【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

思論想論

ルツェルンの退屈

古橋と塔650

スイスのルツェルンとロカルノを仕事で回った。

ルツェルンは大分前にやはり仕事で訪ねているが、その時の記憶が自分の中にほとんど残っていないと気づいた。

一方、イタリア語圏にあるロカルノには、これまでにも仕事場のあるミラノから息抜きのためによく通った。

山国のスイスは言うまでもなく美しい国である。が、地中海や、強い太陽の光や、ローマ、ベニス、フレンツェ、ナポリ、パレルモなどに代表される歴史都市を懐に抱いているイタリアはそれ以上に美しい、と僕は感じている。

ならばなぜわざわざ外国のスイスに息抜きに行くのかというと、ミラノの仕事場から近いという理由もさることながら、「そこがスイスだから」僕は喜んで気晴らしに向かった、というのが答えである。

スイスは町並が整然としていて小奇麗で清潔な上に、人を含めた全体の雰囲気が穏やかである。

僕はロカルノの湖畔の街頭カフェやリゾートホテルのバー、またうっそうとした木々の緑におおわれた街はずれのビアガーデンなどでのんびりする。

イタリア語圏だから、ロカルノではミラノにいる時とまったく変わらない言葉で人々とやりとりをする。

ところがそこには、イタリアにいる時の、人も自分もいつも躁状態で叫び合っているかのような騒々しさや高揚がない。雰囲気が静かで落ち着く。 

その気分を味わうためだけに、僕はあえて国境を越えてスイスに行くのである。

要するに僕は、肉やパスタのようにこってりとしたイタリアの喧騒が大好きだが、時々それに飽きて、漬物やお茶漬けみたいにあっさりとしたスイスの平穏の中に浸るのも好きなのである。

今回訪ねたルツェルンはイタリア語圏ではない。ドイツ語圏の都会である。だからという訳ではないが、ルツェルンはイタリア語圏のロカルノに比較すると少し雰囲気が重い。

言葉を替えればルツェルンは、同じスイスの街でもロカルノよりもっとさらに「スイス的」である。つまり整然として機能的で清潔。人々は今でも山の民の心を持っていて純朴で正直で優しい。

だが、まさにそれらの事実が僕には少し退屈に感じられた。やはり僕は中世的なイタリアの街々の古色や曖昧や猥雑や紛糾が好きである。

ロカルノの街はスイスの一部でありながら、イタリア文化の息吹が底辺に感じられるために、僕は心が落ち着くのだと今更ながら知った。

それでもやっぱりロカルノは骨の隋までスイスである。

そのことを一抹の寂しさと共に最も強烈に感じたのは、レストランで頼んだスパゲティ・アーリオ・オーリオ・エ・ペペロンチーノのパスタが茹ですぎて伸びきっている事実だった。

コシのないパスタ麺を平然と皿に盛るのは、腐りかけた魚肉を刺身と称してテーブルに置くのと同程度の不手際だ。

僕は文字通りひと口だけ食べてフォークを置いた。あまりの不味さにがっかりして写真を撮ることさえ忘れた。

その店は、しかし、一日中食事を提供している観光客相手のレストランだったことは付け加えておきたい。

イタリア的な店は普通、15時までには昼の営業を終えて休憩し19時ころに再び店を開ける。

要するにそこは、イタリアレストランを装った無国籍のスイス料理店だったのである。



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奇跡の正体

ピンク黄混ぜ構図良650

萌えたつ新芽や花の盛りに始まる季節の移ろいは奇跡である。

のみならず海の雄大と神秘、川の清清しさなど、自然のあらゆる営みが奇跡だ。

それらを“当たり前”と思うか“奇跡”と思うかで、人生は天と地ほども違うものになる。

奇跡は大仰な姿をしているのではない。奇跡はすぐそこにある。ありきたりで事もないと見えるものの多くが奇跡なのだ。

わが家の庭のバラは一年に3回咲くものと、2回だけ花開くつるバラに分けられる。つるバラは古い壁を這って上にのびる。

ことしは1回目のバラの開花が4月にあり、5月初めにピークを過ぎた。ちょうどそこに雨が降り続いて一気になえた。

普段はバラの盛りの美しさを愛でるばかりだが、ふとしぼむ花々にスマホのレンズを向けてみた。

するとそこにも花々の鮮烈な生の営みがあった。

命の限りに咲き誇るバラの花は華麗である。

片や盛りを過ぎてしなだれていく同じ花のわびしさもまた艶だと知った。

崩れてゆく花が劇的に美しいのは、芽生え花開き朽ちてゆくプロセス、つまり花があるがままにある姿が奇跡だからである。




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危ういのは神道ではなく国家神道である

伊勢内宮入口鳥居650

僕は2023年4月、神社仏閣を次々に訪問参拝しながら宗教と神社神道(以下:純粋神道と呼ぶ)と国家神道に思いを巡らしていた。すると僕の旅が終わってほぼ一週間後の4月21日、高市早苗経済安全保障担当大臣が靖国神社に参拝した。

その出来事は、神道にまつわる僕の物思いを象徴的に示す性格を持っている。そこで高市氏の動きに言及しつつ神道と国家神道について意見を述べておくことにした。

高市大臣は毎年、春と秋の例大祭の期間中や8月15日の「終戦の日」に、靖国神社に参拝するという。従って今回の動きもいつもの彼女の習いと捉えて聞き流すこともできる。

しかし彼女は不遜にも放送法を曲解して、自らと仲間に批判的なメディアを弾劾しようと企てた疑惑にまみれている人物だ。

批判が沸き起こっている今この時は、物議を醸すことの多い靖国参拝を控えるのがあるべき姿だと思うが、高市氏は相変わらずの“仁義なき戦い”精神で靖国神社を訪問した。

彼女はその理由を「国策に殉じた方々の御霊に尊崇の念をもって哀悼のまことをささげる」ため、と靖国を訪れる保守系政治家の常套句を用いて説明した。

戦争で斃れた人々に哀悼の意を表するのは、思想の左右には関係なく人として当たり前の行為だ。だが彼女は国務大臣である。国を代表する公人だ。公人は常に国益を念頭に置きつつ国際情勢にも配慮して行動しなければならない。

戦争犯罪者も祀る靖国神社への参拝は、軍国主義日本を想起させるとして周辺国の反発を呼び、且つ国際社会も眉をひそめることが多いネガティブな事案だ。つまり国益に反するのが実情である。

神社は古来の日本人の心の拠りどころとして人々に賛美され親しまれている分には、何も問題はない。それどころか美しい施設であり伝統であり理念である。

だが人々の敬仰心を利用して国粋主義を煽り、純粋神道を歪曲して国家神道と成し、天皇を隠れ蓑に暴威を振るった軍国主義者の末裔が存在する限り、危険な施設でもあり続ける。

日本ではついに第2次大戦の徹底総括が行われないまま長い時間が過ぎてしまった。そのため軍国主義の心根を秘匿した勢力が徐々に意を強くしつつある。一歩間違えば国家神道に類する欺瞞が再び席巻しかねない。

具体的にはネトウヨ系政治・文化・財界人や安倍元首相追随者群また極右主義者などが、かつては彼らの抑圧者だったアメリカが口をつぐみ勝ちなのを幸いに、俄然勢いを増しているのが日本の今の姿だ。

そこに最近、ロシアによるウクライナ侵略が想起させる中国の覇権主義の暴走と台湾有事の可能性への怖れ、という新たなトレンドが加わった。人々のその怖れは真っ当なものだ。

だが大戦への総括どころか、歴史修正主義者ばかりが勢いを増すようにさえ見える状況はやはり危なっかしい。そして高市早苗氏は歴史修正主義勢力の旗手だった安倍元首相の追随者だ。

彼女が世間の批判の嵐に抗う形で靖国参拝を強行したのは、右派の支持を集めて自らの政治家生命の危機を乗り越えたい思惑があるようにも見える。

だが同時にその行為は、ファシスト気質の彼女が秘匿ファシストまた民族主義者などの歴史修正主義者に、国家神道の正当性を訴え確認する意味合いがあると捉えることもできる。

繰り返しになるが、神社も神道も古来の人々の純真素朴な信仰心を受け止めてそこにある限り美しいコンセプトだ。その心情も、心情に裏打ちされた建築スタイルも、装飾も儀式も全て目覚ましい。

だがそれが軍国主義者やファシストやナショナリストらの尊崇施設になり思想の拠り所になったとたんに、大いにキナ臭くなるのもまた真実だ。

高市早苗経済安全保障担当大臣の靖国参拝は、そのほかの右派政治家の参拝と同様に、まさにその負の兆しが透けて見える象徴的な動きだった。

僕は先日、伊勢神宮、出雲大社、厳島神社、太宰府天満宮、伏見稲荷などの神殿を訪ね歩いた。

過去には靖国神社、明治神宮、金刀比羅宮なども参拝し、全国各地の神社や杜や祠堂や地蔵また御嶽、位牌堂 、御霊屋等々も訪ね歩いている。

僕がそこで敢えて見ようとするのは、主にキリスト教の対抗軸としての教義や思想や実存根拠、またその信義や哲学である。

僕はキリスト教徒ではないがイエス・キリストを尊崇し仏陀を敬仰する者だ。同時に国家神道ではない純粋神道や凡霊説、さらにはイスラム教やユダヤ教も尊重する。

僕はあらゆる宗教を受け入れる自らのその立ち位置を規定して、「仏教系の無神論者」と称している。言葉を替えれば、僕は「仏教系の無神論者」という宗教の信者なのである。

全ての宗教を善しとする立場は、ある限りの「宗門の信者」に拒絶される可能性がある。

なぜなら一神教にしても多神教にしても、自らの信ずるものが絶対の真実であり無謬の存在だと思い込めば、それを受容しない者は彼らにとっては全て無神論者だろうからだ。

ところでなぜ僕がキリスト教や神道系ではなく「仏教系の無神論者」なのかというと、僕自身の中に仏教的な思想や習慣や記憶や日々の動静の心因となるものなどが、他の教派のそれよりも深く存在している、と感じるからである。

さらに言えば、仏教にはドグマ(教義)が存在する分、思索の基準が明確になりやすい。

一方ドグマが存在せず、本殿のご神体を秘匿して信者の畏怖心を煽る神道の在り方は、神社そのものの構造と共に僕の中の疑心を呼び起こすことがないでもない。

それでも日本人としての僕は、本来の純粋神道の精神に親しみを覚え尊重する。同時にそれを歪曲して国家神道と成し、その周りで狡知にうごめいては国民を支配しようとする勢力を嫌悪し、それに抗う側に立つ。

換言すれば高市早苗氏は、僕と同じく純粋神道の伝統が充満する日本社会に生まれ育ちながら、それを全く違う解釈で規定し実践する類の人物と見える。

具体的に言えば高市氏は僕の目には、純真素朴な神道の精髄を曲げて国家神道に作り変え、危険な政治道具に祭り上げようとする勢力の指導者のひとりと映るのである。

2023年4月21日の高市早苗経済安全保障担当大臣の靖国神社参拝に先立って、多くの社殿を訪ね歩いていた僕の中に錯綜していたのは、純粋神道への郷愁と国家神道への嫌悪感だった。




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流転変遷は人生の華

桜引き見上げ2016  800pic


流転変遷は人生の華である。


この世の中で変わらない者は、変わりたくても変われない死者があるばかりだ。


変わるのは生きているからである。


ならば流転変遷は、生きている証、ということである


死ねば変化は起きないのだ。


流転変遷の極みの加齢も変化である。


そして変化するのはやはり生きているからである。


生きているのなら、生きている証の変化を楽しまなければつまらない。


死ねば変化も楽しみも何もないのだから。


変化を楽しむとは言葉を替えれば、あるがままに、ということである。


なぜなら人はあるがままの形で変化していく存在だからである。


あるいは人は、変化するままにしか存在できない存在だからである。


あるがままに存在することを受け入れるとき、人は楽しむ。


楽しまなくとも、心は必ず安まるのである。




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令和の不惑は60歳がふさわしい

家込み黄バラ800

40歳をあらわす不惑という言葉には、周知のように人間の成熟は40歳で完結するという意味合いがある。

人は若年ゆえに悩み、惑い、経験不足ゆえに未熟な時間を経て40歳で自信に満ちた生活に入る、ということだ。

それは人生、つまり寿命が50年程度だった頃の道徳律、と解釈すれば分かりやすい。

つまり人は寿命の10年ほど前に人生の何たるかを理解し、実り豊かに時間を過ごしてやがて死んでいく、ということである。

不惑という概念はおよそ2600年前に孔子が編み出した。また60歳を表す還暦、70歳の古希、77歳を意味する喜寿なども中国由来の言葉だ。

一方で80歳をあらわす傘寿、88歳の米寿、90歳の卒寿etc..は日本独自の表現法とされる。だが根底にはやはり中国由来のコンセプトがあるのかもしれない。

昔は大ざっぱに言えば人生は50年程度だった、という日本人の固定観念は、織田信長由来のものである可能性が高い。

信長が好んだ幸若舞「敦盛」の一節の、“「人間50年 下(化)天のうちを比ぶれば 夢まぼろしのごとくなり~♪”が犯人のようだ。

そこでいう人間(じんかん)50年とは、人の平均寿命が50年という意味ではなく、人の命は宇宙の悠久に比べるとあっという間に終わるはかないものだ、という趣旨だ。

人の平均寿命は、実は昔は50年にも満たなかったと考えられている。

平均寿命が50歳ほどになったのは、明治時代になってからに過ぎない、とさえ言われる。人は長い間短命だったのである。

はかない命しか与えられていなかった古人は、不惑の次の50歳を死期に至った人間が寿命や宿命を悟る時期、という意味で「50歳にして天命を知る」すなわち“知命”と名づけた。

さらにその先の「還暦」の60歳は、死んでいてもおかしくない人間が生きている、要するにおまけの命だからもう暦をゼロに戻して、人生を新しく生きるということだ。

そんなふうに人間が短命だった頃の70歳なんてほぼ想定外の長生き、希(まれ)な出来事。だから前述したように古希。

さらに、88歳をあらわす「米寿」という言葉は、88歳などという長生きはある筈もないから、八十八を遊び心で組み立てて米という文字を作って、これを「米寿」と呼ぶという具合になった。

ただ時代も令和になって、これまでの年齢に対する定義は意味を成さなくなったように思う。

今このときの平均寿命のおよそ80歳が一気に大きく伸びるわけではないが、かくしゃくとした90歳や100歳の長寿者をいくらでも見かける。

もはや「‘人生100年’の時代がやって来た」と表現しても、それほど違和感を覚えない時世になった。

だからというわけではないが、令和時代には、論語ほかの古典が出どころの、年代を表すあらゆる言葉の内容も、もはや違ってしかるべきと感じる。

その筆頭が「不惑」である。

不惑は40歳などではなく、50歳もいっきに飛び越して60歳とするべきではないか。

40歳どころか60歳でも人は惑い悩みまくる。還暦を過ぎている今この時の自分が好例だ。60歳が不惑でもまだ若すぎるとさえ感じる。

その伝でいくと知命(50)が70歳。古希(70)が90歳となり喜寿(77)は97歳。かつて「想像を超える長生き」の意味があった米寿は108歳だ。

だが正直に言うと、人の寿命が伸びつづける今は108歳でさえ想像を超えた長生き、というふうには感じられない。

僕には想像を絶する長生きは108歳ではなく、またここイタリアのこれまでの長寿記録の最高齢である117歳でもなく、120歳をはるかに超える年齢というふうに感じられる。

「想像を超える」とは、実在するものを超越するコンセプトのことだから、ま、たとえば130歳あたりが令和の時代の米寿ではないか、とさえ思うのである。


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