
僕はキリスト教徒ではないが、キリスト教徒のように感動し勇気を得、深い喜びを覚えている。
ローマ教皇レオ14世が2026年4月13日、彼を批判するトランプ米大統領に対して「私は彼を怖れていない」と名指しで反批判を展開したからだ。
たとえ敵であっても、ローマ教皇が相手を名指しで糾弾することはほとんどない。
教皇は宗教指導者であり平和の推進者として対話を重んじ、和解と調和を追求する立場にある。
個人や国を名指しで直接的に批判しないのは、対立を深めず、和解の余地を残すための外交戦略である。あくまでも平和的な解決を模索する姿勢を崩さないのだ。
だから公の場での直接的な批判を控える。特定の名前を挙げるよりも、戦争そのものや不当な暴力自体を批判する形をとるのが定式である。
レオ14世がトランプ大統領を名指しで糾弾したのは、グレゴリウス7世が1076年、ハインリヒ4世を名指しで批判し破門。皇帝としての支配権を停止したいわゆる「カノッサの屈辱」にも匹敵するような出来事だ。
あるいは教皇ピウス11世が第二次世界大戦前夜の1930年代、ムッソリーニとファシズムを明確に批判し、ナチスの人種差別的政策についてヒトラーを名指しで糾弾した例にも続く重大な動きなのである。
世界14億の信者を率いるバチカンは、日本人が中々想像できない大きな影響力を持っている。
そのバチカンの権威は近年、大ヨハネパウロ2世の時代にぐんと伸びた。
だが教義の番犬とも批判されたベネディクト16世の治世下で停滞した。いや、あまつさえ後退した。
ところが2013年、バチカンはフランシスコ教皇の誕生によって再び希望の光を見出し、前進を始めた。
フランシスコ教皇は清貧と弱者への奉仕を最大の義務と定めて、信徒の熱い信望を一身に集めた。
教皇レオ14世はフランシスコ教皇を師と仰ぎ、世界14億のカトリック教徒とその共鳴者や友人、またその逆の人々までもが注視する唯一至高の聖職首座に就いた。
彼は「何者か」になった。
選ばれた「何者か」は、彼が誰であるのかではなく、「彼が何を為すのか」によって歴史の審判を受ける。
穏やかで控えめなスタイルで知られるアメリカ生まれの教皇レオ14世は、就任後は派手な言動を控えて、周囲と世界にじっと耳を傾けながらゆるりとバチカンの改革を進めるように見えた。
それはともすると、顔の見えない教皇、という印象を僕にもたらした。彼がどこに行こうとするのか、何を為そうとするのか、僕は息をひそめるような気分でじっくりと観察し続けた。
彼は事あるごとに平和を唱え戦争に反対する言葉を発してきた。
だが彼の師で前任のフランシスコ教皇に比べると、圧倒的にプロフィールが低く、目立たず、顔がおぼろげにしか見えない印象の時間が過ぎた。
ところが4月13日、事態が一変した。
イランへの攻撃が激化する中、教皇が戦争を糾弾し平和を呼びかける姿勢を続けることに逆切れしたトランプ大統領が、教皇は犯罪と核兵器に対して弱腰だ。レオは教皇として失格だ。イランを攻撃する私にむしろ感謝するべきだ、などとSNSを介してわめきたてた。
トランプ大統領のいつもの身勝手な主張に、温和な外見の内に秘めた教皇の強靭な精神が刺激された。彼は恐れを知らない率直さで同胞のトランプ大統領を名指しで真っ直ぐに批判し、飽くまでも軍事攻撃に反対し続けると宣言した。
彼はその行為によって、トランプ大統領という強烈で傍若無人な力に対抗する国際的な存在であることを世界に示した。
これまで辛うじてトランプ帝王大統領に対抗できたのは、プーチンロシアでも習近平中国でもなかった。それはアメリカの友人で同盟国の集合体であるEUだけだった。
だがそこにふいに、バチカンを率いて世界14億の熱心な信者を導く教皇レオ14世が加わった。いや、元々そこにいた存在がくっきりと可視化された。
僕はレオ14世誕生に際して、「アメリカ出身の教皇レオ14世が、自国の強権力者のトランプ大統領に歯向かうのか擦り寄るのか。それはレオ14世の正体が見える試金石になるだろう。」と書いた。
彼は歯向かうと決め、全世界が見守る中で、トランプ大統領に対して宣戦布告した。
これ以上に心強く喜ばしいことはない。


















