【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

思論想論

NHKは優秀だが、報道が足を引っ張って世界の3流に堕する

沖縄タイムス記事

沖縄タイムスは2025年12月2日、「沖縄の米兵犯罪報道延期。NHKが高市政権に忖度」という記事を一面トップで伝えた。

記事によれば、沖縄で民間人が被害に遭った性犯罪容疑事件は2024年までの20年間に14件起きていた。だが、日本側では明らかになっていなかった。

NHKは独自取材によってその“埋もれた事件”を突き止め、昨年1022日に放送する予定だった。

ところが、前日の1021日に高市早苗政権が発足する見通しが強まったために、NHK上層部の判断で放送延期が決まり、2週間後の115日に放送された。

こうした上層部の判断に対して、NHKの放送現場からは抗議の声が上がった。

BBCを間近に見続け、米PBSと仕事をし、NHKとはさらに多くの仕事をし見続けてもいる僕は、NHKBBCにも匹敵する放送局だと評価している。

だが残念ながら政治報道は三流以下だ。NHKニュースの政権への忖度は度が過ぎる。言語道断だ。

特に沖縄にまつわる政府の政策を指弾するどころか、斟酌三昧であるところは悲惨だ。見苦しい。

沖縄の民意を無視して辺野古に始まる横暴を繰り返したのは安倍元首相である。

国土の1%にも満たない小さな沖縄には、日本国全体の安全保障を担う米軍基地が全体のおよそ70%以上置かれ、地元は基地被害に苦しんでいる。

それは余りにも不公平だ。負担を減らして欲しいという沖縄のまっとうな訴えは、安全保障の意味も民主主義の精神もあずかり知らない国民の無関心によって、ひたすら否定される。

それはまたネトウヨヘイト系差別主義者らの「沖縄は補償金欲しさに基地反対を叫んでいる」という偽りの誹謗中傷まで呼んで、沖縄はいよいよ貶められ侮辱され続けている。

国民の気分を熟知している政府はそれを巧みに利用して、口先だけの基地負担軽減を言いながら、イスラエルによるガザ弾圧よろしく、辺野古を、沖縄を蹂躙している。

いわゆる構造的沖縄差別である。

高市政権に忖度して米兵犯罪報道を延期したNHKは、報道者として失格であるのみならず、構造的沖縄差別に加担する未開国の公共放送然として見える。



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独裁者は法の支配を否定して自らが法になろうとする

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トランプ政権は2026年8月18日、ICC=国際刑事裁判所の赤根智子所長らを制裁対象に加えると発表した。

独裁者は法の支配を否定して自らが法になろうとする。トランプ大統領が赤根智子氏らに制裁を科したのはその一環である。

今さらながらトランプ氏が、名実ともに独裁者の道をまっしぐらに歩んでいることに驚かされる云々、というのは実は虚しい響きの糾弾である。

トランプ大統領は向かうところ敵なし、言語道断の理不尽を思いのままに強行している。だが、誰もこれを止められない。

トランプ大統領の暴走を止めることはほぼ不可能だ。彼はたとえ11月の中間選挙で敗れても、いや、敗れた場合は余計に、政権最後の駆け込み悪政を敷き、暴虐の限りを尽くしてから去ろうとするにちがいない。

その時の彼の脳裏にあるのは、権力の座を降りてただの人になった際の、政敵による徹底報復への怖れだろう。やりたい放題の悪事を働きまくった彼には、必ず因果応報の天誅が下されるのが宿命だ

それを避けようとして彼が目指している暴政の一つがICCの解体、無力化だ。

トランプ大統領の専横を受けてICCの赤根所長は821日、今回の制裁を「ある程度予期していた」とした上で、「これを国際的な『法の支配』の終焉の始まりとさせない」ことが重要だと訴えた。

また、「日本と日本の皆様の支援が重要な鍵となるだろう」 とも述べた。

これに対する同胞の高市首相の応えは冷淡だった。

首相は

「赤根所長の件につきましては大変残念に思っております。これからも米国を含む関係国と意思疎通を継続しながら対応してまいります」

と相変わらずのトランプのポチ丸出し発言。

彼女には法の上に立とうとするトランプ大統領の傲慢を否定する知力はおろか、赤根智子所長が日本人であり且つ自らと同じ女性であることへのあるべき洞察もない。

曲がりなりにも法治民主主義国家を名乗る日本は、ICCと赤根氏を徹底支するべきだ。加えて日本は赤根氏が日本人であることを大いに笠に着て、彼女をとことん支援したほうがいい

ICCを断固支持すると表明した上で、日本人の赤根所長を日本国と日本人が徹頭徹尾守り抜くと宣言するのは、依怙贔屓や自己中心的な姿勢ではない。むしろその逆だ。

日本人である高市早苗首相が、日本人である赤根智子氏をどこまでも支持するとトランプ大統領に宣言すれば、あるいは彼はその心意気を善しとするかもしれない。

例えその逆の反応が返ったとしても国際社会は必ずその動きを称賛するだろう。

だが、高市首相はそう動くことはおろか、飽くまでもトランプ大統領の金魚のフンとして行動することが日本の国益、と妄信しているらしいのが憂鬱である。

そこでICCと赤根所長にこう提案したい。

トランプ大統領は、彼の任期が終わる前にICCを破壊しようと今後も死に物狂いで攻撃を続けるだろう。しかも残念ながらICCには勝ち目はなさそうだ。

そこでトランプ大統領に逮捕状を出す。罪状はベネズエラのマドゥーロ大統領拉致とそれに伴う人民虐殺である。

あるいはICCがアフガニスタンでの米兵の悪行を指弾した過去を蒸し返して、トランプ大統領に逮捕状を発付する。

トランプ大統領は2度に渡る任期中に、多くの国を攻撃しそれに伴って兵士のみならず民間人も虐殺した。またガザでは住民の大量虐殺を続けるイスラエルを支持し、武器も大量に提供している。自身が虐殺を敢行していると言っても過言ではない。

ICCは非加盟国や個人を断罪することはできない。だが加盟国内で悪事を働いたと見做される場合はこれを訴追することができる。

ICCが非加盟国のボスのプーチン大統領とネタニヤフ首相に逮捕状を出したのはその条件を満たしたからだ。

同じことがトランプ大統領にも適用されていい。トランプ大統領が攻撃を仕掛けた多くの国のうち、アフガニスタンとベネズエラはICC加盟国なのだ。

非加盟国の 首魁であるトランプ大統領は、手下(軍隊)を使ってICC加盟国であるアフガニスタンとベネズエラで犯罪を犯した。プーチン大統領とネタニヤフ首相のケースと同じだ。だから逮捕状を発布するのである。

逮捕状を発しても、独自の警察や軍隊などの強制執行機関を持たないICCは、トランプ大統領を拘束することはできない。これまたプーチン大統領とネタニヤフ首相の例に同じだ。

だがそうすることでICCと赤根所長が世界に与えるインパクトは計り知れない。

それによってICCの解体を目論むトランプ政権を強く牽制する。そして何よりも大統領の任期終了後に無傷でとんずらすることを企んでいるに違いない彼に待ったを掛けることができる。

それは同時にICCと赤根所長の権威と尊厳と、且つ単なる象徴に留まらない強い政治力を示すことになると思うのである。



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ミソジニーは男の問題だが解決には女性のコミットメントも欠かせない

高市ぶりっ子安倍に迫る

 田原総一朗氏と若かりし頃の高市早苗首相のやり取りに言及した2日前の投稿を、ミソジニーと捉える読者がいるようなので再び論及する事にした。

記事を頭からミソジニー色の論考と決めつける読者は、田原氏に無知と罵られた高市氏が

「小首を傾げ、目をパチクリさせ、瞬きを繰り返すなどしてぶりっ子全開モードで相手に対する」

「男に理不尽に見下されてもヘラヘラ諂笑しているだけの前近代的な未開人女性」

などの表現を、いわゆるストローマン(切り取り批判論法)的に受け取って断罪しているように見える。

それは筆者の表現力不足によるものである可能性もあるので、なぜそう思うのかと問いかけて意見のやり取りを試みたが、一方的過ぎるコメントだけが返ってきた。

反対意見は大いに歓迎だが、理由や意見や感想をキチンと言わない(言えない)批判はナンセンスだ。一顧だに値しない。  時間と労力のムダと考えてブロックした

僕は投稿では高市氏を2重に批判した。

一つはほぼ習慣になった政治家高市早苗弾劾である。歴史修正主義者であり、ほぼファシストであり、女性天皇や夫婦別姓を認めないミソジニスト(!)の高市首相は、一刻も早く権力の座から引きずり降ろされるべき、というのが僕の主張だ。

二つ目は人間としての、つまり女性としての高市早苗氏批判だ。

小首を傾げ、目をパチクリさせ、瞬きを繰り返すぶりっ子全開モードの高市氏は、トランプ大統領に擦り寄り腕を絡めてピョンピョン飛び跳ねる姿と重なる。

あるいは初対面の欧州の(世界のではない)首脳を、一方的かつ片思いに友達扱いにして、ジョルジャ、エマヌエル、キアなどとファーストネームで連呼するママゴト外交の異名だ。

日本初の女性首相を必要以上に女性という属性を強調してフィルターにかけ、語ることは、秘めた女性差別である可能性がある、というのは真実である。

従ってそうすることはなるべく避けるのが誠実な論者のあるべき姿だ。

だが同時に高市首相の場合には、彼女が女性であることを敢えて強調して論じなければならないような奇怪な政治的主張やスタンス、あるいは瑕疵というものが多々ある。

例えばいま触れた奇妙な外交スタイルは、彼女が女性でなければ起こり得ないが、それは同時に高市早苗氏という一女性によってのみ実現が可能な異次元世界なのだ。

彼女が憧れるマーガレット・サッチャーも大物のアンゲラ・メルケルも今人気のジョルジャ・メローニも断じて高市首相の如きぶりっ子言動はできないし、することもあり得ない。

なぜか。

彼女たちは日本人ではないからだ。

そう、高市首相のぶりっ子姿態やあざとかわいい演技は、ある種の日本人女性のみが持つ特殊技能であり異形のノウハウなのである。

そして日本人女性をそこに追い込んだのは、古代に始まり武家社会で先鋭化して、明治維新でガチガチに固定化された男尊女卑という執拗で、醜く、険しい社会通念であり文化である。

罪は男の側にある。

女性はそのことに怒り、立ち上がり、抗議をしなくてはならない。同時にによって刷り込まれた媚びる姿態を激しく拒絶しなければならない。

情念の世界では女性の媚態は許されるばかりではなく、美しくさえある。

だが、政治の場ではもってのほかだ。高市首相はそのもってのほかの動きを無意識に、嬉々として、場所も時もわきまえることなく演じ続ける。

日本初の女性首相が、日本社会の癌であり諸悪の根源である女性蔑視、男尊女卑思想を糾弾するどころか、容認し喜び、挙句には讃えさえする言動に終始している。

高市首相のぶりっ子的な在り方は、過去を直視しない彼女の歴史修正主義と同じ程度に重い、日本の宿痾なのである。




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高市早苗というぶりっこ妖女はやはりどうしても見苦しい

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被災地訪問でも味噌をつけたという反高市派と、飽くまでも彼女の動きを称賛したいネトウヨヘイト系“高市命”陣営のバトルが絶えない。

が、そもそも被災者を見舞って批判されること自体が、高市首相の不徳を如実に示しているのではないか。

僕は彼女の重ねた、さらなる不徳にも目を奪われている。

先日来、ジャーナリストの田原総一朗氏が、若かりし頃の高市首相に「無知だ、議員を辞めろ」という趣旨の罵詈を投げつける映像が、ネット上で盛んに躍っている。

満州事変から太平洋戦争に至る日本の侵略行為を、「自衛のための戦争」と主張する高市氏に腹を立てた田原氏が声を荒げる場面だ。

高市首相は議員1年生の頃、当時の村山首相に戦争被害国に勝手に謝るなと迫ったり、 私は戦争の当事者世代ではないから反省しないし、反省を求められるいわれもない、と述べるなどした。

彼女は根っからのファシスト風民族主義者であり救い難い歴史修正主義者なのである。

従って彼女を含む日本極右十八番の、“侵略ではなく自衛のための戦争だった”や“アジア解放闘争だった”などというと詭弁は少しも目新しいものではない。

目を瞠らずにはいられないのが、そこでの高市氏のリアクションだ。

彼女は田原氏に罵倒されながら小首を傾げ、目をパチクリさせ、瞬きを繰り返すなどしてぶりっ子全開モードで田原氏に対するのである。

僕は高市首相誕生以来、日本初の女性首相を必要以上に女性という属性を強調してフィルターにかけ、語ることを避ける努力をしてきた。秘めた女性差別の現れと捉えられかねないからだ。

そうすることは彼女の品性が例えいかなるものであれ、日本初の女性首相となった人物を強く尊重することでもあった。

だが彼女は、僕の密かな努力には全く値しない人間であることがそこでは明らかになった。

田原氏は上から目線で高市氏を罵倒している。彼女は女性で、若く、確かに少し勉強不足のように見える。だからと言って田原氏や彼の同僚ジャーナリストが、上から目線で高市氏を罵倒することは当たらない。

田原氏側の苛立ちは僕のそれでもあるのだが、しかし、上から目線の悪口雑言はまともな議論とは言い難い。

ところが高市氏はそのことに怒らない。怒らないのは彼女が田原氏らの侮辱の本質に全く気付いていないからだ。

怒るどころか彼女は、既述のように目をパチクリ開けたり瞬きを繰り返して、無邪気な愛くるしい女性あるいは可憐無知な可愛い妹役を演じて恥じないのだ。

その絵は残念ながらある種の日本人女性の、すさまじいばかりの蒙昧パープリンぶりを象徴している。

高市氏は歴史修正主義論に絡めとられた愚者であるばかりではなく、男に理不尽に見下されてもヘラヘラ諂笑 しているだけの前近代的な未開人女性であることを図らずも全身で告白している。

それだけでも批判されるべきだが、彼女は加えて、そこらに転がっているネトウヨヘイト系のファシストらと何も変わらない反動右翼であることで、いよいよ日本の敵、即ち反日の危険人物であることが明らかになる。

高市早苗こと虚言癖倶楽部代表幹事の主体は確信犯的な歴史修正主義であり、天皇制ファシズム容認であり、戦前戦中への回帰願望などという恐るべき超国家主義体質だ。

不気味、という以外には言葉がない。




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イングランドサッカーはBrexitとBBCと同じ穴のムジナの悲劇である

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W杯も終わり、サッカー絡みのムダ話はいったん切り上げ、と考えていたらイングランドサッカーを弱いというあなたの意見は主観的で納得できない、という趣旨の「いつもの」メッセージをいくつかいただいた。

また なぜサッカーイングランドにこだわるのかという問いもあった。

それらのメッセージに応える意味もかねて書ておくことにした。

サッカーは、たかがサッカー。されど。。・・たかがサッカー。というのが僕の捉え方である。

それは世界を席巻するファンタジスタ・サッカーあるいはラテンサッカーの代名詞である、とも僕は考えている。

イングランド人は、サッカーは「たかがサッカー、されど、サッカー」と石部金吉に考えている。結果、彼らはサッカーを純粋スポーツと見做して、シャカリキになって体を鍛え身体能力を極限まで高める。

彼らは強いフィジカルを目いっぱい使って速い、高い、構造的に強力なプレーをする。それは見ていてすがすがしいものだが退屈でもある。

そして退屈なサッカーは必ず負ける。彼らはそうやって1966年以降、きっちり60年も負け続けて(優勝から遠ざかって)いる。

イングランドにはサッカーの発祥地としての強烈なプライドがある。サッカーを公正と誠実が核の「真のスポーツ精神」の象徴として神聖視し、「サッカーの母国」として、絶対に世界基準を認めず自らのやり方を優先する驕慢さを持ち続けている。

イングランドは、同じくサッカーが同地で誕生したことを楯に、優勝杯はイングランドに帰還するべき、とさえ考え執拗にそう主張する。

しかも優勝は、サッカーを発明したイングランドの戦法と哲学によって為されるのがあたりまえであり、必ずそうなると全身全霊で思い込んでいる。

それはW杯と並ぶ欧州選手権に於いても同じ。イングランドは欧州選手権では一度も優勝できていないにもかかわらず、自らの優越性を信じて疑わないのである。

イングランドのメディアは、なぜイングランドは欧州や南米の強豪チームに勝てないのか、という論戦をこれでもかとばかりに提起し、論じ、主張し続ける。

それを見ていると、彼らの論理がイングランドのアプローチと理念が至高であり勝てないのは何かの偶然、いわば悪魔の意地悪なジョーク、とでもいうようなニュアンスで固められているのが分かる。

要するに彼らは、他の多くの事案と同様に胸奥で自らが最も優れていると密かに思い込んでいる。つまりは大英帝国の栄光が忘れられないのだ。

それ故に、彼らをいつも木端微塵に打ち負かすファンタジスタサッカー、あるいはラテンサッカーの優位性を認めて、それに倣うということができない。

僕はイングランドのそうした思い上がりに強い違和感をもつ。だから彼らのサッカーにこだわるのである。

イングランドサッカーの弱点は、その精神がBrexitBBCと同じで、かつての大英帝国の栄光にすがる、自己撞着の肥大した自尊メンタリティーにがんじがらめに縛られているところにある。

イングランド人のそうした噴飯かつ不快なメンタリティーは、あらゆるところで「今この時」も変わらずに発揮される。

例えば大事件のBrexit(イングランドが主体の英国のEU離脱)も、大英帝国の往年の輝きを忘れられない、特に高齢者層が、英国の優越と特権意識に絡めとられて激しく主張した結果実現した。

Brexitは、自国が他のEU構成国と同等ではなく、世界を主導する特別な存在であるという英国独特の「大英帝国の栄光」幻想にからめとられた、いつもの優越意識から発した誤謬である。

欧州連合(EU)の官僚機構の縛りから解放され「自国だけで何でも決定できる」という唯我独尊の主権へのこだわりも大きな原動力となった。

イングランドのもう一つの象徴であるBBC(英国放送協会)は、自らを「客観中立の絶対的基準」と位置づけ、世界的な信頼を獲得してきた。

BBCは法的に「不偏不党(impartiality )」を義務付けられた公共放送だ。組織としての公式な「本心」や特定の政治信条を持つことは想定されていない。中立性を保つことが制度上の使命だ。

だが近年は、政府からの圧力と個人の表現の自由、そして「中立性」の定義をめぐって激しい混乱に陥っている。分断が深まる現代社会においては「完璧な中立」など存在しないという現実に直面し、右派からも左派からも批判され、自らの理想の重圧でアイデンティティが揺らいだ。

公平性を金科玉条とするBBCのメディア力は疑いないものだが、 中立や伝統を過度に神格化する大英帝国の亡霊の組織文化が逆に足かせになって、Brexitのような重大な局面でも、中立と不偏不党を隠れ蓑に事実報道をするばかり。ついに自らの信条も主張も披歴しなかった。

結果、Brexit推進派と反対派両方からの批判に晒された。

イングランドを中核とする英国民は、Brexit派の出鱈目な主張にまどわされて、BBCの本心とは逆のEU離脱という取り返しのつかない結果を招いた。

開明性を誇るBBCBrexitに反対しないならば、それは虚偽でありフェイクである。なぜならBrexitは、大英帝国の失われた栄光を振りかざす時代錯誤な精神が招いた、固陋迷妄な出来事だったからだ

ブレグジット、BBC、そしてイングランドサッカーの根底には、いずれも過去の栄光や例外主義に固執する「大英帝国の誇りの残滓」という共通の心理的構造がある。

イングランドサッカーがファンタジスタサッカーあるいはラテンサッカーにどうしても勝てないのは、個々の戦いのディディールではなく、根深く執拗なその心理構造が招き続ける悲劇なのである。




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天皇制温存か否かとは無関係に昭和天皇の罪は問われるべき

平和の礎

毎年6月から8月にかけて第2次大戦と戦犯をあれこれ思うのが僕の慣わしである。

他の時間にもむろん思わないことはないが、沖縄戦の終結と広島長崎の原爆、そして8月15日の敗戦と続く流れのメディアジャックに便乗することがやはり多い。

1945年6月23日、全国合計 310万人の戦没者のうち、一般市民約94000人と、軍人軍属約28000人、計12万2000人の沖縄県民の犠牲のもと、第32軍の牛島満司令官と長勇参謀長の自害と共に沖縄戦が一応終結した。

唯一の地上戦と凄惨な地獄を経験した沖縄は、間もなく島をアメリカに売り渡すことになる昭和天皇の裏切りと、そのことも影響したネトウヨ・ヘイト系愚民による県民への執拗な差別感情の到来を予測できないまま焦土と化して横たわっていた。

マッカーサーによって仕置きを免れた昭和天皇は、先ず沖縄をアメリカに差し出し、自らの大罪を「私には分からない」と述べて知らん振りを決め込み、広島長崎の原爆は「止むを得ないことだった」と無責任に言い放って、自決したヒトラーと民衆に処刑されたムッソリーニとは大違いに違い、畳の上で死んだ。

天皇は輔弼(ほひつ)者に従っただけのいわば操り人形。だから戦争責任はない、というのは欺瞞だ。

輔弼者は結局天皇の裁可がなければ何もできなかったのだから、その言いは誤魔化しの建前論に過ぎない。

百歩譲って例えそうだったとしても、天皇も輔弼者も自らの保身にかまけるだけで、彼らの中には犠牲になる国民への思いが完全欠落していた。その時点で罪は免れない。

昭和天皇はマッカーサーと会った際、私はどうなっても構わない、と言ったと伝えられているが真相は分からない。たとえそれが真実だったとしても、多くの国民に加えて侵略先の国々で、膨大な数の住民の殺戮を繰り返した罪は消えない。

沖縄がまさに陥落する前日、多くの住民と兵士が無残に死に続けていた1945年6月22日、東京では天皇を中心に権力中枢の戦争犯罪者が集っていわゆる御前会議を開いたが、相変わらず「本土決戦」と「一撃和睦」の門徒物知らずの念仏を唱えるだけで、戦争犯罪の上塗りに上塗りを重ねる愚行は終わらなかった。

一撃和睦も本土決戦も誤った見通しに基づく誤った戦略だった。戦争においては作戦の失敗は即被害や死に結びつく。誤った作戦は許されるべきではなく必ず断罪されなければならない。なぜならそれが戦争だからだ。故に天皇を筆頭に天皇以下の権力中枢は一人残らず有罪である。

昭和天皇の罪は誰よりも重い。なぜなら彼は統帥権を持つ大元帥だった。従って軍部の暴走を止めなかったことや、開戦から戦争継続、さらには戦いの大詰めで迅速にそれを終結できず、結局大空襲、沖縄戦、広島&長崎の原爆など、無くてもよかった甚大な被害を招いた。その責任だけでも彼は万死に値する。

それが起きなかったのは、マッカーサーが天皇を生かしておくことが日本統治に役立つと思い込んで、天皇が極東裁判で起訴されることを避けた。そうやって昭和天皇は命拾いをした。

日本国民はアメリカの占領が終わった後、戦犯を徹底追及し今も続けているドイツや、ドイツの薫陶を受けてファシズムという過去を断罪し、反省し、警戒する心を社会の最重要な道徳的支柱とすることに成功したイタリアとは違い、全てをうやむやにした。むろん天皇を独自に断罪することもなかった。

昭和天皇の戦争責任を追及、分析するとき必ず提示されるのが先に述べた責任は輔弼者にあり天皇は無罪」という主張である。それは飽くまでも天皇をシラス(治らす)と見做す土着未開の精神に支配された日本原人が、近代的自我の最重要コンセプトである「人間は生まれながらに平等であり出自による優劣は存在しない」という人間存在の真理中の真理を、骨の髄まで染み込ませては理解できていないことから来る。

近代的自我が人々の存在原理のうちに一分の隙もなく組み込まれた社会では、天皇というひとりの人間に身体的にも、心理的にはもっとさらに、畏れをなしてをひれ伏すことなどあり得ない。

そこでは人々は、お互いに1対1の人間として対峙した後、相手が人間的に優れていると腹から認めるときにのみ素直に尊敬の念を抱く。

それができない社会では、多くの日本人が今この時もそうであるように、天皇を無条件に上位存在と捉えて身も心もひれ伏す前近代的な精神が主流を占めることになる。

天皇は天皇という肩書きが重要なのではなく、彼が一人の人間としていかなる人格で何を成すか、ということだけが重要なのである。

そのことに気づいて、天皇を条件反射的に崇め奉る悪魔の呪縛から解き放たれたとき彼を純粋に一人の権力者として見做すことができるようになる

そこに至って初めて、昭和天皇の戦争犯罪人としての実相がくっきりと見えてくるのである。

彼の周りの輔弼者や軍幹部らに加えて、世界中では約5,700人の日本人が戦犯として起訴され、およそ1,000人が死刑判決を受けた。それとは別にソ連でも約3000人が裁かれたと見られている。

それなのになぜ加害者全体の統率者として君臨した昭和天皇が裁かれずにいられるのだろうか。

昭和天皇はもはやこの世にはいない。だが日本はいつの日か必ず彼を裁いて国民的合意を形成し、日本の戦争責任を明確にして子供たちにしっかりと教え語り継がなければならない。

それなくしては日本の真の再生はあり得ず、安倍元首相がレールを敷き高市早苗首相に代表される歴史修正主義者がその上を突っ走る政治がいつまでも続いて、再び破滅しかねない。

なぜなら過去を直視しない彼らは、再び同じ間違いを繰り返すことが宿命だからである。

その兆候は既にあらわになりつつあるようにも思える。




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トランプは狂人理論者なんかではなく、極くふつうに黄印なんでねえの?かも。かい?

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あきれたゴシップの類にも見えるが、実は今このときの世界を映し出す鏡とも考えられるので敢えて書いておくことにした。

エヴィアンサミットの直後、トランプ大統領がイタリアの民放局の電話インタビューに答えた。

Q :サミットではあなたとメローニ首相はずいぶん親密そうでしたね。

トラ:彼女がかわいそうだったから付き合ってあげただけだ。(私は彼女に興味はなったが)彼女は私と話したがり私と一緒に写真を撮ってくれと懇願した。だから並んで写ってあげた。

この話が伝わるや否やメローニ首相は:

「彼の発言は全くの作り話で驚いた。なぜアメリカの大統領が同盟国に対してこのような振る舞いをするのか理解できない。しかも今回が初めてではない。彼がアメリカを含む西側諸国の敵に対して強い抵抗の決意を見せず、むしろそれらの国の指導者たちには寛大な態度でいることは残念だ」とXの動画を介して即座に反論した。

そしてメローニ首相は最後に付け加えた。

「トランプが覚えておくべきことが一つある。私とイタリアは誰に対しても断じて物乞いなどしない」

トランプ大統領の動きの背景にあるのは、言うまでもなく、イタリアがイラン攻撃に向かう米軍機の基地使用を拒否したことだ。

のみならずメローニ首相は、アメリカのイラン攻撃を国際法違反と明確に糾弾している。

またその前にメローに首相は、トランプ大統領のローマ教皇批判は受け入れなられない、と断固として彼に楯ついた。

欧州の外交筋によると、メローニ首相はエヴィアンサミットでもトランプ大統領に対して最も強硬に異議を申し立てた。

強い言葉で欧州の立場を擁護し、トランプ大統領が西側同盟国は彼を助けないというのは虚偽の主張で、同盟国はむしろ彼を、そしてアメリカを支援してきたと明確な言葉で主張した。

メローニ首相はサミットの場のみならず、あらゆる機会を通してトランプ大統領に反論してきた。欧州の首脳らは彼女の影響もあって、徐々にトランプ大統領に楯つくことを怖れなくなっている。

メローニ首相のそうした異議申し立てや、リーダーシップに対する意趣返しがトランプ大統領の見苦しい言葉の数々だ。

メローニ首相はかつて、トランプ大統領の熱心な支持者だった。2025年のトランプ大統領2期目の就任式には、ヨーロッパの指導者のうちただ一人だけ出席したほどだ。

それでも彼女は、トランプ大統領に対して自己主張することを厭わなかった。

エヴィアンサミットでは、トランプ大統領とメローニ首相は親しげに話し合い笑い合っていた。メローニ首相はサミット後、彼女とトランプ大統領の仲は依然として良好だ、とメディアに話したほどだ。

その直後にトランプ大統領の辛らつな言い分が世界中を駆け巡った。

トランプ大統領は、メローニ首相が表明したように、サミットでは親密な素振りを見せていた。しかし内心の怒りは抑え切れなかったらしく、サミット直後に冒頭の主張をしたのである。

トランプ大統領は、「自分は予測不能で、時には破滅的な行動も辞さない狂気じみた人物である」と言動で示して、相手に譲歩を迫る高度な心理的駆け引き術を採用しているとされる。いわゆる狂人理論である。

それはかつてニクソン大統領が実践した外交及び交渉戦略術だ。トランプ大統領はその手法を真似ているのである。

だがトランプ大統領の場合は、彼の行き当たりばったりの行動様式や情報のムチャクチャな取捨選択が計算された演技の枠を超えており、彼本来のパーソナリティ障害が災いを成していると考える専門家が多い。

意図的に過激な言動を繰り返すうちに、演技と本性が不可分に融合してしまい、自身でも抑制がきかなくなったということである。

メローニ首相への攻撃の意味がそれで良くわかる。

同時に、そういう人物が世界最大の、そして最強の国家を運営しているという現実に、今さらながら戦慄するのである。





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高市早苗首相はサディスティックな暴風雨のようなものだ 

トラ&ポチ高市横長

4月から6月にかけてのイタリアの気候は不安定だ。冬物の装束をあわてて春夏物に替えるな、慎重に確かな季節の移ろいを見きわめろという有名な諺さえある。

若く多忙だったころは、6月はイタリアに限らず欧州最良の季節と思い込んでいた。日は長く風は爽やかで、人出が最高潮になる7~8月にはまだ時間がある海のリゾート施設は、広々としてしのぎやすい上に滞在費用が安いと思い込んでいた。

天気が変わりやすく、油断すると冷気に襲われて苦労する、という6月の実態を意識するようになったのは、菜園を耕すようになってからである。野菜たちの成長を支配するのは天候である。

6月は暖気が勢力を張る季節ながら、ふいに雷雨や風や冷気が立つ不安定な時間でもある、と今ははっきりと知るようになった。むろん年によって違いはあるが。

ことしの6月は特に気圧変化が顕著だ。曇り空に伴なって冷涼な風が吹き、肌を刺す春雨が降る日々が多い。今日6月9日も曇り空。さすがに寒くはないが空気が冷え気味でかなり涼しい。

春から初夏のにかけてのイタリアの小嵐は、アフリカ・サハラ砂漠由来の熱気がアルプスの冷気にぶつかって起きる。それはヒマラヤ山脈で生まれた大気の流れが、日本に梅雨をもたらすのにも似た、大自然の営みである。

そんな北イタリア・フランチャコルタ地方の悪天候を眺めつつ、日本に居座っている爆弾低気圧をじっと観察し続けている。

爆弾低気圧とは高市早苗首相のことである。

他政党の候補や自党の仲間を誹謗中傷したビデオへの関与を、全く信用できない言い訳や欺瞞や誤魔化しに見える詭弁で執拗に否定する態度は、見苦しくも腹立たしい。

死して後もなお自身のボスであり続けるらしい安倍元首相や、がスーツを着て歩いているトランプ大統領にそっくりだ。

彼女は言い逃れ術を安倍元首相から、ジコチューなSNS発信術をトランプ大統領から盗んで得意げに実践している。

高市首相は議員に成りたてのころ、時の村山首相に、周辺(被害)国に勝手に誤るな」と発言。

翌年には、「私は戦争の当事者世代ではないから反省しないし、反省を求められるいわれもない」とも 言い放った。

また2012年には「さもしい顔して貰えるものは貰おう、弱者のフリをしてでも得しよう云々」
の、活保護受給者は乞食だとでもいう趣旨の発言もした。

さらに2016年、テレビ局の電波を停めるという趣旨の暴言を吐いて大批判され、極まると総務省の行政文書は捏造だ。そうでないなら大臣も議員も辞職すると発言。

至近では「台湾有事は日本存続危機事態」と無思慮無分別が露わになった暴言をかましたものの一向に撤回しようとしない傲慢ぶりだ。

彼女はそれらの限りなく黒に近い灰色疑惑を、もはや常態となった日本の大手メディアの“忖度だけがレゾンデートル”という、似非メディア体質」のおかげで旨く逃れてきた。

今回こそは、と思いつつ見ているが、状況は悲観的だ。

NHKほかの大手メディアは、文春の頑張りを例によって高みから眺めつつ、まるで恐怖政治を目指しているかのような高市強権機構を、厳しく追求しようとはしない。

唯一共同通信が取り上げた事実を鸚鵡返しに報道するだけで、独自取材の批判記事はまだ皆無常態だ。

悪運の大祝福を受けてのさばる高市早苗首相は、今回もやっぱり生き延びてしまうのだろうか。



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日本極右よりはるかに増しだが微妙に危険なドイツ極右

Meloni高市Weidel626

かつての日独伊=悪の三国同盟とそこに巣くう極右勢力について考え続けている。

今日現在の3国の極右勢力のうちで、最も危険なのは日本の極右である。

先の大戦を自らで徹底総括した国であるドイツ。そのドイツの後進であるイタリア。

片や総括どころか、自国の加害の過去を否定する歴史修正主義者が跋扈する日本の極右は、似て非なるものだ。

ヒトラーを知り、ムッソリーニを意識しているドイツとイタリアの極右は、ヒトラーにならずムッソリーニの轍も踏まない。

たとえ彼らがそこに向かおうとしても、戦争を徹底総括して子供たちにナチスとヒトラーの悪をこれでもかと伝え徹底教育しているドイツの極右は、民衆の抵抗に遭い挫折する。

イタリアは戦争途中で民衆が蜂起してファシズムを倒した。そのためドイツほどの徹底的な戦犯追及はしなかった。

だがイタリアの民衆も道徳的思想的にドイツの厳しい戦争総括姿勢に感化された。加えてイタリアにはファシズムを厳しく断罪するバチカンが控え人々はそれにも大きく影響される。

その上さらにイタリアには、極論や過激論者を穏健に引き戻す効果のある多様性の精神が深く浸透している。そうした要素が極右の暴走を抑制する。

現にネオファシストとさえ批判されたジョルジャ・メローニ首相は、首相就任と同時に穏健保守へと姿を変えて、国内は元よりEUの多大な信頼さえ勝ち取った。

ドイツの極右も政権を握った場合、イタリアのケース同様に多かれ少なかれ現実路線に舵を切る。それは過激な主張や政策をより中道寄りにシフトするということだ。

ドイツの極右の台頭に関しては、しかし、一抹の不安は残る。

ドイツ人の中には、白人種の優越意識があり、さらに白人種の中でも彼らこそもっと優越だ、という秘めた自負がある。

ナチズムを忌み嫌うドイツ人の中にさえ、ヒトラーの優性思想の残滓を体の奥深くに密かに抱え込んでいる者らがいるのだ。

僕はそうしたドイツ人の暗い一面を、旅先やイタリアのリゾート地などで行き逢うドイツ人の中に見る。たとえば次のような状況だ。

北イタリアのガルダ湖畔はドイツ人が愛してやまないリゾート地である。5月から10月にかけて多くのドイツ人バカンス客が訪れる。同地に住まいを得て移り住むドイツ人も少なくない。

たまたま湖畔に家がある関係で僕はよくそこに行く。すると一帯のホテルやレストランやカフェなどにドイツ人客だけがあふれている状況に出会う。

普通彼らは礼儀正しく、静かで、友好的でさえある。観光産業で生きている地元の人々にも大いに歓迎されている。

ところがドイツ人同士が集まると、彼らは少し人が変わったようになる場合がある。例えばドイツ人バカンス客のほぼ貸切り状態になった夜のバールなどで、声高に話し始める。

ビールの大ジョッキを頻繁に空にしながらうるさく議論をする。果ては酔って放歌高吟し騒ぎ出すようなことも起こったりする。

周囲の人々は、ドイツ人が集団になると傲岸で危険な存在になる要素を秘めていることを知っている。歴史がそれを物語っている。

ドイツ人自身もそのことを知っている。だから彼らは自ら抑制し羽目を外し過ぎないようにしようとしている。周りの目も気にしている。それでも時としてある種のドイツ人はその性癖の露見を止めることができないようだ。

全てのドイツ人バカンス客が野放図であるわけでは無論ない。むしろ威儀を保ち続ける者のほうが多数派だ。その多数派が今のドイツ人の実相である。群れて騒ぐ人々はドイツ人のうちの少数派だ。

その少数派の行動が、大多数の「良いイメージのドイツ人」を悪く見せてしまい、「群れると崩れかねない危うさを内包しているドイツ人」という過去の亡霊を人々に思い起こさせる。

危険を自覚し、決してそこに向かわないように自制しているドイツ人は、欧米の人々の尊敬も集めている。それは疑いようがない。だがドイツ人を見る人々の中の一抹の不信感は断じて消えていないのだ。

最近はそこにさらなる負の要素が加わった。ドイツで極右政党の「ドイツのための選択肢」が台頭し、勢力を伸ばしている現実だ。

ナチスと、「ドイツのための選択肢」と、リゾート地のバールで騒ぐ「一部のドイツ人」が、人々の心の中でぴたりと重なり合って、それらを真っ向から否定する「大方のドイツ人」にまで偏見が及びかねない状況が出来上がる。

それはイタリアだけに見られる特殊な状況ではない。ドイツを除くヨーロッパ中のリゾート地や行楽地や観光地で、飽きもせずに毎年繰り返されている光景である。

欧州の人々はドイツ極右の台頭を目の当たりにして、彼らが胸に秘め続けているドイツへの不信感を少しづつ表に出しつつある。

ドイツ人自身は欧州人のその微妙な感情に極めて敏感だ。だが、同国に住む外国人、特に日本人などはそのことに無関心であるように見えるのが不思議だ。

ナチスの過去に負い目を感じているドイツ国民が、移民や外国人を進んで受け入れ、徹底して平等に扱い持て成しているおかげで、そこに住む人々が安心して彼らに同化するせいだろう。

もしも極右が政権を取れば、彼らはヒトラーにはならないまでも、移民や外国人を差別する政策を易々と進めるに違いない。

それは欧州の各国で既に起こりつつある動きだが、ドイツの場合は一味違う何かが発生しそうな気配がなくもない。



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Afdはナチスにならないしヒトラーも作り出さない

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直近の記事を捉えて「日独伊の極右のうちでは日本極右が最も危険とあなたは言うが、極右が政権を握ってもここまでは無事なイタリアはさておき、ドイツのAfdはどうだ。Afdは危険ではないのか」

という主旨のメッセージをドイツ在住の日本人からいただいた。

そこで僕は持論で回答した。

ヒトラーはヒトラーを知らなかった。だがドイツAfdはヒトラーを知悉している。

ムッソリーニはムッソリーニを知らなかった。だがイタリアの極右「イタリアの同胞」も「同盟」もムッソリーニを知りつくしている。

だからAfdはヒトラーにはならないしヒトラーを誕生させない。同様にイタリア極右もムッソリーニにはならないしムッソリーニも生み出さない。

片や安倍・高市路線に代表される日本極右は、昭和天皇・軍部・岸信介ほかの戦犯がうず高く積み上げた悪逆非道な罪過を知らない

あるいは、さらに悪いことには、それを全て知りながら確信犯的策略で知らない振りを装いこれを否定して、あまつさえ賞賛している可能性がある。

そこが日本極右の異様な実体であり、ファシズムを忌諱する世界の良心に真っ向から歯向かう、危険極まりない在り方だ。過去を見つめようとしない彼らはまた同じ轍を踏もうとしている。

それどころか、彼らと彼らの支持勢力である日本会議、靖国カルト、神社本庁、統一教会、そして何よりも日本の加害も天皇制ファシズムの無残もあずかり知らない羊の如き無為な国民。

それらの全てが手を取り合い自死を目指して総出で崖に向けて突っ走りつつある。

日本は戦争の徹底総括をせず、従って昭和天皇以下の戦犯を仕置きすることもなく、ゆえに啓蒙進歩的な国民的合意もない。

結果、将来を担う子供たちに日本の過ちを伝える正直な教育が実行されないまま、安倍に始まり高市で完成されつつある天皇制ファシズムへの回帰がいとも簡単に実現されようとしている。

ここイタリアで政権を握っている極右「イタリアの同胞」党首のメローニ首相は、ムッソリーニになるどころかファシズムを公に繰り返し批判し否定している。、

彼女は敵視してきたEU(欧州連合)とも協調的なスタンスを取っている。あまつさえ彼女は、今やEUを牽引する強力な保守派リーダーとして欠かせない存在になった。

イタリアの同胞とメローニ首相がファシズムに走らないのは、政治感覚の鋭いメローニ首相が現実路線に舵を切って、且つ支持母体の極右勢力を制御しているからである。

それが可能になるのは、首相の力量もさることながら、イタリア共和国の神髄にある多様性だ。イタリア社会の底に連綿と流れ広がる多様性のパラダイムが極右や極左の暴走を阻止するのだ。

イタリアは各地方が都市国家のメンタリティーに満ちあふれた国だ。かつての独立国家群、つまり都市国家とそれに準る自由自治体が蝟集してイタリア共和国を形成している。

ヴェネツィア、ジェノバ、ピサ、アマルフィなどの海洋共和国、フィレンツェやミラノに代表される自由都市・共和政自治体、公国や専制君主国家、王国や教皇の主権下にあった都市国群、いわゆる教皇領などの独立国が統一国家の中身だ

言い換えれば旧独立小国家群の国土と精神を内包して一つの国を作っているのがイタリア共和国なのだ。だから中央政府は常に強い中央集権体制に固執する。

もしもそうしなければ、イタリア共和国が明日にでもバラバラに崩壊しかねない危険性を秘めているからである。

各独立都市国家の末裔たちは、それぞれの存在を尊重し盛り立てつつ、常にライバルとして覇を競う存在でもある。

そこに強い多様性が生まれる。

そして多様性は政治の過激化を抑制する。多様性が息づくイタリアのような社会では政治勢力が四分五裂して存在するそこでは、極論者や過激派が生まれやすい。

ところがそれらの極論者や過激派は、多くの対抗勢力を取り込もうとして、より過激に走るのではなく、逆により穏健で現実的になる傾向が強い。

2018年に船出した極右同盟と極左五つ星運動による連立政権は、政治的過激派が政権を握っても、彼らの日頃の主張がただちに国の行く末を決定付けることはない、ということを示した。

多様性の大きな効能である。

そして2022年に成立した極右イタリアの同胞が主導する右派3党の連立政権は、既述したようにメローニ首相の強いリーダーシップによって、極右的な過激道を走らずに穏健な現実的政策を進めている。

ドイツAfdも政権を取れば必ずイタリアの同胞に似た道を歩む。むろんAfdは強い右派色の政策を推し進め、結果不寛容で息苦しい社会が立ち現れるだろう。

だが、Afdはナチス(NSDAP)にはならないしヒトラーも生みださない。なぜそうなるかにはいくつかの理由がある。

1.ここまで述べたようにヒトラーの巨大な悪を知っている彼らはヒトラーになることを避けようとする。

2.Afd単独で政権を確立するのは現代ドイツではほぼ不可能だから、彼らはイタリアの現政権と同様に複数の政党と連立を組む。連立だから彼らは単独で政権を運営する場合とは違い妥協しながら進むことになる。つまりそこで極右的なひいてはナチス的な先鋭な要素が削がれる。

3.彼らの対極にあるリベラル勢力が、ドイツのみならず欧州全体からどっと圧力を掛ける。そこでもナチ的政策は強く抑制される。

要するに長い血みどろの戦いを経て育まれた「欧州の良心」がナチズムを阻む。彼らは必ず中道よりにシフトする。イタリアの極右政権がそうであるように。

しかし間違ってはならない。

それらの政治勢力を放っておくとやがて拡大成長して社会に強い影響を及ぼす。あまつさえ人々を次々に取り込んでさらに膨張する。

膨張するのは、新規の同調者が増えると同時に、それまで潜行していた彼らの同類の者がカミングアウトしていくからである。

トランプ大統領が誕生したことによって、それまで秘匿されていたアメリカの反動右翼勢力が一気に姿を現したのが典型的な例だ。

彼らの思想行動が政治的奔流となった暁には、日独伊のかつての極右パワーがそうであったように急速に社会を押しつぶしていく。

そして奔流は世界の主流となってついには戦争へと突入する。そこに至るまでには、弾圧や暴力や破壊や混乱が跋扈するのはうまでもない。

したがって極右モメンタムは抑さえ込まれなければならない。激流となって制御不能になる前に、その芽が摘み取られるべきである。




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レオ14世の不退転

凶暴トランプvs微笑教皇650

僕はキリスト教徒ではないが、キリスト教徒のように感動し勇気を得、深い喜びを覚えている。

ローマ教皇レオ14世が2026年4月13日、彼を批判するトランプ米大統領に対して「私は彼を怖れていない」と名指しで反批判を展開したからだ。

たとえ敵であっても、ローマ教皇相手を名指しで糾弾することはほとんどない。

教皇は宗教指導者であり平和の推進者として対話を重んじ、和解と調和を追求する立場にある。

個人や国を名指しで直接的に批判しないのは、対立を深めず、和解の余地を残すための外交戦略である。あくまでも平和的な解決を模索する姿勢を崩さないのだ。

だから公の場での直接的な批判を控える。特定の名前を挙げるよりも、戦争そのものや不当な暴力自体を批判する形をとるのが定式である。

レオ14世がトランプ大統領を名指しで糾弾したのは、グレゴリウス7世が1076年、ハインリヒ4世を名指しで批判し破門。皇帝としての支配権を停止したいわゆる「カノッサの屈辱」にも匹敵するような出来事だ。

あるいは教皇ピウス11世が第二次世界大戦前夜の1930年代、ムッソリーニとファシズムを明確に批判し、ナチスの人種差別的政策についてヒトラーを名指しで糾弾した例にも続く重大な動きなのである。

世界14億の信者を率いるバチカンは、日本人が中々想像できない大きな影響力を持っている。

そのバチカンの権威は近年、大ヨハネパウロ2世の時代にぐんと伸びた。

だが教義の番犬とも批判されたベネディクト16世の治世下で停滞した。いや、あまつさえ後退した。

ところが2013年、バチカンはフランシスコ教皇の誕生によって再び希望の光を見出し、前進を始めた。

フランシスコ教皇は清貧と弱者への奉仕を最大の義務と定めて、信徒の熱い信望を一身に集めた。

教皇レオ14世はフランシスコ教皇を師と仰ぎ、世界14億のカトリック教徒とその共鳴者や友人、またその逆の人々までもが注視する唯一至高の聖職首座に就いた。

彼は「何者か」になった。

選ばれた「何者か」は、彼が誰であるのかではなく、「彼が何を為すのか」によって歴史の審判を受ける。

穏やかで控えめなスタイルで知られるアメリカ生まれの教皇レオ14世は、就任後は派手な言動を控えて、周囲と世界にじっと耳を傾けながらゆるりとバチカンの改革を進めるように見えた。

それはともすると、顔の見えない教皇、という印象を僕にもたらした。彼がどこに行こうとするのか、何を為そうとするのか、僕は息をひそめるような気分でじっくりと観察し続けた。

彼は事あるごとに平和を唱え戦争に反対する言葉を発してきた。

だが彼の師で前任のフランシスコ教皇に比べると、圧倒的にプロフィールが低く、目立たず、顔がおぼろげにしか見えない印象の時間が過ぎた。

ところが4月13日、事態が一変した。

イランへの攻撃が激化する中、教皇が戦争を糾弾し平和を呼びかける姿勢を続けることに逆切れしたトランプ大統領が、教皇は犯罪と核兵器に対して弱腰だ。レオは教皇として失格だ。イランを攻撃する私にむしろ感謝するべきだ、などとSNSを介してわめきたてた。

トランプ大統領のいつもの身勝手な主張に、温和な外見の内に秘めた教皇の強靭な精神が刺激された。彼は恐れを知らない率直さで同胞のトランプ大統領を名指しで真っ直ぐに批判し、飽くまでも軍事攻撃に反対し続けると宣言した。

彼はその行為によって、トランプ大統領という強烈で傍若無人な力に対抗する国際的な存在であることを世界に示した。

これまで辛うじてトランプ帝王大統領に対抗できたのは、プーチンロシアでも習近平中国でもなかった。それはアメリカの友人で同盟国の集合体であるEUだけだった。

だがそこにふいに、バチカンを率いて世界14億の熱心な信者を導く教皇レオ14世が加わった。いや、元々そこにいた存在がくっきりと可視化された。

僕はレオ14世誕生に際して、「アメリカ出身の教皇レオ14世が、自国の強権力者のトランプ大統領に歯向かうのか擦り寄るのか。それはレオ14世の正体が見える試金石になるだろう。」と書いた。

彼は歯向かうと決め、全世界が見守る中で、トランプ大統領に対して宣戦布告した。

これ以上に心強く喜ばしいことはない。



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辺境のリーダー、高市早苗首相の悲哀

日仏首脳会談ヒキ650

高市首相は欧米の首脳会談の相手にドナルド(Trump)、キア(Starmer)、ジョルジャ(Meloni)、エマニュエル(Macron)とファーストネームでしつこく語りかけた。

ところが高市首相は、会談した韓国の李在明(イ・ジェミョン)大統領をファーストメーネームではなく、一貫して「李大統領」と敬称で呼び続けた。

また2026329日から31日まで日本を公式訪問したインドネシアのプラボウォ・スビアント大統領に対しても初めから終わりまでプラボウォ大統領と尊称した

一見何ほどのこともないように見えるが、そこには高市首相の劣等感とそこからくる強い承認欲求、またそれとは真逆の優越意識がもたらすダブルスタンダードの虚偽が複雑にからみあっていて哀れを誘う。

彼女は欧米の首脳にはファーストネームで語りかけ、アジアの首脳には公の場でのプロトコールに則って李大統領、プラボウォ大統領またはプラボウォ・インドネシア大統領などと敬称し続けた。

敬称で呼びかけるのが当たり前の外交儀礼だが、彼女の胸の奥の奥にはアジアの首脳への、侮蔑とまでは言わないが、かすかな優越感が木の間隠れに見えるように思った

同時に彼女の中には、古くて新しい日本人の根本問題、つまり欧米(人)への抜きがたい劣等意識が潜んでいる

首脳同士の会談の場では、相手の肩書きやサーネーム(姓)+肩書きで語りかけるのが礼儀である。

そののち、何度か会い信頼関係が増す過程で、互いにファーストネームで呼びかけるようになる。それはルールではなく欧米の一般的な人間関係の発露に過ぎない。

国際関係に於いては首脳同士の友情がもっとも大事、という認識もある。従って最終的には2人がファーストネームで呼び合う関係が望ましいとされる。

高市首相は友誼、そして究極には信頼関係を構築する目的で、相方をしきりにファーストネームで呼んでいる。

だが、まだ親しみもない一国の首脳を「無理やり」にファーストネームで呼び続けるのは、不料簡を通り越した噴飯劇である。

そのことを端的に示すのが、高市首相に突然ファーストネームで呼ばれた各国首脳の驚きの表情だ。無神経且つ唯我独尊覇王のトランプ大統領は別にして、欧州首脳らは明らかに戸惑い、微苦笑を浮かべて彼女に対した。

マナーを心得ている彼らは、面と向かって相手のマナー違反を指摘するのは最大のマナー違反だと認識している。

だから驚き、だが無言で微苦笑を浮かべるしかないのである。

高市首相がそこで痛切に希(こいねが)っているのは、憧れの欧米の首脳と対等になりたいという激しい承認欲求、あるいは尊厳欲求である。

その心理また行動様式は、中曽根康弘首相が80年代にレーガン大統領とロン・ヤスの関係を構築し、首脳同士が名前で呼び合う慣わしが定着して以降の、日本側のいつもの一方的な、ストーカー然とした盲愛だ

同じ悲恋の直近の目立つ例は、故安倍首相がトランプ大統領とこれまたフェイクな友達関係を作り上げた物語である。

歴代のアメリカ大統領は腹の中で嗤いつつ日本首相の切なる願いを微苦笑のオブラートに包んで許し、受け入れてきた。

現大統領を除く彼らもまた、目の前の相手のマナー違反をあげつらうのは大きなマナー違反、と知っていたのである。

そうではあるが、しかし、高市首相の周りには、歴代の日本首相とは大きく違う空気感が立ちこめているのも事実だ。公平を期する意味でもそのことは指摘しておきたい。

会談相手の首脳たちは、ほぼ決まって出だしの微妙な違和感あふれる表情から徐々に解き放たれ、愁眉を開いていく様子がうかがえる。

高市首相の不自然な呼びかけに覚えたかすかな気持ちの揺れが過ぎると、彼らの表情には紛れもない親しみの色が浮かび出るのである。

それは高市首相の人となりが生み出すポジティブな情調だ。

あるいは後代の歴史家は、各国首脳を徹底してファーストネームで呼ぶのが高市首相独自の改革だった、評価するのかもしれない。

もしも彼女が、欧米の相方だけではなく、アジアの相対者にも、親しくファーストネームで語りかけるバイアスのない情動を持っていれば、その可能性はさらに高まるだろう。

だが、それはやはり無理ではないかと僕は考える。

なぜなら彼女は相変わらず極め付きの歴史修正主義者であり、天皇制ファシズム容認派であり、靖国崇拝、神社本庁また日本会議拝跪主義者である。

同時に彼女は、安倍極右神殿参りを繰り返す国家神道思い込んだら100年目保菌者でもあり続けている。

あるいは改革者かもしれないと思わせる外見はフェイクで、内心の黒い政治信条や思惑や哲学が彼女の本性なのだ。

そのことに思い至ると、高市首相の外交姿勢が途端に不気味に見えてしまうのは、返す返すも残念である。




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多様性の深いふところ~政治3流、経済4流のイタリアが、政治5流、経済2流の日本のロールモデルになり得る理由(わけ)

両手ピースの馬鹿市

日伊のファシスト気質政権

高市政権がトランプ米政権と親しいのは、両者が正真正銘の極右権力機構だからである。

彼らの前には安倍極右体制があった。

ここイタリアでは高市政権以前の2022年9月、極右政党が主導する政権が誕生した。主導するのはファシスト党の流れを汲む「イタリアの同胞」。

党首のジョルジャ・メローニ氏がイタリア初の女性首相になった。

ファシスト紛いの集団が政権党と聞けば、以前なら思わずぎょっとなるところだが、ファナティストで専制君主のトランプ氏が、2017年にアメリカ大統領に就任して以降はどうということもなくなった。

2025年10月 、世界の政治潮流の残響をたどりながら誕生した高市早苗首相率いる極右政権は、名実ともに安倍政権に続くファシスト気質の極右権力機構だ。 

今や世界にはファシスト気質の政治家や政権が溢れている。

英リフォームUK 党のファラージ氏とブレグジッド派勢力、フランスのルペン国民連合党首、チリのカスト大統領ほかの南米またアジア・アフリカの指導者、などなど。

それらの政治家や政治勢力は、強権的という意味でプーチン大統領や習近平国家主席、また金正恩総書記などにも似ている。彼らのうちの多くは実際にお互いに友誼を結んでいる関係でもある。

慣れの功罪

首相就任から4年目に入るイタリアの同胞のジョルジャ・メローニ党首は、いま述べた世界のファシスト気質の政治家の中でも最もファシストに近い指導者とされてきた。

だが彼女は、政権奪取と同時に現実路線に舵を切り、欧州でも強い影響力を持つ保守政治家へと変貌を遂げた。

今では極右と呼ばれる勢力が政権を握ることは、かつてそうであったほどの脅威にはならない。イタリアを含む世界は既述のファシスト的性向の指導者や政権に慣れて来ている。

慣れは油断につながり、権力の暴走を許す可能性がある。同時に、対抗政治勢力と国民が、それら危険な権力への対処法を学ぶ原動力にもなる。

極左と極右は同じ穴のムジナ

イタリアではメローニ以前の2018年、極左と極右と定義されることも多い「五つ星運動」と「同盟」が政権を樹立する事態になった。それは欧州を震撼させたが、イタリア共和国は2党がかねてから主張する脱EUには向かわなかった。

ポピュリスト政権は、EUの意向に反してバラマキ政策を敢行した。と同時にEUとの共存の道も模索し続けた。やがて同盟が離反すると、 五つ星運動はEUと親和的な民主党と連立を組み直して、政権はより穏健になった。

そしてついに2022年、正真正銘の極右政党、イタリアの同胞が議会第1党になったのである。

それが他の主要民主主義国で起これば一大事だが―そしてむろんイタリアでも強く懸念されてはいたが―この国の核を成している多様性が担保して、極右はやや中道寄りの現実主義的保守へと骨抜きにされるだろうと僕は予測した。

そして政権は僕の予測した方向に進んでいる。

イタリアでは政治制度として、対抗権力のバランスが最優先され憲法で保障されている。そのため権力が一箇所に集中しない、あるいはしにくい。

その制度は、かつてファシスト党とムッソリーニに権力が集中した苦い体験から導き出されたものである。

それは同時に政治混乱を次々にもたらすが、たとえ極左や極右が政権を担っても、彼らの思惑通りには事が運ばれない、という効果も生む。

過激勢力が一党で過半数を握れば危険だが、イタリアではそれはほとんど起こりえない。再び政治制度が単独政党の突出を抑える力を持つからだ。

多様性が極論を抑える

イタリアが過激論者に乗っ取られにくいのは、いま触れた政治制度そのものの効用のほかに、イタリア社会がかつての都市国家メンタリティーを強く残しながら存在しているのが理由だ。

都市国家メンタリティーとは、換言すれば多様性の尊重ということである。

イタリア共和国は精神的にもまた実態も、かつての自由都市国家の集合体である。

そして各都市国家の末裔たちは、それぞれが互いの存在を尊重し盛り立てつつ、常にライバルとして覇を競う存在でもある。そこに強い多様性が生まれる。

多様性にはカオスに似た殷賑が付き物だ。

都市国家メンタリティーが担保する多様性重視の社会では、誰もが自説を曲げずに独自の道を行こうと頑張る。その結果、カラフルで雑多な行動様式と、あっとおどろくような 独創的なアイデアがそこらじゅうにあふれる。

多様性を重視するイタリア社会は、平時においては極めて美しく頼もしくさえある。だがそれには、前述のカオスにも似た殷賑が付いて回る。

多様性を否定したい人々はそこを殊更に重視する。そして多様性に伴う殷賑あるいはカオスを、アナーキズムと曲解して多様性を指弾したりもする。

言うまでもなく彼らは間違っている。彼らは千差万別、多彩、人それぞれ、 百人百様、十人十色、 多種多様、、蓼食う虫も好き好き 、など、など、人の寛容と友誼と共存意識の源となる美しいコンセプトを理解しない。

多様性というのはあくまでも絶対善である。絶対とはこの場合「完璧」という意味ではなく、欠点もありながら、しかし、あくまでも善であるという意味だ。例えば民主主義と同じなのである。

多様性と民主主義

民主主義はさまざまな問題を内包しながらも、われわれが「今のところ」それに勝る政治体系や構造や仕組みや哲学を知らない、という意味で最善の政治体制だ。

また民主主義は、より良い民主主義の在り方を求めて人々が試行錯誤を続けることを受容する、という意味でもやはり最善の政治システムである。

言葉を変えれば、理想の在り方を目指して「永遠に自己改革をしていく政体」こそが民主主義、とも言える。

多様性も同じだ。飽きることなく「違うことの良さ」を追求し歓迎し認容することが、即ち多様性だ。多様性を尊重すればカオスにも似た殷賑が生まれる。だがその殷賑は多様性を否定しなければならないほどの混乱悪ではない。

なぜならそれは、多様性が内包するところの疑似カオス、つまり先に触れた個性が思い思いに息づく殷賑に過ぎないからである。再び言葉を変えて言えば、カオス風の賑わいがない多様性はありえない。

多様性の対義概念は幾つかある。全体主義、絶対論、専制主義、統制経済、侵略主義、軍国主義、民族主義、選民主義、チキンゲーム、干渉主義、デスポティズムetc。日本社会に特有の画一主義または大勢順応主義などもその典型だ。

僕はネトウヨ・ヘイト系排外差別主義と極端な保守主義、またそれを無意識のうちに遂行している人々も、多様性の対極にあると考えている。

なぜならそれらの人々には、彼らのみが正義で他は全て悪と見做す視野狭窄の性癖がある。つまり彼らは極論者であり過激派だ。むろんその意味では左派の極論者も同じ穴のムジナである。

多様性は敵も抱擁する

だが多様性を信奉する立場の者は、彼らを排除したりはしない。 ネトウヨ・ヘイト系排外差別主義や極右は危険だが、同時にそれは多様性の一環でもある、と考えるのである。

多様性の精神は、「それらの人々のおかげで、寛容や友愛や共存や思いやりや友誼、つまり“多様性”がいかに大切なものであるかが、さらに明確になる」と捉えて、彼らはむしろ“必要悪”であるとさえ結論付ける。

例えば政治危機のような非常時には、平時の心構えが大きく作用する。つまり、多様性のある社会では、政治が一方に偏り過ぎるときは、多様性自体が画一主義に陥り全体主義に走ろうとする力を抑える働きをする。

一方でネトネトウヨ・ヘイト系排外差別主義がはびこる世界では、その力が働かない。それどころか彼らの平時の在り方が一気に加速して、ヘイトと不寛容と差別が横行する社会が出現してしまう。

ここイタリアには、冒頭で触れたように、戦後の紆余曲折を経て極右政党が主導権を握る政権が誕生した。

その政権には保守主義を逸脱して、ファシズムへ傾こうとするモメンタムが働くことが十分に予想された。

だが再び既述のように、イタリア社会に息づく多様性の精神が危険なその動きにブレーキを掛けて、ファシズムは遠ざかり穏健な右派勢力となった。

一方、日本の政治状況は安倍一強から高市極右政権へと変わったが、実は権力機構のファシズム気質の本性は全く変わっていない。

その意味では、国全体が多様性どころか画一的且つ閉鎖的なメンタリティーに支配されがちな日本に於ける、高市一強政権の危険度はあまりにも高いと言わざるを得ない。




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限りなくママゴトに近い高市外交

米国会議事堂?ではしゃぐ高市661

イタリア戻りの直前、渋谷か羽田で強烈なウイルスの洗礼を受けた。高熱、激しい咳寝返りも打てないほどの重度の腰痛から一週間振りに生還した。

ベッドで朦朧としながらも、必死で這い出して19日のトランプvs高市の会談の模様をネットで見た。

世界が見ている中で、戦争犯罪者そのもののトランプ大統領に、「あなただけが世界平和を実現できる」と臆面もなく持ち上げた高市首相の感覚にのけぞった。

それは2016年、安倍元首相がトランプタワーに馳せ参じて、大統領就任前のトランプ氏を信頼できる指導者、と誉めそやした「事件」を彷彿とさせる。

なんらの批判精神もなく、ひたすらトランプ大統領に擦り寄るだけの属国外交は、安倍政権で完全無欠になった。

それをひたすら踏襲しているのが高市首相だ。

同時に彼女は、意識するしないとに関わりなく、女性であることを武器にして思い切り媚を売る体勢で強者に接し続けている。それがさらに見苦しい。

そうは言うものの、しかし、そのことをさておけば、トランプ大統領との邂逅は予想を裏切る幸運に満ちたものだった。

言うことがくるくると変わるご都合主義そのもののトランプ大統領が、恐らく欧州各国の強い反発もあって、ホルムズ海峡に艦船の派遣を要請しない、と豹変した事実に助けられて難を避けたのは、タナボタの幸運だった。

その言わば偶然の僥倖を外交的成果と主張するのは、「世界の真ん中で咲き誇る日本また高市外交」とおだを上げる態度とまったく同じ空虚な主張だ。

見方によっては、明るい率直な態度とも評価される高市首相の動きやパフォーマンスが、僕には常にママゴトに見えて仕方がない。

このことは高市首相が米艦船上で就任直後にトランプ大統領と腕を組んではぴょんぴょん跳ねたり、イタリアのメローに首相を招いて お遊びふうの歓迎式典を開いたり した時にも書いた。

日本初の女性首相を、必要以上に女性という属性を強調してフィルターにかけ、語ることは、秘めた女性差別の顕現とも見られかねないことを承知で敢えて言う。

僕には彼女のアクションのことごとくが幼く、やはりどうしてもおふざけそのものに見えてしまうのだ。

ところがそのママごとの主体は確信犯的な歴史修正主義であり、天皇制ファシズム容認であり、戦前戦中への回帰願望などという恐るべき超保守主義体質であることが不気味だ。

そんな高市早苗氏は、首相に成り上がったことがいつまで経っても嬉しくて嬉しくて仕方がない。

だからぴょんぴょん跳ね、にこにこ笑いを絶やさず、嬌声を上げ、相方を敢えて名前で「ドナルド」「ジョルジャ」などとと呼び、媚態と期待とお仕着せの上目誘いで見続ける。

見続けるのみならず、一国のトップにあるまじき動きで相手の腕を取り、ぴたりと寄り添い体を押し付ける。公の場でないならば、今にも衣装を脱ぎ捨てて相手を誘いかねないような恥ずかしい動きだ。

女は愛嬌、という言葉には女性の明るさがもたらす平穏と平和と希望と慈愛の温かみがこもっている。僕は女は愛嬌という言葉を耳にするとき、個人的には僕の母を思う。

母が備えていた優しさの中のたくまざるユーモアを思う。母は飽くまでも優しく、深い慈愛に満ちた笑顔で、かつ光のように常に明るかった。

高市首相の存在自体にはそれに似たオーラがないわけではない。だが彼女は、やはり日本国のトップである。

悪のカタマリのネタニヤフと組んで自らの魔性を最大限に発揮しては自在に戦争を始めるトランプ大統領に対し

「ドナルド、あなただけが世界中に平和と繁栄をもたらすことができる」

などと臆面もなく言えるのは、狂気と形容しても構わないほどの異様な動きだ。

世界中がそれを見ていたことを思えば、日本の恥辱ここに極まる、というほどの失態ではないか。

それは外交や政治をママゴト的感覚でしか捉えられない幼稚な精神のなせる業である。

女は愛嬌だが、一国の首相たる者は愛嬌以上に重大なミッションを背中に負っている。

高市首相はそのことをまるきり理解していないように見える。




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トランプとネタニヤフも邪悪だがハメネイも褒められたものじゃない

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悪の双璧トランプ&ネタニヤフが、ハメネイというガチガチの独裁的教条主義者を圧殺。

イランは彼よりもさらなる強硬派とされる息子のモジタバ・ハメネイ師を後継者に選んだ云々、の情報をメディアやネットで追いかけつつ、沖縄、関西、東京回遊の旅の終わりにいる。

日本のメディアやSNSなどでの印象は、アメリカの犬である高市政権の基本姿勢「トランプ擁護&イラン批判」とは違い、イラン擁護派が多数を占めているように見える。

ハメネイ師が家族もろとも殺害されたことへの同情心が強いのだろうか。

トランプ&ネタニヤフがハメネイ・イランを攻撃したのはむろん悪であり国際法違反である。だが、反政府運動を激しく弾圧し続けたハメネイ師もその政権も負けず劣らずに邪悪

ハメネイ師はイラン正規軍よりも強いとされるイスラム革命防衛隊の武力を背景に、約37年もの長きにわたって強大な独裁権力を振るった。

彼の統治期間中は言論の自由が厳しく規制され、ジャーナリストや人権活動家などの拘束が常態化した。

大統領選への抗議デモや「女性、命、自由」運動などへの弾圧も続き、昨年末からことし初めの反政府デモでは、3000~5000人の国民が殺害されたとされる。正確な数字は未だに分からない。

ハメネイ師はレバノンのヒズボラやガザのハマスまたイエメンのフーシ派など、反イスラエル・反米を掲げる中東各地の武装組織ネットワーク、 いわゆる「抵抗の枢軸(Axis of Resistance)」を支援しづけた。

支持者には、1979年のイラン革命の精神を継承してイスラムの価値を守り、西側の搾取やイスラエル+米国の横暴に対抗する英雄として称えられる一面もあった。

が反政府活動家を拘束し自国民を殺害する指導者など、所詮魔物だ。

後継者の息子モジタバ・ハメネイ師はまだ表舞台には現れず、従って憶測の域は出ないものの、父親のハメネイ師よりもさらに強硬なイスラム原理主義者ではないか、と見られている。

抑圧的なイラン体制が一気に変わるとは到底考えられない。

トランプ・ネタニヤフの悪党コンビの行為を国際法違反と糾弾する人々がいる。それは正論中の正論だが、虚しい指摘でもある。

日本では、攻撃を受けたイランへの同情心が、国際法を犯したトランプ・ネタニヤフ批判を凌駕しているようにも見える。

日本独特の❝判官びいき❞心情だろうが、曖昧模糊とした感情が理性を蹴散らしてしまう、まさしく日本的風景である。

それは極右歴史修正主義者の高市首相を無批判に持ち上げる情動にも通底する心理で、危険極まりない。

米・イスラエル軍によるイラン攻撃は、悪が悪に襲いかかったものでどっちもどっちだ。

だが、イランの国の在り方はイラン国民が決めるべきものであって、トランプ・ネタニヤフが首を突っ込むべきではない、という意味では進撃はむろん指弾されるべきだ。

しかし、繰り返しになるが、ハメネイ師という独裁者もまた、ならず者の抑圧者という観点で糾弾されるべき存在だった。

攻撃は国際法違反であるから即刻止めろという主張も日本には多い。それは正論だが、残念ながらほとんど意味をなさない叫びだ。

国際法はいわばザル法である。法的信念は有するものの慣習に基づく国際合意であり、道徳にも近い一規範である。だから今回のイラン攻撃のように強者によってた易く踏みにじられる。

踏みにじられても、国内法のような強制的な罰則機関がないため、国家間の法的拘束力を持つとされながらも非力なのだ。

世界の多くのまともな国は、「国際法違反」というレッテルを張られることを恐れて行動を慎む。従ってそれが実質的な拘束力を持つ、という意味では重要なものだ。

しかしながら前述のように、トランプ的横暴、あるいは弱肉強食の前では頼りない法則なのである。

だからこそ国際法が重要になるのだが、トランプやネタニヤフのようなならず者がこれを犯せば、世界は手をこまねいてみているしかない、という憂鬱な現実がある。

世界にはその2人のならず者のほかにも、プーチン、習近平、金正恩などの大物、またオルバンほかの小物のならず者も、アフリカ中東などを中心にひしめいている。

それらのならず者は国際法など意に介さない。

だからこそ彼ら蛮人に国際法を順守させるためにも、世界中の自由主義者は戦いを強め、声を挙げ続けなければならないのである。




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独裁者サナエ・タカイチが日本を再生させる


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高市早苗首相の荒唐無稽&抱腹絶倒のスローガン「世界の真ん中で咲き誇る日本、また日本外交」が実現する可能性が高まっている

それを示唆するのは高市首相支持率が最大90%にも上るという統計さえある若年層国民の存在である。

インターネット世代の若者らには、彼らより年齢がはるかに上の高市首相と共通の、反知性的な思考パターンがある。

昔日の日本の、あるいは昭和世代の親たちの、仕事第一主義、伝統的な家族形態への強い執着、努力の神聖視などの古い価値観が、SNSを通して共有され極大拡散されて、それらが日本初の女性首相となった高市氏の成功物語とも重なり、いよいよ若者受けするようになった。

若い世代が高市首相を慕う心理は、ごく自然に反中国感情とも共鳴し重層的に広がって、彼らはさらに興奮し激昂高揚 して我を忘れる。

若者は高市首相の台湾有事発言に対する中国の反発に、その意味を理解することなく、また理解もできないながら“衝動“反発して、高市首相の強硬姿勢を称えますます意気衝天する。

台湾有事発言を撤回しない高市首相の思い上がった態度を支えているのは、中国に対する優越意識であり嫌中国感情である。それは実は、経済大国になり従って軍事大国ともなった隣への畏れと不安の裏返しに過ぎない。

日中の複雑な関係を天皇の赤子論に基づく胡乱な選民意識によって卑小化し、同国から朝鮮、さらにはアジア全体を侵略蹂躙した「暴虐日本の蛮人魂」は、極右カルト信奉者らのなかに今もしっかりと生きている。

故安倍元首相の虎の威を借りて、傲岸な態度で国会内を闊歩し睥睨していた過去からも判るとおり、高市首相には庇護者の力をバックにして威張り散らす傾向がある。

彼女が中国に居丈高になっているのは、既述の日本極右の専売特許である「中国からアジア全体蔑視主義」に加えて、アメリカという虎の威光を笠に着ての背伸びでもある。

彼女は日本の過去の加害の歴史を意図的に無視して、あるいは真にそのことに無知であるがために、天皇崇拝、靖国跪拝、日本会議抱擁、統一教会愛護、神社本庁恭順、また安倍晋三カルト神殿随順、 などの狂信的右翼ドグマに取り憑かれ、そのドグマの威光で中国を屈服させられると考えているように見える。

支持者の若者たちとそのアイドルの高市首相&取り巻きまた今述べた極右カルト勢力の全てには、戦争加害者の意識が完全に欠落している。

そしてもっとさらに現実を直視すれば、戦後の日本国民全体を金縛りにしている「我ら日本人はひたすら先の大戦の被害者」意識が、事態を一段と悪化させる。

戦争の総括を責任放棄したために、日本人はある時点から戦争の加害者であることを忘れて、自らを戦争の被害者と決め込み被害者意識の傷をなめることばかりにかまける性癖を獲得した

戦後の日本人は老いも若きも誰もが、広島、長崎の原爆も東京空襲も沖縄戦の悲劇もひたすら被害者の目線で見てこれを嘆き、恨み、怒ってきた。

ではそこでの加害者は一体誰なのか。アメリカか?連合軍か?中国か?

断じてそうではない。

加害者は昭和天皇であり、軍部であり、岸信介を筆頭にする戦犯である。

戦前、戦時中に日本国民は誰もが戦争を称揚し、喜び、悪鬼となって敵を憎み、勝利に酔い、アジア侵略に興奮した。従って日本国民は誰もが加害者だったという考え方もある。

だが国民をそこに導いたのは天皇を中心とする権力機構であり軍部でありそれを翼賛した多くの戦争共犯メディアだ。

それでもやはり日本国民に罪があるとするなら、国民が国民自身の手で戦犯のただの1人も断罪しなかった痛恨の歴史だ。

米占領軍の意向で天皇が助命され、やはりアメリカの心算で戦犯との取引がなされて、日本の暗部の多くがアメリカによる日本支配のためのツールとして利用された。結果、仕置きの機会が遠のいた、というのは言い逃れに過ぎない。

なぜならば同じ穴のムジナ仲間だった日独伊三国同盟の悪鬼ドイツを見てみればいい。それに続いた小悪魔のイタリアも凝視してみればいい。

彼らは、特にドイツは、日本がアメリカ主導の極東裁判だけで大戦の仕置きを終わらせたのとは違い、「ニュルンベルク国際軍事裁判」の後も徹底して戦犯を追及し処罰し総括した。それは2026年現在の、今も続いている驚くべきアクションだ。

またイタリアは、戦犯の格としてはいわば同国の昭和天皇であったムッソリーニを処刑し、彼の盲従者らの戦争遂行意志を根絶するために、敢えて遺体をミラノの中心広場の一つに逆さ吊りにして晒しものにした。

イタリアは大戦の途中でドイツと仲違いし連合国側に無条件降伏した後、ドイツに宣戦布告した。のみならず連合国側に味方したいきさつもあって、戦後はドイツのような厳しい戦犯追及はしなかった。

しかしドイツの徹底総括は、かつて彼らの仲間だったイタリアの良心も激しく揺さぶり続けた。ドイツの厳しい戦後処理は、ムッソリーニを処刑したイタリアの民衆の反ファシズム精神を刺激し伸張させて、やがて強固なものへと変貌させた。

ところが今日も戦犯の追及を続けているドイツにおいてさえ、驚いたことに近年は極右勢力が台頭している。それどころかイタリアでは、極右ともネオファシストとも規定されたりする政党「イタリアの同胞」が政権党になり、党首のジョルジャ・メローニ氏が首相の座に就いている。

だが日独伊の悪の枢軸を形成した3国のうち、戦前の全体主義勢力の陰湿な精神風土が残っているのは日本極右だけである。それはひとえに戦争総括の欠如と、その結果生じた「加害者日本」意識の消滅によっている。

戦後日本の最大の闇の一つが、雲霞のごとく湧き続ける歴史修正主義者の跋扈だ。高市早苗首相はその首魁なのである。

ヒトラーはヒトラーを知らなかったがドイツの極右はヒトラーを知っている。同じくムッソリーニはムッソリーニを知らなかったが、イタリアの同胞を筆頭にする同国の極右はムッソリーニを知悉している。だから彼らはヒトラーにはならず、ムッソリーニの轍も踏まないと僕は予測する。

たとえ彼らがそこに向かおうとしても、大戦を厳しく総括したドイツとそれに倣うイタリアの両国民、またその影響も受けて全体主義に立ち向かおうとする意志が強固な欧州全体の世論がこれを阻止するだろう。

日本の極右は日本軍国主義を知らない。わずかに知っていても歴史修正主義者の宿命で過去への反省がなく同じ轍を踏む可能性が極めて高い。

いま盛んに右カーブを切って燃えている若者たちは、日本がかつて巨大な加害者だったという戦争の実相を学校で習わなかったために、極右の醜顔を脱悪魔の仮面で覆って「強い日本を」と叫ぶ高市首相に魅入られている。

彼らは被害者である。だが過去を知らない危険で凶暴な被害者である点が憂鬱だ。

彼らはもしかするとごく近い将来、高い支持率に押されて独裁権を握る高市首相とファシズム勢力に加担して、中国に戦争を仕掛けるかもしれない。その時アメリカは、トランプ主義の流儀に則って自らの利益にならない仕事はしないと決め、日本を助けようとはせずにこれを静観する。

結果、日本は第2次大戦の轍を踏んで再び廃墟と化する。だが幸いにも民主主義を信奉するリベラル思考の国民が生き残って、戦場に行かず空爆やミサイル攻撃の難も逃れた権力中枢と軍部を徹底糾弾する。

国民は今度こそ戦犯の全員を断罪し、余罪を徹底追及し、殲滅する。そうやっていま現在のドイツとイタリアに近いメンタリティーの市民が繁栄する日本国が誕生する。

もしもそうなれるのなら、再び廃墟となる巨大な不幸を代償にしてでも日本は生まれ変わったほうがいい。

もっとさらに良いのは、しかし、言うまでもなく戦争が回避され且つ高市政権が崩壊して、ファシストの高市早苗首相が永遠に政治の舞台から去ることである。

だがその後は日本はやはり、忘れられつつある第2次大戦を必ず徹底総括して加害者としての自分を見つめなおし、せめてドイツまたイタリアのレベルにまで民度を高めて、真に世界に信頼される国家になるべきだ。

そうなれば「世界の真ん中で咲き誇る日本、また日本外交」などと、痴呆じみた笑劇スローガンを言い募る必要もなくなる。

なぜなら日本が歴史修正主義者のいない国家に生まれ変る暁には、世界のほうが懸命に日本に擦り寄って来て、日本は嫌でも世界の真ん中に押し祭られて行くからである。

その観測が荒唐無稽という者がいるならば、僕はこう訊きたい。

かつての軍国主義の亡霊が、生霊となって体内に出現したのでもあるかのような荒ぶる高市早苗氏が、日本の首相にまで成り上がった荒唐無稽をあなたは一体どう説明するのか、と。




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クリスマスは文明にまで昇華した化け物である

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ここイタリアを含む欧米諸国や世界中のキリスト教国では、人々がクリスマスをにぎやかに且つ厳かに寿ぐ。

同時にキリスト教国以外の世界の多くの国々でも、人々はクリスマスを大いに楽しみ祝う。

むろん日本を典型とする非キリスト教国国々で祝されるのは、宗教としての定式や教義や規律や哲学や典儀を伴う「宗教儀式」ではない。

単なる遊びであり祭りでありショーでありエンターテインメントである。

そうなった背景には西洋文明という巨大な力がある。

クリスマスは文明ではない。それは宗教にまつわる文化だ。

文化とは地域や民族から派生する、祭礼や教養や習慣や言語や美術や知恵等々の精神活動と生活全般のことだ。

それは一つ一つが特殊なものであり、多くの場合は閉鎖的でもあり、時にはその文化圏外の人間には理解不可能な「化け物」ようなものでさえある。

だからこそそれは「化け物の文(知性)」、つまり文化と呼称されるのだろう。

文化がなぜ化け物なのかというと、文化がその文化を共有する人々以外の人間にとっては、異(い)なるものであり、不可解なものであり、時には怖いものでさえあるからだ。

そして人がある一つの文化を怖いと感じるのは、その人が対象になっている文化を知らないか、理解しようとしないか、あるいは理解できないからである。

だから文化は容易に偏見や差別を呼び、その温床にもなる。

ところが文化の価値とはまさに、偏見や恐怖や差別さえ招いてしまう、それぞれの文化の特殊性そのものの中にある。

特殊であることが文化の命なのである。

従ってそれぞれの文化の間には優劣はない。あるのは違いだけだ。

そう考えてみると、地球上に文字通り無数にある文化のうちの、クリスマスという特殊な一文化が世界中に広まり、受け入れられ、楽しまれているのは稀有なことだ。

それはたとえば、キリスト教国のクリスマスに匹敵する日本の宗教文化「盆」が、欧米やアフリカの国々でも祝福され、その時期になると盆踊りがパリやロンドンやニューヨークの広場で開かれて、世界中の人々が浴衣を着て大いに踊り、楽しむ、というくらいのもの凄い出来事である。

でもこれまでのところ、世界はそんなふうにはならず、キリスト教のクリスマスだけが一方的に日本にも、アジアにも、その他の国々にも受け入れられていった。なぜか。

それはクリスマスという文化が、世界を席巻した「西洋文明」という巨大津波に乗って地球上に広がっていったからである。

文明とは字義通り「明るい文(知性)」のことであり、特殊性が命の文化とは対極にある普遍的なコンセプトである。言葉を替えれば、普遍性が文明の命だ。

誰もが希求するもの、便利なもの、喜ばしいもの、楽しい明るいものが文明である。

それは自動車や飛行機や電気やコンピュターなどのテクノロジーのことであり、利便のことであり、誰の役にも立ち、誰もが好きになる物事のことだ。そして世界を席巻している西洋文明とは、まさにそういうものである。

一つ一つが特殊で、一つ一つが価値あるものである文化とは違って、文明には優劣がある。だから優れた文明には誰もが引き付けられ、これを取り入れようとする。

より多くの人々が欲しがるものほど優れた文明である

優れた文明は多くの場合、その文明を生み出した国や地域の文化も伴なって世界に展延していく。そのために便利な文明を手に入れた人々は、その文明に連れてやって来た、文明を生み出した国や地域の文化もまた優れたものとして、容易に受け入れる傾向がある。

たとえば日本人は「ザンギリ頭を叩いてみれば文明開化の音がする」と言われた時代から、必死になって西洋文明を見習い、模倣し、ほぼ自家薬籠中のものにしてき。

その日本人が、仏教文化や神道文化に照らし合わせると異なものであり、不可解なものであるクリスマスを受け入れて、今や当たり前に祝うようになったのは一つの典型である。

西洋文明の恩恵にあずかった、日本以外の非キリスト教世界の人々も同じ道を辿った。彼らは優れた文明と共にやって来た、優劣では測れないクリスマスという「特殊な」文化もまた優れている、と自動的に見なした。あるいはそう錯覚した。

そうやってクリスマスは、無神論者を含む世界中の多くの人が祝い楽しむ行事になっていった。

今日はキリスト教国のみならず、日本でも中国でもインドでもタイでもアラブの国々でもクリスマスが祝される。イスラエルにさえそれを祝う多くの人々がいる。

むろんそれらの国々の民衆が祝うのは、冒頭で述べたように宗教儀式としてのクリスマスではなく、飽くまでも遊びやショーやエンターテイメントとしてのクリスマスである。

換言すれば日本式クリスマスが、ほぼ全ての非キリスト教国におけるクリスマスである。

世界中が喜び希求する楽しい文化というのは言葉の矛盾だ。従ってクリスマスはもはや文化ではなく、文明に昇華したイベント、と表現したほうが適切かもしれない。

「化け物なのだから何にでも化ける」と考えれば、じゃやっぱり文化じゃん、ということになるのだけれど。












円と共にどこまでも日本国が沈みゆく

沈み行く手


さて、今日はクリスマスイブである。

クリスマスでホップ、正月はステップ、2月にジャンプして東京まで飛ぶが、今回は桜開花までの飛距離は出そうにないな、などとつぶやきつつ帰国準備中。

楽しみは冬のない南の島の海と、大阪と東京での居酒屋巡りである。

先日、帰国がらみにユーロで円を買って、円の弱体ぶりにたまげた。

ためしに今日のレートは?と調べてみると、円はさらに安くなって、1ユーロがなんと約184円だ。要するに今日なら“たった”5435ユーロほどが100万円に相当することになる。

僕は5500ユーロで100万円を手にした。ちょうど一週間前の話だ。

つまり、もしも今日ユーロで円を買っていれば、僕は黙っていても約1万2千円を余計に手に入れることができた。

日本の輸出大企業とインバウンドの外国人観光客ばかりが得をし、日本国民の大半が物価高に苦しむ円安のカラクリだ。

高市首相に言いたい。

台湾有事・日本存立危機発言をさっさと撤回して、異様な円安対策に本腰を入れたほうがいい。

そうすれば、日本初の女性首相の経歴には少し箔がついて、サッチャー英首相やメルケル独首相の域にまでは無理でも、ここイタリアのメローニ首相の足元あたりまでの評価は得るかもしれない

そうしておいて退陣すれば、日本の未来にほのかに明かりがともらないとも限らない。





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イタリアのフェミサイド(女性殺害)は「アモーレ(愛情)過多が原因」というたわけ

薄闇の中両手で防御する女性

イタリアは先月、欧州主要国の中で初めて、女性が女性であるという理由だけで殺害される、いわゆるフェミサイドを独立した犯罪と定めた。

有罪になると自動的に終身刑に処される。死刑のないイタリアでは最も重い仕置きである。

世界の殺人事件の被害者は、およそ8割が男性である。そのため一般的ではない女性被害者にことさらに焦点を当てる、フェミサイド論争はおかしいという見解も根強くある。

しかしフェミサイドの根底にあるのは、深い女性差別の心理であり、男による女性支配願望である。それは家父長制社会の特徴でもある。

そんなメンタリティーが支配する状況では、女性はただ「女性である」という理由で殺される。フェミサイドの被害者にとっては、家の中が最も危険、という容認しがたい環境があるのだ。

そんな理不尽は必ず是正されなければならない。

世界的に認められたフェミサイドの定義はない。だがそれは世界中で頻繁に起きる。人口比率で見ると世界の発生率はアフリカが最も高い。次いで南北アメリカオセアニアアジアヨーロッパの順になる。

発生件数で見ると、世界全体では毎年6万6千人前後の女性がフェミサイドで殺害される。最も多いのは中南米の国々。

またインドやアラブ諸国も多く、米国では1日に平均4人の女性がフェミサイドに遭う。

ちなみに欧州で発生率が高いのはバルト3国次いでクロアチア、オーストリアが高い。その逆にスウェーデン、イタリア、ギリシャ、スペインなどが低い。

ただし発生件数を絶対数で見ると、人口の多いドイツ、フランスでの犠牲者数が多く、イタリアも同様である。

英国は特殊なデータ収集法を用いていて、比較がさらに難しいが、2022年の統計ではフェミサイドと見られる殺人の犠牲者は121人。

このうち12人が息子によって殺されている。英国では2009年から2024年の15年間で170人あまりの母親が息子に殺された。

母親殺しは英国が突出して多いようだ。いわゆるラテン文化の伊仏葡西を少し知る僕には、英国の事情には思い当たるフシがある。

ちなみに2024年のフェミサイドの犠牲者数は、イタリアが116人、フランス107人、ドイツ191人、英国ではおよそ80人という数字が出ている。

しかし、英国では平均して3日に1人の女性が男性によって殺害されているという統計もある。全体では約120人となり、他の主要国に近い数字で納得しやすい。

イタリアのフェミニサイド発生率は前述のように際立って高い訳ではない。英独仏スペインなどとほぼ同程度である。

イタリアは女性の権利意識や社会進出、またジェンダー事案全体の開明性という点などでは、英独仏等に遅れを取りがちだ。

イタリアは現在、世界男女格差指数で85位と、EU加盟国の中でほぼ最下位に位置している。およそ150カ国中で毎年120位前後が定位置の日本ほどではないにせよ、ホントに欧州の国かと疑いたくなるほどの寂しい数字である。

さらに言えば、イタリアにおける
女性の就業率は50%強にとどまるなど、課題は少なくない。

そのイタリアがフェミサイドを重要犯罪と位置づけて特別扱いし、有罪の場合は自動的に終身刑にするとした進歩性を見せた。なぜか。そこにはイタリアならではの事情がある。

イタリアの年間の犠牲者数は記述のように取り立てて高い訳ではない。英独などに比べるとむしろ少ないと見たほうがいい。

イタリアではかつて、フェミサイドの被害者が1年に平均171人もいた。ほぼ2日に1人のペースである。

幸い数字は年々減る傾向にあり、2023年は120人、2024年は既述のように116人、2025年は11月末現在106人。

件数は減り続けているが、それでも毎年100人を優に超す人数の女性がフェミサイドに遭っている。

イタリアの特異さは、フェミサイドが軽視される傾向にあることである。男が主として愛情のもつれから女性を殺害するのは、「相手女性を愛し過ぎているから」という暗黙の了解が厳然としてある。

いわゆる痴話喧嘩の極端なケースがフェミサイドである。そして痴話喧嘩は極めて個人的な事案であり、痴話喧嘩には他人は口を出すべきではない、という心理がイタリア人には強く働く。

まさにアモーレ(愛)の国ならではの在りようだが、被害者になる女性はたまったものではない。だからこそイタリアでも、女性に対する暴力を何とかしなければならない、という気運が高まった。

イタリアでは、女性の殺害には至らないものの、顔や体に大きな損傷を受ける酸攻撃の被害者なども少なくない。

たとえば先年、ジェシカ・ノターロさん(27)が元恋人の男に酸を浴びせられて顔を大きく損傷した。ノターロさんはミスユニバースのイタリア代表選で最終選考まで残り、歌手としても知られた存在。

彼女は事件から2ヶ月後に敢えてテレビ出演をして、破壊された顔を画面にさらし「私をこんな姿にしたのは断じてアモーレ(愛)などではない」と訴えて、視聴者の心を震撼させた。

女性の権利意識が高い欧州の中で、イタリアはどちらかというと後進地域の一つであり続けている。そこには保守傾向が強いバチカンを抱えた特殊な事情等がある。

だがそのイタリアに於いてさえ、「愛にかこつけた女性への暴力」の愚劣を根絶しよう、という動きが高まって、ついに欧州でも先進的な・画期的な法律が成立した。

他の国々も続くと見られている

続くべきである。





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死が観念からうつつになる時

子供墓の天使像切り取り930

死を語ることは常に観念的である。なぜなら死の実際を語れるのは死者だけだからだ。しかし死者は無言だ。

生者が語る死は全て推知であり嘘である。

生きているわれわれが実況を語れるのは生のみだ。その生は死がなければ完結しない。つまり生は死を内包していると気づくときだけ、死を語ることに何らかの意味が発生する。

それでも生者が語る死はやはり観念的であることからは逃れられない。

ところがその死は、尊厳死また安楽死という言葉に移し変えられると、ふいに観念から実景へと変化する。

そこに法がからまるからだ。つまり強制性が加わる。その場合の強制性とは、ひとことで言えば殺人のことだ。

尊厳死は命の炎が燃え尽きていくままに任せることだが、病院で行われる場合は、医療行為をほぼ停止するという意味で、殺人と言えないこともない。

片や安楽死は、死にゆく本人または他者が意図的に命を絶つ行為である。特に後者は、他者が他者の命を絶つのだから明らかな殺人だ。

だがそれらの行為の前には、死に行く人自身による明確な死の選択がなければならない。

尊厳死も安楽死も回復不可能な病や耐え難い苦痛にさらされた不運な人々が、「自らの明確な意志」に基づいて死を願い、それをはっきりと表明し、そのあとに自殺または自殺幇助による死を実行する状況が訪れた時に遂行される。

そのときにもっとも重要なことは、患者による死への揺るぎない渇求が繰り返し確認されることである。

それでなければ「自らの明確な意志」を示すことができない者、たとえば認知症患者や意識不明者あるいは知的障害者などを、本人の同意がないままに死に至らしめることになりかねない。

そうした場合には、介護拒否や介護疲れ、経済問題、人間関係のもつれ等々の理由で行われる「殺人」になる可能性がある。

親や肉親の財産あるいは金ほしさに安楽死を画策するようなことも必ず起こるだろう。

あってはならない事態を限りなくゼロにする方策を模索しながら、生をまっとうすることが困難な状況に陥った不運な人々が、「自らの明確な意志」に基づいて死を願うならば、これを認めるべきである。

それを拒むのは、僭越であるばかりではなく、当人の苦しみを助長させる残酷な行為である可能性が高い。

生は必ず尊重され、飽くまでも生き延びることが人の存在意義でなければならない。

従って、たとえ何があっても、人は生きられるところまで生き、医学は人の「生きたい」という意思に寄りそって、延命措置を含むあらゆる手段をつくして人命を救うべきである。

その原理原則を医療の中心に「断断固として」すえ置いた上で、患者による死への揺るぎない渇求がくり返し確認された場合は、尊厳死、安楽死は認められるべきと考える。

だが実を言えば、安楽死や尊厳死というものは存在しない。死は死にゆく者にとっても家族にとっても常に苦痛であり、悲しみであり、ネガティブなものだ。

あるべき生は誇りある生、つまり「尊厳生」と幸福な生、つまり「安楽生」である。

不治の病や限度を超えた苦痛などの不幸に見舞われ、且つ人間としての尊厳をまっとうできない生は、つまるところ「尊厳生」と「安楽生」の対極にある状態である。

人は「尊厳生」または 「安楽生」を取り戻す権利がある。

それを取り戻す唯一の方法が死であるならば、人はそれを受け入れても非難されるべきではない。



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