目ざめ
「やあ、こんにちは。ようやくすっかり目が覚めましたね」
ベッドで目覚めたMのすぐ目の前にある男の顔は、巨顔症かと思うくらい異常に大きくて丸く、両目はカミソリで切りこんだ傷あとみたいに細くて瞳がまったく見えなかった。男がぶあつい唇を横に引きつらせて笑っているために、顔中の皮膚がずりあがって、ただでも細い目をおおい隠してしまっているのだ。そのうえ男の獅子鼻の下には汚れのようなうすい口ヒゲがこびりついていて、下あごにはカリカチュアの中国人そっくりのみじめったらしい長いヒゲまでぶらさがっていた。
Mはぎゃ! と悲鳴をあげた。大きな双眸と高い鼻と濃い髭を持つ美顔の白人ばかりを見つづけてきたMの目には、息がかかるほど近くにぬっとつき出されている男の顔はゾンビのように映ったのだ。
男はMの反応に気をわるくすることもなく、ニコニコと笑いつづけている。気を落ちつけて見ると、男の顔はM自身のそれと同類の日本中のどこにでもころがっている顔だった。白人の感覚でおどろいたMがどうかしているのだ。Mは一転して、あ、やさしい顔だなと思い、そうすると俺は日本にいるのだな、と安心した。
「ドメニコ・ナガオカです。はじめまして」
男はMの鼻をなめるほど近くに寄せていた顔を上げて一歩うしろに下がり、きまじめな表情でぺこりと頭をさげた。Mの視界がひらけて、男の全身が見えた。どうひいき目に見ても医師の診察着にしか見えない白衣を着ている。Mはそのとき、男の頭のてっぺんがつるつるに禿げあがっていることにも気づいた。
「たいへんでしたね。3日3晩ずっと眠りっぱなしでしたよ。いやあ、一時はどうなることかと思った。よかった、よかった。もう大丈夫ですからね」
自分がなぜ日本にいるのか、いったい何が起こったのか、どうしてそこに50歳がらみの白衣を着た男がいるのか、何もかもが突然でわけが分からずにいるMにはおかまいなしに、男は精いっぱい愛想をふりまいた。
「----ここはどこですか。あなたはいったい誰ですか」
ぽかんとして男の顔を見あげていたMはようやく聞いた。
「まあーた。またまたまたまたまた! なかなかお上手ですね。バスルームで倒れて頭を打って、気絶して、時間がたって気がついたら、そこは天国か病院に決まっているじゃないですか」
「-------」
「でも、大丈夫。安心しなさい。ここは天国ではありません。サンタマリア元修道院病院です。わたしはごらんの通り、医者です」
「病院……」
「そうです。バチカン市国経営、法王さま直属のサンタマリア元修道院病院。フィレンツエの郊外の丘の上にあります。ごらんなさい」
医師に言われて窓外に目をやると、なるほど眼下はるかには花の聖母寺の大キューポラを景色の中心に据えた、フィレンツエの美しい街なみが薄い霞のむこうに広がっているのが見える。
そうか、ここはまだやっぱりイタリアだったのだ------。Mは窓外の景色のようにぼんやりと霞のかかっている頭の中で思った。Mはもう10年近くもフィレンツエに住んでいる貧乏画家だ。しかも彼は気をうしなう寸前まで、フィレンツエにほど近い地中海沿岸の町でイタリア人の妻と子供と共にバカンスを過ごしていたのだ。イタリアにいるのが当たり前なのである。
「日本じゃないのか……」
Mはなぜかすこしがっかりした。
「日本? まさか。イタリアですよ、ここは。神の国、精神の国、法王さまのおわしますイタリアです。泥のように精神のない国、日本なんかであるはずがないでしょう。気をしっかり持ってください」
「先生は日本人?」
「そうですよ。やっぱりイタリア人に見えます? いやあー、よく言われるんです。しかし正真正銘百パーセント、本家本元純粋ピュアな日本人ですよ」
「でも、日本人じゃないみたい。名前が―――」
「ドメニコのこと? ドメニコは洗礼名です。元の名は洋一。洋一長岡。今は本名もドメニコ・ナガオカでいいです」
医師はMの言葉を途中でさえぎってほがらかに言い、それからえんえんと自分と病院の関係を説明し始めた。
それを要約すると、彼は敬けんなカトリック教徒で、20年ほど前にバチカンのサンピエトロ寺院に参詣にやって来て、そのままイタリアに住みついたのだという。はじめはローマに住んでいたのだが、10年ほど前からはフイレンツエ郊外の丘の上にあるこのサンタマリア元修道院病院につとめている。しかし仕事は無報酬無私無欲のいわばボランテイアである。彼はバチカンからの指令によってこの病院に派遣されて来ている医師なのだ。
サンタマリア元修道院病院は、その名前からも分かる通りカトリック系の由緒ある病院である。ここには主に宗教問題で悩んでいるカトリック教徒が多くおとづれる。その大半は、異教圏に生まれながら何の因果かカトリックを信奉するようになってしまい、カトリックの理想と生まれた土地の思想風習文化情愛生活習慣義理人情など、ありとあらゆる因縁としがらみのはざ間で悩み疲れた熱心な信者である。イタリア人も多少いるが、アラブ人、ユダヤ人、アフリカ人、また日本人の信者もかなりの数がおとづれる。
ドメニコ長岡医師は、本人が若いころに宗教問題で大いに悩んだ経験があるために、そうした人々にきわめて同情的で、すこしでも彼らの力になってやるのが同じ信者としての自分の義務だと考え、バチカンからの指令をこころよく受け入れたのだという。
「要するにここは気ちがい病院ですか」
医師の話がひと通り終わるとMは聞いた。医師はぎょっとして細い目を思いきり見ひらいた。見ひらいても彼の目は鏡もちのひび割れくらいにしか見えなかった。
「き、気ちがい……なんてことを。それ放送禁止用語ですよ。そんなことはありません。精神の疲れと、き、気ちがいとはまったく話がことなります」
「ぼくは気ちがいじゃないですよ」
「当たり前です。自分で自分のことを気ちがい―――じゃない、え~と、クレージーとかクレージーじゃないとか主張するクレージーなクレージーがいますか。ここには誰ひとりとして気の狂った人間はいません。病院という名前がついているから誤解したのでしょうが、ここは疲れた信者の心を安めるいわば保養所。静かな環境の中でゆっくりと体をやすめて精神をリラックスさせるための場所です。変なことを考えてはいけません」
医師はきっぱりと言い、ふいにはじけるスマイルでMの目の前に再びぐあんと顔をつき出した。
「あなたの洗礼名はフランチェスコですね、Mさん」
仲間意識をあらわにして、医師は猫なで声でささやいた。
「そうだよ」
Mはぶすっとして返した。洗礼名がフランチェスコならどうだというのだ。
Mは3年前、イタリア人の妻と結婚したのを機会にカトリックの洗礼を受けた。骨の髄までカトリックの信奉者である妻にしつこくすすめられて、彼はその儀式を受けたのだ。信仰心などすこしもなかった。妻にホれた弱みと、白人の仲間入りをしたいという虚栄心があったのだ。今では彼はそのことを後悔している。フランチエスコなどという名前で呼ばれると、目がくらむほど恥ずかしい。柄(がら)ではないと思う。医師が嬉々として自分のことを「ドメニコ」などと呼ぶのを聞くと、Mはよけいにそんな気分になる。鳥肌が立つ。図々しいと思う。Mの顔も医師の顔も、仏教か神道かアニミズムがふさわしい。信仰は顔でするものなのだ。
「いい名前ですね。本当にいい名前です。フランチェスコというのは、あなたに良く似合っていると思いますよ」
まるでMの腹の中を見すかしたように医師はMを持ち上げておいて、
「さ、それでは何が起こったか話してみて下さい。気絶する前のでき事を一つ一つゆっくりと思い出して、わたしに話してみるのです」
と彼をうながした。
「それと洗礼名と何か関係があるのですか」
「あるかも知れないし、ないかも知れない。そのことをはっきりさせるのが病気をなおす一番の近道です」
「病気?」
「あ、いや。病気ではありません。つまり、あなたのケガのことです。ケガの原因というか、理由というか……。そういうことを知っておかなければなおるものもなおらない。ま、そういうことです」
ケガの原因………とMはつぶやいた。そうだ、それがあって俺はここにいるのだ、と彼はふいに気づいた。すると頭の後ろがズキズキと痛んだ。Mは無意識にそこに右手をのばした。ごわごわした感触の異物が貼りついている。彼はそのときはじめて、自分の頭に包帯がぐるぐると巻きつけられていることを悟った。
「あ、気をつけて。傷口はまだふさがっていないんです」
医師があわてて両手を上げてMを制した。しかしそのときのMは、医師の言葉にはまったく耳を貸していなかった。
彼はその時けんめいに意識を集中してなにかを思い出そうとしていた。後頭部が激しく痛んだ。ケガのせいか意識がもうろうとしてなかなか考えがまとまらない。それでも彼は考えた。ケガの原因 怪我のゲンイン 怪我の原因 ケガのげんインの怪我のゲンインのケガ-……そうだ! 俺は子供を殺した……それでケガをして……気をうしなって……子供殺しが俺のケガの原因――。長い時間をかけてMはようやく結論に行きついた。
深い悲しみがどっとMをおそった。ぽろぽろぽろぽろと彼の目から涙があふれ出て、頬をつたって落ちた。やがて彼はおいおいと声をあげて泣いた。涙で枕がぬれて、さらにシーツがぬれても彼は泣きやまなかった。
「さ。さ。ささささささささ。Mさん落ちつ着いて。泣いてばかりいてはだめです。気をしっかりもってなにもかも話してしまうことです。そうすれば救われます。救うのが神の仕事です。さ、さ、さ。さささささささささささ」
医師にやさしくうながされて、Mはしゃっくりをしいしい話しはじめた。
未知との遭遇
「好きで生まれたわけじゃない」
Mの耳にははっきりとそう聞こえた。はじめはもちろんそら耳だと思った。草木もねむる丑三つ時。午前3時に近い海の借家のキッチンにいるのは、Mと生後70日の彼の息子だけだ。
生まれたての赤ん坊が口をきくはずはない。とすればユーレイか。しかし窓の外には柳の木も見えなければ生あたたかい風も吹かない。それでなくてもスマホ、パソコン、スーパーコンピュターのこの時代にユーレイは冗談がきつい。加えてここは、見るもの聞くもののすべてが陽気じみているのが取り柄の国イタリアだ。そのイタリアのユーレイにしては、低いが良く通る声の質にねばつくような実在感があって、あまりにも愛きょうがなさ過ぎた。
Mは疲れていた。ビーチでの長い日光浴と慣れない水泳のおかげで、重石を腹にのみこんだような倦怠感を全身におぼえていた。それでも彼は、出産に体力を使いはたして病人のごとく弱っている妻のドリエラに代わって、赤ん坊の世話をしなければならない。
赤子は手がかかる。おしめの交換や風呂の世話や食事のそれはいうまでもなく、寝ても起きても黙っていても、親の手助けがなければ生きていけないのが赤ん坊だ。赤子がひとりでできるのは吐いて吸う息だけなのだ。
Mが真夜中の3時に、ドロボー猫よろしくこうしてキッチンでうろうろしているのも、子供に食事をさせてやるためだ。妻のドリエラは、体が弱りきっているために乳が一滴も出ない。なので子供はずっとミルクで育っている。
朝の7時に始まって1日に6回、ほぼ4時間ごとに子供はミルクを要求する。真夜中の3時が1日の終わりの、あるいは始まりの食事というわけである。日課になっているから機械的に目は覚めるが、そんな時間に子供の面倒を見るのはMはいつもうんざりだった。
Mは車輪つきの子供の箱ベッドを寝室からキッチンに移動して、寝ぼけまなこで子供のミルクを作っていた。授乳時間にベッドから抱きあげると、子供は目覚まし時計のようにけたたましく泣き出す。だから彼は、ぐっすりと寝こんでいる妻のねむりをさまたげないように、子供を毎晩ベッドごとキッチンにはこびこむのだ。
ミルクをあたためながらMは腹の中で子供にさんざん悪態をついていた。
(こいつのおかげでせっかくのバカンスが台なしだ。俺はまだまだ子供なんかほしくなかったのだ。ちくしょう、あの晩俺が酔っぱらってさえいなければ、こいつがこの世にひり出されることもなかったのに……。一生の不覚だ。事故で生まれてきたくせに、こいつは1日に人の倍の6回も食事をしたいときた。おまけに自分では少しも体を動かす努力をしやがらない。何かというとビービー泣くだけが能だ。腹が減ったといっては泣き、ねむいといっては泣き、フンをしては泣き、目が覚めたといっては泣き、うれしいときでさえ悲鳴をあげている。ろくでもないチビめ)
そのとき、まるでMの腹の中のつぶやきにこたえるように、冒頭の文句が彼の耳に飛びこんだ。
Mはかすかな物音も聴きのがすまいとして、ありたけの神経を両耳に集中した。哺乳瓶をあたためているガスコンロの栓をそっとひねる。ぶつぶつと不満たらしい音を立てていた熱湯が静まった。そこにふたたび声がかかった。
「いつまでもブーたれていないで、早く食わせろ」
まちがいない。声はMの背後にある赤ん坊のベッドからもれて来ていた。
Mの腰から下をおそう虚脱感。まるで他人の下半身を引きずっているみたいだ。後頭部にピストルを突きつけられた逃亡者よろしく、Mはそろりと振りむいて箱ベッドの中をのぞき見た。
ほっとした。なにも異常はなかった。子供はゴムのような赤い唇に、左手の中指と薬指を思いきり押しこんで、ちゅうちゅうと音を立てて吸っている。おしゃぶりは歯茎に悪いと医者に言われて、Mと妻は子供にそれをあてがわないことにした。手もちぶさたなのか、赤ん坊は生まれてまもなく2本の指を口につっこむ癖をつけた。
Mはベッドの手すりから手をはなした。哺乳瓶を取ろうとして流し台に振りむきかけたとき、無心に中空を見ていた子供の視線が動いた。同時に瞳の色が鳶色から深みのあるグレーに変わった。
赤ん坊の瞳の色は白人の妻の血を強く引いていて、日ごとに、極端な場合には時間ごとにくるくると変わって見える。色素の関係で光の当たる量や角度に敏感に反応するのだ。まるでビー玉のようだ。Mはふだんなら赤ん坊の瞳の色の変化をながめて楽しむところだ。子供のころに色とりどりのビー玉を光にかざして見た遊びを思い出して、ノスタルジアをかき立てられるのだ。
その時はようすが違った。赤ん坊の瞳はなにかの意志を秘めてくるりと変化したように見えた。
Mの予感はあたった。
「ぼくのおかげでけっこうなバカンスが過ごせるんじゃないか。じゃま者あつかいにするなよ。ミルク、あたたまったんだろう? はやく飲ませてくれ」
子供は指をくわえこんだ唇をくねらせて声を発した。Mの総髪が逆立ってピンポン玉みたいな鳥肌が全身に飛び出す。
「ドリエラ!」
Mはけたたましく妻の名を呼んだ。呼びながら顔を妻のいる寝室の方に向けた。しかし視線が子供の顔に貼りついてどうしても動かせない。だからよく見えた。赤ん坊はMの叫び声にびくんと大きく反応した。反応はしたが、すぐには泣き出さなかった。一呼吸置いて、決心をして、それからわざとらしく顔をゆがめるやいなや、こわれたサイレンのようなすさまじい泣き声を上げたのだ。
(こいつは一筋縄ではいかない怪物だ。演技をしている!)
Mは穴に吸いこまれるような恐怖感におそわれながら頭の片すみで思った。
「どうしたの!」
声よりも速いかと見える勢いで妻の体がキッチンの中に飛びこんできた。立ちすくんでいるMを一べつする間ももどかしく、彼女は箱ベッドに突進して中をのぞきこむ。たちまち、ずる、とくずおれて、それの手すりにかけている両腕に顔をうずめた。
「おどかさないで」妻はそのままの姿勢で顔だけをMに向けた。「赤ちゃんがやけどでもしたのかと思った――」
うらめしげに、しかし安堵感を満面にたたえて彼女は言った。
妻はボロ布のように弱った体にむち打って、夢中で寝室から飛び出してきたにちがいなかった。彼女は出産のときに帝王切開の手術を受けて大量に血をうしなった。それは2個の大きな腫瘍を摘出する作業も兼ねていた。そのために5時間にもおよぶ大手術になってしまった。もともと貧血の体質だった妻は、その後さらに重度の貧血症におちいって、出産の後の体力の回復が遅々として進んでいない。今は育児どころか、自分の身の世話もおぼつかない、なかば寝たきりの療養中の身なのだ。
箱ベッドに寄りかかったまま妻はしばらく息をととのえた。やがて残る力を振りしぼってゆっくりと身を起こしにかかる。Mは妻に手を貸すこともわすれて、流し台に背中を押しつけて棒のようにつっ立っていた。妻は立ちあがって箱ベッドの中で泣きわめいている赤ん坊を抱き上げた。とたんに赤ん坊はぴたりと静かになった。まるでスイッチを切るような不自然な沈黙。Mはそこでも子供の強い意志を感じた。
「いったいぜんたいどうしたの?」
ドリエラは子供を胸に抱きしめてそれの肩ごしにMを見た。視線にトゲがある。
「……口をきいた」
「え?」
「子供が口をきいた。化け物だ」
ドリエラは真四角な卵でも見るようにMの顔を見た。やがて、ふっと表情がゆるむ。
「あきれた。夢を見たのね」
頭を小きざみに左右にふりながら、妻は芯からあきれた、とMに伝えていた。
無力感がどっとMの全身をとらえた。妻の反応が当たり前だ。彼女が自分の目と耳でたしかめない限り、Mの話は永久に信じないだろう。動てんしてはいるが、Mにはそれくらいの判断力は残っていた。そして………子供は母親の目の前ではしゃべることがない……。Mが妻の名を呼んだときの子供の反応の仕方や、たったいま今母親に抱き上げられてぴたりと泣きやんだときの意志的な態度から推して、Mはそんな予感がした。その予感も後になってみるとやっぱり当たっていた。
誤解
「あら、まだミルクを飲ませていないの。しょうがないわね」
妻は湯わかしの中にある哺乳瓶に気づいて言った。言いおわるときには既にそれを湯わかしから取り出している。子供を抱きかかえている左腕の手首を器用に前に差し出して、ドリエラは哺乳瓶のミルクの一滴をその上にたらして温度をたしかめた。
「ちょっとぬるいけど、大丈夫」
ドリエラはひとりごとのように言って、ミルクをなめて手首を清め、子供をあお向けに抱き変えて椅子に腰を下ろす。
子供は泣きやむと同時にふたたび2本の指をしゃぶっていた。妻が赤ん坊の口からそれをそっと引き出してやって、代わりに哺乳瓶の乳首をあてがう。赤ん坊は、飢えたオオカミのような、というたとえも真っ青になるくらいのすごい勢いでバクリとそれに食らいついた。食らいつくと同時に両の拳を顎の下でぎゅとにぎりしめて、こん身の力をこめて乳首を吸いはじめた。
子供は息をつく間もおしんでひたすら食べつづける。妻はその様子を至福感にくもった目で見おろして微少している。やがて、
「ゆっくり飲みましょうね。はい、ちょっと休んで」
と言いながら、子供の口から乳首を抜いて息をつかせてやる。そうしないと赤ん坊はミルクを飲みながら窒息死しかねない。
(慣れた手つきだ)
Mは妻の一連の動きを観察しながら思った。
(どうも何かがおかしい。しっくりこないものがある。だがおかしいと言えば今夜はすべてがおかしいのだ。何もかもおかしいから、ついでに目の前に展開されている光景もおかしく見えるのだろう……)
子供はと見ると、母親が哺乳瓶の乳首を口から抜き出したことにも気づかず、めくれた両唇をつき出して惰性でなおもちゅうちゅうとやっている。そこに妻が哺乳瓶の乳首をあてがった。赤ん坊はふたたびそれにかぶりついて必死に吸う。頃合いを見はからってドリエラが瓶を動かして息をつかせてやる。子供は哺乳瓶の乳首が口から離れても委細かまわずに、唇をつき出してちゅうちゅうとやっている。
Mの関心は、いつの間にか妻の動静から子供のそれに移ってしまっていた。
(――こいつは何かに似ている……。そうだ、酸素不足にあえぐ生簀の鯉。こんなみじめったらしい生き物が言葉をしゃべるはずがない。もしかすると、しゃべるように見えたのは、口につっこんでいる指のすき間からもれる空気の加減だったのかも知れない………)
父親など完全に無視してひたすら食事に固執している赤ん坊を見つめて、Mは自分に言い聞かせようとする。しかしどうしてもそれは気やすめのように思えて仕方がない。子供がしゃべるのを見た瞬間からMの中に居すわっている暗い洞のような不安が、彼の気分を決定的に支配していた。
「赤ちゃんはあなたに何て話しかけたの。パパ? それともオトーサン?」
妻がMの方に顔を上げて、下手くそな日本語をまじえて聞いた。笑っている。Mが子供のしゃべる夢を見て寝ぼけたと信じているのだ。
「好きで生まれたんじゃない。ブーたれずに早くミルクを飲ませろ、と生意気な口をきいた」
Mはブゼンとして言った。妻の目がぱっとかがやいた。
「うわあ、すごい。そんなことパパに言ったの。ジュリオ・タカシ、えらいわねえ!」
哺乳瓶を右手で支えて、子供の口にあてがいながらドリエラは赤子の顔をのぞきこむ。Mはいらいらしたが、うまい反撃の文句は思い浮かばなかった。妻がかさにかかってからかってくる。
「何語で話したの。英語、日本語、それともイタリア語?」
「日本語だ」
Mは言って、しまった、と思った。しかし、もう遅い。妻はバネ仕かけの笑い仮面のようにけたたましく笑った。これで彼女は、Mが夢を見たという思いこみをますます強固にしてしまう。
子供は生まれてこの方イタリア語しか耳にしていなかった。Mたち夫婦の間の会話は英語だが、子供に話しかける彼らの言葉も、もちろんまわりの人々のそれも、すべてイタリア語なのである。
妻を含むイタリア人はともかく、なぜMが子供にイタリア語で話しかけていたのかというと、まず第一にMのイタリア語のレベルが幼児並のものだったからだ。第2はイタリア語そのものがにぎやかで愛きょうたっぷりの言語だから、子供に話しかける言葉としてはいちばん都合がいいとMは考えたのだ。したがって今の状況では、子供がまっ先に話す言葉はイタリア語以外にはありえ得ない。
「ジュリオ・タカシは将来は日本語も話せるようになるべきだ、とあなたが思いこんでいるから夢に出たのよ」
ドリエラは勝ち誇って断定した。
妻はMを誤解している。Mは子供は将来、日本語を話すべきだ、と強制的に思ったことはない。子供は将来は日本語も必要になるだろう、と柔軟に考えているだけだ。だから子供が言葉を覚える時期になったら、日本語で話しかけて少しはそれを教えるつもりではいた。しかし教えはするが、日本語を話すのはいやだ、と子供が自主的に判断すればそれはそれでいいと思っている。いやなら日本語など覚えなくてもいいのだ。
イタリアで育つ限り子供にとってはイタリア語が母国語であり、日本語は第2第3の外国語にすぎない。言葉は国籍だ。イタリア人がイタリア語を話すのでもなければ、日本人が日本語を話すのでもない。イタリア語を話す人間がイタリア人であり、日本語を話す人間が日本人なのだ。なぜなら言葉は人の感情も理性も表情も仕草も思想までも規定する。
言葉が規定できないのは人の皮膚の色だけだ。したがって子供はイタリアで育ってイタリア語を第1言語にする限り、どう逆立ちしてもイタリア人だ。イタリア人ならイタリア語をうまく話すことが先決問題だから、第2第3言語の日本語などどうでもいい。
とはいうものの、言葉が規定できない唯一のもの、つまり皮膚の色が子供は両親を白人に持つふつうのイタリア人とは違う。そしてふつうのイタリア人の中には、たいていの日本人と同じように阿呆が多い。だから、そこのところを言いがかりにして子供をいじめる者がこの先にはかならず出てくる。子供がそのとき混乱して、自分のユニークさが他人よりも劣っている、と誤解する日にそなえて日本語を習っておくのも悪くないとMは考えるのだ。
なにも日本人のMの血が子供の中に半分流れているからそのことに誇りを持て、と途方もない言いがかりをつけようというのではない。ふつうのイタリア人とも、また日本人ともすこし皮膚の色が違う子供にとっては、日本とイタリアのうちのどちらが住み良いかというと、イタリアは天国、日本は地獄、くらいの差があることをしっかりと認識するためだ。イタリアには人種差別がある。片や日本は、人種差別の存在にさえ気づかない国民が多い、絶望的な人種差別国だ。
日本語を知っておけば、子供はかならず日本や日本人と接する機会が多くなるから、そのことを人生の早い時期に理解することができる。したがって日本という国に対する間違った好意的な幻想を抱かなくても済むというわけだ。イタリアで多少いじめられても絶対に日本に逃げこんではならない。イタリアで踏ん張っていればかならずいいことがある。なぜかというとこの国は、日本とはまったく逆に、異なものユニークなものを至上と考える、少し頭のネジのゆるんだ人々の住む国だからである。
事故で生まれてきた子供だとはいえ、Mは赤ん坊の将来に対して一応その程度の見通しは立ててやっていたのだ。それなのに子供はMの親心を踏みにじるような暴言をは吐く。憎たらしいことこの上もない。しかし実を言えば、M自身も彼の父親に暴言を吐きつづけて、それを肥やしにここまで成長した男だ。だから暴言の件は腹は立つが許してやってもいい。
Mが気に食わないのは、赤ん坊がどうやら人の心を読み取る能力を持っているらしい点だ。
「好きで生まれたわけじゃない」という文句は、「好きで生んだわけじゃない」というMの内心を察した子供が鋭く放ったジャブパンチのようだし、何も言った覚えはないのに、やはりMの腹の中を見すかして「いつまでもブーたれるな」とストレートパンチをくり出してきた。その上、赤ん坊が言ったように、子供のおかげでMがけっこうなバカンスを過ごしているのも事実なのだ。自前でバカンスを買う金などない貧乏画家の彼は、子供の誕生祝いという名目で妻の家族がプレゼントしてくれた長い海の休暇を、負い目を感じながら過ごしている最中なのである。
食わせ者
(怪物が生まれたのはいったい何が原因だ)
Mは暗闇の中であお向けにベッドに横たわって考えつづけていた。
赤ん坊はミルクを飲み終えるとすぐに妻の腕の中で寝入った。腹がくちてくると安心してコクリコクリと船をこぎ、あわてて目覚めては哺乳瓶の乳首にぱくりとむしゃぶりつく、というしまりのない動きを何度かくり返して、ついに本気でねむりこけたのだ。
Mは妻の腕から子供を受け取って箱ベッドに放りこみ、寝室まではこんでやった。それからドリエラがベッドに横たわるのをたしかめて、ふたたびキッチンにもどった。気を落ち着かせるために彼はそこでワインをしこたま飲んだ。その後で寝室に入って、妻の横のベッドにもぐりこんだのだが、とてもねむるどころの騒ぎではない。
(アーリア人種のドリエラとモンゴロイドの俺の組み合わせが、子供に突然変異をもたらしたのだろうか。まさか。そんな組み合わせはいくらでもある。いちいち怪物が生まれていたら、いま頃は世界中がパニックにおちいっている……。コロナの影響―ありそうなことだ。イタリアへの影響は思ったより少なかったというが、役人の発表したことだから絶対に信用はできない。異常気象や大気汚染の付けがまわり出したのかも知れない。クスリ漬けの肉を食いすぎた可能性もある。
あるいは――地球外生物の落とし子、という線も考えられる。地球の鳥でさえ誰かの巣に卵を産みつけて、他人に子供を育てさせるくらいだ。宇宙の果てから飛んできてドリエラの腹にちゃっかり種を植えつけて、俺たち夫婦に子供を育てさせるくらいの高等な知恵を持つ生物がいても………待て。これが一番あやしいぞ。どこかで一度聞いたような話だ。俺はあの晩したたかに酔っぱらっていて、何が起こったか良く覚えていない。俺のサッカーのひいきチームのミランが優勝したのを祝って、皆んなで明け方まで飲みまくった日だったのだ。
ドリエラの言い分によると、完全に正体をうしなっていた俺が、めでたい日だからとかぶせるべき物をかぶせるのをいやがって、抜き身で突っ走った結果、彼女の腹がふくれてしまったのだという。俺は妻の主張を全面的に信じて今日まで来た。が、真相は闇の中だ。なにしろ俺はあの夜ドリエラを実際に抱いたのかどうかさえ覚えてはいないのだ。
何かがおかしい。それにしても、これと同じような話をたしかに俺はどこかで聞いている。いったいどこ―)
雷鳴に頭のてっぺんをど突かれたと思った。おどろいてベッドからはね起きた。それが子供の泣き叫ぶ声だと気づくまでにかなりの時間がかかった。Mはいつの間にかねむってしまっていたのだ。
反射的にサイドテーブルの上の置き時計を見た。七時半を回っている。定刻の七時を過ぎてもMが起きないので、赤ん坊はミルクを要求してわめき立てることにしたらしい。Mはねむりこむ前に同じ時計が6時を示すのをたしかめていた。そうすると一時間かそこらねむったところでたたき起こされた計算になる。
(てめえさえねむれば、人のことはどうでもいいと思っていやがる。チビエゴイストめ)
脳みそがそこら中をころげ回っているように頭が痛い。もうろうとした意識をふるい起こして、腹の中で子供をののしってからMはベッドを離れた。
子供の箱ベッドの中をのぞき見る。赤子は歯茎だけの歯の間に赤い舌をつき出して、思いきりわめいている。寝不足の重い頭にガンガンひびく猫じみたかん高い悲鳴。子供の歯茎の奥には、穴のように暗い口腔がぽかりと開いてMを歓待していた。
「わかった。わかった。いまミルクを好きなだけ流しこんでやるから、そのでかい口を閉じろ」
Mが言いつつ箱ベッドを押して部屋を出ようとしたとき、妻がうめき声をもらした。
「もう7時? 手伝おうかM?」
寝返りを打ってこちらに顔をむけて、つらそうな声で妻は言った。
「いいよ、ドリエラ。ぼくがすこし寝すごしたから、子供は腹を空かして泣きわめいているんだ。起こして悪かった。君はゆっくり寝ていてくれ」
Mは言い残して寝室を出た。
妻は特に朝が弱い。以前の半分にも回復しない体力に加えて、重度の貧血症だから、朝は長い時間をかけてベッドから立ち上がれるだけのエネルギーを体内に温存しなければならないのだ。Mは7時の授乳のときも妻に気をつかって、子供が泣き出す前に箱ベッドをキッチンに移動して食事の世話をしてやる。今朝はそれがうまく行かなかったために、彼女は赤子の悲鳴におどろいて目を覚ましてしまったのだ。
「お前の出産のためにドリエラはもうすこしで死ぬところだったんだぞ。ちょっとは気をつかって静かにしたらどうだ。この恩知らずの胃ぶくろヤロー」
キッチンに入って、粉ミルクをスプーンで哺乳瓶に入れながらMは言った。子供が日本語で口をきいて以来、Mも日本語で息子に語りかけている。子供は答えなかった。両目をきつく閉じて、口の中に顔があるかと見えるほどに大口を開けて力の限りに泣き叫ぶばかりだ。
「お前が母親の目の前ではしゃべらない腹づもりでいるのは分っているぞ。だが心配するな。ドリエラはまだ寝ている。さっきのはお前の泣き声でちょっと目をさ覚ましただけだ。今ここにやって来ることはないから安心して口をききな」
子供はやはりMの言葉には反応しない。ミルクを要求してひたすらに悲鳴を上げている。
「ふん。そうやってビービー泣いていると、すこしはかわい気があるようにも見えるからたいしたものだ。なかなかの役者だよ。だが、ごまかされないぞ。どういう魂胆かじっくりと話を聞かせてもらおう――」
「手伝うわ、M」
背後でふいに妻の声がした。おどろいて振りむくと、ガウンの胸元を両手で押さえながらドリエラがキッチンに入って来る。
「ね、寝ていなくてもいいのかい」
Mはうろたえて箱ベッドから離れた。
「すこしは体を動かした方がいいのよ。黙って横になっているといつまでも目がさ覚めないわ。それにいつもいつもあなただけに赤ちゃんの世話をさせているのが悪くて……。疲れたでしょう」
「いや、ぼくはそんな―――」
「ミルクはできたの」
「い、いま、あたためるところだ」
Mはあわてて言って、嘘のばれた詐欺師みたいにこそこそとガスコンロの前に行く。妻に内緒で子供に悪態をついたのがまるで幼児虐待みたいに思えて、Mはつい罪悪感を覚えてしまったのだ。
Mは哺乳瓶を湯わかしの水の中に置いてコンロに火をつけた。妻はその間に箱ベッドから子供を抱き上げた。
「おお、よしよし。いまミルクができますからね、ジュリオ・タカシ。はい、泣かないで。パパ、早くしてちょうだいね。ぼくはお腹がチュいた」
赤ん坊とMを交互に見やりながら話す妻の声に呼応して、子供のわめき声が尻すぼまりに小さくなった。
(こいつめ、なんて奴だ! ドリエラがここに来ることを予知していたから、さっきはどうしても口をきこうとしなかったのだ………)
Mは赤ん坊をにらんでボーゼンと立ちつくしていた。
ビーチの異変
キノコ雲みたいなパラソルが生い茂るビーチは、今日も海水浴客でごった返している。
世界は自分を中心に回っているつもりのガキが、数をかぞえるさえ腹立たしい数で縦横に砂地を駈けめぐっている。
老人らが扁平な胸にこびりついた白い胸毛を見せびらかして、、細い足と巨大な尻を持つ、もはや女とは呼べない女たちを、それでも女に見立てていちゃつきながらボッチェに興じている。黒い鉄の玉を下手投げに前に放り投げるだけの、老いぼれにはもってこいの他愛のないゲームだ。
隠すよりも見せびらかすことに熱心な若い女たちの挑発的な体が砂地にくねり、男たちの間をねり歩き、波打ちぎわを駆けまわる。海に飛びこむ。飛沫と喚声が上がる。
ディスコミュージックががんがん鳴りひびいて、若者らがそこかしこでパーテイーをくり広げる。パンク気取りの数人の若者のグループが、一つ一つのパーテイーに飛び入りで参加してはまた離れて、愛きょうの押し売りをつづける。老夫婦がわれ関せずという顔で波打ちぎわに杖を引く。
キャンデイー屋、パンケーキ売り、アイスクリーム屋、アクセサリー売り、ペット売り兼記念写真屋、ココナツ売り……おびただしい数の物売りが、ビーチの喧騒に拍車をかける。
バスタオル、帽子、ビーチボール、サーフボード、浮き袋、海水パンツ、サングラス、パラソル、ビキニ、脇や股間のはみ出し毛、サッカーボール、バルーン、凧、広告……色とりどりのオブジェが中空を舞い、止まり、走り、入りみだれて動き回っている。一刻も無駄にすまい、と誰もが目をつり上げている必死のバカンス――。
Mはミラー貼りのサングラスをかけて、寝不足つづきでチクチク痛む両眼を保護しながら、海風になぶられてうねるパラソルの下の寝椅子に横たわっている。パラソルの日陰の中心には、妻の寝椅子と乳母車がある。妻は長袖のブラウスとスカートを着て、その上にさらに薄手のバスタオルを乗せて、体を保護しながらうつらうつらしている。直射日光と強い風はドリエラの体にはまだ毒だ。
子供の乳母車は幌付きの真っ赤なやつだ。パラソルが風にうねるたびに影が動いて、強烈な光がそれにかかって赤い化繊布の全体が燃えるようにかがやく。
赤ん坊はその中で、例によって指をちゅうちゅうやりながら中空を見ている。なにかをじっと考えているようないないような得体の知れない眼差し。まぶしいのか、ときどき目を細める。頭を振る。少し体をずらして冬眠中の小熊みたいにもぞもぞと動く。伸びの仕方もまだ知らない赤子独特のしぐさだ。
(まったくたいしたタマだ)Mは子供の動きを盗み見ながら内心で舌を巻く。(完璧な演技ぶりだ。どこから見ても純粋無垢な赤ん坊だぜ)
出口のまったく見えてこない迷路に踏みこんでしまったような、もどかしい気分でMは考えていた。はた目にはサングラス越しにビーチのにぎ賑わいをながめているように見えるが、彼はずっと子供の動きを観察しているのだ。気持ちは子供を無視して、以前のようにバカンスを楽しみたいのに、彼の視線は目玉にバネでも取りつけたみたいに絶えず子供の方に引き寄せられてしまう。
そのくせ赤ん坊が正体をあらわすのは、午前3時の授乳の時だけなのだ。それ以外の時間にはMがいくらそそのかしても、子供は口をきくようなヘマは絶対にやらかさない。
今のようにビーチにいるときは、たくさんの人の目があるからMはそれは分からないでもない。が、たとえば夜の11時と午前7時の食事時にも、かたくなに口をつぐんでいる赤ん坊の意志の強さには、Mはほとほと感心する。その時間には妻のドリエラは十中八九寝室で横になっている。しかし赤ん坊は母親の眠りが浅く、ときどき起き出してはキッチンに顔を出すことを知っていて、片時も気を許そうとはしないのだ。
「うワっ! かわいい。ね、見て見て!」
股ぐらと胸に申しわけ程度の布きれをあてがった女が、巨大な筋肉の塊にやみくもに剛毛をちりばめてみました、といった風体の連れの男の腕を引っ張って乳母車の中をのぞきこんだ。大男は気のない顔でしぶしぶ立ち止まる。丸裸になった方がまだよっぽど刺激が少ないにちがいない女の大胆な水着とはちきれそうな肉体もうれしいが、ピラミッドでも隠し入れているみたいな男の股間の高まりがMの気を引いた。ふいに敵愾心のような、あるいは嫉妬のような、わけの分らない熱いものがMの身内に湧きおこった。
「かわいい。食べちゃいたいくらい。あーっ、笑った、笑った。まだ歯も生えていないのよ。ねえ、見て。見てったら!」
女は乳母車の中の子供と男の顔を交互に見やって、ひとりで興奮している。男はうろたえ、困惑しながらも、女にせかされて仕方なく乳母車の中を一べつした。
「ね、かわいいでしょう」
女がすかさず言う。声の調子は明らかな断定的脅迫型同意催促形だ。
「うん……まあ…」
しどろもどろにつぶやく男。
赤ん坊にこだわって終始重い気分でいたMは、そのことを忘れて(バ~カ)と男の顔にほくそ笑んだ。
ピラミッドの魅力で女を征服しているかと見えた男は、実のところは女にがんじがらめに束縛されているだけのただの甲斐性なしのようだ。男は毎晩、下半身の爆発の後で「結婚したい」とか「あたしたちの子供きっとかわいいわよ」とか「体はこんなにちがっているのに、あたしたちどうして心はぴたりと一つなのかしら」などと女にいちいち因縁をつけられて、身動きがとれなくなっているにちがいない。
男のピラミッドに覚えたMの劣等感がすーっと晴れていく。
(まだ若いのに……キンニクバカ。早く子供を作れ。子供を作って地獄を知れ。そうなったら、お前のピラミッドも俺の粗末な一物も同じ穴のムジナだ――)
脈らくのない考えがMの頭に浮かんで、なぜかそれが楽しい。
彼はこみ上げてくる笑いをけんめいにこらえた。こらえたすき間から、ふふ、ぐふふふ、と笑いの滓がこぼれ出た。こぼれ出た笑いがさらに笑いをさそって、ついに止まらなくなった。
「M、だいじょうぶ?」
ドリエラの声で我にかえった。すぐに顔を引きしめる。
「ん? なに?」
Mはとぼけた。
「……びっくりした。急に泣き出すんだもの」
ぽかんとしているカップルに、妻は照れ笑いを浮かべて弁解して、うまくごまかした。
絶対美形
Mたち一家のパラソルには、カップルが去った後にも次々に見物客がやってくる。いつものことだった。見てくれの悪い東洋人のMと、北欧人的に金髪碧眼の容姿を持つ妻の組み合わせは、ただでも人の気を引く。そこに子供の乳母車が強いアクセントを加えて、彼らの姿はいよいよ人々の好奇心をそそるのだ。
物見高い連中が乳母車の中の子供に期待しているのは、Mのひな型かそれに近い何かだ。白人の妻のひな型はそこら中にいくらでもころがっている。彼らは見飽きている。Mを鋳型にして考える赤ん坊は、彼らにとっては得体の知れない代物だ。誰もが焼けつくような興味を覚える。しかし乳母車の中をのぞきこむ連中は、みごとに期待を裏切られる。赤ん坊はMには少しも似ていない。かと言って妻の分身そのままの形もしていない。
実は子供は、見る者がその姿を一べつしてギョッとして身を引き、ふたたび本腰を入れて今度はじっくりと観察をしないではいられない、息をのむような美しい姿態をした生き物なのだ。
赤ん坊の頭は、帝王切開手術で難なく母親の体外に取り出された子供に特有の、ゆがみのない完璧な丸みを帯びている。そこにはほのかにウエーブのかかったうすい栗色の髪の毛が、ふさふさと茂って両耳に触れるか触れないかのあたりで流れるように安んでいる。子供ははじめから髪の毛が生えそろった姿で生まれたのだ。
額は成長したときの聡明さが今から分かる広いなめらかな形。眉毛は先細の刷毛で軽くひと息に引いたような2本の曲線で、色は金髪のうぶ毛のようにきわめてうすい。
その下にはMと妻というよりも、東洋人と西洋人のそれぞれの美を集約した形の、圧巻の双眸がある。二重まぶたの大きな目は、吊り目になる手前のほど良い角度で東洋的に切れ上がって、中には色のうすい神秘的な瞳が収まっている。光をたたえているようにも、また光を反射しているようにも見える白人の赤子独特のうすい色の目玉は、無垢な魂の映し絵だ。
鼻は額と同じく、将来のノーブルなたたずまいが今から明らかな、大きすぎもしない小さすぎもしない盛り上がりを見せ、あるか無きかのすき間をあけて2枚重ねに寄りそっている唇は、小さな桜貝に熱い血をすこし注入したようにやわらかくふくらんでいる。
容貌だけを見れば、赤ん坊はたしかに世界中の幸運をかき集めてひとりじめにしているような、なんとも愛くるしい姿形をしている。しかし、子供をはじめて見る人間が一度ギョッとして立ちすくみ、自分の身の上に一瞬思いをめぐらせるみたいな変な眼差しをして、それから呆けた柔和な顔つきになって今度はしげしげとそれをながめまわすのは、どうも圧倒的な美形のせいだけではないような気がMはする。
そのくせ、それじゃ乳母車の中にころがっているのがMに良く似た、言うのも業腹だが、つまりぶさいくなチビだとした場合、見物人がはたしてそれを恍惚として見つめるかと言えば、それはまずあり得ないような気がするから、子供が人の気を引きつけるのはやっぱり見てくれがいいせいだろう、とMは結論づけざるを得ない。
対決
(なにがこの子はエンジェルよ、だ。どいつもこいつも赤ん坊の正体を知らないから、勝手なことばかりぬかしやがって。他人はともかく、母親のドリエラまで“ジュリオ・タカシは私のちっちゃな天使よ宝物よ星の王子様よ”と公言してはばからないのだから、あきれてものも言えない。しかし―――考えてみれば、これは連中がバカだというよりも、赤ん坊がそれだけ人心をたぶらかす手練手管にたけている、ということの証明なのだからおそろしい。化け物は化け物らしい顔をしていてくれれば、あきらめもつくし少しはかわい気もあるが、化け物とは正反対の顔をした化け物というのは、化け物の中でも一番しまつの悪い化け物だからまったく腹の立つ化け物だ)
Mはいつの間にかキッチンで子供の食事の準備をしながら、腹の中でぶつくさ言っていた。
キッチンには3基の蛍光灯が派手にともって、昼間のような明るさだ。子供に食事をさせる時には、Mは以前はガスコンロの上に備えつけられた小さな白熱灯だけをともしていた。箱ベッドの中で子供が目覚めた時にまぶし過ぎないように、と気をつかったのだ。今はそんなこと知るもんか、とキッチンに入ると同時にがんがん明りをつけて意地悪をしてやる。
子供はさっきから強い光にあてられて顔をしかめ、薄目を開けたり閉じたりして苦労していたが、ふいに左手の中指と薬指をそろえてぎゅと鼻に押しつけた。寝ぼけて口のつもりで鼻面に指を突っこんでいるのだ。
(ザマミロ)
Mは、ぐふふ、と含み笑いをして、粉ミルクをスプーンですくって哺乳瓶に入れる作業をはじめた。
「化け物、化け物って、さっきからうるさいな。バカの一つ覚えなんだよ」
とたんにMの背後でパンツがずり落ちるくらいに不気味で楽しい子供の声がした。
それ、来た、とMは体を固くして身構える。しかし、子供がはじめて口をきいた夜のようにあわてて振りむいたりはしなかった。今では彼はこの奇怪な生き物と正面切って対決する腹ができているのだ。
Mは流し台の前で悠然とミルクを作りつづけながら、顔だけをゆっくりと箱ベッドに向けて、両目におもいきり力をこめてじろりと子供にすごんでやった。
子供はうまく口の在りかをさぐり当てて、二本の指を押しこんでちゅうちゅうとやっている。薄目を開けて視線を中空に投げて、たったいま口をきいたことなんかそ知らぬ顔だ。
子供のそらぞらしい態度がMの癇をわしづかみにしてグリグリとこねまわした。敵意があるならあるで堂々とこっちの顔をにらみつけてぶつかってこい、と思わず意見をしかけたとき子供がふたたび言った。
「言っておくけど、あんたに化け物よ呼ばわりをされる筋合いはないんだ。ぼくは人よりも早く言葉を覚えてしまっただけさ」
「それが化け物だというんだ、トッツアンボーヤ」Mはぴしゃりと言ってやる。「それとついでだから教えてやるが、人にものを言うときは、まっすぐに相手の顔を見てBGM抜きでやるものだということを覚えておけ」
子供はしゃべるときも2本の指を後生大事に口にくわえこんでいるので、舌が絶えず指にからんで、会話の途中にぴちゃぴちゃとリズミカルな雑音が入る。それでも奇妙なことにしゃべる言葉は少しも舌足らずにならないで良く分る。しかしどうしても態度が横柄に見えてMは気に食わないのだ。
子供の赤い唇がぐにゅとゆがんだ。
「何がおかしい」
Mはきっと目をむいた。
「人のことをとやかく言う前に自分の態度をあらためてくれ」
「なんだと」
「ぼくを化け物よ呼ばわりするなということさ。歩き出すのが人より早い者もいれば、歯が人より早く生える者もいる。ということは、人よりも早く言葉をしゃべる赤ん坊がいてもおかしくないと思わないかい」
「思わないね。お前は生まれてまだ3ヶ月にもならないドチビだ」
「無知な男だな。歯がきれいに生えそろって生まれ出る赤ん坊や、生まれて1月もたたないうちに歩き出す子供のことを知らないらしい」
Mはぎょっとした。そんな話は彼はたしかに知らない。しかし、それを言って自分で自分の無知を認めるのはシャクだからごまかした。
「ふん。そんなことは百も承知だ。だがそういうのは単なる肉体の発育度の問題だ。肉体なら犬も猫もウサギも持っている。言葉はそれとはちがう。もっと複雑な要素がからんでいるのだ。それともお前のような狂い咲きの赤ん坊がほかにもいるというのか」
Mは子供がイエスと答えてくれるのをひそかに期待した。他にもこいつと同じ化け物がいるなら、すこしは気が楽だと思ったのだ。
「知らないな。あまり聞いたことがない。できのいい人間というのは数が少ないと相場が決まっているだろう」子供はしゃあしゃあと言った。「あんた、人の親ならぼくのような子供を持ったことをよろこぶべきだよ」
「ほう。そんなに親のよろこぶ顔が見たいのなら、ドリエラの目の前でもしゃべったらどうだ。え? なぜ母親の目の前ではしゃべらないんだ。え?えええええええ。心にやましい物があるからだろう。この極悪人」
Mは鬼の首でも取ったように言いつのった。
「おふくろが卒倒するのを見たくないからだよ」
すずしい声で子供は答えた。
Mの頭にカッと血がのぼった。
「この ―― 寸足らずの狂い咲きのビンボーガキめ。 俺は卒倒してもいいというのか!」
「分らないかな。あんたを見こんで口をきいてみたんだ。男親なら冷静に現実を見てくれると思ったからさ」
「お前のような子供の父親になって、我ながら情けないという現実なら良く見えている」
「……どうもあんたは本当の父親じゃないような気がしてきた」
「なんだと――お前の父親はほかにいるってのか」
「さあね。本当の父親なら、子供にもっとやさしいんじゃないかと思っただけさ」
子供はいつの間にか顔をこちらに向けてMを見上げていた。瞳の色がうすい灰色になっている。水晶のように澄んだふしぎな色合いだ。暗い感じではない。しかし意志の読み取れないその双眸が、Mには逆に子供の深い悪意のあらわれのように見えた。
「はっきりしろ。お前、なにかとんでもない秘密をにぎっているんじゃないのか。ドリエラのやつ浮気をしたのか」
Mは哺乳瓶を振りまわして叫んだ。振りまわすたびに中の粉ミルクが水にとけて、うまい具合に赤ん坊の食事が仕上がっていく。
「あんまり興奮するなよ。ぼくにそんなことが分るわけがない。おふくろだけだよ、そんなことを100パーセント知っているのは」
「お前が人の心を見抜けることは先刻承知だ。隠さないでさっさと白状しろ」
「ちょっと待ってくれよ、おやじ。変な言いがかりをつけないでくれ。どうしてぼくが人の心を見抜けるんだ。なんのことかさっぱり分らない」
「とぼけるな。それじゃ聞くが、お前がいつも俺の腹の中の考えに正確に反応するのはなぜだ」
「考えていることをぶつぶつしゃべれば、耳があるから聞こえるさ」
「この悪たれ。俺がいつぶつぶつ言った」
「やれやれ。この間おふくろが夢を見たのかとあんたに言ったのは、どうやらそんなに的はずれでもなかったみたいだな。あんたあの夜、ミルクを作りながらさんざんぼくの悪口を言っていたんだぜ。ついさっきもそうだ。人のことを化け物の中でも一番しまつの悪い化け物だとこきお下ろしたのは、いったいどこの誰だと思っているんだ。あんた、ほんとに覚えていないのかい。モーロクしたんじゃないのか」
「このガキ、よくもそんな出まかせをしゃあしゃあと――」
Mは逆上してあやうく子供に哺乳瓶を投げつけそうになった。腹の中で赤ん坊に罵詈雑言をあびせたのは否定しない。しかしそれを声に出してぶつくさ言った覚えはない。子供が人の心の内を読み取る暗い能力を隠ぺいするために、父親に濡れ衣を着せようとするのがMは許せなかった。
「ちょっと待って。タンマ!」子供に制止されてMは哺乳瓶を振り上げている手をお下ろした。「あの夜と今日だけの話じゃないよ、おやじ。あんたのべつ幕なしにぶつぶつ言ってる。ほんとに記憶にないのなら、一度医者に見てもらった方がいいんじゃないか」
「こ――この……殺してやる」
Mは怒りのあまり胸がふさがって、ほとんどうめくような声になった。
子供が明らかにうろたえた。Mの怒りが通りいっぺんのものではないことにようやく気づいたらしい。
「ぼくを殺すのは簡単だけど、殺した事実を隠すの不可能だよ、おやじ」
精いっぱいクールに言ったつもりらしいが、赤ん坊の声はひきつってふるえていた。
「どうだか」子供が暴力の前には無力な存在であることに今さらのように気づいて、Mは勝ち誇るように言った。「首をきゅとしめてトイレに流してやる。あとかたもなく消えるぜ」
目を細めて両手でくいと首をひねるマネ真似をした。
「そんなことをしたら、大声で叫んでやる」
赤ん坊の口からはじめて子供らしいかん高い声がもれた。
「大志をいだけ。大いに叫べ。ヒトゴロシ! ってな。お前は小ざかしく見えても、しょせんは芋虫みたいに無力なガキだから知らないだろうが、大人は聞いたことがない音は空耳だと思って無視するんだ。ドリエラはお前の声には注意をはらわない」
「あんたと2人だけになったら、ぼくは眠らないでずっと見張っている」
「だまれ! 一日に25時間もいびきをかかなきゃ体が持たないヨタローのくせに」
子供は黙った。Mが哺乳瓶の乳首を子供の口にぐいと押しこんだのだ。ふいをつかれて一瞬ためらった子供は、それでも食べ物に我を忘れて乳首にむしゃぶりつく。一気呵成に食いはじめた。が、たちまちせきこんでごぼごぼとミルクを吐き出す。あお向けに寝ている子供の口にMが瓶を逆さまに押し立てたために、細い喉には大量すぎるミルクがほとばしったのだ。
Mはあわてて哺乳瓶を子供から離した。子供は目を白黒させて、ヒッと一つしゃっくりをした。それを合図にヒッヒッヒッヒッヒッとしゃっくりのオンパレードがはじまる。
「チッ」
Mは舌打ちをした。急いで冷蔵庫からレモンの一切れをとりだして、コーヒースプーンに汁をしぼり出す。それを片手に箱ベッドの底から子供をひょいと抱き上げて、うむを言わさず口の中にレモンの汁を流しこんだ。
子供は、ついに気が違った、としか思えない勢いで盛大に顔をしかめた。酸い味といっしょにたっぷりとショックを味わったのだ。おかげでしゃっくりがぴたりと止まった。
「手のかかるガキめ」
Mは吐き捨てるように言って、あらためて子供を抱きかかえて椅子に腰を下ろし、膝に乗せて左腕で首を支える。いまいましいがほかに仕様がない。それが子供のいつもの食事のスタイルなのだ。哺乳瓶の先を今度はすこし横倒しにして、Mは子供の口にあてがった。つい先刻の騒ぎもけろりと忘れて、赤ん坊は大口を開けて乳首に食らいつこうとした。Mは腹立ちまぎれに瓶をさっと口から離してフェイントをかけてやる。そうやって3度ばかり肩すかしを食わせてもて遊んでから、Mはようやく赤ん坊の口に乳首を含ませた。
子供は例によって乳首にむしゃぶりついて、わき目も振らずにがつがつ食う。赤ん坊にとっては食事はいつも大仕事だ。大人とちがって次の食事があることなど知らないから、そのときどきの食べ物を思いきりかきこむ。食事は子供にとっては1回限りの命をかけた大仕事なのだ。恥も外聞も見栄も義理も喜びもない。一心不乱に食べまくって体力を完全に使いはたす。そして眠る。眠るのは次の食事に備えてひたすら体力を養うためだ。
赤ん坊はそうやって今夜もぷつりと静かになった。
「おい。こら。起きろ。このヤロー。ジュリオ・タカシ。まだ話しは終わっていないぞ。こら。ちくしょう……、また逃げられてしまった」
Mは仕方なく子供の頭を肩に置いて後ろむきに抱きかかえて、背中をさすりながらキッチンの中をしばらく歩きまわった。げっぷをさせるためだ。そうしないと赤ん坊は後で腹痛を起こして泣き叫ぶ。ミルクといっしょに飲みこんだ空気が腹の中にたまるせいだ。
子供は徹夜あけの工員みたいに眠りこけながら、それでも父親をバカにして、げぷ、と派手な寝ごとを言った。
独白
「毎晩そんなことがつづいて、ついに疲れきったんだと思います。それで自分でも何がなにやらわけが分らなくなって、ある日子供を殺してしまおうと……」
Mは神妙な口調で言った。ドメニコ長岡医師は、うんうんうんううううんん、と深くうなづき感激しながらいつものようにMの話を聞いている。
長岡医師には人を安心させるふしぎな魅力がある。ゾンビのようだとMがはじめおどろいたぶさいくな顔が、今ではMのアイドルになっていて、彼は寝ても覚めても頭がボーとしていても、長岡医師の顔がなつかしい。長岡医師の治療哲学が、人の心の奥の奥まで見とおして病巣をさぐりあて、その病巣もいっしょに病人をやさしく包容して救ってやろうというものであることが、わかっても分からなくなるMにもわかるのだ。
ふつうの医者なら病巣をさぐりあてた時点で、焼きゴテやらハサミやらトンカチやら笑顔やらを使って、病人をそっちのけで病巣だけをぶんなぐってやろうとやっきになるものだ。病巣も病人の一部だからなぐられたら痛いという真理は、女王陛下の直参スパイよろしく病巣殺しのライセンスを持っているつもりの彼らにとっては、なぐるのはどうせ他人の病巣だから痛くない、というありあまる真実の思想訓練が鉄壁になされていることもあって、すこしも痛くないのだ、とMは長岡医師を見ていて思ったりしているように感じることがある。
治療哲学といっても長岡医師のやり方は、毎日決まった時間にMの病室にやって来て、よもやま話しふうにMと会話をするだけのものだ。薬も与えないし精神分析のテストをすることもない。
Mと医師はその日の気分によって、Mが寝起きする部屋であれこれ話しをすることもあれば、テレビのある娯楽室のソファにのんびりと腰かけて話しをすることもある。また今のように、花と緑と彫刻にかこまれた病院の広大な敷地の中を散歩するついでに、そこかしこのベンチにすわって小鳥のさえずりに耳をかたむけながら会話をすることもある。
「Mさん、あなたは赤ちゃんを殺してなんかいませんよ」長岡医師はこれまで何度もMに言ってきかせたことをまた口にした。「赤ちゃんを風呂に入れてやっただけなんです」
「先生がぼくをかばってそんなふうに言ってくれるのはありがたいと思っています。でもぼくはたしかに子供に殺意を持っていて、実際に子供の首をしめて、死体をトイレに流したんです。きのうのことのようにはっきりと覚えています」
医師は微笑した。いつものように人の心をなごませる愛に満ちた笑顔だ。彼のこの顔を見ると、Mはなにもかもこの人にまかせておけばだいじょうぶ。すべてを包みかくさずに話して楽になってしまおう、という気分になるからふしぎだ。
「あなたの病名は“チョー重症育児ノイローゼ”です。赤ちゃんの世話に加えて、奥さんと家事のめんどうまで見なければならなかったためにすこし疲れて、それでだんだんふつうとはちがう精神状態になっていったのです。現実と非現実が混乱して見えるのはそれが原因です。
あなたは赤ちゃんを傷つけもしなければ、もちろん殺しもしなかった。大便器の中にすわらせて体を洗ってやっただけなんです。そこは風呂としてはたしかに変な場所です。しかし洗面台にお湯を入れて赤ちゃんの体を洗う人はいくらでもいます。この国の洗面台は日本のものとはちがってデカイから、赤ちゃんの湯船としてはちょうどいい具合なんですね。異常な状況下にあったあなたが、すぐ近くに並ぶようにそなえ付けられていた大便器と洗面台をまちがえても、そんなにおどろくべきことじゃあない。わたしもやるかもしれない。いやあ、きっとやるなわたしも。うまいところに目をつけたものですよ、あなたは。まいった、まいった。まいっちゃったな、じっさい――。
そういうわけだから、全てわすれなさいね。赤ちゃんにつらくあたったという自責の念があなたの中には非常に強いために、どうしてもそう思えてしまうんです。あなたは男でありながらじゅうぶんに良く子供の面倒を見ました。しかも病気の奥さんをかかえて、家事のいっさいを切り盛りしながらそれをやったのだから、えらいものです。うん、あなたはえらい。えらいものだよ、あなたは。感心しちゃうな、わたしは」
Mは医師にそう言われると、なんとなくそんな気がしないでもない。が、実のところはよくわからない。
彼はたしかに赤ん坊と夜な夜な言い争いをして、しまいには赤ん坊の首をくいとしめて、ぐったりとなったそれを大便器に押しこんでジャーッと派手に水を流したと思うのだ。赤ん坊は小なりとは言え、そこに流すブツとしてはさすがに巨大だったから、なかなかひといきには吸いこまれず、Mは2度3度4度と出水レバーを引きつづけた。そう
しているところに、物音に気づいて目をさました妻がバスルームにやって来て、彼の完全犯罪は失敗に終った………。
それらのすべてがMの妄想だと医師は力説するのだ。
「妻はバスルームにいるぼくを見て、ギャーッとすごい悲鳴をあげたんだよ、先生。あれは殺人現場を見た人間の絶叫です」
「赤ちゃんが夜中の3時に大便器の中で水浴びをしているのを見れば、奥さんだけではなくカバもツチノコも悲鳴をあげます」
「……でも、妻はすごい形相でぼくを突きとばした。それでぼくはぶっ倒れてタイルに頭をぎゃんとぶつけて……気がついたらここにいたんです」
「奥さんは赤ちゃんを便器から早く救いあげようとして、はずみであなたを突きとばしたんです。でも彼女をうらんではいけませんよ。おかげであなたはすこし正気に返ったんですから」
なるほど、とMは納得する。納得した先から、どうも変だとまた思う。そんなにも現実感のあるはっきりした記憶が妄想夢想のたぐいなら、今こうして医師と話しをしているのも妄想じゃなかろうかと疑心暗鬼を生ずるのだ。
だけど医師の診断によると、今のMは夢とうつつの区別がつけられなくなっていた気絶前の危険な精神状態を脱して、タイルに頭をぶつけた後遺症でまだもうろうとしてはいるものの、かなり正常に近い容態になっているという。
(第三者のしかも専門家の医師がそういうのだからたぶんまちがいない。だから今こうしているのは、嘘いつわりのない真っ当至極本家本元山本山の輝かしい現実なのだ。したがってこの現実とまったく同じように現実感のあるあれらのでき事が、妄想夢想のたぐいだったということはあり得ないように見えて現実にあるわけだから、あれらの現実は非現実だったと結論づけざるを得ず、そのあたりのアウンの呼吸をまだしつこくこの現実とあの現実と分けて比較検討している自分というのは、現実中の現実であるこの現実の一部でありながら且つ現実には現実でないあの現実の一部でもあると考えている自分でもあるということになり、それは第三者の医師の指摘によれば現実としておかしい。だから現実問題として、自分が変か医師が変かの二つに一つ、二つに二つ、あるいは二つ三つ四つのうちのどちらでもないということになる)
「―――そうでしょう、先生」
Mは頭に浮かぶままのことを医師に話して同意を求めた。
おだやかな笑みを片ときも絶やさずに、しんぼう強くMの話しを聞いていた長岡医師は答えた。
「そういうふうに考えてもいいが、考えすぎてはいけません。今あなたはトンネルを出かかっているところです。トンネルの中の暗闇に目が慣れきっているために、外のまぶしい光が目に痛いばかりではなく、内側も外側もはっきりとは見えなくなっている。しかしそのまま歩きつづければかならず外に出ます。だからあまりあれこれと気をまわさないでのんびり構えることです。あとはもう時間の問題だけですから。さ、いつものようにあなたが気絶する前のことを一つ一つゆっくりと思い出して、わたしに話してみてください」
「あれ? だって先生。いま考えすぎるなと言ったばかりだよ」
「ワッハハハハ。そうだったね。そういうふうに明るく行こうじゃない」医師は子どもに1本取られた父親のように笑った。「いいですかMさん。思い出すことと考えることはちがいます。あなたは思い出して、思い出した通りをわたしに話してくれればいいのです。思い出したことに批判を加えたり、味付けをしたり、人に知られるのはいやだからここはちょっとゴマカシちゃえ、とかそういうズルをしちゃいけません。わたしが考えすぎるなと言ったのはそういうことです」
「わかりました。はい。いいですよ」
Mは言ったがあまり気のりはしなかった。なぜなら彼はもう何度も同じことを医師に話して聞かせているからだ。
長岡医師はそのたびに、すこしもMをばかにしないで真剣そのもの且つほとんどうっとりとした愛情あふれる顔つきでMの話を聞いている。Mの話をたくさん聞いて、それを通してなんとか彼の病気の総元締めに行きついて、今後の治療法の目安にしようとしているな、ということは一瞬わかってわからなくなるMだが、医師は適切なところでうんうんと相づちを打ったり、話の腰を折らないように気をつけながらツボにはまった質問をしたりする。だから話す側にとっては非常に話し甲斐のある聞き手であることはまちがいない。しかしいくらMがタイルに頭を派手にぶつけたせいで、ノイローゼ症状が進んでノーミソがでんぐり返ってしまっている病人だとしても、自覚症状がある分すこしは正常でもあるのかも知れない、と感じている程度のビョーニンだと本人は本人の頭の中で思っているのだから、やはり一応はマンネリズムを退屈だなアと思うこともあるのだ。
Mはそれでも話しはじめた。ところが赤ん坊がはじめて口をきいて、腰がぬけるほどタマゲたので妻のドリエラの名を呼んだら、彼女が火事場の馬鹿力で、病身にムチ打ってキッチンの中に飛び込んできたというところまで話したとき、ふいに妻と子供はどうしたのだろう、というなつかしさと悲しさの入り混じった気分におそわれて、涙がぽろぽろあふれ出てどうにもならなくなった。
「……妻と子供は今どうしているんですか、先生。妻はどうしてここをたずねてこないんですか。先生の言うとおり子供は無事でいるなら、妻はぼくを許してくれてもいいいんじゃないの」
「大丈夫。大丈夫ですよ、Mさん。コーフンしてはいけません。あなたはたしかにトンネルを抜けつつあるが、まだ完全には抜けきっていない。だから奥さんはたずねてこないのです。ここには顔を見せていないが、もちろん奥さんはあなたを許してくれていますよ。大丈夫です」
出口
「そういう気やすめはやめてくれ」
Mはふいに医師が憎らしくなった。
「人のことを気ちがいあつかいにして、気ちがいに逆らうのはまずいと思っていつもうまいことを言っているのは分かっているかも知れないぞ。ああ、俺は気ちがいかもよ。しかし、自分があんたに気ちがいだと思われていることは、はっきり言って自分の頭の中ではひしひしと感じているらしいと、俺は思ったことを否定もしなければ肯定もしない。その板ばさみの痛みを他人よりはかなり理解して、痛みを分ち合えれば理解はさらに深くなっていくだろうと、日々努力を惜しまない俺のような人間をあんたがどう思うか、そんなことはあんた自身で考えて欲しいもんだ。
大丈夫、大丈夫、奥さんはあなたを許してくれていますよ、なアんて良く言うよ。許しているなら妻はどうしてここにたずねてこないんだ。え? えええええええええええええ? 許すのは俺か妻か、そんなことはあんたも妻も知らないんだ。いいかげんなことを言うな。このカッパハゲ!
先生だって気ちがいかも知れないと誰それやこの彼女が言わなくても、自分が気ちがいか気ちがいではない人間のどちらかと人に聞いたとき、たぶん気ちがいの部類と断定されるような日常性の端っこのあるか無きかの足場の世界で生きている人間が、あたりを比較検討右顧左眄してながめまわすとき、小説よりも奇なる事実と出来事は森羅万象森森としてもなお波風が立つ場合もあることだし、人間いったい誰が気ちがいで誰が気ちがいでないかを当人の気持にかかわりなく決めつけるのは、神ではないから怖いという気持が気持の中でせめぎ合って、あれこれ誰それをあの気ちがいその気ちがいではないと分類するのは、結局人の気持が許さない。だからやっぱり神だけが人の気持を判断できると結論付けるしかないのだ。違いますか?」
「ピン・ポーン。おみごと。まさにその通り。ここまでしつこくあなたに言いつづけてきた甲斐があったみたい。Mさん、やはりあなたはトンネルを抜けつつあります。神を忘れてはなりません。神こそ命。神こそ全能。神こそ正常の泉。神ある限りあなたはたとえ狂っていてもクレージーじゃない。 なぜなら神の前ではあなたもわたしもトランプもプーチンもシューキンペーも、皆同じ羊だからです。もうすぐです。もうすぐあなたはトンネルを抜けます。トンネルを抜けるとそこは神の国です。雪国なんかじゃありません。トンネルを抜けると雪国だなんて、そんな貧しい救われない、お金も家も財産も定収入も心の平安もない文学なんかやっちゃいけません。トンネルの向こうにはさんさんと光のあふれる愛と希望と酒池肉林の救済の地があるんだ」
長岡医師はガッツポーズで言葉をしめくくった。
Mの頭の中で歯車がカチとかみ合う音がした。何かが動き出す気配がする。彼は考えているような気分で、先刻から2人が腰を下ろしている白いベンチの上に右膝を立てて、さらにそれに右肘をつぎ木して頬杖をつくる。
芝生のむこうの大木の下に“考える人”の銅像が置かれていた。生まれつき感化されやすい性質のMは、無意識のうちにそれに感化されたのだが、無意識のうちに感化されるくらいだから、彼の頭の中には当然なにもひらめかない。ただボーバクとした白い地平線のようなものが、じわりふわりとただようだけである。
(あれがトンネルの出口かな)
とMは思った。
「そうです。あれとは何のことか知りませんが、まさしくそれはトンネルの出口ですよ、Mさん」
「あれ。なんだい。先生も赤ん坊みたいに人の心が読める」
「考えていることを口に出して言えば、人には耳があるから聞こえます」
医師はすこし哀れむような声で言った。しかしすぐに思いなおして、笑顔にビジネスと使命感を混ぜ合わせた元の木阿弥になってつづける。
「さ、さ。それよりもトンネルの出口を目ざして歩きましょう。つづけて何が起こったかを思い出してわたしに話してください。考えてはいけませんよ。思い出して、思い出したことをそのまま話しつづければいいんです」
「いやだよ」Mはスネた声を出した。「いつもその手に乗って、しまいには頭がこんがらがっちゃうんだもの」
「ワッハハハ。ばれたか。今日はいつもとちょっと様子がちがうみたいだな。わッかりました。それではちょっとやり方を変えてみますか。そうですね――それじゃわたしが質問をして、あなたはそれに答えるという形にしましょうか。あ、それがいい、それがいい、とMさんは言いました。いいですね。いいですね」
「………」
「あなたは今なにも言わなかったつもりでしょうが、ちゃんとはっきりと“いいですよ”と言いましたよ。言わなかったことは口に出し、口に出したことは言ってない。夢と現実虚虚実実の世界が、入りみだれてコンゼン一体を成しているのが今のあなたの状態です。したがってわたしの言うことをすべて信じるように。
それではいいですかあ、質問に行きますよ。考えてはいけません。答えは考えることなく、答えようとして思い出せばいいんです。
しからば質問の一。
赤ちゃんがはじめてあなたに話しかけた夜、あなたは子供の世話なんかしたことのないはずの奥さんが、手ぎわ良く赤ちゃんにミルクを飲ませるのを目のあたりにして、何かがおかしいと感じた。あなたはいったいなぜ何かがおかしい、と感じたのでしょうか。あ、あ、あ、あああああああ。またあなたは夢の世界に行こうとしている。奥さんはあなたと結婚したとき、ちっとも処女なんかではなくて、子供をぼんぼこぼんぼこ何人もひり落としたことのあるあばずれだった、とありもしない虚構の世界に安らぎを見出そうとしている。現実に戻りなさい。真実をしっかりと見つめなさい。
あれは非常に啓示的な出来事だったのですよ。あなたはそのことを良く知っている。もう10日以上も同じことをしつこくあなたの頭の中に吹きこんできたわたしですよ。がっかりさせないで下さいね。さ、良く思い出して答えてごらん。さ。さ。ささささささささささささささ」
「………妻は……姦婦だ…………」
「まあた。股股股股股股股! めっ!そういうヒネたことを言ってはいけません。そんなフィクションはあなたが考えたことでもなければ体験したことでもない、夢の世界だとあなたは思いたいと思っている。その思いたいと思っている部分が真実の世界で、あなたは本当はそれを信じているんですよ。いいですか。しっかりとそのことを頭にたたきこんで。
はい。はいはいはいはい。しっかりと真実が見えますね。はい、その通り。今あなたは黙っていると自分では思っていますが、現実にはちゃんとあれは神聖な出来事だった、とあなたが信じていることを口に出して言いました。それでいいんですよ。このことをしっかり覚えておいて、明日わたしが同じ質問をしたら、必ず自分の過去の体験の一部だと思いこんでわたしに話して下さい。いいですね。
はい。それでは質問の2に行ってみます。
あなたは赤ちゃんがふしぎな能力を持って生まれたのは、もしかすると人智を超えた何か宇宙的なものが関係しているのではないかと疑い、しかもそれはどこかで聞いたことがあるような話だと感じた。それはいったいなんなのでしょうか。思い出して。はい、ぐっと力んで思い出してごらんなさい。しかし、考えすぎてはいけません。考える必要はないのです。ゆっくり、ゆっくりと思い出せばいいのですよ。思い出したことがあなたの信じていることで、信じていることがあなたの頭の中に浮かんでいるんですから。ほら……そうそう。ゆっくり。ゆっくりと自然に………」
医師は催眠術でもかけるようにMをさそいながら、彼自身も術にかかった魔術師みたいなうっとりした目つきになる。
さそわれるMの目つきはというと、医師のそれよりももっとうっとりとすわってしまって、彼の目は医師の目、医師の目はMの目となって、且つ医師の側にも同じ混乱が起こったからたまらない。2人の日本人の視線はぐちゃらもじゃらにからみあって、ついに2体が1体になってしまった。
「さあ、ようやく調子が出てきたぞ。このままつづけて質問の3に行こう。はい、いいですかあ。今度は赤ちゃんのことを頭に浮かべて――考えちゃダメ。思い出すだけですよ。いいですかあ。
あなたは赤ちゃんが人の気を引いてやまないのは、ただ単に容貌が美しいせいではなくて、なにか特別のふしぎな魅力があるからではないかと考えた。思い出しましたか……いいですね。
その通りです! あなたは100パーセント真っ正直に正しい。
赤ちゃんは神の子です。だから赤ちゃんを見る人は誰もがギョッとして立ちすくみ、一瞬のうちに自分の身の上と赤ちゃんのそれを比較し納得して、それから柔和な顔つきになってうっとりとその姿をながめ回さずにはいられなかったのです。人々は赤ちゃんを通して神を見たのです。そうでしょう……? よーく思い出して。ほーら今あなたが思い出していることが、あなたの信ずるべき唯一絶対の真実です。考えてはいけません。考えると疑いが生まれてそこはたちまち雪国ですよ。思い出してそのまま信じてしまえばそこは神の国。さ。さ。ささささささささささ。ただひたすら信じるのです。
――信じましたか。信じていますね。そう。それが正しい。あなたは信じている。さあ、それでは核心に行きます。いいですかあああああ、赤ちゃんは神の子で、すると当然……奥さんは……そう、聖母マリア…そう。その通りです。しからば、あなたは―――」
「ぼくはヨセフです」
Mの口からごく自然に言葉がもれて出た。とろりととろけるような甘い気分がMの全身全霊を支配している。考えるのも思い出すのもすべてが面倒で気だるい。まるでアヘンをしこたま吸いこんだような―――。
医師は満足げにうなずいた。うなずきながら、彼は吊り目の目をさらに吊り上げて、憑かれたようにダメを押しつづけた。
「ほーら、思い出した。その通り。しっかりとそのことを覚えておくんですよ。明日になってもあさってになっても、9月10月11月がきて来年2年3年10年たっても、あなたはそのことを覚えておいて下さいよ。あなたはその輝かしい真実のおかげでりっぱなカトリック教徒になるんですから。赤ちゃんは神の子。奥さんは聖母マリア。あなたはヨセフ。コキュなんかじゃありませんよ。あなたはヨセフ。ヨセフはあなた。あなたはヨセフ、ヨセフヨセフヨセフヨセフヨセフヨセフヨセフヨセフ…あなたはヨセフはあなた……」
医師はMの耳に口を押しつけるようにしてささやきつづける。その声はMの頭の中で神がかり的に大反響して、福音の渦巻になった。
2人の日本人の様子を病院の一角にあるチャペルの窓からのぞき見ている男女がいた。
1人は初老の神父。もう1人はMの妻のドリエラである。
「御主人はこれで妻に裏切られた苦しみを知らずに済み、しかもりっぱなカトリック教徒になる。一石二鳥というやつじゃよ。フオッホホホホホホホ」
神父が便秘の化鳥のような声で笑った。
「でも、神父さま、ほんとにうまく行きますでしょうか」
ドリエラが聞いた。
「お疑いですかな」
「だって、あの先生もここの患者の1人だというのでは心配で――」
「あれでも布教に熱心な信者の1人には違いないのじゃよ。特に同胞の日本人を折伏する段になると、ほとんど狂信的と言っていい力を発揮する。彼がここの病院に収容されているのもまさにそれが理由でしてな。これまで彼の手にかかってカトリックに改宗しなかった日本人は1人もいない。その点は心配しなくてもよろしい」
ドリエラの顔にほっと安堵の色がにじみ出る。神父が素早くくそれを認めてたしなめた。
「しかし夫を裏切っているあなたの罪がそれで消えるわけではありませんぞ」
「はい。分かっております神父さま」
ドリエラは神妙に答えた。
「赤ちゃんは元気にしていますか」
神父が話題を変えた。
「はい。おかげさまで」
「ふむ――。いくら神経衰弱で頭がおかしくなっていたとはいえ、御主人が人の心を読み言葉をしゃべると思いこんだほどの赤ん坊だ。本当に神の申し子かもしれませんぞ。フオッホホホホホ―――して、わしの種かの」
「め、めっそうもない! それにしては見た目が美しすぎます」
ドリエラは思わず言って、しまった、とばかりに右手で口を押さえた。神父は苦りきった顔で相手をにらみつけた。
「―――ったく。どうしようもない女だの。約束が守られるかどうか不安になってきたぞ」
「お許し下さい神父さま。約束はかならず守ります。今後はきっと心は主人だけに、体は神父さまだけに操を立てて神の御心に添うように生きてまいります。きっとそういたします」
信者は皆、真っ正直に生きている、と下界を見おろしながら神がつぶやいた。
(了)