【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

日本の問題

トランプ主義はドイツを、究極には日本をも、核武装へと追い込むかもしれない

インタビューされるメルツ650

欧州は安全保障を巡って風雲急を告げる状況になっている。

トランプ大統領が、軍事同盟であるNATOへの貢献責務を放棄する可能性をほのめかしているからだ。

特に核を持たない国々は、ロシアを見据えて不安のどん底にある。

トランプ大統領は、ウクライナのゼレンスキー大統領とテレビカメラの前で前代未聞の口論を展開するなど、相も変らぬ恫喝外交を続けている。

その一方では貿易相手国に関税をかけまくると叫び、欧州から、厳密に言えばドイツから米軍を引き上げる、NATO内での核シェアリングをやめる、などとも示唆している。

その中でも、特に核シェアリング否定発言に関して敏感に反応したのが、ドイツの次期首相と目されるフリードリヒ・メルツ氏だ。

彼はドイツと欧州が、アメリカから独立した安全保障体制を構築すると同時に、NATO内の核大国である英国またフランスと核シェアリングをするべき、という旨の発言をした。

だがその本音は、ドイツ独自の核開発であり核兵器保有だろうと思う。

ドイツでは核兵器の開発保有は、それを話題にすることさえタブーであり続けてきた。日本とよく似た状況だったのだ。

だがトランプ独断専行大統領の脅しに驚愕したメルツ氏は、やすやすとそのタブーを破った。

アメリカ第一主義をかざして、欧州との長い友好関係さえ無視するトランプ大統領に、オーマイゴッド・いざ鎌倉よと慌てた欧州首脳は、メルツ氏に限らず誰もが怒りと不安を募らせている。

彼らはトランプ&ゼンレンスキー両大統領が口論した直後、ロンドンに集まって緊急会合を開き、前者が切り捨てようと目論む後者をさらに強く抱擁、ウクライナへの支持を改めて確認し合った。

友好関係を金儲け論のみで捉えるトランプ主義は、権威主義者のロシア・プーチン大統領を賛美するばかりではなく、欧米ほかの民主主義友好国を大きく貶めている。

日本も見下される国の一つだ。

今のところは欧州やカナダまたメキシコなどの国々ほどなめられてはいないが「アメリカの同盟国」である日本を見るトランプ大統領の心情は容易に推察できる。

日本は欧州と同じく安全保障をアメリカに頼り過ぎて来た。いま日本が置かれている状況は、それぞれに「友人国同士が多い欧州内の国々」とは違う。

日本は孤立している。その意味ではむしろウクライナに近い。ウクライナにおけるロシアの代わりに、例えば中国が日本に侵攻しないとは誰にも断言できない。

日本は中国ともまたロシアとも友好的な関係を保ちつつ、アメリカに頼らない独自の安全保障も模索するべきだ。そこには核戦略が含まれても驚くべきではない。

人類の理想は核の無い世界であり戦争ゼロの世の中である。先の大戦で地獄を見ると同時に唯一の被爆国ともなった日本は、飽くまでも理想を目指すべきだ。

だが同時に国際政治にも目を配らなければならない。政治とは現実である。そこには軍備は言うまでもなく核戦略まで含まれる。

それらをタブー視しているばかりでは物事は解決しない。その善悪と、是非と、実現可能性の有無、またそれへの全面否定も含めて、日本は国民的議論を開始するべきだ。

メルツ・ドイツ次期首相の英仏との核シェアリング、ひいてはドイツ独自の核保有まで暗示した発言は、不本意ながら日本にも当て嵌まる、と見るのがつまり政治の厳しさである。




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ボルサリーノハットが泣く事大主義パフォ-マンス

帽子胸にアホーとトランプ650

麻生太郎副総理が4月23日、ニューヨークのトランプタワーのオーナーを表敬訪問した。

2016年の安倍元首相の猿真似。

タワーのオーナーのトランプ氏は、11月の選挙で大統領に返り咲くかもしれない。

従ってたとえ彼がいわくつきの人物であれ、誰であれ、日本の国益のために友誼を結ぶのは悪いことではない。

だが麻生さんのやり方は、安倍さんと同じで原則原則に欠け節操がなく誇りもない。コメツキバッタよろしく相手におもねっただけだ。

トランプ氏への批判精神が微塵もなかった安倍元首相の動きも、世界から見れば恥ずかしいものだった。

だが少なくとも当時のトランプさんは既に当選が確定していた。

今回はそのはるか以前での追従訪問。

見苦しいこと、この上もない。



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能登半島地震は「原発を止めろ!」と叫んでいるように見える  

大震災みたいな能登半島地震被害650

能登半島地震直後の世界の報道の様子は、かなリラックスしたものだった。

震度(マグニチュードではない)7という恐ろしい数字の割には、死者もなく被害も小さいというニュアンスの報告が多く流れた。

英BBCは、かつて日本駐在で今は台湾在の記者の報告として、日本人によるもの悲しい「日本ってすごい」類いの発信かと見紛うほどの日本礼賛記事書いた。

それらの影響もあったが、震度7という不快な数字にも関わらず被害が最小限に抑えられているらしい、と僕はすっかり安心した。

もなく事態は深刻だということが明らかになった。が、時すでに遅く、僕はあちこちに「明けましておめでとう」とノーテンキな年賀を発送してしまっていた。

慶賀とは真逆の、犠牲者の数と被害の大きさが連日増幅されていった。

打ち明ければ最近、特に日本経済の不振を見続けるうちに、原発の再稼動、推進も致し方ないのではないか、と思ったりしたこともあった。

だが能登半島地震を見て、やはり日本には原発は置いてはならない、と改めて考え直している。必ず再生可能エネルギーへとシフトしていくべきだ。

コストがかかり過ぎるなどと言ってはいられない。今後必ず来るであろう原発地域への大地震と津波被害をカバーする費用と、労力と、心理的ダメージ等の巨大さを思えば、再生可能エネルギー転換へのコストなど知れたものだ。

国の地震調査委員会の「全国地震予測地図」によると、能登半島を含む石川県の地震発生率は、南海トラフ地震の発生確率に比べるとほぼゼロと形容できるほどに低い。

程度の差はあるが、全国の発生確率予測も同様だ。言葉を替えれば南海トラフ地震の発生確率」だけが、政治的意図によって真実以上に高く評価されている。

今後30年ほどの間に大地震の起きる確率が「0.1%~3%未満」とされていた能登半島の巨大な揺れは、未知の断層で起きた可能性がある。

日本列島が乗っかっている活断層は、徴しが地表にも現われる極くわずかな部分を除いて、ほとんどが謎。未知の領域である。

危険が比較的高く、また政治的な狙いも加わって、発生確率が実際よりも異様に高く評価されているとされる南海トラフ地震域ほどではなくとも、北海道から沖縄までの日本列島はどこもかしこも危険地域なのだ。

もはや一刻の猶予も許されない。日本は脱原発に舵を切るべきだ。一斉に稼動を止めるのはさすがに無理だろうが、古い原発から順に廃炉にしていく計画を立てて、それに並行して再生可能エネルギーへとシフトして行くべきだ。

今回の能登地震は不幸中の幸いとも言うべきものだ。被害は甚大だが原発事故は起こらなかった。

再び福島原発のような惨事が発生すれば日本は2度と立ち上がれない可能性が高い。




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安倍派ガサ入れはマフィア逮捕劇の兄弟ドラマ

安倍独裁者夫婦が行く640

1月7日、裏金工作事件に関連して安倍派の池田佳隆衆議院議員が逮捕された。東京地検特捜部はひょっとすると本気で巨悪に挑もうとしているのかもしれない。

昨年12月、、東京地検特捜部が安倍派の事務所に家宅捜索に入った。

それは良いニュースであり悪いニュースでもあった。

良いニュースとは、特捜部が安倍派に歯向かったことである。

安倍晋三というひとりの議員が、一国の司法を抑圧し闇の力を行使するなど断じてあってはならないことだ。

安倍元首相の力が悪徳の隠ぺいに一役買っていたのなら、彼は死して後もなお、実行犯の議員らと同様に徹底糾弾されるべきだ。

死者を鞭打つなという日本独特の美徳は、権力者に対しては示されるべきではない。公の存在である政治家は、公の批判、つまり歴史の審判を受ける。受け続けなければならない。

悪いニュースは、司法が権力者の前ではへつらっていたくせに、その権力者が死ぬとほぼ同時に復讐に出た卑劣さだ。

司法が真に三権の一角を担う存在なら、彼らは安倍元首相が君臨していたころから毅然として、まかり通る理不尽に立ち向かうべきだった。忖度などもってのほかだったのだ。

日本の検察は、1警官ごときが「オイ、コラ」と威張っていた未開時代からあまり進歩していない。

検察が罪をでっち上げた最近の冤罪事件「大川原化工機事件」を持ち出すまでもなく、権力を傘に着た専制的な動きが普通に起きる。

東京地検の安倍派へのガサ入れには喝采するものの、彼らの前近代的で傲岸なメンタリティーも一役買っているように見えるのが憂鬱だ。

政治に抑圧されていた司法が、闇の力の消失あるいは弱体化によって一気に力を盛り返す事例は、民主主義が歪に発達した国で特によく起こることだ。

イタリアで2006年、43年間潜伏逃亡をし続けたマフィアの大ボス、ベルナルド・プロヴェンツァーノが逮捕された。

プロヴェンツァーノは逃亡中のほとんどの時間を、時には妻子までともなってシチリア島のパレルモで過ごしたことが明るみに出た。

するとマフィアのトップの凶悪犯が、人口70万人足らずのパレルモ市内で、妻子まで引き連れて40年以上も逃亡潜伏することが果たして可能か、という議論がわき起こった。

それは無理だと考える人々は、イタリアの総選挙で政権が交替したのを契機に何かが動いて、ボス逮捕のGOサインが出たと主張した。

もっと具体的に言えば、プロヴェンツァーノが逮捕される直前、当時絶大な人気を誇っていたイタリア政界のドン、シルヴィオ・ベルルスコーニ元首相が選挙に 負けて政権から引きずり下ろされた。

そのためにベルルスコーニ元首相はもはやマフィアを守り切れなくなり、プロヴェンツァーノ逮捕のGOサインが出た、というものである。

真偽のほどは今後の検証で明らかにされるだろうが、政治が組織犯罪に翻弄されることもあるイタリアの民主主義は、日本ほど歪ではないものの未熟で見苦しい点も多々ある。

安倍晋三というラスボスの死去を受けて司法が反撃に出たらしい状況は、ベルルスコーニという権力者の没落と同時に大ボスの逮捕に向かったイタリアの司法の必殺のチャンバラ劇を思い起こさせる。

昨年末のガサ入れの後、特捜部の動きは少し腰砕けになりつつある、という見方もあった。

しかし、彼らが安倍派の議員の逮捕に踏み切ったのは特捜部のガッツが本物である証にも見えて頼もしい。ぜひ踏ん張って捜索を強行していってほしい。








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皇太子を「王太子」と言い換えるペテンの悲哀

王太子イラスト480

中東などの皇太子をあえて「王太子」と名づけたがる者がいる。

皇太子を「王太子」と言うのは、野球の早慶戦を「慶早戦」とわざと言い換えるようなものだ。

要するに、関係者だけが悦に入っている図が明白な、バカの大壁である

この場合の関係者とは、ネトウヨヘイト系排外差別主義者と僕が規定している日本洞窟内の民族主義系住民

彼らは支配者である天皇を他の支配者とは違うと見る欺瞞の心根と、欧米への劣等意識の裏返しである差別感情から、中東域の皇太子のみを敢えて王太子と言い換えたがる。

その証拠に彼らは、例えば英国王室の皇太子を王太子と言い換えようとは夢にも思わない。

決まって欧米外の王室の世子のみをそう呼ぼうとする。それは偏見差別体質の現れ以外のなにものでもないのである。

天皇は元々は、世界のあらゆる国の王や帝王や皇帝と同じく、抑圧と殺戮と暴力によって民衆の上に君臨した権力者である。皇太子はその後嗣であり次代頭首だ。

つまり天皇も皇太子も共にアナクロな概念であり反民主主義的な存在である。

その後天皇は象徴となり、やがて平成の天皇の如き崇高な人格者も出た。その源である天皇家は尊敬に値するものだ。

だが天皇は、日本洞窟内民族主議者が悪用する可能性を秘めた「天皇制」に守られた存在である限り、あくまでも否定的なコンセプトでもある。

世界の主要国の中には、未だに王権あるいは王権の残滓にひれ伏す日本や英国のような国もある。

2国は民主主義国家でありながら、実は未だに王権の呪縛から精神を解放できない後進性を持つ、似非民主主義国家だ。

なぜなら真の民主主義国家では、国家元首を含む全ての公職は、主権者である国民の選挙によって選ばれるべきものだからだ。

それは「全ての人間は平等に造られている」 という人間存在の真理の上に造られた制度であり哲学だ。

人が皆平等である真の民主主義世界では、王権や天皇権があたかも降臨した如くひとりの人間や家族に与えられることはない。

天は人の上に人を作らず、天は人の下に人を作らない。

人は学び努力をすることで人の上に押し上げられ、身を粉にして世に尽くすという約束をすることで、選挙を介して首班や国家元首になるべきだ。

生まれながらにして人の上に立つ人間の存在を認めるのは、愚かであり欺瞞であり恥ずべきことである。

皇太子を王太子と言い換えたがる者はその権化だ。彼らは精神の昏睡による暗黒の中にいる。

早く覚醒したほうがいい。








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マスクを神聖視する羊群の危うさ

羊群切り取り最小画576

5月8日を興味津々に待っている。正確には5月8日以降の日本の光景。

5月8日はいうまでもなくコロナが日本でも季節性インフルエンザとみなされる日だ。それに伴って人々がついにマスクを手放すかどうか、僕は深い関心を抱いて眺めている。

マスク着用が個人裁量にゆだねられても人々はマスクを外さなかった。ちょうど帰国中だった僕はそれを自分の目でつぶさに見た。

異様な光景を見たままにそう形容すると、ほとんど侮辱されたのでもあるかのように反論する人もいた。だが異様なものは異様だ。

鏡に顔を近づけ過ぎると自分の顔がぼやけて見えなくなる。日本国内にいてあたりの同胞を見回すと同じ作用が起きやすい。距離が近過ぎて客観的な観察ができなくなるのだ

政府が3月13日以降マスクの着用は個人の自由、と発表したにもかかわらず日本国民のほとんどはそれを外すことがなかった。その事実を軽視するべきではない。

人々がマスクを外さないのは、①周りがそうしているので自分も従ういわゆる同調圧力、②真にコロナ感染が怖い、③花粉症対策のため、などの理由が考えられる。

このうちの花粉症対策という理由はうなずける。日本人のおよそ4人に1人が花粉症とされる。それどころか国民の約半数が花粉症という統計さえある

そうしたことを理由に日本人がマスクを外さないのは花粉症対策のためと主張する人も多い。

だがそれは最大およそ5割の日本人が花粉症としても、残りのほぼ5割もの国民がマスクに固執している理由の説明にはならない。

また雨の日や夜間は花粉が飛ばない事実なども、マスクに拘泥する現象のミステリー度に拍車をかける。

日本にはインフルエンザに罹ったときなどに割と気軽にマスクを着ける習慣がある。習慣は文化だ。マスク文化がコロナという怖い病気の流行によって極端に強まった、という考え方もできるだろう。

文化とは地域や民族から派生する、言語や習慣や知恵や哲学や教養や美術や祭礼等々の精神活動と生活全般のことである。

それは一つ一つが特殊なものであり、多くの場合は閉鎖的でもあり、時にはその文化圏外の人間には理解不可能な「化け物」ようなものでさえある。

文化がなぜ化け物なのかというと、文化がその文化を共有する人々以外の人間にとっては、異(い)なるものであり、不可解なものであり、時には怖いものでさえあるからだ。

そして人がある一つの文化を怖いと感じるのは、その人が対象になっている文化を知らないか、理解しようとしないか、あるいは理解できないからである。だから文化は容易に偏見や差別を呼び、その温床にもなる。

ところが文化の価値とはまさに、偏見や恐怖や差別さえ招いてしまう、それぞれの文化の特殊性そのものの中にある。普遍性が命の文明とは対照的に、特殊であることが文化の命である。

そう考えてみると、日本人がいつまでもマスクにこだわること、つまり日本の文化のひとつを異端視することは当たらない。

ところが僕は日本人である。日本の文化には親しんでいて理解もしている。その僕の目にさえいつまでもマスクを外さない人々が多い景色は異様に見えるのだ。

異様に見えるのは、その主な原因が花粉症対策というよりも同調圧力にあると疑われるからである。同調圧力そのものも異様だが、それに屈する国民が多い現実はさらに異様であり危険、というのが僕の気掛かりだ。

同調圧力は多様性の敵対概念だ。同調圧力の強い社会は排他性が強く偏見や差別が横行しやすい。またひとたび何かが起こると、人々が雪崩を打って一方向に動く傾向も強い。

片や多様性のある社会では、政治や世論が一方に偏り過ぎて画一主義に陥り全体主義に走ろうとする時、まさに多様な民意や政治力やエネルギーが働いてそれの暴走を回避する。

日本社会の画一性は古くて新しい問題である。日本国民の無個性な大勢順応主義は、間接的に第2次大戦勃発の原因になったと見ることさえ可能だ。

いまこの時は、ロシアのウクライナ侵攻によって引き起こされた欧州の危機感が日本にも伝播して、中国を念頭に軍拡が急速に進もうとしている。

そこには正当な理由がある。だが、まかり間違えば政治が暴走し再び軍国主義が勢いを増す事態にもなりかねない。それを阻止するのが社会の多様性だ。

おびただしい数のマスクが、人々の動きに伴って中空を舞う駅や通りの光景を目の当たりにして、僕は少なからぬ不安を覚えていた。

5月8日以降もしっかり見守ろうと思う。




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8月15日の兵士葬送曲~歴史修正主義者はまた必ず若者を壊す


東条込み世界指導者650

戦後総括の欠落

先の大戦で多くの若い兵士を壊して、戦場で悪魔に仕立て上げた国家権力の内訳は、先ず昭和天皇であり、軍部でありそれを支える全ての国家機関だった。

兵士の悪の根源は天皇とその周辺に巣食う権力機構だったのである

彼らは、天皇を神と崇める古代精神の虜だった未熟な国民を、情報統制と恐怖政治で化かして、縛り上げ、ついには破壊した。

それらの事実敗戦によって白日の下にさらされ、勝者の連合国側は彼らを処罰した。だが天皇は処罰されず多くの戦犯も難を逃れた。

そして最も重大な瑕疵は、日本国家とその主権者である国民が、大戦までの歴史と大戦そのものを、とことんまで総括する作業を怠ったことだ。

それが理由の一つになって、たとえば銃撃されて先日亡くなった安倍元首相のような歴史修正主義者が跋扈する社会が誕生した。


分断

彼らは軍国主義日本が近隣諸国や世界に対して振るった暴力を認めず、従ってそのことを謝罪もしない。あるいは口先だけの謝罪をして心中でペロリと舌を出している。

そのことを知っている世界の人々は「謝れ」と日本に迫る。良識ある日本人も、謝らない国や同胞に「謝れ」と怒る

すると謝らない人々、つまり歴史修正主義者や民族主義者、またネトウヨ・ヘイト系排外差別主義者らが即座に反論する。

曰く、もう何度も謝った。曰く、謝ればまた金を要求される。曰く、反日の自虐史観だ。曰く、当時は誰もが侵略し殺戮した、日本だけが悪いのではない云々。

「謝れ!」「謝らない!」という声だけが強調される喧々諤々の不毛な罵り合いは実は事態の本質を見えなくして結局「謝らない人々」を利している

なぜなら謝罪しないことが問題なのではない。日本がかつて犯した過ちを過ちとして認識できないそれらの人々の悲惨なまでの不識と傲岸が、真の問題なのである。


岸田政権の危うさ

ところが罵り合いは、あたかも「謝らないこと」そのものが問題の本質であり錯誤の全てでもあるかのような錯覚をもたらしてしまう。

謝らない或いは謝るべきではない、と確信犯的に決めている人間性の皮相が、かつて国を誤った。そして彼らは今また国を誤るかもしれない道を辿ろうとしている。

その懸念を体現するもののひとつが、国民の批判も反論も憂慮も無視し法の支配さえ否定して、安倍元首相を必ず国葬にしようと躍起になる岸田政権のあり方だ。

歴史修正主義者だった安倍元首相を国葬にするとは、その汚点をなかったことにしその他多くの彼の罪や疑惑にも蓋をしようとする悪行である。


功罪

安倍元首相には実績も少なくない。国防と安全保障に対する国民の意識を高めたこともその一つだ。

だがそこには安全保障の負担を一方的に沖縄に押し付ける彼特有の横暴が付いて回っている。外交や経済政策も然りだ。

外交に関しては、彼の多くの外遊やトランプ前大統領との友誼などを良しと考える支持者も多数い。またプーチン大統領との親交でさえポジティブに捉えて評価する者が少なくない。

安倍元首相の多くの外遊はあまたの知己を得て、彼の横死に際して国外から弔辞が殺到する事態になった。

だが国際政治に於ける彼の存在感や力量は、米英仏独等の首脳と比較するまでもなくほぼ無きに等しい。

国際政治の舞台では日本同様に重みのないここイタリアの首脳でさえ、安倍元首相に比べれば一目置かれる存在と断言しても差し支えない。

彼の支持者のネトウヨ・ヘイト系人士や国粋主義者などが、よく知ったかぶりで国際政治に於ける安倍氏の存在感の高さを吹聴する。だがそれは文字通りの知ったかぶりに過ぎない。

そうではあるものの、しかし、安倍元首相が国益を主眼にトランプ前大統領やプーチン大統領と親しくするのは正しい動きだった、とはフェアに言っておきたい


ラスボスたちの罠

だがそうした行動には、安倍元首相の良識と知識と教養が担保するところの、批判精神が秘められていなければならない。

安倍元首相には残念ながらそれが欠落していた。彼は無批判にトランプ前大統領やプーチン大統領に近づいた。のみならず無批判に彼らを称揚したりさえした。

やがてトランプ前大統領は、民主主義を踏みにじることも厭わない危険人物であることが明らかになった。

またプーチン大統領は、先進社会ではもはやあり得ないと考えられていた「侵略戦争」をいとも簡単に始めて、自国民を偽りウクライナ国民を易々と殺戮する大賊であることを自らさらけだした。

大きな不幸は、安倍元首相がトランプ前大統領とプーチン大統領にかねてから付いて回っていた、危険思想や言動また政策等の兆しを見抜けなかったことだ。彼の愚蒙の罪は深い。


修正主義者の闇

だが安倍元首相の最大の汚点は、彼の揺らがない歴史修正主義だったと僕は思う。彼の歴史観は、日本の過去の過誤を過誤と感じない恐るべき無明と無恥と不道徳に支えられている

そこに加えて、著名家系に生まれたことから来る彼個人の優越意識と、近隣アジア諸国に対する日本人としての優越感が加わって、軍国主義日本の行為でさえ是とする悲しい思い込みが生まれた。

同時に安倍元首相には欧米、特にアメリカに対する抜きがたい劣等意識があった。その秘められた闇は彼が2年間アメリアに留学した経験から生まれた可能性が高い。

そう考えれば、米大統領との友情を懸命に演出してはいるものの、トランプ前大統領のポチに徹していただけの、安倍元首相の悲惨な動きの数々が説明できる。


いつか来た道

戦争でさえ美化し、あったことをなかったことにしようとする歴史修正主義者が、否定されても罵倒されても雲霞の如く次々に湧き出すのは、日本が戦争を徹底総括していないからだ。

総括をして国家権力の間違いや悪を徹底して抉り出せば、日本の過去の悪への「真の反省」が生まれ民主主義が確固たるものになる。

そうなれば民主主義を愚弄するかのような安倍元首相の国葬などあり得ず、犠牲者だが同時に加害者でもある兵士を、一方的に称えるような国民の感傷的な物思いや謬見もなくなるはずである。

だが今のままでは、日本がいつか来た道をたどらないとは決して言えない。拙速に安倍元首相の国葬を決める政府の存在や兵士を感傷的に捉えたがる国民の多さはの目にはどうしても少し不気味に映る。





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8月15日の兵士葬送曲~被害者には加害者の自分は見えない


日の丸と敬礼兵士

兵士の本質を語るとムキになって反論する人々がいる。

兵士を美化したり感傷的に捉えたりするのは、日本人に特有の、少し危険な精神作用である。

多くの場合それは、日本が先の大戦を「自らで」徹底的に総括しなかったことの悪影響だ

兵士を賛美し正当化する人々はネトウヨ・ヘイト系排外差別主義者である可能性が高い。

そうでないない場合は、先の大戦で兵士として死んだ父や祖父がいる人とか、特攻隊員など国のために壮烈な死を遂げた若者を敬愛する人などが主体だ。

つまり言葉を替えれば、兵士の悲壮な側面に気を取られることが多い人々である。それは往々にして被害者意識につながる。

兵士も兵士を思う自分も弱者であり犠牲者である。だから批判されるいわれはない。そこで彼らはこう主張する:

兵士は命令で泣く泣く出征していった彼らは普通の優しい父や兄だったウクライナで無辜な市民を殺すロシア兵も国に強制されてそうしている可哀そうな若者だ、云々。

そこには兵士に殺される被害者への思いが完全に欠落している。旧日本軍の兵士を称揚する者が危なっかしいのはそれが理由だ。

兵士の実態を見ずに彼の善良だけに固執する、感傷に満ちた歌が例えば島倉千代子が歌う名曲「東京だョおっ母さん」だ。

「東京だョおっ母さん」では亡くなった兵士の兄は

優しかった兄さんが 桜の下でさぞかし待つだろうおっ母さん あれが あれが九段坂 逢ったら泣くでしょ 兄さんも♫

と切なく讃えられる。

だが優しかった兄さんは、戦場では殺人鬼であり征服地の人々を苦しめる大凶だったのだ。彼らは戦場で壊れて悪魔になった。

歌にはその暗い真実がきれいさっぱり抜け落ちている。

戦死した優しい兄さんは間違いなく優しい。同時に彼は凶暴な兵士でもあったのだ。

自分の家族や友人である兵士は、自分の家族や友人であるが故に、慈悲や優しさや豊かな人間性を持つ兵士だと誤解される。

兵士ではない時の、人間としての彼らはもちろんそうだっただろう。だが一旦兵士となって戦場を駆けるときは、彼らは非情な殺人者になる。

敵の兵士も味方の兵士も、自分の家族の一員である兵士も、自分の友人の兵士も、文字通り兵士全員が殺人者なのだ。

兵士は戦争で人を殺すために存在する。彼らが殺すのは、殺さなければ殺されるからだ。

だからと言って、人を殺す兵士の悪のレゾンデートルが消えてなくなるわけではない。

兵士は人殺しである。このことは何をおいても頑々として認識されなければならない。

そのことが認識されたあとに、「殺戮を生業にする兵士を殺戮に向かわせるのが国家権力」という真実中の真実が立ち現れる。

真の悪は、言うまでもなく戦争を始める国家権力である。

その国家権力の内訳は、先の大戦までは天皇であり、軍部でありそれを支える全ての国家機関だった。つまり兵士の悪の根源は天皇とその周辺に巣食う権力機構である。

敗戦によってそれらの事実が白日の下にさらされ、勝者の連合国側は彼らを処罰した。だが天皇は処罰されず多くの戦犯も難を逃れた。

そして最も重大な瑕疵は、日本国家とその主権者である国民が、大戦をとことんまで総括するのを怠ったことだ。

それが理由の一つになって、たとえば銃撃されて亡くなった安倍元首相のような歴史修正主義者が跋扈する社会が誕生した。

歴史修正主義者は兵士を礼賛する。兵士をひたすら被害者と見る感傷的な国民も彼らを称える。そこには兵士によって殺戮され蹂躙された被害者がいない。

過去の大戦を徹底総括しないことの大きなツケが、その危険極まりない国民意識である。




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サラミを手土産に早く日本に帰りたい

各種サラミ650

まだ希望的観測の類ではあるものの、コロナが終息しそうだからと、日本帰国に備えてお土産を考え始めた。

するとそこにウクライナ危機が勃発して、気分が元の重さに逆戻りしてしまった。

コロナも戦争もなく、欧州もむろん日本も平和だったころ、僕は新聞に次のような趣旨のコラムを書いた。


               イタリアみやげ

かさばらない、腐らない、気どらない。それでいてイタリア的、とういうのが僕の日本へのおみやげ選択の条件である。例えばとてもイタリア的なものであるワインはかさばる。またうまいチーズや生ハムは腐りやすい。デザイン系の装飾品やファッションなどは気どる。試行錯誤を経てたどりついたのがサラミである。

サラミはかさばらず、腐らず、気どらず、しかも大いにイタリア的である。イタリアの食の本筋である肉のうま味が凝縮されていて、そのうえ優れた保存食という重大な一面もある。ところが、サラミは都会の人々には好まれるものの、田舎ではあまり人気がない。生ハム等に比べると香りや味に特徴があって、慣れない者には食べづらい印象もある。そのせいかどうか、たとえば東京あたりの友人知己には喜ばれるが、地方では人気がない。

僕の故郷の南の島々では、豚肉がよく食べられるのに豚肉が素材のサラミはもっと人気がない。地方の人は日本でもイタリアでも新しい食べ物を受けつけない傾向がある。いわゆる田舎者の保守体質というものであろう。

生まれも根っこも大いなる田舎者である僕は、白状すると、イタリアに来て丸2年間ほぼ毎日食卓に出るサラミを口にできなかった。2年後に思い切って食べてみた。

以来、今ではサラミや生ハムのない食事は考えもつかない。

僕は自分が体験した喜びを親しい人々に味わってもらおうと、いつもサラミを島に持ち帰っている。だが、歓迎されないおみやげは贈る自分もあまり喜ばず、正直少し疲れを覚えないでもない。


日本はその後、、口蹄疫、ASF(アフリカ豚熱)、高病原性鳥インフルエンザなどの家畜伝染病の侵入を防ぐため、という理由で海外からの肉や肉製品の個人持込みを禁止した。

僕のイタリア土産の主力打者であるサラミももちろん持ち込み禁止になった。

イタリアは衛生管理の厳しい先進国である。言うまでもなくサラミや生ハムほかの製品は、峻烈な生産工程を経て店頭に出る。

しかもイタリアの加工肉の種類の豊富と品質は、日本が逆立ちしてもかなわない。またその安全性はまぎれもなく世界のトップクラスである。

肉製品だけに関して言えば、あるいは日本のそれよりも安全であり安心できるとさえ感じる。

なので僕は、サラミの日本への持ち込み禁止措置なんて一時的な対策に過ぎない。すぐに解除になると考えた。

ところがどっこい2019年、禁止措置は強化されて、海外からの畜産物の持込みには3年以下の懲役、または最高100万円の罰金が科されることになった。

しかもそれだけでは終わらなかった。

翌2020年7月には家畜伝染病予防法が改正され、懲役は同じだが罰金は最高300万円にまで引き上げられたのである。

正直、目が点になった。鎖国メンタリティーの日本の面目躍如、と思った。

コロナ禍中での外国人締め出し措置に似た、日本独特の異様な政策だと今も思う。

趣旨は分かるのである。島国の利点を活かした厳格なやり方で、合理的に行えば感心できる。

だが、日本人と外国人の区別をしないウイルスをつかまえて、日本人の入国はOKだが外国人はNGというのでは、排外差別主義的な政策だと批判されても仕方がない。

肉製品の全面持込み禁止措置は、むろんコロナ政策と同じではない。が、コロナ対策に似たいわばヒステリックな思い込みが見え見えでうっとうしい。

あえてイタリアと日本の間柄だけに限って言う。

イタリアの加工肉の最高傑作である生ハムやそれに匹敵するサラミの日本への持込み禁止は、例えばイタリア政府が「イタリアでは寿司や刺身の消費を厳禁する」と言い張ることがあるとしたなら、それと同じ程度に愚劣きわまりない施策である。




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管首相のコロナ対策は「押し」の妥協ではなく「受身」の妥協だから信用できない


吊り目悪人650


経済も感染防止も大事

言うまでもありませんが、コロナ禍の世界では感染拡大を抑え込みつつ経済も回し続けることが正義です。

感染拡大防止のみを重視してロックダウンを導入すれば、経済が破壊され国民はコロナとは別の危険にさらされます。昨年の春、世界一過酷で世界一長いロックダウンを敷いたイタリアの経済が、これでもかというまでに破壊され多くの人々の暮らしが成り立たなくなったのが好例です。

イタリアよりはゆるく、期間も短かいロックダウンを導入した欧州の他の国々も同様の被害を受けました。欧州一の経済大国でビジネスも好調なドイツでさえ、ロックダウンによって経済は大きなダメージを受けました。

だがそれならばということで、経済の推進のみに力を入れて感染拡大を放置すれば、国民の健康と命が危機にさらされます。先頃までのアメリカや現在のブラジルが好例です。また感染抑止策を誤ったり医療体制が脆弱だったりしてもコロナ被害は拡大します。インドほかの世界の貧しい国々がその好例です。

これまた当たり前のことですが感染防止と経済活動は相反します。欧米や日本などの先進国では、経済規模が大きい分、2者が対立することからくる痛みも大きくなります。

押しの妥協と受身の妥協

感染防止と経済推進という二つの正義はぶつかり合う。だが両立させなければならない。その両立は妥協によってのみ可能になります。

妥協は民主主義とほぼ同義語です。民主主義国である欧米各国や日本は、民主主義のプリンシプルに従って感染拡大と経済活動の妥協点を見つけ出さなければなりません。

言葉を変えれば、感染拡大を完全に押さえ込むことはできない。経済活動を完全に止めることもできない。従ってある程度の感染拡大と犠牲者を受け入れる、という苦痛に耐えながら経済も回していかなければならない。

そのことをメッセージにして明確に国民に伝えるのが菅首相の義務です。

言い方を変えればそれは、感染と経済を見据えながら妥協を繰り返して行く、ということにほかなりません。

妥協することは、弱腰、優柔不断、敗北など、ネガティブな印象をしばしば国民に与えます。

妥協に際しては、追い詰められて仕方なくそれを受け入れたのではなく、強い意志と不退転の決意また責任感から導き出したポジティブな方向転換である、と国民に思わせなければならない。

それでなければ国民は納得しません。

“ポジティブな妥協”ができるのが有能な政治家です。あるいは常にポジティブな妥協をしている、と国民に語りかけることができるのが優れた指導者です。それはつまり、コミュニケーション能力の優れたリーダーということです。

良かれと思って実行した政策が行き詰まるのはよくあることです。その時に間違いを間違いと認めて、さて今後はどうするのかと国民に直接に、且つただちに語るのです。

正直に、誠実に、飾らずに、がキーワード

例えばGoToトラベルはそれ自体は悪くない政策です。だが運悪く遂行のタイミングを間違ったために感染拡大を招きました。菅首相はそこでGoToトラベルの人の移動は感染拡大の原因ではない、と愚劣な言い訳や強弁を弄するべきではありませんでした。

そうではなく、間違いを認めた上で「人の動きが活発になる年末年始には一旦停止するが、経済を立て直すためには重要不可欠な策なので時期を見て再開する」と正直に且つ明確に国民に伝えれば良かったのです。

正直に、誠実に、飾らずに、そして真摯に国民に語り掛けること。何も難しい仕事ではありません。なぜそんな当たり前のことができないのでしょうか。秋田の田舎の出の朴訥で真面目で醇正・篤実な人柄の男が管義偉、という触れ込みはもしかすると嘘なのでしょうか?

残念ながら日本の政治家は、菅首相に限らず伝統的にコミュニケーション力が弱い。ゼロと言っても良いかもしれません。

それでも日本の外から見ていると、その政権や人となりへの賛否は別にして、最近では中曽根、小泉両元首相のようにコミュニケーション力の強い人も出ました。だが形成されかけたその伝統は、安倍
前首相によって後退し、菅首相によって完全に死に絶えたようにさえ見えます。

日本の政治家は説明責任という成句をナントカの一つ覚えのように口にしますが、彼らには常に言葉が足りない。政治家が説明責任を果たすのは最低限の義務です。政治家にはそれに加えて独自の考えをより明確に国民に伝える能力、すなわちコミュニケーション力がなくてはなりません。

それを「間違いを隠さない正直と勇気」に裏打ちされた能弁、と言い換えても構わないと思います。管首相のように間違いから目を逸らしたり建て前や口上を述べ立てて誤魔化すのはコミュニケーションではありません。

菅首相には、世界の有能な指導者の多くが持っているコミュニケーション力も分かりやすさもありません。それは彼が寡黙だからではなく彼の発する言葉には既述のコンセプト、つまり「間違いを隠さない正直」と「勇気に裏打ちされた能弁」が欠けています。だから国民の琴線に触れない。

発信できないなら去るべし

菅首相には的確なコミュニケーション力が欠けているだけではありません。日本学術会議問題やコロナ対策などで露見し続けているように、彼には政策方針の転換の理由を「詳しく説明する言葉」さえないのですから、何をか言わんやです。

菅政権は、既述のように感染予防も経済の推進も「政策」としてはまともな内容のものを掲げています。ところがそれが国民に十分に伝わっていません。伝わらなければ政策は無いにも等しい。

コミュニケーション能力が弱い菅首相の施策は、たとえそれが感染防止と経済活動を秤にかけた上での適切な「妥協」であっても、行き当たりばったりの結果にしか見えず、逃げや敗北の色が濃い動きに見えてしまいます。

管首相は追い詰められて「受身の妥協」をするのではなく、常に先手先手と政策を押し進めて、それが間違っていた場合には、即座にそのことを認め「積極的に妥協」して、修正し前進する勇気と誠実と知恵を持つべきです。

それができないのなら、速やかに去ることが、彼の言う国民への最大の奉仕になると考えます。


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