【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

思論想論

高市早苗‘首相’の影と、影の中にあるかもしれない光

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FB友のお1人から「高市早苗」候補には絶対に首相になってほしくない、という強い怒りのメッセージが届いた。似たような趣旨のコメントはほかにも多い。

高市早苗候補だけは決して日本のトップにしてはならない、とつい最近まで僕も考えそこかしこに書いてもきた。

今もそうだが、それでも総裁候補の顔ぶれを見ているうちに、毒を持って毒を制す、のような気分になっている。高市という猛毒をもって日本の男社会という毒に楔を打ち込む、という印象である。

ちなみに僕は上川さんに期待し、老害政界に風穴を穿て、と密かに進次郎候補を応援していた。

だが残念ながら上川さんの覇気のない常識路線と、進次郎候補の明るいウツケ振りに呆れて、それらは過去形になった。

代わりに猛毒の高市候補が日本初の女性首相になる手もあると考え出した。

❛高市首相❜もありかもと考える第1の、そして最大の理由は高市候補がオヤジよりもオヤジ的な政治家でありながら、それでも女性だという点だ。

首相になれば日本の諸悪の根源である男尊女卑メンタリティーにとりあえず一撃を見舞うことになる。それは、無いよりはあったほうが確実に日本のためになるイベントだ。

心優しい良い女性、すばらしい女性を待っていては日本には永久に女性首相は生まれない。女性首相の大きな条件の一つは「タフな女」であることだ。

サッチャーもメルケルもここイタリアのメローニ首相も男などにビビらないタフさがある。高市候補は権力者のオヤジらに媚びつつも、鉄面皮で傲岸なところがタフそのものに見える。

2つ目は、アメリカでカマラ・ハリス大統領が誕生すると想定しての強い興味だ。

トランプ氏再選なら、❛高市首相❜は彼女の神様である安倍元首相に倣って、ここイタリアで言うケツナメ(lecca culo)外交に徹するだけだろうが、ハリス大統領になった場合は遠慮し諭される状況もあり得る。

それは❛高市首相❜を変える可能性がある。むろん、それにはハリス大統領のリベラルとしての、有色人種としての、そして女性としての強さと見識と人間性の有無が重要になる。

今のところハリス候補にはその兆候はない。だが、彼女も大統領になって品格を備えるようになる可能性が高い。

肩書きや地位はただでも人を創りやすい。ましてや世界最強の権力者である米国大統領という地位が、人格に影響を及ぼさないと考えるなら、むしろそちらのほうが不自然だ。

3つ目は天皇との関係だ。人格者の上皇、つまり平成の天皇は静かに、だが断固として安倍路線を否定した。現天皇は今のところ海のものとも山のものともつかない。顔がまだ全く見えない。

❛高市首相❜が本性をあらわにファシスト街道を突っ走るとき、天皇がどう出るか、僕はとても興味がある。

天皇は政治に口出しをしないなどと考えてはならない。口は出さなくとも「天皇制」がある限り彼は大いなる政治的存在だ。それを踏まえて天皇は「態度」で政治を行う。

彼に徳が備わっていれば、という条件付きではあるが。

日本の政治と社会と国民性は、先の大戦を徹底総括しなかった、或いはできなかったことでがんじがらめに規定されている。

右翼の街宣車が公道で蛮声を挙げまくっても罪にならず、過去を無かったことにしようとする歴史修正主義者が雲霞のように次々に湧き出てくるのも、原因は全てそこにある。

ドイツが徹底しイタリアが明確に意識している過去の「罪人」を葬り去るには、再び戦争に負けるか、民衆による革命(支配層が主体だった明治維新ではなく)が起きなければならない。

しかし、そういう悲惨は決して招いてはならない。

極右で狡猾で危険な高市候補が首相になっても、おそらく戦争だけはしないだろう。だからチャンスがあれば、彼女にチャンスを与えても良いのではないか、とつらつら考えてみるのである

ちなみに今このとき僕が女性首相にしてみたいのは蓮舫氏。彼女が嫌いな日本人は、高市候補が嫌いな日本人とほぼ同数程度に存在していそうだが、僕は蓮舫氏をリベラルと見做して推す。

男では山本太郎氏だ。山本氏なら戦争総括に近いこともやりそうな雰囲気がある。自民党のオヤジ政治家群は、ほとんどが過去の総括の意味さえ知らないように見える。

それは国際社会では、中露北朝鮮を筆頭とする専制主義勢力と同じフェイク、民主主義の向こう側でしか生きられないカスな存在、と見做されることを意味する。




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君はプラハの春を愛(お)しんで憤死した青年を知っているか


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1968年8月20日、ソ連はチェコスロバキアに軍事介入して民主化運動「プラハの春」を蹂躙した。

5ヵ月後の1969年1月19日、ソ連の蛮行に抗議して20歳のカレル大学学生のヤン・パラフが、プラハきっての繁華街ヴァーツラフ広場で焼身自殺した。

広場には彼の写真付きの記念碑とシンボリックな人型のモニュメントが設置されている。

地面に浮き彫りされた人型モニュメントには不思議なオーラがある。だが、道行く人のほとんどはそこに目を向けない。

中国による天安門事件、香港抑圧、ロシアのウクライナ侵略、イスラエルによるガザへ虐待など、世界にはプラハの春弾圧とそっくり同じ構図の事件が間断なく起きている。

プラハの人々は苦しい過去を語りたがらない。忘れたい思いとソ連が黒幕だった恐怖政治へのトラウマが未だに消えないからだ。

プラハの魅力に惹かれて街を訪れるおびただしい人群れもヤン・パラフのことなど知らない。

そうやって世界は、いつまでも愚劣で悲惨な歴史を繰り返す宿命から逃れられずにいる。



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私、演歌の味方で、クラシックの下手の横好き者です 

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                岡田昌子サンドロ=イヴォ・バルトリ

僕のSNS記事を読んだ方から「イタリア在なのによく演歌を聴いたり歌ったりしているんですね」という便りが届いた。最近ファドにからめて演歌に言及することが多かったせいだ。

「記事にも書いたとおり演歌はそれほど聴きません。ほぼ全てNHKの歌番組で聞き、目にしたシーンです。またイタリアでは歌は唄いません。帰国する際に時たま行き合うカラオケの場で唄うだけです」と僕は正直に答えた。

すると「それではタリアでお聞きになる音楽は何ですか」と問われた。そこでこれまた正直に「そうですね、クラシックが多いですね」と答えると、がっかりしたような「あ、そうなんですね」という返信が来て、それっきりになった。

質問された方は演歌ファンなんだろうな、とこちらは推測している。

クラシック音楽を聞くことが多いのは事実だが、僕はそれを「積極的に」聴きに行くのではない。ここイタリアの僕の生活の中でより多く耳にし、また「聞かされる」音楽がクラシックなのである。

そして僕はクラシック音楽が演歌程度に好きであり、演歌程度に無関心である。あるいはクラシック音楽が結構周りにあふれているので、時々うるさく感じることがないでもない、というふうである。

僕の周囲にはクラシックのコンサートやライブやリサイタルが多い。それは古い貴族家である妻の実家から漏れ出る趣味、あるいは文化の流れの一端である。

妻の実家の伯爵家は、歴史的に音楽を含む多くの芸術にかかわってきた。プッチーニの後援者としても知られている。そこに知る人ぞ知るエピソードがある。

プッチーニの「蝶々夫人」はミラノのスカラ座の初演で大ブーイングを受けた。挫折感に打ちのめされていた彼に、伯爵家の人々は手直しをしてブレッシャの大劇場(Teatro Grande)で再演するよう強く後押しした。

伯爵家の当主のフェデリコは伯は当時、ブレシャの市長であり、大劇場の制作管理委員会(Deputazione)の重要メンバーでもあった。

プッチーニはもう2度とオペラは書かないと周囲に宣言するほどの失意の底にあったが、鼓舞されて作品を修正しブレッシャの大劇場に掛けた。それは成功し歓喜の喝采に包まれた。

そうやってわれわれがいま知る名作「蝶々夫人」が誕生し、確定された。

プッチーニは感謝の手紙を伯爵家に送った。だがその直筆の書簡は、研究者が借り受けたまま行方知れずになってしまった。24、5年前の話だ。

僕はその歴史的なエピソードをドキュメンタリーにしたく、手紙の行方を追っているが2024年現在、文書はまだ見つかっていない。

音楽好きの伯爵家の伝統に加えて、あらゆる方面からの慈善コンサートの誘いも僕らの元には来る。妻自身が主催者としてかかわるチャリティコンサートなどもある。

いうまでもなく僕はそれらの音楽会と無縁ではいられない。妻と連れ立って音楽会に顔を出したり、チャリティコンサートの手伝いなどもする。

クラシックの多くの傑作のうち、誰でも知っているような楽曲は僕も少しは知っていて、とても好きである。だがそれだけのことだ。

学生時代に夢中になったロックやフォークやジャズやシャンソンなどのように、僕自身が「積極的に」聴こうとすることはあまりない。

つまり僕とクラシックの関係は、僕と演歌の関係とほぼ同じである。いや、それどころか全てのジャンルの音楽と僕は同じ関係にある。

だが、クラシック音楽だけは、他のジャンルのそれとは違い僕の周りに満ち満ちていて、時には「無理やり聞かされる」こともある、という状況である。

むろん無理やりではない場合も少なくない。特に夏になると、休暇を兼ねて滞在する北イタリアのガルダ湖畔で開催される音楽会に接する機会が増える。

つい先日も、有名ピアニスト、サンドロ=イヴォ・バルトリのコンサートに招待されて顔を出した。

小劇場でバルトリのピアノに合わせて歌うソプラノの素晴らしさに驚かされた。しかもその歌手は、なんと日本人の岡田昌子さんだった。

音楽会直前に出演者の変更があり、パンフレットに彼女の紹介がなかった。そのため開演まで僕らは岡田さんの出演を知らなかった。

相手のテノールを圧倒する岡田さんの伸びのある歌声に会場中が興奮した。

クラシックの音楽会では、時にそんな美しい体験もする。

残念ながら演歌の場合は、歌手と近づきになるどころかライブで歌を聴く機会さえない。







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不偏不党というBBCの気骨と限界 

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在英ジャーナリストの小林恭子さんから新著「なぜBBCだけが伝えられるのか」のご恵贈にあずかった。BBCのことはこれ一冊で全て解る、と形容したいほどの素晴らしい内容である。

僕は英国在住時はもとよりそれ以後の長い時間もBBCのファンである。

ところが最近Brexit関連でBBCに失望し、次にはハマスをテロリストと呼ばないBBCの気骨に快哉を叫ぶなど、気持ちが揺れてきた。

それは今この時も変わらないが、小林さんの新著に接して改めてBBCの強さと弱さに思いを馳せている。

強さの大本は不偏不党というコンセプトだが、実はそれは大いなる弱さにつながることもある、というふうに僕は考えている。

なぜなら報道に於ける不偏不党とは、事実をありのままに伝える、ということでそれ以下でもそれ以上でもない。

例えばトランプ主義者らが得意とする明らかな事実曲解や嘘やこじつけや歪曲などを排して、事実そのものをできる限り客観的に記録し報告することだ。

それはBBCに限らず、NHKもここイタリアのRAIもアメリカの3大ネットワークも、要するにありとあらゆる世界の「まともな」報道機関が日々心がけ実践していることだ。

だが不偏不党というのは実は言葉の遊びである。なぜなら報道には必ずそれを行う者のバイアスがかかっている。事実を切り取ること自体が、既に偏りや思い込みの所産だ。

と言うのも事実を切り取るとは、「ある事実を取り上げてほかの事実を捨てる」つまり報道する事案と、しない事案を切り分けること、だからだ。それは偏向以外のなにものでもない。

少し具体的に言おう。例えば日本の大手メディアはアメリカの火山噴火や地震情報はふんだんに報道するが、南米などのそれには熱心ではない。

あるいはパリやロンドンでのテロについてはこれでもか、というほどに豊富に雄弁に語るが、中東やアフリカなどでのテロの情報はおざなりに流す。そんな例はほかにも無数にある。

そこには何が重要で何が重要ではないか、という報道機関の独善と偏向に基づく価値判断がはたらいている。決して不偏不党ではないのだ。

報道に際してバイアスを掛けてしまうのはいわばメディアの原罪だ。いかなる報道機関も原罪から自由でいることはできない。

だからこそ報道者は自らを戒めて不偏不党を目指さなければならない。「不偏不党は不可能だから初めからこれをあきらめる」というのは、自らの怠慢を隠ぺいしようとする欺瞞である。

自らの独断と偏見によって報道する事案を選り分けた報道機関は、事実を提示する際には最低限全き客観性を保たなければならない。

BBCが不偏不党を標榜するのは正しいことだ。それは「まともな報道機関」の取るべき態度である。だがBBCは不偏不党にこだわる余り、偽善に走ることもしばしばだ。

世論を2分するような重大な時節に、客観性や不偏不党を隠れ蓑に自らの立場を明らかにしないのは、卑怯のそしりを免れない。それどころか危険でさえある。

BBCは不偏不党を「めざす」客観的な報道を維持すると同時に、それらに基づいた自らの立ち位置も明確に示すべきだ。

例えばBBCBrexitに関しては、事実報道と共に自らの信条も主張するべきだったと思う。

それをしないことがBBCの自恃だとBBC自体は主張する。だがそれは欺瞞だ。

彼らは事と次第によっては時の政権を批判もすれば擁護もする。BBCが保守党と対立しがちな一方で、労働党と親和的であるケースが多いのがその証拠だ。

重ねて指摘しておきたい。BBCは飽くまでも不偏不党を追求しつつ、重大事案に関しては自らの立ち位置を明らかにすることもあって然るべきだ。

不偏不党の原理原則とその実践のバランスは至難だ。だが時代が大きく動くことが明らかな局面では、BBCは逃げるのではなく自らのプリンシプルに則ってしっかりと意見を述べるべきだ。

自らの主張を持たないジャーナリズムは、それが組織にしろ個人にしろ、無意味で無力で従って 無価値で無益な、まがいものの存在である可能性が高い。




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ワタシ演歌の味方です


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リスボンで聴いたファドは味わい深かった。それを聴きつつ演歌を思ったのは、両者には通底するものがある、と感じたからだ。

さて、ならば演歌は好きかと誰かに問われたなら、僕は「好きだが嫌い」というふうに答えるだろう。

嫌いというのは、積極的に嫌いというよりも、いわば「無関心である」ということである。演歌はあまり聴くほうではない。聴きもしないのに嫌いにはなれない。

ところが、帰国した際に行合うカラオケの場では、どちらかと言えば演歌を多く歌う。なので、「じゃ、演歌好きじゃん」と言われても返す言葉はない。

演歌に接するときの僕の気持ちは複雑で態度はいつも煮え切らない。その屈折した心理は、かつてシャンソンの淡谷のり子とその仲間が唱えた、演歌見下し論にも似た心象風景のようである。

淡谷のり子ほかの歌い手が戦後、演歌の歌唱技術が西洋音楽のそれではないからといって毛嫌いし、「演歌撲滅運動」まで言い立てたのは行き過ぎだった。

歌は心が全てだ。歌唱技術を含むあらゆる方法論は、歌の心を支える道具に過ぎない。演歌の心を無視して技術論のみでこれを否定しようとするのは笑止だ。

僕は演歌も「(自分が感じる)良い歌」は好きである。むしろ大好きだ。

だがそれはロックやジャズやポップスは言うまでもなく、クラシックや島唄や民謡に至るまでの全ての音楽に対する自分の立ち位置だ。

僕はあらゆるジャンルの音楽を聴く。そこには常に僕にとってのほんの一握りの面白い歌と、膨大な数の退屈な楽曲が存在する。演歌の大半がつまらないのもそういう現実の一環である。

日本の今の音楽シーンに疎い僕は、大晦日のNHK紅白歌合戦を見てその年のヒット曲や流行歌を知る、ということがほとんどである。

ほんの一例を挙げれば、Perfume、いきものがかり、ゴルデンボンバー、きゃりーぱみゅぱみゅ、混成(?)AKB48RADIO FISHや桐谷健太、斉藤和義など。

僕は彼らを紅白歌合戦で初めて見て聴き、「ほう、いいね」と思いそれ以後も機会があると気をつけて見たり聞いたりしたくなるアーティストになった。

その流れの中でこんなこともあった。たまたま録画しておいた紅白での斉藤和義「やさしくなりたい」を、僕の2人の息子(ほぼ100%イタリア人だが日本人でもある)に見せた。

すると日本の歌にはほとんど興味のない2人が聴くや否や「すごい」と感心し、イタリア人の妻も「面白い」と喜んだ。それもこれも紅白歌合戦のおかげだ。

最近の紅白でも印象的な歌手と歌に出会った。列挙すると:

ミレイ、あいみょん、Yoasobi、藤井風などだ。

Yoasobiは何か新しい楽曲を発表していないかとネットを訪ねたりもするほどだ。

僕は何の気取りも意気込みもなく、Yoasobi という2人組みの音楽を面白いと感じる。Shakiraの歌に心を揺さぶられるように彼らの楽曲をひどく心地好いと感じるのだ。

ちなみに演歌を含む日本の歌にも関心がある妻は、Yoasobiには無反応である。

閑話休題

膨大な量の演歌と演歌歌手のうち、数少ない僕の好みは何かと言えば、先ず鳥羽一郎である。

僕が演歌を初めてしっかりと聴いたのは、鳥羽一郎が歌う「別れの一本杉」だった。少し大げさに言えば僕はその体験で演歌に目覚めた。

1992年、NHKが欧州で日本語放送JSTVを開始した。それから数年後にJSTVで観た歌番組においてのことだった。

初恋らしい娘の思い出を抱いて上京した男が、寒い空を見上げて娘と故郷を思う。歌は思い出の淡い喜びと同時に悲哀をからめて描破している。

「別れの一本杉」のメロディーはなんとなく聞き知っていた。タイトルもうろ覚えに分かっていたようである。

それは船村徹作曲、春日八郎が歌う名作だが、そこで披露された鳥羽一郎の唄いは、完全に「鳥羽節」に昇華していて僕は軽い衝撃を受けた。

たまたまその場面も録画していたのでイタリア人の妻に聞かせた。僕は時間節約のためによく番組を録画して早回しで見たりするのだ。

妻もいい歌だと太鼓判を押した。以来彼女は、鳥羽一郎という名前はいつまでも覚えないのに、彼を「Il Pescatore(ザ・漁師)」と呼んで面白がっている。

歌唱中は顔つきから心まで男一匹漁師となって、その純朴な心意気であらゆる歌を鳥羽節に染め抜く鳥羽一郎は、僕ら夫婦のアイドルなのである。

僕は、お、と感じた演歌をよく妻にも聞かせる。

妻と僕は同い年である。1970年代の終わりに初めてロンドンで出会った際、遠いイタリアと日本生まれながら、2人とも米英が中心の同じ音楽も聞いて育ったことを知った。

そのせいかどうか、僕ら2人は割と似たような音楽を好きな傾向がある。共に生きるようになると、妻は日本の歌にも興味を持つようになった。

妻は演歌に関しては、初めは引くという感じで嫌っていた。その妻が、鳥羽一郎の「別れの一本杉」を聴いて心を惹かれる様子は感慨深かった。

多くの場合、僕が良いと感じる演歌は妻も同じ印象を持つ。それはやっぱり音楽の好みが似ているせいだろうと思う。あるいは彼女も僕と同じように年を取ってきて、演歌好きになったのだろうか。

僕の好みでは鳥羽一郎のほかには、北国の春 望郷酒場 の千昌夫、雪国 酒よ 酔歌などの吉幾三がいい。

少し若手では、恋の手本 スポットライト 唇スカーレットなどの山内惠介が好みだ。

亡くなった歌手では、天才で大御所の美空ひばりと、泣き節の島倉千代子、舟唄の八代亜紀がいい。

僕は東京ロマンチカの三条正人も好きだ。彼の絶叫調の泣き唱法は趣深い三条節になっていると思う。だが残念ながら妻は、三条の歌声はキモイという意見である。

この際だから知っているだけの演歌や演歌歌手についても思うところを述べておきたい。

石川さゆり:見どころは津軽海峡冬景色だけ。だが津軽海峡冬景色はほぼ誰が歌っても感動的だ。「天城越え」の最後に見せる泣き、追いすがるかのような下手な演技は噴飯もの。演技ではなく歌でよろめき、よろめかせてほしい。 

丘みどり:最初のころは八代亜紀の後継者現る、と期待したが力み過ぎて失速している。歌は上手いのだから自然体になるのを期待したい。 

大月みやこ:大月節は泣かせる。抜群の表現力。しかし語尾の大げさなビブラートが全てを台無しにする。

五木ひろし:ただ一言。歌が上手過ぎてつまらない。 

坂本冬美:「夜桜お七」以外は月並みが歩いているみたいだ。 

前川清&クールファイブ:グループ時代の前川の絶叫節は面白かったが、ひとり立ちしてからは平均以下の歌い手になった。 

美川憲一:キャラは抜群に面白い。歌も「お金をちょうだい」のように滑稽感あふれるシリアスな人生歌がすばらしい。唱法も味わいがある。だが残念ながら美川節と呼べるほどの上手さはなく、従って凄みもない。

島津亜矢:圧倒的な歌唱力。もっと軽い流行歌がほしい。 

小林幸子:美空ひばり系だが美空ひばりには足元にも及ばない。たとえひばりの爪の垢を煎じて飲んでも、器が違うから無意味だろう。 

伍代夏子:体系容姿は僕の好み。お近づきになってみたいとは思うが、歌を聴きたいとは全く思わない。無個性のつまらない歌唱。 

藤あや子:美人ぶって、またある種の人々の目には実際に美人なんだろうが、美人を意識した踊りっぽいパファーマンスは白けるだけ。少しも色っぽくない。それどころか美しくさえない。歌唱力も並以下。 

市川由紀乃:大女ながらやさしい声、また性格も良いらしいが、歌手なんだから雑音ではなく歌を聞かせてくれと言いたい。 

都はるみ:古いなぁ。 

天童よしみ:美空ひばりが憧れで目標らしいが、逆立ちしても無理。陳腐。 

長山洋子:老アイドル歌手として再デビューしたほうがまだいい。  

香西かおり:美人でさえないのになぜかいい女のつもりで自分だけが気持ち良がって唄うところがキモイ。歌は歌詞の端、あるいは語尾を呑み込んで発音さえよく聞こえない。その意味では素人以下の歌唱力。

田川寿美:香西かおりに比較すると1000倍も歌は上手く抒情も憂いも深みもあるが、それは飽くまでも香西に較べたら、であって凡下の部類。しかし「哀愁港」などを聴くと味があるので要チェック。

三山ひろし:若い老人。上手い歌うたいだが、なにしろ古くさい。スタイルがうざい。 

山川豊:ソフトに歌いたがるが似合わない。つまらない。 

細川たかし:絶叫魔  

石原詢子:ホントに歌手?

藤圭子:真の歌姫だが、頭の中は空っぽであることが所作で分かる。歌もたまたま上手いだけで人間の深みが無い、と知れるとがっかり。歌まで浅薄に聞こえるようだ。  

山崎ハコ:暗さは演歌に通じるので気にならないが、多くの歌が似通って聞こえるのが落第。  

松原健之:僕の好きな声だが、妻が気持ち悪がっているから、きっとキモイのだろう。 

これらの印象や悪口は、全てJSTVが放送したNHKの音楽番組を見、聞いた体験に基づいている。

僕は冒頭で演歌はあまり聴かない、とことわった。だがこうして見ると演歌三昧である。

しかもいま言及したように全てNHKの音楽番組を通しての知見だから、NHKには大いに感謝しなければならない、と改めて思う。




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無意識の差別大国ニッポンを憂う

before and after

パリ5輪で金メダルに輝いたイタリア女子バレーボールのスーパースター、パオラ・エゴヌの両親はナイジェリア人移民である。エゴヌ自身はイタリア生まれのイタリア育ち。れっきとしたイタリア人だ。

ところが彼女は、肌の色が黒いことを理由に「お前は本当にイタリア人か」とSNS上などで侮辱され続けてきた。

彼女は人種差別に抗議してあらゆる機会を捉えて声を挙げ、一度はイタリアナショナルチームを離脱する意思表示さえした。

過去のエゴヌの闘いは徐々に功を奏して、金メダル獲得の翌日には、MVPにまでなった彼女の活躍を称賛するストリートアートがローマの建物の壁に描かれた。

ところがその絵は、ネトウヨヘイト系とおぼしき人種差別主義者の手によって人物の肌の色が白く塗り替えられ、これがイタリア人だ、との落書きも付け加えられて社会問題になった。

端的に言っておかなければならない。

イタリアは、ロシアを含む東欧を除いた欧州の、いわゆる西欧先進国の中では人種差別意識がやや強い国の一つである。

自国を代表して活躍する有名なスポーツ選手を、差別意識からあからさまに侮辱したエゴヌ選手のケースのようなエピソードは、例えば英独仏をはじめとする❝西側欧州❞の先進国ではもはや考えられない。

❝西側欧州❞の国々に人種差別がない、という意味では断じてない。そこにも差別はあり差別ゆえの事件や争いや摩擦は絶えない。

だが同時にイタリアを含む❝西側欧州❞の国々は、たゆまない人権向上への戦いを続けて、有能な有色人種の国民を真に自国民と見做すのが当たり前、という地点にまでたどり着いてはいる。

移民などの一般の有色人種への偏見差別は依然として強いものの、突出した能力を持つアフリカ中東またアジア系の人々は各界で多く活躍している。その最たるものが英国初の有色人種トップとなったインド系のスナク前首相であり、パキスタン系のカーン・ロンドン市長などだ。

スポーツ界に目を向ければ、フランスサッカーのエムバペを筆頭に、アフリカ系ほかの多くの有色人種の選手が、それぞれの国を代表して戦い「白人の」同胞にも愛され尊敬されている。

そこでは、どの国にも存在するネトウヨヘイト系差別排外主義の白痴族が、隙あらば攻撃しようと執拗にうごめくが、「欧州の良心」に目覚めた人々の力によって彼らの横暴はある程度抑え込まれている。

イタリアもその例に洩れない。そうではあるが、しかし、かつての自由都市国家メンタリティーが担保する多様性重視の強い風潮がある同国では、極論者の存在権も認めようとするモメンタムが働く。そして残念ながらエゴヌ選手を否定侮辱するネトウヨヘイト系の狐憑きたちも、その存在が認められる極論者の一なのである。

そうしたイタリア社会独特のパラダイムに加えて、国民の、特にイタリア人男性のいわば幼稚な精神性も影響力が大きい。いつまでたってもマンマ(おっかさん)から独立できない彼らは、子供に似て克己心が弱く、思ったことをすぐに口に出してしまう傾向がある。

成熟した欧州の文明国とは思えないようなエゴヌ選手へのあからさまな罵詈雑言は、そうした精神性にもルーツの一端がある。

実際のところ差別主義者のイタリア人は、差別主義者の英独仏ほかの国民とちょうど同じ数だけいるに過ぎないのだが、彼らが子供のように無邪気に差別心を吐露する分、数が多いように見えてしまう点は指摘しておきたい。

さて

そうしたイタリアの人種差別を憂う時、実は僕は常に日本の人種差別意識の重症を考え続けている。

そのことについて話を進める前に、先ず結論を言っておきたい。

日本の人種差別はイタリアとは比較にならないほどに大きく深刻である。イタリアの人種差別はここまで述べてきたようにあからさまだ。片や日本の人種差別は秘匿されていわば水面下でうごめいている。

人種差別を意識していない国民が多い分、日本の人種差別はイタリアのそれよりもよりもはるかに質(たち)が悪いのである。それはなぜか。

差別が意識されない社会では、差別が存在しないことになり、被差別者が幾ら声を上げても差別は永遠に解消されない。差別をする側には「差別が存在しない」からだ。存在しないものは無くしようがない。

一方、差別が認識されている社会では、被差別者や第三者の人々が差別をするな、と声を挙げ闘い続ければ、たとえ差別をする側のさらなる抑圧や強権支配があったとしても、いつかその差別が是正される可能性がある。なぜなら、何はともあれ差別はそこにある、と誰もが認めているからだ。

その意味でも、人種差別の存在に気づかない国民が多い日本は、極めて危険だと言わざるを得ない。

大半の日本人は自らが人種差別主義者であることに気づいていない。それどころか、人種差別とは何であるかということさえ理解していない場合が多いように見える。

それはほとんどの日本人の生活圏の中に外国人や移民がいないことが原因だ。ひとことで言えば、日本人は外国人や移民と付き合うことに慣れていないのである。

それでいながら、あるいはそれゆえに日本には、移民また外国人に対してひどく寛大であるかのような文化が生まれつつある。主にテレビやネット上に現れる外国人や移民タレントの多さがそれを物語る。

日本のテレビの旅番組やバラエティショーなどでは、あらゆる国からやってきた白人や黒人に始まる「外国人」が出演するケースが目立つ。それらはあたかも日本人の平等意識から来る好ましい情景のように見える。

だがそれらの「外国人」を起用する制作者やスポンサー、またその番組を観る視聴者に外国人への差別心がないとはとうてい考えられない。それは秘匿されて意識されないだけの話だ。

先に述べたように日本には国民が日常的に外国人と接触する機会はまだ少ない。人々がテレビ番組やネット上で目にし接する外国人は、現実ではなくいわばバーチャル世界の住人だ。だから視聴者は彼らに対していくらでも寛大になれる。

視聴者1人ひとりの生活圏内で実際に接触する移民や外国人が増えたときに、彼らと対等に付き合えるということが真の受け入れであり差別をしないということだ。これは今の日本では実証できない。

いや、むしろ逆に差別をする者が多いと実証されている。中国朝鮮系の人々や日系ブラジル人などが多く住む地域での、地元民との摩擦や混乱やいざこざの多さを見ればそれが分かる。

テレビ番組の視聴者つまり日本国民は、出演している特にアメリカ系が多い白人や黒人を、自らと完全に同等の人間であり隣人だとは思っていない。

かれらは飽くまでも「ガイジン」であって日本人と寸分違わない感情や考えを持つ者ではない。言葉を替えれば徹頭徹尾の「客人」であって自らの「隣人」ではない、と意識的にもまた無意識下でも考えている。

そのこと自体が差別であり、その意識から派生する不快な多くの事象もまた大いなる差別である。もっともそれらのガイジンは、バーチャル世界からこちら側に現実移動してこない限り、視聴者と摩擦を起こすことはない。

従って差別意識から派生する「不快な多くの事象」も今のところ多くは発生していない。それらの事実も、あたかも日本には人種差別がないかのような錯覚に拍車をかける。

差別はほとんどの場合他者を自らよりも劣る存在、とみなすことである。ところが日本にはその逆の心情に基づく差別も歴然として存在し、しかも社会の重要な構成要素になっている。

それが白人種への劣等感ゆえに生まれる、欧米人への行き過ぎた親切心だ彼らを「見上げる」裏返しの差別は、他者を見下す差別に勝るとも劣らない深刻な心の病である。

日本のテレビやネットには白人の大学教授や白人のテレビプロデュサー、果てはネトウヨヘイト系差別主義者以外の何物でもない白人の弁護士などが大きな顔でのさばっている。その光景は顔をそむけたくなるくらいに醜い。

日本人は対等を装うにしろ見下しまた見上げるにしろ、それらのタレントを決して自らと同じ人間とは見なしていない。かれらはどこまで行っても「白人の異人」であり「黒人のまたアジア人の異人」である。繰り返しなるが、断じて「隣人」ではないのだ。

ところで

上に見、下に見つつ深層心理では徹底して外国人を避ける日本人の奇怪で危険な人種差別意識を指摘した上で、実は僕はまた次のような矛盾した正反対の感慨も抱かずにはいられない。

人が人種差別にからめとられるのは、その人が差別している対象を知らないからである。そして「知らないこと」とは要するに、差別している人物が身に纏ってその人となりを形作っている独特の文化のことである。

文化とは国や地域や民族から派生する、言語や習慣や知恵や哲学や教養や美術や祭礼等々の精神活動と生活全般のことだ。

それは一つ一つが特殊なものであり、多くの場合は閉鎖的でもあり、時にはその文化圏外の人間には理解不可能な「化け物」ようなものでさえある。

文化がなぜ化け物なのかというと、文化がその文化を共有する人々以外の人間にとっては、異(い)なるものであり、不可解なものであり、時には怖いものでさえあるからだ。

そして人がある一つの文化を怖いと感じるのは、その人が対象になっている文化を知らないか、理解しようとしないか、あるいは理解できないからである。だから文化は容易に偏見や差別を呼び、その温床にもなる。

差別は、差別者が被差別者と近づきになり、かれらが身に纏っている文化を知ることで解消される。文化を知ることで恐怖心が無くなり、従って差別心も徐々になくなっていくのである。

(差別している)他者を知るのに手っ取り早い方法は、対象者と物理的に近づきになることである。実際に近づき知り合いになれば、その人のことが理解できる。自分と同じく喜怒哀楽に翻弄され家族を愛し人生を懸命に生きている「普通の人」だと分かる。そうやって差別解消への第一歩が踏み出される。

その意味で日本のテレビやネット上で展開されている「エセ平等主義」の動きは、疑似的とは言えとにもかくにも被差別者つまり移民や外国人との接触を強制するものである分、或いは真の人種差別解消へ向けての重要なポロセスになり得るかもしれない、と思ったりもするのである。




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ファドは演歌だが、演歌はファドではない?

アズレージョに描かれたel-fado800

ポルトガルのファドは演歌に似ているとここまで散々言ってきた。ならば演歌はファドに似ているのかと問えば、どうも違うようである。

つまりファドを演歌に似ていると日本人が勝手に規定するのは、相も変わらぬ西洋への片思いゆえの切ない足搔きではないか、とも疑うのである。

その証拠にファド側、つまりポルトガル側からは演歌をファドに引き寄せて論じる風潮はない。

もっともアマリア・ロドリゲスの「このおかしな人生」と小林幸子の「思い出酒」を歌唱技術論的に分析して相似性を明かそうとするような試みもないではない。

それはビブラートやモルデントなどの使い方の相違や近似性を論じるものだ。

だが技術論では人の心や感情は把握できない。

そしてファドと演歌の類似性とは、まさにその心や感情の響き合いのことだから、歌唱論を含む音楽の技術また方法論では説明できないのである。

いや、技術論ではむろん双方の歌唱テクニックの在り方や相違や近似を説明することができる。だが方法論は人間を説明することはない、という意味である。

ファドと演歌が似ているのは、どちらの歌謡も人の感情や情緒、また生きざまや心情を高らかに歌い上げているからだ。

そのことに日本人が気づき、ポルトガル人が気づかずにいるのが、片思いの実相である。

それは日本人の感性の豊かさを示しこそすれ、何らの瑕疵にも当たらない。

従ってわれわれ日本人は、ファドを聴いて大いに涙し、共感し、惻隠し、笑い、ひたすら感動していれば良い、とも思うのである。









日本人が理解しているシャンソンやカンツォーネは演歌の心を持っている

白黒煙舞台楽器800

先日の記事を要約したFacebookへの投稿文を読んだ方からシャンソンやカンツォーネは演歌ではない。いい加減なことを言うな、というメッセージが届いた。

Facebook記事の終わりに「参照」としてURLを貼付したファド演歌の小粋を読んでもらえれば誤解は解ける筈だが、例によって参照まで飛んでくれる読者は少ない。

それなのでもう一度ここに確認しておくことにした。

「シャンソンはフランスの演歌でありカンツォーネはイタリアの演歌」であるとは、シャンソンやカンツォーネが日本の演歌と同じ歌謡、という意味ではなく、「日本人が理解しているシャンソン」はフランスの音楽シーンの中では日本の演歌に当たる位置にあり、同じく「日本人が意識しているカンツォーネ」は、イタリアの音楽シーンの中では、日本の演歌に当たる領域にある、という意味である。

フランスでもイタリアでも、日本の歌謡曲やニューミュジックまたJポップなどと総称される新しい歌に相当する楽曲は生まれ続けている。それらはむろん「演歌」ではないシャンソンでありカンツォーネである。

もっと具体的に言えばそれは、ミッシェル・ポルナレフやシルヴィ・バルタンなどが歌うシャンソンであり、ファブリツィオ・デ・アンドレやピノ・ダニエレらが歌うカンツォーネのことある。

僕はかつて、演歌に当たる例えばイヴ・モンタン系のシャンソンを、日本人なら誰もが経験する程度に耳にしていた。

やがて「演歌」ではない「新しいシャンソン」を学生時代にミシェル・ポルナレフを介して知った。彼の歌声に魅せられてレコードまで買ってよく聞いた。

その流れでシルヴィ・バルタンやフランソワーズ・アルディなども少し耳にしていた。僕はそれらの歌謡を、シャンソンとしてよりもロックやニューミュジック系の新しい歌、と感じつつ聞いていた。

それって何だろうと考えたとき、演歌風のシャンソンとポルナレフを始めとする新しい、世界的にも通用するシャンソン、という括りが見えた。

演歌に当たるナポリ系のカンツォーネをやはり普通に聞き知っていた僕が、イタリアに住み着いて以降、ファブリツィオ・デ・アンドレやピノ・ダニエレなどの新しい歌に出会ったのも同じ感覚である。

僕は一時期、移動中の車の中で飽きもせずにデ・アンドレのテープを聴き続けていた。後にはピノ・ダニエレも加わった。2人以外にはジャンナ・ナンニーニを時々聞いた。

そのほかのポップスやロック系のカンツォーネには、しかし、あまり興味がなかった。彼らを聴くくらいなら、本家本元の米英の楽曲を聴くほうが増し、と考えていたからである。







ファド演歌の小粋


 女歌手と奏者縦800

ポルトガル旅行中のリスボンでは観光と食事に加えてファドも堪能した。

ファドは日本ではポルトガルの民族歌謡と規定されることが多い。僕はそれをポルトガルの演歌と呼んでいる。ファドだけではない。

カンツォーネはイタリアの演歌、同じようにシャンソンはフランスの演歌、というのが僕の考えである。

日本では、いわばプリミティブラップとでも呼びたくなる演説歌の演歌が、「船頭小唄」を得て今の演歌になった。

それとは別に日本では、歌謡曲やニューミュジック、またJポップなどと総称される新しい歌も生まれ続けた。

民謡や子守歌はさておき、「船頭小唄」からYoasobiの「群青」や「勇者」までの日本の歌謡の間には、何光年もの隔たりと形容してもいい違いがある。

その流れは1900年代半ば過ぎ頃までのカンツォーネとシャンソンの場合も同じだ。

イタリアではファブリツィオ・デ・アンドレやピノ・ダニエレなどのシンガーソングライターや、英米のロックやポップスの影響を受けた多くのアーチストがカンツォーネを激変させた。

シャンソンの場合も良く似ている。日本人が考える1960年頃までのいわばオーソドックスなシャンソンは、ミッシェル・ポルナレフやシルヴィ・バルタン、またフランソワーズ・アルディなどの登場で大きく変わった。

僕はそれらの新しい歌謡とは違う既存のシャンソンやカンツォーネを、大衆が愛する歌という括りで「演歌」と呼ぶのである。

日本の演歌では、男女間のやるせない愛念や悲恋の情、望郷また離愁の切なさ、夫婦の情愛、母への思慕、家族愛、義理人情の悲壮、酒場の秋愁などの大衆の心情が、しみじみと織り込まれる。

古い、だが言うなれば「正統派」シャンソンやカンツォーネでも、恋の喜びや悲しみ、人生の憂いと歓喜また人情の機微ややるせなさが切々と歌われる。それらはヨナ抜き音階の演歌とは形貌が異なる。だがその心霊はことごとく同じだ。

さて、ファドである。

カンツォーネもシャンソンも単純に「歌」という意味である。子守唄も民謡も歌謡曲もロックもポップスも、イタリア語で歌われる限り全てカンツォーネであり、フランス語の場合はシャンソンだ。

ところがファドは、単なる歌ではなく運命や宿命という意味の言葉だ。そのことからして既に、哀情にじむ庶民の心の叫びという響きが伝わってくる。

ファドは憐情や恋心、また郷愁や人生の悲しみを歌って大衆に愛される歌謡という意味で、先に触れたようにシャンソンやカンツォーネ同様に僕の中では演歌なのだが、フランスやイタリアの演歌とは違って、より日本の演歌に近い「演歌」と感じる。

演歌だから、決まり切った歌詞や情念を似通ったメロディーに乗せて歌う凡庸さもある。だがその中には心に染み入り魂に突き刺さる歌もまた多いのは論を俟たない。

リスボンでは下町のバイロ・アルト地区で、ファドの店をハシゴして聞きほれた。

一軒の店では老いた男性歌手が切々と、だがどことなく都会っぽい雰囲気が漂う声で歌った。

4軒をハシゴしたが、結局その老歌手の歌声がもっとも心に残った。

ファドは、ファドの女王とも歌姫とも称されるアマリア・ロドリゲスによって世界中に認知された。

彼女もいいが、個人的には僕は、フリオ・イグレシアスっぽい甘い声ながら実直さもにじみ出るカルロス・ド・カルモが好きだ。

ファドは女性歌手の勢いが強い印象を与える芸能だが、たまたま僕は録音でも実況でも、男性歌手の歌声に惹かれるのである。





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フレンチはポルトガル料理も見習ったほうがいい

蓋込みカタプラーナ鍋800

ポルトガル旅行で料理を堪能した。

言わずと知れた各種バカラ(バカリャウ・鱈の塩漬けの干物 )、タコ、イワシ、子豚の丸焼き、海鮮鍋のカタプラーナ等々が素晴らしかった。

バカラのレシピは数限りなくあり、食べたどれもが美味かった。

イタリアにもバカラ料理はある。秀逸なのはヴィチェンツァの郷土料理だが、ポルトガルのバカラは、どこで食べてもヴィチェンツァの「バカラ・アッラ・ヴィチェンティーナ」並に美味だった。

タコもよく食べられる。どこの店もレシピを研ぎ澄ませている。

ポルトで食べた一皿は、タコの吸盤を剥ぎ落として薄いソースで柔らかく煮込でいた。絶妙な味わいだった。

もっとも驚いたのはイワシ料理だった。

マリネと焼きレシピが主体だが、多く食べたのは後者。単純な炭火焼なのに店ごとに微妙に味が違っていた。

北のポルトから最南端のファロまで、全国でイワシが盛んに食べられる。ワタも食べることを前提にして焼かれていて、いくら食べても飽きなかった。

ポルトで食べた一皿は、基本の塩に加えて、極く薄味のソースが肉に染みこんでいた。素朴だがほとんど玄妙な風味を感じた。

あるいはソースではなく、添えられた野菜の煮汁がからまっているだけかもしれないが、いずれにしてもそれは、計算され研究しつくした結果生まれた相性に違いなかった。

イワシという質素な素材にかけるポルトガルのシェフたちの意気に感嘆した。

僕は実際に自分が食べ歩いた中での、7つの海ならぬ世界の7大料理という括りを持っている。

それは美味しい順に、「日本料理、イタリア料理、中華料理、トルコ料理、スペイン料理、ギリシャ料理、フランス料理」である。

ところが今回ポルトガル料理を本場で食べ歩いた結果、7大料理は8大料理へと発展した。

ポルトガル料理が世界四天王料理の日本、イタリア、中華、トルコの次にランクインしたのだ。

結果、またまたフレンチが順位を落として、世界の美味しい料理ランキングは「1.日本料理、2.イタリア料理、3.中華料理、4.トルコ料理、5.ポルトガル料理、6.スペイン料理、7.ギリシャ料理、8.フランス料理」となった。

フレンチは、料理の本質は素材であって、ソースはそれを引き立てるための脇役に過ぎない、というコンセプトを理屈ではなく骨の髄まで染み入る因果として理解しない限り、永遠にランクを落とし続けるんじゃないかな。

いわば、

ポルトガルのシェフたちは素朴なイワシ料理に命をかけている。

日本の板前は素材そのものの味に命をかけている。

ところが、

フレンチのシェフたちは相も変わらずソースに命をかけている。。ように見える。

それはそれですばらしいことだし面白い。

でも、やはり何かが違うと思うのだ。


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欧州の極右がつるめば世界が危ない

タイトルなし

欧州議会選挙は大方の予想通り右派が勝利した。フランス、イタリア、オーストリアなどでは極右政党が躍進。

フランスではライバルのマリーヌ・ルペン氏の極右政党「国民連合」に大敗したマクロン大統領が、議会下院を解散して今月末に総選挙を行うと発表。世界を驚かせた。

極右のさらなる躍進を阻もうとする動きであることは明らかだが、裏目に出てマクロン大統領はいま以上の窮地に追い込まれる可能性も高い。

イタリアはメローニ首相率いる極右政党、イタリアの同胞」が勝利した。これも予測通りである。その他の国々でも極右と形容される政党の躍進が目立つ。

選挙直後から旅をしているここポルトガルも、右へならえ状態。カーネーション革命から50年の節目の年だが、極右への拒絶反応が薄まり欧州全体の右傾化の流れに吞み込まれた格好だ。

欧州の極右勢力は全体の2割程度にまで拡大している。それは言うまでもなく憂慮するべき事態だが、彼らはそれぞれが自国に閉じこもって勝手に主張しバラバラに行動することが少なくない。

その辺りがまさしく「極」の枕詞がつきやすい政治集団の限界である。街宣車でわめき散らす日本の極右などと同じで、彼らは蛮声をあげて威嚇を繰り返すばかりで他者を尊重しない。

従って相手の言い分を聞き、会話し、妥協して協力関係を築き上げる、という民主主義の原理原則が中々身につかない。

そのために彼らは欧州内にあってもそれぞれが孤立し、大きな政治の流れを生み出すには至らない場合が多かった。だが今後は団結する可能性も出てきた。

流れが変わって、過激政党がお互いに手を組み合うようになれば、欧州は危なくなる。欧州の極右の躍進は、11月の米選挙でのトランプ返り咲きを示唆しているようにも見えてうっとうしい。

一番気になるのは、ドイツ極右のAfDが度重なるスキャンダルを跳ね除けて勢力を伸ばしたことだ。欧州の極右政党の中で最も危険なのがAfDだ。

AfDはドイツ国民の過去への真摯なそして執拗とさえ見える頻度の謝罪と、全面的かつ徹底した総括を経た後に誕生した。

彼らはドイツの良心が煮詰まった挙句に生まれた醜悪な滓のようなものであり、極右思想やナチズムは決して死なないことを証明している。

だがそのAfDでさえも将来、万が一政権の一翼を担うことがあれば、たとえばイタリアの極右が政権を握って軟化したように穏健化する可能性が高い。

しかしながらそれは、ドイツ国内のEU懐疑主義への流れを加速させ、その結果欧州の結束が弱まる可能性が高い。それが最も憂うべきことだ。

人々の怒りをあおり、憎しみの火に油を注ぎ、不寛容の熾き火を焚きつけるのが得意な彼らの悪意は、易々と世の中を席巻する。歴史がそれを証明している。

従って彼らは拡大する前に抑え込まれたほうがいい。放っておくとかつてのヒトラーのNSDAP (国民社会主義ドイツ労働者党 )、つまりナチスのごとく一気に肥大し制御不能な暴力に発展しかねない。

とはいうものの、繰り返し強調しておきたい。欧州の今この時の極右勢力はヒトラーのナチズムやムッソリーニのファシズムと同じではない。

悪魔の危険を知り、悪魔ではないように慎重に行動しようとする悪魔が、現今の欧州の極右なのである。

そうはいうものの、狡猾な悪魔も悪魔には違いないのだから、極右モメンタムは抑さえ込まれたほうがいい。激流となって制御不能になる前に、その芽が摘み取られるべきである。




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フランス人が素直になって僕の中のパリの好感度は爆伸した

道路標識込み修復工事見上げ800

60歳代の間に、つまり体が無理なく動き回れる今のうちに、欧州内の目的の街を急いで、だが、あくまでもゆるりと巡る計画を立てた。

急ぐのは若くないから。ゆるりと行こうとするのは、仕事よりも周遊と見聞が優先の遊び旅だからである。

その一環としてパリに出かけた。

ことしは海を目指す恒例の夏のバカンス旅とは別に、6月にはポルトガルのほぼ全土。次にプラハ、アムステルダムと巡覧する予定も立てている。

また4月に計画して流れたナポリ、ローマ回遊も早めに再挑戦しておきたい。。など、など、きりがない。

むろん60歳代が過ぎても体が丈夫でさえあれば旅には頻繫に出るつもりである。あまり仕事がからまない旅行は飽きることがなく、ひたすら楽しい。

これまで仕事で数え切れない土地を訪ねた。それらの全てを、こんどは仕事抜きで訪問したいが、それはおそらく無理だろう。数が多すぎる。

目的地を絞りにしぼって、行き着くところまで訪ね歩こうと考えている。

パリの主だった観光スポットは過去にほぼ全て巡った。

今回は、「フランス料理を食べたい」ではなく、「フランス料理を好きになりたいのでフランス料理を食べ歩く」、というコンセプトでパリに向かった。

多くの人に呆れられそうだが、僕はフランス料理を高く評価しない。言葉を変えればフランス料理は僕の好みに合わない。

世界3大料理とは「中華、フランス、トルコ」の3件という説と「中華、フランス、イタリア」の3件という主張がある。

御三家から派生した「世界の3大~」というくくりは、それが何であれ日本人だけが騒ぐコンセプトで世界では実は意味をなさない。

それでも中華料理とフランス料理が世界で1、2を争う料理で、次にイタメシとトルコメシが続く、と考える人は地球上に多いのではないか。だが僕は少し違う意見を持っている。

僕の考える世界の3大料理とは、ランク順に:
日本料理、イタリア料理、中華料理である。

さらに僕はこれまでに実際に食べてみた世界料理の中では、7大料理というくくりを持っている。

それはランク順に:

「日本料理、イタリア料理、中華料理、トルコ料理、スペイン料理、ギリシャ料理、フランス料理」である。

フランス料理には何の恨みもない。同料理の「こってり感」と「気取り感」が、個人的には世界で7番目くらいに好き、というだけの話だ。

ところがである。

僕はトルコ料理、ギリシャ料理、またその後に食べ歩いたスペイン料理を知るはるか以前に、フランス料理はむちゃくちゃに美味い、という矛盾した体験をしている。

イタリアのスロフード運動が、Arcigola(アルチゴーラ)と名乗っていた黎明期に彼らを取材した。その後、グループに招待されてパリに同行しフランス料理を3日間食べまくったことがあるのだ。

その時訪ねた全てのレストランのあらゆる料理が美味だった。Arcigola(スローフード)が選りすぐったレストランばかりだったからだ。

しかし僕の中ではその強烈な体験は例外的なケースとして認識されていて、ふだんはどうしてもランス料理にそれほど魅力を感じない。

そこで今回旅では、じっくりとフランス料理に挑んでみようと構えた。

結論を先に言えば、結論は同じだった。

僕はやはり、フランス料理が苦手だ。濃密なタレに包まれた魚肉や、親の仇みたいにしつこいソースの乗っかった肉料理は、美味くないことはないのだが物足りない。味をごまかされたようでしっくりこない。

だが、再び、ところが、

一軒の店のひと皿が起死回生のうっちゃりを僕の舌に見舞った。ルーブル美術館に近い店で食べた子羊の煮込みである。

そこまで肉も魚も厚化粧のタレ三昧の世界に飽きていたにもかかわらず、子羊の特製ソース煮込みという説明に惹かれて、ためらわずにその一品を注文した。

僕は地中海域を旅しながら、子羊&子ヤギ料理を探求している。子羊&子ヤギ肉は、そこでは国また宗教のいかんを問わずきわめてありふれた食材である。

味も多彩で、それぞれの国や地域の風土や文化の香りがにじみ出たものが多い。

レシピは基本的に2種類に分けられる。焼き(レシピ)と煮込みである。焼きは炙りを含み、煮込みは蒸しを含む。焼きレシピはハマれば目覚ましい味になるが、多くの場合単調な口当たりになる。

地中海から遠い欧州のほとんどのレストランが提供する子羊&子ヤギ料理は、羊肉の風味がかすかに残るだけの独創性に乏しい、モノトーンな塩味のそんな焼きレシピだ。

片や煮込み膳は、いわば子羊&子ヤギ料理のハイライト。煮込みは各店のシェフの手腕でピンからキリまで大きく異なる。それぞれの店は秘伝のソースを編み出して技を競う。

子羊&子ヤギ肉には独特の臭みがある。技の第一はこの臭みの処理。続いて肉をいかに柔らかく仕上げるか。最後に各店のオリジナルのタレが絡んで絶品の味が出来上がる

子羊&子ヤギ肉の煮込みはワインで言えば赤ワインである。選択肢が広く無数の味があり風味が限りなく深い。

ルーブル美術館脇の店で出会った料理はそんな極上品のひとつだった。いわば子羊肉の❝企業秘密ソース❞煮とも呼ぶべきひと皿。

僕の苦手なフランス料理のこってりタレは、子羊肉を引き立て、臭みを消し、旨味をこれでもかとばかりに引き出す脇役に徹していた。

子羊料理とともに心地よい感動をもたらしたのは、フランス人の変貌である。

かつてフランス人は、「フランス優越意識」に縛られて、旅人に対して不親切だったり横柄だったり冷たい態度に終始することも珍しくなかった。

英語で話しかけると知らないふりをしたり不機嫌になったりする、良く知られた悪評そのものの反応に僕もしばしば出会った。

そんな不快なフランス人気質は、フランス人がEUという運命共同体の中で生きていくうちに徐々に消滅して、EU人としての意識が芽生え高まっていることが分かる。

他の加盟国の人々との垣根が低くなり、親しみが生まれ、友好親善の心が強くなって連帯意識が増している。

何事につけEU(欧州連合)というコンセプトが優先される状況は、人々の意識に劇的な変化をもたらしたのである。

フランス人のパスポートには、他の全ての欧州連合加盟国のパスポートと同じように、フランス共和国の名前に先んじて「欧州連合」という文字が鮮明に刻印されている。それは欧州の勲章とも呼べる輝かしい理念の表出だ。

つまり欧州連合を構成する27国の国民にとっては、それぞれの国が祖国であると同時に欧州が母体であると明確に規定されているのだ。それは欧州の長い歴史の中で初めて出現したコンセプトであり意識であり法的規定である。

それどころか実はそれは、大きな経済ブロック内の人々が国民意識に近似した同一の共同体意識を持った、世界で初めての出来事、と言ってもよい。

アメリカ合衆国がそれに近いコンセプトで成り立っているが、そこを欧州連合と同一に見なすことはできない。なぜなら合衆国内の「それぞれの国民(州民)」は、誰もが同じ言語を話す。

片やEU内のそれぞれの国民は、それぞれが違う言語を母国語にしている。多様性という意味でアメリカ合衆国を寄せ付けない強さを持っている。

むろんそれは弱さにもなり得る。そしてその弱さを克服することが、EUのさらなる強さを担保していく、という多様性を核にした重構造を持つのが欧州連合である。

そうやってかつてはなによりも優先された「優秀なフランス人」意識が後退し、他者と同列の心理が強いEU人意識が根付いて、僕に言わせればフランス人は「いい奴ら」へと変わった。

その意識はEU枠外人の僕のような旅人にまで敷衍発揮され、翻って彼らへの好感度が大きく高まる、と僕は見る。

論じつめると、今回のフランス旅でも「フランス料理」は僕を虜にすることはなかったが、フランスという国とフランス人は、まっすぐに噴射上昇するロケットのように僕の中で好感度を増して舞い上がった。




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飛び石連休という貧困

pelosaパラソルびっしり800

加筆再録

ことしのゴールデンウイークは、427()29()と、()()の連休の間の平日3日間を休めば、10連休とすることが可能だった。

だが残念ながら、そんな勇気を持った会社はまだまだ少数派のようだ。

2019年、日本のゴールデンウイークが過去最長の10連休になるというニュースが話題になった。

それに関連していわゆる識者や文化人なる人々が意見を開陳していたが、その中にまるで正義漢のカタマリのような少し首を傾げたくなる主張があった。

10連休は余裕のあるリッチな人々の特権で休みの取れない不運な貧しい人々も多い。だから、10連休を手放しで喜ぶな。貧者のことを思え、と喧嘩腰で言い立てるのである。

10連休中に休めない人は、ホテルやレストランやテーマパークなど、など、の歓楽・サービス業を中心にもちろん多いだろう。

だが、まず休める人から休む、という原則を基に休暇を設定し増やしていかないと「休む文化」あるいは「ゆとり優先のメンタリティー」は国全体に浸透していかない。10連休は飽くまでも善だったと僕は思う。

休める人が休めば、その分休む人たちの消費が増えて観光業などの売り上げが伸びる。その伸びた売り上げから生まれる利益を従業員にも回せば波及効果も伴って経済がうまく回る。

利益を従業員に回す、とは文字通り給与として彼らに割増し金を支払うことであり、あるいは休暇という形で連休中に休めなかった分の休息をどこかで与えることだ。

他人が休むときに休めない人は別の機会に休む、あるいは割り増しの賃金が出るなどの規則を法律として制定することが、真の豊かさのバロメーターなのである。

そうしたことは強欲な営業者などがいてうまく作用しないことが多い。そこで国が法整備をして労働者にも利益がもたらされる仕組みや原理原則を強制するのである。

たとえばここイタリアを含む欧州では従業員の権利を守るために、日曜日に店を開けたなら翌日の月曜日を閉める。旗日に営業をする場合には割り増しの賃金を支払う、など労働者を守る法律が次々に整備されてきた。

そうした歴史を経て、欧州のバカンス文化や「ゆとり優先」のメンタリティ-は発達した。それもこれも先ず休める者から休む、という大本の原則があったからである。

休めない人々の窮状を忘れてはならないが、休める人々や休める仕組みを非難する前に、窮状をもたらしている社会の欠陥にこそ目を向けるべきなのである。

休むことは徹頭徹尾「良いこと」だ。人間は働くために生きているのではない。生きるために働くのである。

そして生きている限りは、人間らしい生き方をするべきであり、人間らしい生き方をするためには休暇は大いに必要なものである。

人生はできれば休みが多い方が心豊かに生きられる。特に長めの休暇は大切だ。夏休みがほとんど無いか、あっても数日程度の多くの働く日本人を見るたびに、僕はそういう思いを強くする。

バカンス大国ここイタリアには、たとえば飛び石連休というケチなつまらないものは存在しない。飛び石連休は「ポンテ(ponte)」=橋または連繋」と呼ばれる“休み”で繋(つな)げられて「全連休」になるのだ。

つまり 飛び石連休の「飛び石」は無視して全て休みにしてしまうのである。要するに、飛び飛びに散らばっている「休みの島々」は、全体が橋で結ばれて見事な「休暇の大陸」になるのだ。

長い夏休みやクリスマス休暇あるいは春休みなどに重なる場合もあるが、それとは全く別の時期にも、イタリアではそうしたことが一年を通して起こる。

旗日と旗日の間をポンテでつなげて連休にする、という考え方が当たり前になっているのだ。

飛び石、つまり断続または単発という発想ではなく、逆に「連続」にしてしまうのがイタリア人の休みに対する考え方。休日を切り離すのではなく、できるだけつなげてしまう。

連休や代休という言葉があるぐらいだからもちろん日本にもその考え方はあるわけだが、その徹底振りが日本とイタリアでは違う。勤勉な日本社会がまだまだ休暇に罪悪感を抱いてるらしいことは、飛び石連休という考え方が依然として存在していることで分かるように思う。

一方でイタリア人は、何かのきっかけや理由を見つけては「できるだ長く休む」ことを願っている。休みという喜びを見出すことに大いなる生き甲斐を感じている。

そんな態度を「怠け者」と言下に切り捨てて悦に入っている日本人がたまにいる。が、彼らはイタリア的な磊落がはらむ豊穣 が理解できないのである。あるいは生活の質と量を履き違えているだけの心の貧者なのである。

休みを希求するのは人生を楽しむ者の行動規範であり「人間賛歌」の表出である。それは、ただ働きずくめに働いているだけの日々の中では見えてこない。休暇が人の心身、特に「心」にもたらす価値は、休暇を取ることによってのみ理解できるように思う。

2019年に出現した10連休は、日本の豊かさを示す重要なイベントだった。日本社会が、飛び石連休を当たり前に「全連休」に変える変革の“きっかけ”になり得る出来事だった。

だが冒頭で述べたようにそれはまだ先の話のようだ。

日本経済は生産性の低さも手伝って低迷しているが、人々が休むことを学べばあるいはそのトレンドが逆転する可能性も大いにあるのに、と残念である。





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多様性信者を装うはねっ返りの痴態  

Jorit&Putin署名なし

イタリアの有名なストリートアーティスト・ジョリット(Jorit)が、ロシアのソフィで開かれた青少年フォーラム中にプーチン大統領と一緒に撮った写真が物議をかもしている。

ジョリットはフォーラム会場で突然立ち上がり、壇上にいるプーチン大統領に「あなたがわれわれと何も変わらない人間であることをイタリア人に知らせたい。なので一緒に写真を撮らせてほしい」と語りかけた。

プーチン大統領は気軽に要求に応じ、ジョリットの肩を抱いて嬉々としてカメラに収まった。

写真そのものも、明らかにプーチン大統領に媚びている発言も人々の肝をつぶした。イタリア中に大きな反響が起こった。そのほとんどがジョリットへの怒りの表明だった。

多くの人が、「プーチンのプロパガンダに乗った愚か者」「プーチンの宣伝傭兵」「金に転んでプーチンの役に立つことばかりをするバカ」などとジョリットを激しく指弾した。

イタリアは多様性に富む国だ。カトリックの教義に始まる強い保守性に縛られながらも、さまざまの考えや生き方や行動が認められ千姿万態が躍動する。

それは独立自尊の気風が強烈だったかつての都市国家の名残だ。外から見ると混乱に見えるイタリアの殷賑は、多様性のダイナミズムがもたらすイタリアの至宝なのである。

言うまでもなくそこには過激な思想も行動もパフォーマンスも多く見られる。ジョリットのアクションもそうした風潮のひとつだ。

多様性を信じる者はジョリットの行動も認めなければならない。彼の言動を多様性の一つと明確に認知した上で、自らの思想と情動と言葉によって、さらに鮮明に否定すればいい。

イタリアにはジョリットの仲間、つまりプーチン支持者やプーチン愛好家も多い。先日死亡したベルルスコーニ元首相がそうだし、イタリア副首相兼インフラ大臣のサルヴィ・ビーニ同盟党首などもそうだ。

隠れプーチン支持者を加えれば、イタリアには同盟ほかの政党支持者と同数程度のプーチンサポーターがいると見るべきだ。

プーチン大統領は、ジョリットの笑止なパフォーマンスを待つまでもなく人間である。だがまともな人間ではなく悪魔的な人間だ。

彼と同類の人間にはヒトラーがいる。だがヒトラーはヒトラーを知らなかった。ヒトラーはまだ歴史ではなかったからだ。

一方でプーチン大統領はヒトラーを知っている。それでも彼はヒトラーをも髣髴とさせる悪事を平然とやってのけてきた。

ヒトラーという歴史を知りつつそれを踏襲するとも見える悪事を働く彼は、ヒトラー以上に危険な存在という見方さえできる。

ヒトラーの譬えが誇大妄想的に聞こえるなら、もう一つの大きな命題持ち出そう。

欧州は紛争を軍事力で解決するのが当たり前の、野蛮で長い血みどろの歴史を持っている。そして血で血を洗う凄惨な時間の終わりに起きた、第1次、第2次大戦という巨大な殺戮合戦を経て、ようやく「対話&外交」重視の政治体制を確立した。

それは欧州が真に民主主義と自由主義を獲得し、「欧州の良心」に目覚める過程でもあった。

僕が規定する「欧州の良心」とは、欧州の過去の傲慢や偽善や悪行を認め、凝視し、反省してより良き道へ進もうとする“まともな”人々の心のことである。

その心は言論の自由に始まるあらゆる自由と民主主義を標榜し、人権を守り、法の下の平等を追求し、多様性や博愛を尊重する制度を生んだ。

良心に目覚めた欧州は、武器は捨てないものの“政治的妥協主義”の真髄に近づいて、武器を抑止力として利用することができるようになった。できるようになったと信じた。

欧州あるいは西側世界はかつて、プーチン大統領の狡猾と攻撃性を警戒しながらも、彼の開明と知略を認め、あまつさえ信用さえした。

言葉を替えれば西側世界は、性善説に基づいてプーチン大統領を判断し規定し続けた。

彼は西側の自由主義とは相容れない独裁者だが、西側の民主主義を理解し尊重する男だ、とも見なされたのだ。

しかし、西側のいわば希望的観測に基づくプーチン観はしばしば裏切られた。

その大きなものの一つが、2014年のロシアによるクリミア併合だ。それを機会にロシアを加えてG8に拡大していたG7は、ロシアを排除して、元の形に戻った。

それでもG7が主導する自由主義世界は、プーチン大統領への「好意的な見方」を完全には捨て切れなかった。

彼の行為を非難しながらも強い制裁や断絶を控えて、結局クリミア併合を「黙認」した。そうやって西側世界はプーチン大統領に蜜の味を味わわせてしまった。

西側はクリミア以後も、プーチン大統領への強い不信感は抱いたまま、性懲りもなく彼の知性や寛容を期待し続け、何よりも彼の「常識」を信じて疑わなかった。

「常識」の最たるものは、「欧州に於いては最早ある一国が他の主権国家を侵略するような未開性はあり得ない」ということだった。

プーチン・ロシアも血で血を洗う過去の悲惨な覇権主義とは決別していて、専制主義国家ながら自由と民主主義を旗印にする欧州の基本原則を理解し、たとえ脅しや嘘や化かしは用いても、“殺し合い”は避けるはずだ、と思い込んだ。

ところがどっこい、ロシアは202224日、主権国家のウクライナへの侵略を開始。ロシアはプーチン大統領という魔物に完全支配された、未開国であることが明らかになった。

プーチン大統領の悪の核心は、彼が歴史を逆回転させて大義の全くない侵略戦争を始め、ウクライナ国民を虐殺し続けていることに尽きる。

日本ではロシアにも一理がある、NATOの脅威がプーチンをウクライナ侵攻に駆り立てた、ウクライナは元々ロシアだった、などなどのこじつけや欺瞞に満ちた風説がまかり通っている。

東大の入学式では以前、名のあるドキュメンタリー制作者がロシアの肩を持つ演説をしたり、ロシアを悪魔視する風潮に疑問を呈する、という論考が新聞に堂々と掲載されたりした。

それらは日本の恥辱と呼んでもいいほどの低劣な、信じがたい言説だ。

そうしたトンデモ意見は、愚蒙な論者が偽善と欺瞞がてんこ盛りになった自らの考えを、“客観的”な立ち位置からの見方、と思い込んで吠え立てているだけのつまらない代物である。

それらと同程度の愚劣な大道芸が、イタリアのストリートアーチスト・ジョリットがやらかしたプーチン礼賛パフォーマンスなのである。




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文学あそびⅡ

則顔鼻毛イラスト650

もう少し文学にこだわる。

文学論争は数学や物理学とは違って、数式で割り切ったり論理的に答えを導き出せる分野ではない。「文学」自体の規定や概念さえ曖昧だ。それらを探る過程が即ち文学、とも言える。

曖昧な文学を語る文学論は「何でも可」である。従って論者それぞれの思考や主張や哲学は全てパイオニアとも言える。そこには白黒が歴然としている理系の平明はない。人間を語るからだ。だから結論が出ない。

文学とは要するに「文字の遊び「と考えれば、文字のあるとことろには悉く文学がある、ということもできる。

僕はここではそのコンセプトでSNSを捉えようとしている。

自分は文学を紙媒体によって学んできた古い世代の人間である。ところがSNSに接し、自らも投稿するようになり、さらに多くのSNS上の「文字」に出会ううちに、SNSには文学が充満していると気づいた。

その文学は、例えば僕が卒業論文に選んだ三島由紀夫や再三再四読み返している司馬遼太郎や藤沢周平や山本周五郎、また今このとき胸が騒ぐ桐野夏生や宮本輝、あるいは過去のバルザック、安部公房、ソルジェニーツィン、スタンダール、太宰治、フォーサイスetc,etcの僕が読み耽ってきた多くの「役に立たない本」に詰まっている文学とは毛並みが違う。

だが、巧まざるユーモアや介護の重圧や自分探しの旅や草花を愛でる言葉やペット愛や野菜つくりの悲喜こもごもやといった、尽きない話題が溢れ返るSNS劇場にはまさしく文学がある。

それらの文学は、短いものほど面白い。僕はツイッター(意味不明なマスク氏のXとはまだ呼べずにいる)をあまり利用しないが、 ツイッターがこの先、情報交換ツールから「文学遊び」ツールへと変化した場合は、特に日本で大発展するのでないかと思う。

なぜなら日本には短歌や俳句という偉大な短文文学の伝統があるからだ。もしかするともうそうなっているのかもしれないが、既述のように僕は ツイッターに登録はしているものの、ほとんど利用していない。

本が筆頭の紙媒体、ブログ、Facebook、テレビ、インターネット全般、とただでも忙しい日常にツイッターの慌しさを加える気が起きない。なのでツイッターの今この時の実態を知らない。

ブログもFacebookも短い文章ほど面白い。その点僕は冗漫な文章書きなので、長い文章を短くしようと日々悩んでいる。



文学論っぽい話は:

https://terebiyainmilano.livedoor.blog/archives/52255786.html

https://terebiyainmilano.livedoor.blog/archives/52255786.html

https://terebiyainmilano.livedoor.blog/archives/52185388.html

等を参照していただきたい。




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文学という迂遠

則顔鼻毛イラスト650


文学とは、文字を介して学ぶ芸術性の低い芸術である。

なぜ芸術性が低いのかと言うと、文学は文学を理解するために何よりも先ず文字という面倒なツールを学ばなければならない、迂遠でたるい仕組みだからだ。

片や絵画や音楽や彫刻や工芸その他の芸術は、見たり聞いたり触れたりするだけで芸術の真髄にたどり着ける。文字などという煩わしい道具はいらない。

文学以外の芸術(以下:鑑賞するのに何の装置も要らないという意味で純粋芸術と呼ぶ)は、それらを創作できること自体がすでに特殊能力である。

誰もが実践できるものではないのが純粋芸術だ。

一方で文章は、子供から大人まで誰でも書くことができる。文字を知らない者は日本ではほぼゼロだ。世界の趨勢もその方向に進んでいる。

おびただしい数の人々が多くの文章を書く。それはSNSへの投稿であり手紙であり日記であり葉書であり解答であり、はたまた課題であり企画であり回答でありメモなどである。

SNSでは、小説でさえ意識されることなく書かれている場合がある。そのつもりのない文章が面白い小説になっていたりするのだ。

膨大な数の文章は全て、文字を介してやり取りされ表現され読み込まれる知識、即ち文学だ。

あらゆる芸術は、そこに参画する人の数が多いほど、つまり裾野が広いほど質が向上する。参加者の切磋琢磨と競合がそれを可能にするのだ。

文学という芸術分野は裾野が巨大である分、そこから輩出する才能大きく且つその数も多大である可能性が高い。

文学は、文字を知って初めて理解できるという点で回りくどい仕掛けだが、その分感動は深いとも言える。

誰でも実践できる「作文」と同じ手法で作品が成り立っているために、その中身が人々の人生の機微に重なりやすいからだ。

真の恐怖や怒りや悲哀や憎しみや歓喜などの「感情の嵐」の前では、人は言葉を失う。激情は言葉を拒否する。

強い感情の真っ只中にあるは、ただ叫び、吼え、泣き、歯ぎしりし、歓喜の雄たけびを上げ、感無量に雀躍するだけだ

ところが人は、言葉にできないほどの激甚な感情の津波が去ると、それを言葉に表して他者に伝えようと行動しはじめる。

言葉にならない感情を言葉で伝える、という矛盾をものともせずに呻吟し、努力し、自身を鼓舞してついには表現を獲得する。

自らを他者に分からせたいという、人の根源的な渇望が万難を排して言葉を生み、選び、組み立てるのである。

絵画や音楽を始めとする純粋芸術の全ても、実は究極には言葉によってのみその本質が明らかにされる。

絵画や音楽に感動する者は、苛烈な感情に見舞われている人と同じで言葉を発しない。新鮮な感動に身を委ねているだけである。

感動が落ち着き、さてあの魂の震えの中身は何だっただろうか、と自らを振り返るとき、初めて言葉が必要になる。自身を納得させるにも、感銘の中身を他者に伝えるにも言葉がなくてはならない。

感動も、思考も、数式でさえも全て言葉である。あるいは言葉にすることによってのみその実体が明らかになるコンセプトだ。

文学そのものは言うまでもなく、これまで論じてきた「言葉ではない」あらゆる芸術も、全て言葉によってその意味が形作られ、理解され、伝達される。

言葉を介してしか存在し得ない文学は、たるい低級な芸術だが、文学以外の全ての芸術を包括する究極の芸術でもある、という多面的な装置だ。

文学は文字によって形成される。そして文字は誰でも知っている。文学は誰もが「文章を書くという創作」にひたることができる芸術である。

文学の実践には―創作するにしろ鑑賞するにせよ―絵心や音感やセンスという特殊能力はいらない。誰もが自在に書き、読むことができる。

書く行為には上手い下手はない。優劣のように見える形態はただの違いに過ぎない。そして違いとは、個性的ということにほかならない。

文字を知る者は誰もが創作でき、且つ誰もが他者の書いた文章、つまり作品を鑑賞することができる。作者と読者の間には、才能という不可思議な要素が作る壁がない。

文学の奥部はその意味では、絵画や音楽とは比べ物にならないほどに広く、めまいを誘うほどに深い。




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ナワリヌイ殺害はプーチンの弱さという幻想

Nav,Pu.Kremlin650

アレクセイ・ナワリヌイ氏が死亡、というBBCの速報を見るとすぐに僕はなにか記事を書こうと試みた。

だが思い浮かぶのはプーチン大統領への憎悪だけだった。

身内にじりじりと湧く怒りをそのまま記そうと思ったが、そういう趣旨記事は僕はもうこれまでに何度も書いている。

無力感に襲われた。

ナワリヌイ氏が毒殺未遂から生還してロシアに帰国し即座に逮捕された頃、プーチン大統領はその気になれば彼を簡単に殺せるだろうが、今回はそうしないのではないか、という見方が広まった。

なぜなら世界世論が固唾を呑んで成り行きを監視している。さすがのプーチン大統領でも易々と手は下せない、と世界の常識ある人々は心のどこかで考えていた。

その予想は再び、再三、再四、つまりいつものように裏切られた。プーチン大統領は、自由世界の縷の望みをあざ笑うかのようにナワリヌイ氏を屠った。

昨年8月のプりコジン氏に続く政敵の暗殺である。

暗殺だから真相は分からない。証拠がない。だが証拠がないのがプーチン大統領の仕業である証拠、というのが真相だろう。

プーチン政権下では、独裁者に刃向かった人々が次々と殺害されてきた。政治家に始まりジャーナリスト、オリガルヒ、反体制派の活動家、元情報機関員、軍人など枚挙に暇がない。

プーチン大統領は、魂の奥深くまでスパイである。なにものも信用せず何者であろうが虫けらのように殺せる悪鬼だ。

ナワリヌイ氏は殺害されたことで殉教者になった、という説がある。だがその殉教者とは、飽くまでも自由主義社会の人々にとってのコンセプトだ。

大半のロシア人にとっては、彼の死は殉教どころかどうでもいいこと、という見方が現実に近いのではないか彼らにとっては民主主義や人権よりも安定が大事、というふうにしか見えない。

プーチン統領の専制政治は、少なくとも国内に安定をもたらす。その安定を脅かす反体制活動は忌諱される。

ロシア国内にプーチン大統領への反撃運動が起こりにくいのは、多くが政権の抑圧によるものだ。だが、それに加えて、ロシア国民の保守体質が反体制運動の芽を摘む、という側面も強いと考えられる。

大統領選挙が間近に迫る中、ナワリヌイ氏を意図的に殺害するのは、プーチン大統領にとって得策ではない、との意見も多くあった。だがそれらもプーチン派の人々の希望的観測に過ぎなかった。

ナワリヌイ氏を消すことはロシア国内の多くの事なかれ主義者、つまり積極的、消極的を問わずプーチン支持に回る者どもを、さらにしっかり黙らせる最強の手法だ、とプーチン大統領は知悉していたのだ。

プーチン大統領の恐怖政治は、その意味においては完璧に成功していると言える。

ナワリヌイ氏を殺害することは、ロシア国内の鎮定に大いに資する。彼の関心はロシア国民を支配し権力を縦横に駆使して国を思い通りに動かすことだけにある。

欧米を主体にする自由主義社会の批判は、プーチン大統領とっては蛙の面にションベン、無意味なことなのだ。

批判を批判として怖れ尊重するのは民主主義社会の人間の心理作用であって、専制主義者には通じない。われわれはいい加減、もうそのことに気づくべきだ。

彼は自由主義社会の多くの人々の予想に反して、いとも簡単にくナワリヌイ氏を抹殺した。

プーチン大統領は病気だ、悩んでいる、ためらっている、西側の批判を怖れている、などの楽観論は捨て去らなければならない。

ましてやナワリヌイ氏を殺害したのはプーチン大統領の弱さの表れ、などというもっともらしい分析など論外だ。

長期的にはそれらの見方は正しい。なぜならプーチン大統領は不死身ではない。彼の横暴は彼の失脚か、最長の場合でも必ず来る彼の死によって終わる。

だがそれまでは、あるいは彼の最大の任期が終了する2036年までは、プーチン大統領は今のままの怖れを知らない、強い独裁者で居つづけると考えるべきだ。

ナワリヌイ氏は、彼を描いたアカデミー賞受賞のドキュメンタリ-映画「ナワリヌイ」の中で、「邪悪な者は、善良な人々を黙らせることで勝利する。だから沈黙してはならない。声を挙げよ。あきらめるな」と語った。

プーチン大統領は、彼が倒れるまでは圧倒的に強い。

自由と民主主義を信じる者はそのことをしっかりと認識して声を挙げつづけ、挑み、断固とした対処法を考えるべきだ。

対処法には言うまでもなく、西側諜報機関などによる彼の排除また暗殺さえも睨んだドラスティックな、究極のアクションも含まれる。





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ナワリヌイ殺害はプーチンの弱さという幻想

Putin-Mosca-Navalny650

アレクセイ・ナワリヌイ氏が死亡、というBBCの速報を見るとすぐに僕はなにか記事を書こうと試みた。

だが思い浮かぶのはプーチン超自然現象大統領への憎悪だけだった。

身内にじりじりと湧く怒りをそのまま記そうと思ったが、そういう趣旨記事は僕はもうこれまでに何度も書いている。

無力感に襲われた。

ナワリヌイ氏が毒殺未遂から生還してロシアに帰国し即座に逮捕された頃、プーチンもののけ大統領はその気になれば彼を簡単に殺せるだろうが、今回はそうしないのではないか、という見方が広まった。

なぜなら世界世論が固唾を呑んで成り行きを監視している。さすがのプーチン地獄絵図大統領でも易々と手は下せない、と世界の常識ある人々は心のどこかで考えていた。

その予想は再び、再三、再四、つまりいつものように裏切られた。プーチン何でもありのデスマッチ大統領は、自由世界の縷の望みをあざ笑うかのようにナワリヌイ氏を屠った。

昨年8月のプりコジン氏に続く政敵の暗殺である。

暗殺だから真相は分からない。証拠がない。だが証拠がないのがプーチンメガトン級悪霊大統領の仕業である証拠、というのが真相だろう。

お尋ね者のプーチン政権下では、独裁者に刃向かった人々が次々と殺害されてきた。政治家に始まりジャーナリスト、オリガルヒ、反体制派の活動家、元情報機関員、軍人など枚挙に暇がない。

プーチン人間じゃない人間大統領は、魂の奥深くまでスパイである。なにものも信用せず何者であろうが虫けらのように殺せる死体転がし魔だ。

ナワリヌイ氏は殺害されたことで殉教者になった、という説がある。だがその殉教者とは、飽くまでも自由主義社会の人々にとってのコンセプトだ。

大半のロシア人にとっては、彼の死は殉教どころかどうでもいいこと、という見方が現実に近いのではないか

ロシア人にとっては民主主義や人権よりも安定が大事、と断言するロシア国内の反体制派の国民もいる。

プーチン悪の根源統領の専制政治は、少なくとも国内に安定をもたらす。その安定を脅かす反体制活動は忌諱される。

ロシア国内にプーチンゴマの蠅大統領への反撃運動が起こりにくいのは、多くが政権の抑圧によるものだ。だが、それに加えて、ロシア国民の保守体質が反体制運動の芽を摘む、という側面も強いと考えられる。

大統領選挙が間近に迫る中、ナワリヌイ氏を意図的に殺害するのは、プーチン辻強盗大統領にとって得策ではない、との意見も多くあった。だがそれらもプーチン派の人々の希望的観測に過ぎなかった。

ナワリヌイ氏を消すことはロシア国内の多くの事なかれ主義者、つまり積極的、消極的を問わずプーチン支持に回る者どもを、さらにしっかり黙らせる最強の手法だ、とプーチン裏世界の暗黒魔大統領は知悉していたのだ。

プーチン非合法人間大統領の恐怖政治は、その意味においては完璧に成功していると言える。

ナワリヌイ氏を殺害することは、ロシア国内の鎮定に大いに資する。彼の関心はロシア国民を支配し権力を縦横に駆使して国を思い通りに動かすことだけにある。

欧米を主体にする自由主義社会の批判は、プーチン暴力団員大統領とっては蛙の面にションベン、無意味なことなのだ。

批判を批判として怖れ尊重するのは民主主義社会の人間の心理作用であって、専制主義者には通じない。われわれはいい加減、もうそのことに気づくべきだ。

彼は自由主義社会の多くの人々の予想に反して、いとも簡単にくナワリヌイ氏を抹殺した。

プーチン下手人大統領は病気だ、悩んでいる、ためらっている、西側の批判を怖れている、などの楽観論は捨て去らなければならない。

ましてやナワリヌイ氏を殺害したのはプーチン阿鼻叫喚大統領の弱さの表れ、などというもっともらしい分析など論外だ。

長期的にはそれらの見方は正しい。なぜならプーチン妖怪人間大統領は不死身ではない。彼の横暴は彼の失脚か、最長の場合でも必ず来る彼の死によって終わる。

だがそれまでは、あるいは彼の最大の任期が終了する2036年までは、プーチン悪の権化大統領は今のままの怖れを知らない、強い独裁者で居つづけると考えるべきだ。

ナワリヌイ氏は、彼を描いたアカデミー賞受賞のドキュメンタリ-映画「ナワリヌイ」の中で、「邪悪な者は、善良な人々を黙らせることで勝利する。だから沈黙してはならない。声を挙げよ。あきらめるな」と語った。

プーチン鬼畜のなせる業で生まれた大統領は、彼が倒れるまでは圧倒的に強い。

自由と民主主義を信じる者はそのことをしっかりと認識して声を挙げつづけ、挑み、断固とした対処法を考えるべきだ。

対処法とは言うまでもなく、西側諜報機関などによる彼の排除また暗殺さえも睨んだドラスティックな、究極のアクションのことである。



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SNSには文学がある


アーチの奥の青い光縦650

文学とはなにか。
それは言葉通りに「文字を介しての学び」である。学びは知識を包容している。
文学は芸術としては最も程度の低い形式である。なぜなら最低限でも文字を解し言葉を知らなければ内容を理解できない。
片や、例えば音楽や絵画は、文字を知らなくても内容を理解できる。少なくとも耳と目に入る情報だけで楽しめる。好きか嫌いかの判断ができる。
人の情感に訴える知識が芸術だから、言葉などという面倒な手段がなくても心に沁みこむ音楽や絵画は、文学よりもはるかに高尚な芸術だ。
また文学の中でも、詩歌やポエムは語彙が少なくても伝達力が強い分だけ、小説よりも芸術性が高いと言える。
僕はまた次のようにも考える。
それらの「程度の低い芸術」の中で、金を稼げる小説、つまりプロの小説だけを「小説」と呼び、金を稼げない小説を含む残りの全ての「文字を介しての学び」を文学と呼ぶ。
すると今僕がここに書いている文章や、売れない下手な小説や、FB友ほかの皆さんがSNS上に投稿している膨大な量の文章も、何もかも、全て「文学」である。
SNSは文字を知っているあらゆる人々が「文学」を遊ぶことのできる優れものなのだ。
だから僕はSNSを愛するのである。





トランプ再選より不穏なドイツAfDの躍進 

トランプ+AfD合成

米大統領選に向けた共和党の候補者選びで、トランプ候補が第1戦第2戦と連勝した。

共和党は11月の米大統領選へ向けて、どうやらトランプ候補を彼らのエースと決めたようだ。

それを受けて世界の魑魅魍魎たちがあちこちでが呟いている。

~~

先ずイスラエル・ネタニヤフ首相:

米大統領選までは何があっても戦争は止めない。トランプが勝てばこっちのものだ。俺と同じ穴のムジナのトランプにとってはパレスチナ人なんて虫けら以下だ。極端なイスラエル擁護者の彼は、大統領に返り咲けばわれらがユダヤの国を徹底的に支援するだろう。ああ、トランプの再選が待ち遠しい。

ロシア・プーチン大統領:

ウクライナへのエンパシーはかけらも持ち合わせない2期目のトランプ大統領は、アメリカの支出を削減するという理由だけでもウクライナに停戦を要求するだろう。ウクライナはアメリカの支援がなければ戦争を続けられない。奴らは失った領土とずたずたにされた誇りと愛国心を抱えたまま、絶望の底で停戦に応じることになる。俺の狙い通りだ。

北の将軍様:

トランプは頭の中身も体型も俺とそっくりだから大好きだ。早く俺に並ぶ独裁者の地位に戻れ。

中国・習近平主席:

バイデンもトランプも悪魔だ。だがEUや日本などともつるみたがるバイデンよりも、1人で騒ぎまくるトランプの方が御しやすい悪魔だ。

岸田首相:

死んでも私のアイドルである安倍氏に倣います。トランプ大統領閣下、どうかいつまでもあなたの金魚のフンでいさせてくださいませ。

ドイツAfD:

ホロコーストはすぐには起こさないつもりだ。今はユダヤ人より移民のほうがマジ臭い。次は総統様がおっしゃった黄色い猿の日本人や、規則を知らない未開人のイタ公は抜きで、プーチン、北のデブ、シューキンペーなどをたぶらかし巻き込んで、白人至上主義を宇宙にまで撒き散らす計画だ。

~~

第1次トランプ政権の最大の脅威はトランプ大統領自身だった。だが、アメリカも世界も4年間で彼への対処の仕方を学んだ。

トランプ大統領は相変わらず民主主義への挑戦ではあり続けるだろう。

しかしトランプ再選の最大の脅威は最早トランプ大統領ではなく、彼に親和的なドイツの極右AfDがさらに勢力を伸ばすことである。

AfDがかつてのナチスと同様にホロコーストを起こす危険があるという意味ではない。AfDの不寛容な怒りっぽい性格は危険だ。が、彼らとてナチズムの悪と失敗は知悉している。

ヒトラーとナチズムとホロコーストを経験したドイツは、そしてひいては世界は、それらの再現を許さない。なぜなら「欧州の良心」がそれを阻むからだ。

「欧州の良心」とは、欧州が自らの過去の傲慢や偽善や悪行を認め、凝視し、反省してより良き道へ進もうとする“まともな”人々の心のことだ。

その心は言論の自由に始まるあらゆる自由と民主主義を標榜し、人権を守り、法の下の平等を追求し、多様性や博愛を尊重する制度を生み出した。

「欧州の良心」はトランプ主義に異議を申し立て、プーチンロシアに対峙し、習近平中国の前にも立ちはだかる。

ヒトラーはヒトラーを知らず、ムッソリーニはムッソリーニを知らなかった。だが今この時の欧州の極右は、ヒトラーもムッソリーニも知っている。

そして彼らは、ヒトラーとムッソリーニを極限のさらに向こうの果てまでも否定する、欧州の民意も知悉している。

また彼らのうちの少しの知性ある者つまり指導者層も、ナチズムとファシズムの悪を知り尽くしている。だから彼らはヒトラーにもムッソリーニにもなり得ないだろう。

だが、人々の怒りをあおり、憎しみの火に油を注ぎ、不寛容の熾き火を焚きつけるのが得意な彼らの悪意は、易々と世の中を席巻することが多い。歴史がそれを証明している。

従って彼らは拡大する前に殲滅されたほうがいい。放っておくとかつてのヒトラーのNSDAP (国民社会主義ドイツ労働者党 )、つまりナチスのごとく一気に肥大し制御不能な暴力に発展しかねない。

とはいうものの、繰り返し強調しておきたい。欧州の今この時の極右勢力はヒトラーのナチズムやムッソリーニのファシズムと同じではない。

悪魔の危険を知り、悪魔ではないように慎重に行動しようとする悪魔が、現今の欧州の極右なのである。

それは2022年10月、イタリアで政権を握った極右政党「イタリアの同胞FDI)」の在り方を検証するだけでも明らかだ。

「イタリアの同胞」のジョルジャ・メローニ党首は、激しい反移民言論やEU懐疑思想を全面に押し出して総選挙を勝ち抜いた。

そして彼女は首相の座に就くと同時に選挙戦中の極右丸出しの主張を引っ込めて、より「穏健な極右」あるいは「急進的な右派」政治家へとシフトした。

それにはイタリア独特の政治風土が大きく関わっている。

各地方が精神的に自主独立している自治体が、寄り合って統一国家を成しているのがイタリア共和国だ。

多様性が何よりも優先されるイタリア共和国の政治は頻繁に乱れる。だがそれは外から眺めただけのイタリアの“見た目”に過ぎない。

イタリア政治には混乱はない。多様性が担保する殷賑と狂乱と興奮が織り成す、百花繚乱というイタリア的な秩序があるだけだ。

多様性は政治に四分五裂の勢力をもたらす。過激思想も生む。極論者も政治的過激論者も跋扈する。

それらの過激勢力は、互いに相手を取り込もうとしてさらに過激に走るのではなく、より穏健へと向かう。身近な実例が、1018年に発足した極左の五つ星運動と極右の同盟の連立政権だ。

政権を樹立した彼らは、選挙運動中の過激な主張どおりにEUを否定し独立独歩の道を行くということはなく、いわば“穏健な過激派政権”となった。

そして2022年に政権の座についた極右のメローニ首相も、選挙前の剽悍な言動を抑えて「穏健な過激派」へと変貌した。それが彼らの正体、というのがふさわしい。

ネオナチあるいはネオファシストとも呼ばれるAfDも、政権奪取あるいは連立政権入りを果たした暁には、メローニ首相が率いるイタリアの同胞(FDI)と同じ道を辿るだろう。

だがAfDは、世界的には政治的弱小国に過ぎないイタリアではなく、EUを主導する大国ドイツの極右だ。政権を握れば、イタリアの極右とは違う大きなインパクトを欧州に、そして世界に与える。

そして最も重大な懸念は、彼らが反EUあるいはEU懐疑主義思想を深めることで、EUがひいては欧州が弱体化することだ。

なぜなら世界がかく乱された第一次トランプ政権時代、ファシズム気質のトランプ主義に敢然と立ち向かったのは、EUを核に団結した強い欧州だけだった。

その欧州は同時に、中露の専制主義に立ち向かえる唯一の力であることも、またその時代に証明された。

要するに欧州の弱体化は、本質的に世界の弱体化と同じである。

世界の民主主義の盟主は、専制主義とほぼ同義語のトランプ主義でさえ政権奪取が可能な米国ではなく、“欧州の良心”を堅固な民主主義で死守しようとする、EUを核とする欧州そのものなのである。

第2次トランプ政権が後押しをしそうに見えるドイツAfDの勢力拡大は、欧州の力を確実に大きく削ぐ。それこそがトランプ再選の最大の痛手であり脅威である。





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