討論」「討議」「対話」などと呼ばれる。


言葉は暴力抑止デバイス

それらは全て暴力や闘争や威圧や戦争を避けるために人間が編み出した手段だ。

自然的存在としての人間、あるいは生まれながらの人間は暴力的である。人の行動は生存のためにアグレッシブにならざるを得ない。

そうでない者は食料を得られず、飢えて淘汰される可能性が高い。それが動物の生存原理であり自然の摂理だ。

人の暴力性を和らげるのが言葉である。言葉は発信され、受け止められ、反応されることで言葉になり意義を獲得する。つまりコミュニケーションである。

コミュニケーションは積極的に「しゃべる」者によってより洗練され研ぎ澄まされ、改善されていく。

世界中で行われてきたこの慣行は、人種が交錯し人流が激しい欧米では間断なく練磨が進んだ。違う人種や国民間では対立が激しく、コミュニケーションが無くては血で血を洗う闘争が繰り返されるからだ。

争いが絶えない欧米では、紛争毎にコミュニケーションの訓練も加速した。

一方日本では、封建領主による言論・思想弾圧に加えて、単一民族と国民が誤解するほどに似通った人種や同言語話者が多かったことなども手伝って、コミュニケーションの重要性が薄かった。

そのために、島あるいはムラの人々の間で、お互いに察し合うだけで済む「忖度・あうんの呼吸文化が発達し、今日にまで至った。

何度でも言うが、それはそれで全く構わないと思う。多くを語らなくてもお互いに分かり合える、というのは心が和む時間だ。そこには日本の美が詰まっている。

しかしながら、日本が「世界の中の日本」として生きていく場合には、日本人同士でしか理解し合えない寡黙や無言や訥弁はやはり不利だ。いや、それどころか危険でさえある。

日本はそろそろ重い腰を上げて、討論や会話や対話を重視する教育を始めるべきだ。また重い口を開いて、世界に向けて自己主張のできる者をリーダーとして選択するべき、とも考える。




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国民と対話できない管首相はうっとうしい

サルsuga引き伸ばし



詭弁が呼ぶ迷走

イタリアにいながら衛星放送を介して日本とのリアルタイムでほぼ毎日菅首相を目にする。むろんネット上でもひんぱんに見る。出くわすたびに気が重くなる。

国会の答弁では相変わらず自らの言葉を持たず官僚が書いた文面を読み上げている。そのせいなのか目つきがあまり良くないと映る。人を信用せず絶えず疑惑に囚われている眼差しに見える。

彼は安倍政権の官房長官として脅しを専門にしていた、という噂をいやでも思い出してしまう。脅しの性癖が形を変えて、だが端的に出るのが、批判されて「俺はそうは思わない」と開き直る見苦しい答弁なのだろうか。

菅首相には前後の見境なく且つエビデンスも示さないまま、開き直ったり強弁したり詭弁を弄する癖があるようだ。強弁が得意なところは彼のボスの安倍前首相にも似ている。

菅義偉首相は昨年12月14日、GoToトラベルを全国一斉に停止すると発表した。それでいながら「GoToトラベルの人の動きによる感染拡大の証拠はない」と言い張った。

それならなぜあのときGoToトラベルを止めたのだ、とありきたりの論難をする代わりに、ここで次のことを指摘しておこうと思う。

欧州の真実

欧州各国は、昨年3月から4月がピークだった感染拡大第1波の沈静化を受けて、5月から徐々にロックダウンを緩和し6月には多くの国がほぼ全面的にそれを解除した。

それを受けて厳しい移動規制に疲れきっていたヨーロッパの人々は、どっとバカンスに繰り出した。また仕事や旅行での人の動きも活発になった。

その結果、夏ごろから英仏独スペインなどの主要国を筆頭に、欧州では感染拡大が再び急速に強まった。第2波の到来である。

欧州の主要国の中では、唯一イタリアだけが感染拡大を免れた。

第1波で世界最悪のコロナ地獄を味わったイタリアは、ロックダウンを解除したものの、社会経済活動の再開スピードを抑えたり感染予防策を徹底し義務化するなど、慎重な政策を取り続けた。

それが感染抑制につながった。

だがイタリアはEU(欧州連合)の加盟国であり、人と物の動きを自由化しているシェンゲン協定内の国でもある。国外からの人の流入を止めることはできず、バカンス好きの自国民の移動を抑えることもできなかった。

規制解除の開放感で高揚したイタリアの人々は、国内で動き回り、国外に出た者はウイルスを帯びて帰国し、他者に受け渡した。そうやってイタリアにも遅い第2波がやってきた。

コロナウイルスは自身では動かず、飛びもせず、這い回ることもしない。必ず人に寄生して人によって運ばれ、移動先で新たな宿りを増やして行く。

欧州全体とイタリアの例に照らし合わせて見ても、管首相の強弁とは裏腹に、GoToトラベルの人の動きが感染拡大の大きな一因、という見方には信憑性があることが分かる。

アナクロで陰気なムラオサ(村長)

GoToトラベルは感染拡大を招かない」という菅首相の根拠のない主張は、経済を重視する気持ちから出た悪気のない言葉かもしれない。だが、不誠実の印象は免れない。

そんな例を出すまでもなく、菅首相の話しぶりや話の内容には、分別や学識がもたらす「教養」が感じられない。教養を基に形成される深い思考や創造などの「知性」に至っては、皆無とさえ言いたくなる。

もっと言えば古代のムラ社会のネクラなボスが、いきなり現代日本のトップに据えられたような印象さえある。そういう人が日本の顔として国際政治の舞台にも出て行くことを思うと気が重くなる。

何よりも問題なのは、それらの負の印象が錯綜し相乗して、菅首相の存在自体から明朗さを消し去ってしまうことだ。それがテレビ画面ほかで見る彼の印象である。

彼は実際には明るいオジさんなのかもしれない。だが国民にとっても世界の人々にとっても、メディアで見る菅首相の印象が彼の存在の核心部分になっているのは否定できない。

イメージの重さ

イメージは火のないところに立つ煙のようなものだ。実体がない。従ってイメージだけで人を判断するのは危険だ。しかし、また、「火のないところに煙は立たない」とも言う。それは検証に値するコンセプトなのである。

一般的に見てもそうだ。ましてや彼は日本最強の権力者であり、海外に向けては「日本の顔」とも言うべき存在だ。そこではイメージが重要でである。

菅首相のイメージの善し悪しは日本の国益にさえ関わる。細部にこだわって言えば、彼のネクラな印象は、例えば外国を旅する一人ひとりの日本国民のイメージさえ悪く規定しかねない。無視できないことなのだ。

明朗さに欠ける国のトップのイメージは致命的だ。国際政治の顔で言えば、中国の習近平国家主席や韓国の文在寅大統領、さらにいえばトルコのエルドアン大統領などの系譜のキャラだ。

明朗な人の印象は、存在や言動や思想が、善悪は別にして「はっきりしている」ことから来る。その点菅首相は表情も言動もはっきりしない。だから人に与える印象が暗い。そこは文在寅大統領も似ているようだ。

中国の習主席は表情や物腰がヌエ的だ。トルコのエルドアン大統領は、無知蒙昧なムラのボス的雰囲気が、不思議と暴力を連想させてうっとうしい。それが彼の暗さになっている。

コミュニケーション力

イメージもさることながら、日本のトップとしての菅首相の最大の難点は、何といってもコミュニケーション力の無さだ。政策やポリシーや政権の方針といったものは、実は菅内閣はまっとうなものを掲げている。

それらは政策立案のうまい優秀な官僚やブレーンが考え出したものだ。そして首相たるものの最大の役目は、彼の政権のブレーンが編み出したポリシーを、国民にわかり易く伝えることだ。

国民が理解しなければ、政策への支持は得られず、結果それを実行に移すこともできない。即ち政策は無いにも等しいものになる。

菅首相は自らの言葉を持たないばかりではなく、国民と対面していながら官僚が準備した「政策文書」を下を向いて読み上げることが多い。それはコミュニケーション法としては最悪だ。

彼は自分で考え、書いていないから内容を覚えていない。そのため正面を向いて国民に語りかけることができない。さすがに内容を理解してはいるのだろうが、文面を覚えていないから棒読みをするしかない。

せめて文面を暗記していれば、カメラ目線で、すなわち視線を国民にしっかり合わせながら内容を読み上げることができる。つまり語りかけるポーズが取れる。

正面を向いて語りかける言葉は国民の心に響きやすい。そこから菅首相への親近感が生まれ、それは政策への支持となって実を結ぶ。

コミュニケーション力が貧弱であるにもかかわらず、彼は文書を暗記しカメラに向かって語りかける努力さえしない。努力そのものがコミュニケーションの一環だという基本概念さえ知らない。

それは「俺が理解されないのは相手が悪い」という典型的な傲岸思想をもたらす。菅首相が国会答弁やインタビューなどで見せるそっけなさや閉鎖性は、そこに起因しているように見える。

コミュニケーション力ほぼゼロの管首相が、今後国際会議などで世界中の首脳や政治家や各種官僚などと会談し、付き合い、外交関係を結んでいく状況を想像するのは難しい。

なぜならコミュニケーションのできない者には、それらの活動で成果を挙げることもできないからだ。それどころか、それらの営為自体が実は「コミュニケーションそのもの」だから状況は深刻である。

ムラの言語

日本人は一般的に欧米人に比べてコミュニケーション能力が低い、とよく言われる。日本文化が能弁や自己主張や個人主義に重きを置かない、内省的な傾向の強い社会・人文・生活体系だからだ。

政治家もその縛りから逃れることはできない。

古い時代の日本の農民は、ムラの中だけで通用するいわば無言の言語「阿吽の呼吸」を駆使して彼らだけの意思伝達のシステムを作り、何かがあるとシステム外の者を村八分にした。

片や現代の日本の政治家は、仲間や政党や派閥などの政治ムラの中で、彼らだけに通用する「根回し」という名のコミュニケーションの体系を作り上げる。

だが仲間や群れや徒党内だけで通用する意思伝達手法は、忖度や憶測や斟酌の類いの仲間内の符丁にとどまるものであって、不特定多数の人々に一様に、あるいは広範に伝わる真のコミュニケーションではない。

菅首相の言葉が中々国民の心に沁み入らないのは、彼が政治ムラ内だけで通じる言語を使っているからだ。彼は政界でのしあがって首相にまでなった。彼の話す言葉が政界では十分以上に通用しているからなのだろう。

だがテレビを見ている国民には一向に意味が伝わらない。国民は政界ムラ内の人間同士が使う言葉なんて知らない。知らない言葉に感動しろと言われても、国民にはなす術がないと思うのである。



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差別の感じ方&対処法



アジア人攻撃婆あ2


また白人による有色人種差別のエピソードである。

人種差別への抗議デモがアメリカを席巻しているただ中で、そのことを気にするふうもなく差別行為をする。そういう人々がいる現実が差別の根深さとその撤廃の難しさを示唆している。下にURLを貼付する。
https://edition.cnn.com/2020/06/12/us/torrance-woman-park-video/index.html

今回は白人老婆がフィリピン系米人女性に投げつけた激しい侮蔑語の洪水。場所はアジア系の住民が40%近くを占める米カリフォルニア州の町、トーランス。日本人と日系人がきわめて多いことでも知られている。

老婆は数々の罵声の途中で若い女性に言う。「お前がアジアの何国人かは知らないが、とっとと自分の国へ帰れ!ここはお前の家じゃない!」
被害者の女性はCNNのインタビューに「差別問題は知っていたが、それがまさか自分に向けられるとは考えてもいなかった・・」と話した。

被害者女性の「まさか自分に向けられるとは」という思いは、町に多い日本人や日系人のものでもあるだろう。同時にそれは実は全ての日本人のものでもある。この稿では少しそこにこだわりたい。

老婆が繰り返しののしる「アジア人」から僕が先ず連想したのは、アジア人にはむろん日本人も含まれていて、従って老婆の罵声は一歩間違えば日本人にも向けられる性質(たち)の攻撃、ということである。

つまり日本人は世界の中では飽くまでも有色人種なのであり、人種差別はふとしたことで自分にも向けられかねない害悪、と自覚したほうがいい。日本人差別は過去には多く起こり、現在でも世界各地で散発している。要するに今この時に世界を揺るがせている人種差別問題は、事態の進展によっては日本人の問題にもなり得るのである。

人種差別問題では日本人に特有の現象がひんぱんに立ち現れる。つまり日本の内外には、自らがアジア人ではないと無意識に思い込み行動する日本人や、白人か準白人のつもりでいる日本人もきわめて多く、そのことが影響して日本人が人種差別問題に鈍感になる、ということだ。人種差別問題を対岸の火事と捉える日本人は少しも珍しくない。

ましてやそうした人々にとっては、人種差別問題にからんで「自らが差別される側に回る」事態が起こり得るとは思いもよらないことだろう。だが今このエントリーで取り上げているトーランスの町のエピソードを少し注意深く見てみれば、そうも言っていられなくなるのではないか。

加害者の白人女性は明らかに「アジア人は誰も彼も皆同じ」という意識で被害者女性に罵詈雑言を浴びせている。アジア人ではないと無意識に(あるいは意識的に)思っているある種の日本人は、白人女性の差別感情は自分には向けられていない、と主張するかもしれない。

アジア系住民が多いトーランスは、そのアジア人の中でも特に日本人の比率が高いことで知られている。加害者女性もそのことは十分知っているに違いない。それでも彼女はアジア人はアジアに帰れ、と罵倒するのである。繰り返しになるが彼女の言うアジア人にはむろん日本人も含まれている。われわれ日本人はそこのところを真剣に見つめなくてはならない。

自らがアジア人ではないと無意識に思い込み行動する日本人や、白人か準白人のつもりでいる日本人は特に、なによりも先ず自らがアジア人であるという当たり前の現実を冷厳に認めるべきだ。次に常にそれを意識してアジアの人々と対等に付き合い、その上で彼らと共に欧米を始めとする世界にも「対等」な付き合いを要求していくのだ。世界のそこかしこで今回と類似の問題が発覚する度に痛切にそう思う。

それなのに日本には、人種差別主義者のトランプ大統領の太鼓もちに徹する首相がいて、その太鼓もちの動静を喜ぶネトウヨ排外差別主義者や、表は黄色いのに中身が白くなった「アジア蔑視主義者のバナナ国民」が横行している。そんな状況では世界の人種差別問題の意義どころか、そのことに関心さえも抱かない国民が多いのではないか、と危ぶむ。

今世界で巻き起こっている人種差別問題、とくに「黒人差別」問題がよく理解できない人、あるいは実感できない人は、それをまず「アジアと日本」また「アジア人と自分」などの土俵に引き入れて考えてみたらどうだろうか。身近な国や国民との比較で考えれば、あるいは理解が深まるかもしれない。とは言うものの、自らをアジア人と感じない日本人にとってはそれもまた無意味なのだろうが。

日本国内に住んでいる日本人には人種差別問題が中々実感できないことは理解できる。またここイタリアのように親日の人々が多い国に住む者にとっても、居心地が良い分やはり人種差別問題を身近に引き寄せ実感することが難しくなる。むろんこの国にも日本人が嫌いな者はいる。だが人は自分を嫌う他人とはあまり付き合わない。そのため周囲にはますます日本好きのイタリア人ばかりが集うことになる。僕自身の場合もそうだ。

そうではあるものの同時に、故国の外にいる分だけ問題により敏感に反応するのもまた事実だ。今動乱の渦中にあるアメリカははもちろん、欧州でも英仏を筆頭に人種差別問題は頻発する。ここイタリアも例外ではない。多人種が共存する場所では残念ながら避けて通れない課題だ。

そこでは日本人は欧米の人々との友誼を堅持し深化させつつ、自らのアジア人としてのアイデンティティーも直視し続けなければならない。それがぶれることなくまた恐れることなく人種差別問題に対峙する秘訣だ。なぜなら他人種の人々は、表は黄色いのに中身が白いという得体の知れないバナナ的人間よりも、表と中身が一致した本物の、正直な人間を信頼し尊重するものだからである。



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