【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

思論想論

レオ14世の不退転

凶暴トランプvs微笑教皇650

僕はキリスト教徒ではないが、キリスト教徒のように感動し勇気を得、深い喜びを覚えている。

ローマ教皇レオ14世が2026年4月13日、彼を批判するトランプ米大統領に対して「私は彼を怖れていない」と名指しで反批判を展開したからだ。

たとえ敵であっても、ローマ教皇相手を名指しで糾弾することはほとんどない。

教皇は宗教指導者であり平和の推進者として対話を重んじ、和解と調和を追求する立場にある。

個人や国を名指しで直接的に批判しないのは、対立を深めず、和解の余地を残すための外交戦略である。あくまでも平和的な解決を模索する姿勢を崩さないのだ。

だから公の場での直接的な批判を控える。特定の名前を挙げるよりも、戦争そのものや不当な暴力自体を批判する形をとるのが定式である。

レオ14世がトランプ大統領を名指しで糾弾したのは、グレゴリウス7世が1076年、ハインリヒ4世を名指しで批判し破門。皇帝としての支配権を停止したいわゆる「カノッサの屈辱」にも匹敵するような出来事だ。

あるいは教皇ピウス11世が第二次世界大戦前夜の1930年代、ムッソリーニとファシズムを明確に批判し、ナチスの人種差別的政策についてヒトラーを名指しで糾弾した例にも続く重大な動きなのである。

世界14億の信者を率いるバチカンは、日本人が中々想像できない大きな影響力を持っている。

そのバチカンの権威は近年、大ヨハネパウロ2世の時代にぐんと伸びた。

だが教義の番犬とも批判されたベネディクト16世の治世下で停滞した。いや、あまつさえ後退した。

ところが2013年、バチカンはフランシスコ教皇の誕生によって再び希望の光を見出し、前進を始めた。

フランシスコ教皇は清貧と弱者への奉仕を最大の義務と定めて、信徒の熱い信望を一身に集めた。

教皇レオ14世はフランシスコ教皇を師と仰ぎ、世界14億のカトリック教徒とその共鳴者や友人、またその逆の人々までもが注視する唯一至高の聖職首座に就いた。

彼は「何者か」になった。

選ばれた「何者か」は、彼が誰であるのかではなく、「彼が何を為すのか」によって歴史の審判を受ける。

穏やかで控えめなスタイルで知られるアメリカ生まれの教皇レオ14世は、就任後は派手な言動を控えて、周囲と世界にじっと耳を傾けながらゆるりとバチカンの改革を進めるように見えた。

それはともすると、顔の見えない教皇、という印象を僕にもたらした。彼がどこに行こうとするのか、何を為そうとするのか、僕は息をひそめるような気分でじっくりと観察し続けた。

彼は事あるごとに平和を唱え戦争に反対する言葉を発してきた。

だが彼の師で前任のフランシスコ教皇に比べると、圧倒的にプロフィールが低く、目立たず、顔がおぼろげにしか見えない印象の時間が過ぎた。

ところが4月13日、事態が一変した。

イランへの攻撃が激化する中、教皇が戦争を糾弾し平和を呼びかける姿勢を続けることに逆切れしたトランプ大統領が、教皇は犯罪と核兵器に対して弱腰だ。レオは教皇として失格だ。イランを攻撃する私にむしろ感謝するべきだ、などとSNSを介してわめきたてた。

トランプ大統領のいつもの身勝手な主張に、温和な外見の内に秘めた教皇の強靭な精神が刺激された。彼は恐れを知らない率直さで同胞のトランプ大統領を名指しで真っ直ぐに批判し、飽くまでも軍事攻撃に反対し続けると宣言した。

彼はその行為によって、トランプ大統領という強烈で傍若無人な力に対抗する国際的な存在であることを世界に示した。

これまで辛うじてトランプ帝王大統領に対抗できたのは、プーチンロシアでも習近平中国でもなかった。それはアメリカの友人で同盟国の集合体であるEUだけだった。

だがそこにふいに、バチカンを率いて世界14億の熱心な信者を導く教皇レオ14世が加わった。いや、元々そこにいた存在がくっきりと可視化された。

僕はレオ14世誕生に際して、「アメリカ出身の教皇レオ14世が、自国の強権力者のトランプ大統領に歯向かうのか擦り寄るのか。それはレオ14世の正体が見える試金石になるだろう。」と書いた。

彼は歯向かうと決め、全世界が見守る中で、トランプ大統領に対して宣戦布告した。

これ以上に心強く喜ばしいことはない。



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辺境のリーダー、高市早苗首相の悲哀

日仏首脳会談ヒキ650

高市首相は欧米の首脳会談の相手にドナルド(Trump)、キア(Starmer)、ジョルジャ(Meloni)、エマニュエル(Macron)とファーストネームでしつこく語りかけた。

ところが高市首相は、会談した韓国の李在明(イ・ジェミョン)大統領をファーストメーネームではなく、一貫して「李大統領」と敬称で呼び続けた。

また2026329日から31日まで日本を公式訪問したインドネシアのプラボウォ・スビアント大統領に対しても初めから終わりまでプラボウォ大統領と尊称した

一見何ほどのこともないように見えるが、そこには高市首相の劣等感とそこからくる強い承認欲求、またそれとは真逆の優越意識がもたらすダブルスタンダードの虚偽が複雑にからみあっていて哀れを誘う。

彼女は欧米の首脳にはファーストネームで語りかけ、アジアの首脳には公の場でのプロトコールに則って李大統領、プラボウォ大統領またはプラボウォ・インドネシア大統領などと敬称し続けた。

敬称で呼びかけるのが当たり前の外交儀礼だが、彼女の胸の奥の奥にはアジアの首脳への、侮蔑とまでは言わないが、かすかな優越感が木の間隠れに見えるように思った

同時に彼女の中には、古くて新しい日本人の根本問題、つまり欧米(人)への抜きがたい劣等意識が潜んでいる

首脳同士の会談の場では、相手の肩書きやサーネーム(姓)+肩書きで語りかけるのが礼儀である。

そののち、何度か会い信頼関係が増す過程で、互いにファーストネームで呼びかけるようになる。それはルールではなく欧米の一般的な人間関係の発露に過ぎない。

国際関係に於いては首脳同士の友情がもっとも大事、という認識もある。従って最終的には2人がファーストネームで呼び合う関係が望ましいとされる。

高市首相は友誼、そして究極には信頼関係を構築する目的で、相方をしきりにファーストネームで呼んでいる。

だが、まだ親しみもない一国の首脳を「無理やり」にファーストネームで呼び続けるのは、不料簡を通り越した噴飯劇である。

そのことを端的に示すのが、高市首相に突然ファーストネームで呼ばれた各国首脳の驚きの表情だ。無神経且つ唯我独尊覇王のトランプ大統領は別にして、欧州首脳らは明らかに戸惑い、微苦笑を浮かべて彼女に対した。

マナーを心得ている彼らは、面と向かって相手のマナー違反を指摘するのは最大のマナー違反だと認識している。

だから驚き、だが無言で微苦笑を浮かべるしかないのである。

高市首相がそこで痛切に希(こいねが)っているのは、憧れの欧米の首脳と対等になりたいという激しい承認欲求、あるいは尊厳欲求である。

その心理また行動様式は、中曽根康弘首相が80年代にレーガン大統領とロン・ヤスの関係を構築し、首脳同士が名前で呼び合う慣わしが定着して以降の、日本側のいつもの一方的な、ストーカー然とした盲愛だ

同じ悲恋の直近の目立つ例は、故安倍首相がトランプ大統領とこれまたフェイクな友達関係を作り上げた物語である。

歴代のアメリカ大統領は腹の中で嗤いつつ日本首相の切なる願いを微苦笑のオブラートに包んで許し、受け入れてきた。

現大統領を除く彼らもまた、目の前の相手のマナー違反をあげつらうのは大きなマナー違反、と知っていたのである。

そうではあるが、しかし、高市首相の周りには、歴代の日本首相とは大きく違う空気感が立ちこめているのも事実だ。公平を期する意味でもそのことは指摘しておきたい。

会談相手の首脳たちは、ほぼ決まって出だしの微妙な違和感あふれる表情から徐々に解き放たれ、愁眉を開いていく様子がうかがえる。

高市首相の不自然な呼びかけに覚えたかすかな気持ちの揺れが過ぎると、彼らの表情には紛れもない親しみの色が浮かび出るのである。

それは高市首相の人となりが生み出すポジティブな情調だ。

あるいは後代の歴史家は、各国首脳を徹底してファーストネームで呼ぶのが高市首相独自の改革だった、評価するのかもしれない。

もしも彼女が、欧米の相方だけではなく、アジアの相対者にも、親しくファーストネームで語りかけるバイアスのない情動を持っていれば、その可能性はさらに高まるだろう。

だが、それはやはり無理ではないかと僕は考える。

なぜなら彼女は相変わらず極め付きの歴史修正主義者であり、天皇制ファシズム容認派であり、靖国崇拝、神社本庁また日本会議拝跪主義者である。

同時に彼女は、安倍極右神殿参りを繰り返す国家神道思い込んだら100年目保菌者でもあり続けている。

あるいは改革者かもしれないと思わせる外見はフェイクで、内心の黒い政治信条や思惑や哲学が彼女の本性なのだ。

そのことに思い至ると、高市首相の外交姿勢が途端に不気味に見えてしまうのは、返す返すも残念である。




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多様性の深いふところ~政治3流、経済4流のイタリアが、政治5流、経済2流の日本のロールモデルになり得る理由(わけ)

両手ピースの馬鹿市

日伊のファシスト気質政権

高市政権がトランプ米政権と親しいのは、両者が正真正銘の極右権力機構だからである。

彼らの前には安倍極右体制があった。

ここイタリアでは高市政権以前の2022年9月、極右政党が主導する政権が誕生した。主導するのはファシスト党の流れを汲む「イタリアの同胞」。

党首のジョルジャ・メローニ氏がイタリア初の女性首相になった。

ファシスト紛いの集団が政権党と聞けば、以前なら思わずぎょっとなるところだが、ファナティストで専制君主のトランプ氏が、2017年にアメリカ大統領に就任して以降はどうということもなくなった。

2025年10月 、世界の政治潮流の残響をたどりながら誕生した高市早苗首相率いる極右政権は、名実ともに安倍政権に続くファシスト気質の極右権力機構だ。 

今や世界にはファシスト気質の政治家や政権が溢れている。

英リフォームUK 党のファラージ氏とブレグジッド派勢力、フランスのルペン国民連合党首、チリのカスト大統領ほかの南米またアジア・アフリカの指導者、などなど。

それらの政治家や政治勢力は、強権的という意味でプーチン大統領や習近平国家主席、また金正恩総書記などにも似ている。彼らのうちの多くは実際にお互いに友誼を結んでいる関係でもある。

慣れの功罪

首相就任から4年目に入るイタリアの同胞のジョルジャ・メローニ党首は、いま述べた世界のファシスト気質の政治家の中でも最もファシストに近い指導者とされてきた。

だが彼女は、政権奪取と同時に現実路線に舵を切り、欧州でも強い影響力を持つ保守政治家へと変貌を遂げた。

今では極右と呼ばれる勢力が政権を握ることは、かつてそうであったほどの脅威にはならない。イタリアを含む世界は既述のファシスト的性向の指導者や政権に慣れて来ている。

慣れは油断につながり、権力の暴走を許す可能性がある。同時に、対抗政治勢力と国民が、それら危険な権力への対処法を学ぶ原動力にもなる。

極左と極右は同じ穴のムジナ

イタリアではメローニ以前の2018年、極左と極右と定義されることも多い「五つ星運動」と「同盟」が政権を樹立する事態になった。それは欧州を震撼させたが、イタリア共和国は2党がかねてから主張する脱EUには向かわなかった。

ポピュリスト政権は、EUの意向に反してバラマキ政策を敢行した。と同時にEUとの共存の道も模索し続けた。やがて同盟が離反すると、 五つ星運動はEUと親和的な民主党と連立を組み直して、政権はより穏健になった。

そしてついに2022年、正真正銘の極右政党、イタリアの同胞が議会第1党になったのである。

それが他の主要民主主義国で起これば一大事だが―そしてむろんイタリアでも強く懸念されてはいたが―この国の核を成している多様性が担保して、極右はやや中道寄りの現実主義的保守へと骨抜きにされるだろうと僕は予測した。

そして政権は僕の予測した方向に進んでいる。

イタリアでは政治制度として、対抗権力のバランスが最優先され憲法で保障されている。そのため権力が一箇所に集中しない、あるいはしにくい。

その制度は、かつてファシスト党とムッソリーニに権力が集中した苦い体験から導き出されたものである。

それは同時に政治混乱を次々にもたらすが、たとえ極左や極右が政権を担っても、彼らの思惑通りには事が運ばれない、という効果も生む。

過激勢力が一党で過半数を握れば危険だが、イタリアではそれはほとんど起こりえない。再び政治制度が単独政党の突出を抑える力を持つからだ。

多様性が極論を抑える

イタリアが過激論者に乗っ取られにくいのは、いま触れた政治制度そのものの効用のほかに、イタリア社会がかつての都市国家メンタリティーを強く残しながら存在しているのが理由だ。

都市国家メンタリティーとは、換言すれば多様性の尊重ということである。

イタリア共和国は精神的にもまた実態も、かつての自由都市国家の集合体である。

そして各都市国家の末裔たちは、それぞれが互いの存在を尊重し盛り立てつつ、常にライバルとして覇を競う存在でもある。そこに強い多様性が生まれる。

多様性にはカオスに似た殷賑が付き物だ。

都市国家メンタリティーが担保する多様性重視の社会では、誰もが自説を曲げずに独自の道を行こうと頑張る。その結果、カラフルで雑多な行動様式と、あっとおどろくような 独創的なアイデアがそこらじゅうにあふれる。

多様性を重視するイタリア社会は、平時においては極めて美しく頼もしくさえある。だがそれには、前述のカオスにも似た殷賑が付いて回る。

多様性を否定したい人々はそこを殊更に重視する。そして多様性に伴う殷賑あるいはカオスを、アナーキズムと曲解して多様性を指弾したりもする。

言うまでもなく彼らは間違っている。彼らは千差万別、多彩、人それぞれ、 百人百様、十人十色、 多種多様、、蓼食う虫も好き好き 、など、など、人の寛容と友誼と共存意識の源となる美しいコンセプトを理解しない。

多様性というのはあくまでも絶対善である。絶対とはこの場合「完璧」という意味ではなく、欠点もありながら、しかし、あくまでも善であるという意味だ。例えば民主主義と同じなのである。

多様性と民主主義

民主主義はさまざまな問題を内包しながらも、われわれが「今のところ」それに勝る政治体系や構造や仕組みや哲学を知らない、という意味で最善の政治体制だ。

また民主主義は、より良い民主主義の在り方を求めて人々が試行錯誤を続けることを受容する、という意味でもやはり最善の政治システムである。

言葉を変えれば、理想の在り方を目指して「永遠に自己改革をしていく政体」こそが民主主義、とも言える。

多様性も同じだ。飽きることなく「違うことの良さ」を追求し歓迎し認容することが、即ち多様性だ。多様性を尊重すればカオスにも似た殷賑が生まれる。だがその殷賑は多様性を否定しなければならないほどの混乱悪ではない。

なぜならそれは、多様性が内包するところの疑似カオス、つまり先に触れた個性が思い思いに息づく殷賑に過ぎないからである。再び言葉を変えて言えば、カオス風の賑わいがない多様性はありえない。

多様性の対義概念は幾つかある。全体主義、絶対論、専制主義、統制経済、侵略主義、軍国主義、民族主義、選民主義、チキンゲーム、干渉主義、デスポティズムetc。日本社会に特有の画一主義または大勢順応主義などもその典型だ。

僕はネトウヨ・ヘイト系排外差別主義と極端な保守主義、またそれを無意識のうちに遂行している人々も、多様性の対極にあると考えている。

なぜならそれらの人々には、彼らのみが正義で他は全て悪と見做す視野狭窄の性癖がある。つまり彼らは極論者であり過激派だ。むろんその意味では左派の極論者も同じ穴のムジナである。

多様性は敵も抱擁する

だが多様性を信奉する立場の者は、彼らを排除したりはしない。 ネトウヨ・ヘイト系排外差別主義や極右は危険だが、同時にそれは多様性の一環でもある、と考えるのである。

多様性の精神は、「それらの人々のおかげで、寛容や友愛や共存や思いやりや友誼、つまり“多様性”がいかに大切なものであるかが、さらに明確になる」と捉えて、彼らはむしろ“必要悪”であるとさえ結論付ける。

例えば政治危機のような非常時には、平時の心構えが大きく作用する。つまり、多様性のある社会では、政治が一方に偏り過ぎるときは、多様性自体が画一主義に陥り全体主義に走ろうとする力を抑える働きをする。

一方でネトネトウヨ・ヘイト系排外差別主義がはびこる世界では、その力が働かない。それどころか彼らの平時の在り方が一気に加速して、ヘイトと不寛容と差別が横行する社会が出現してしまう。

ここイタリアには、冒頭で触れたように、戦後の紆余曲折を経て極右政党が主導権を握る政権が誕生した。

その政権には保守主義を逸脱して、ファシズムへ傾こうとするモメンタムが働くことが十分に予想された。

だが再び既述のように、イタリア社会に息づく多様性の精神が危険なその動きにブレーキを掛けて、ファシズムは遠ざかり穏健な右派勢力となった。

一方、日本の政治状況は安倍一強から高市極右政権へと変わったが、実は権力機構のファシズム気質の本性は全く変わっていない。

その意味では、国全体が多様性どころか画一的且つ閉鎖的なメンタリティーに支配されがちな日本に於ける、高市一強政権の危険度はあまりにも高いと言わざるを得ない。




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限りなくママゴトに近い高市外交

米国会議事堂?ではしゃぐ高市661

イタリア戻りの直前、渋谷か羽田で強烈なウイルスの洗礼を受けた。高熱、激しい咳寝返りも打てないほどの重度の腰痛から一週間振りに生還した。

ベッドで朦朧としながらも、必死で這い出して19日のトランプvs高市の会談の模様をネットで見た。

世界が見ている中で、戦争犯罪者そのもののトランプ大統領に、「あなただけが世界平和を実現できる」と臆面もなく持ち上げた高市首相の感覚にのけぞった。

それは2016年、安倍元首相がトランプタワーに馳せ参じて、大統領就任前のトランプ氏を信頼できる指導者、と誉めそやした「事件」を彷彿とさせる。

なんらの批判精神もなく、ひたすらトランプ大統領に擦り寄るだけの属国外交は、安倍政権で完全無欠になった。

それをひたすら踏襲しているのが高市首相だ。

同時に彼女は、意識するしないとに関わりなく、女性であることを武器にして思い切り媚を売る体勢で強者に接し続けている。それがさらに見苦しい。

そうは言うものの、しかし、そのことをさておけば、トランプ大統領との邂逅は予想を裏切る幸運に満ちたものだった。

言うことがくるくると変わるご都合主義そのもののトランプ大統領が、恐らく欧州各国の強い反発もあって、ホルムズ海峡に艦船の派遣を要請しない、と豹変した事実に助けられて難を避けたのは、タナボタの幸運だった。

その言わば偶然の僥倖を外交的成果と主張するのは、「世界の真ん中で咲き誇る日本また高市外交」とおだを上げる態度とまったく同じ空虚な主張だ。

見方によっては、明るい率直な態度とも評価される高市首相の動きやパフォーマンスが、僕には常にママゴトに見えて仕方がない。

このことは高市首相が米艦船上で就任直後にトランプ大統領と腕を組んではぴょんぴょん跳ねたり、イタリアのメローに首相を招いて お遊びふうの歓迎式典を開いたり した時にも書いた。

日本初の女性首相を、必要以上に女性という属性を強調してフィルターにかけ、語ることは、秘めた女性差別の顕現とも見られかねないことを承知で敢えて言う。

僕には彼女のアクションのことごとくが幼く、やはりどうしてもおふざけそのものに見えてしまうのだ。

ところがそのママごとの主体は確信犯的な歴史修正主義であり、天皇制ファシズム容認であり、戦前戦中への回帰願望などという恐るべき超保守主義体質であることが不気味だ。

そんな高市早苗氏は、首相に成り上がったことがいつまで経っても嬉しくて嬉しくて仕方がない。

だからぴょんぴょん跳ね、にこにこ笑いを絶やさず、嬌声を上げ、相方を敢えて名前で「ドナルド」「ジョルジャ」などとと呼び、媚態と期待とお仕着せの上目誘いで見続ける。

見続けるのみならず、一国のトップにあるまじき動きで相手の腕を取り、ぴたりと寄り添い体を押し付ける。公の場でないならば、今にも衣装を脱ぎ捨てて相手を誘いかねないような恥ずかしい動きだ。

女は愛嬌、という言葉には女性の明るさがもたらす平穏と平和と希望と慈愛の温かみがこもっている。僕は女は愛嬌という言葉を耳にするとき、個人的には僕の母を思う。

母が備えていた優しさの中のたくまざるユーモアを思う。母は飽くまでも優しく、深い慈愛に満ちた笑顔で、かつ光のように常に明るかった。

高市首相の存在自体にはそれに似たオーラがないわけではない。だが彼女は、やはり日本国のトップである。

悪のカタマリのネタニヤフと組んで自らの魔性を最大限に発揮しては自在に戦争を始めるトランプ大統領に対し

「ドナルド、あなただけが世界中に平和と繁栄をもたらすことができる」

などと臆面もなく言えるのは、狂気と形容しても構わないほどの異様な動きだ。

世界中がそれを見ていたことを思えば、日本の恥辱ここに極まる、というほどの失態ではないか。

それは外交や政治をママゴト的感覚でしか捉えられない幼稚な精神のなせる業である。

女は愛嬌だが、一国の首相たる者は愛嬌以上に重大なミッションを背中に負っている。

高市首相はそのことをまるきり理解していないように見える。




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トランプとネタニヤフも邪悪だがハメネイも褒められたものじゃない

109を窓から見る夜800

悪の双璧トランプ&ネタニヤフが、ハメネイというガチガチの独裁的教条主義者を圧殺。

イランは彼よりもさらなる強硬派とされる息子のモジタバ・ハメネイ師を後継者に選んだ云々、の情報をメディアやネットで追いかけつつ、沖縄、関西、東京回遊の旅の終わりにいる。

日本のメディアやSNSなどでの印象は、アメリカの犬である高市政権の基本姿勢「トランプ擁護&イラン批判」とは違い、イラン擁護派が多数を占めているように見える。

ハメネイ師が家族もろとも殺害されたことへの同情心が強いのだろうか。

トランプ&ネタニヤフがハメネイ・イランを攻撃したのはむろん悪であり国際法違反である。だが、反政府運動を激しく弾圧し続けたハメネイ師もその政権も負けず劣らずに邪悪

ハメネイ師はイラン正規軍よりも強いとされるイスラム革命防衛隊の武力を背景に、約37年もの長きにわたって強大な独裁権力を振るった。

彼の統治期間中は言論の自由が厳しく規制され、ジャーナリストや人権活動家などの拘束が常態化した。

大統領選への抗議デモや「女性、命、自由」運動などへの弾圧も続き、昨年末からことし初めの反政府デモでは、3000~5000人の国民が殺害されたとされる。正確な数字は未だに分からない。

ハメネイ師はレバノンのヒズボラやガザのハマスまたイエメンのフーシ派など、反イスラエル・反米を掲げる中東各地の武装組織ネットワーク、 いわゆる「抵抗の枢軸(Axis of Resistance)」を支援しづけた。

支持者には、1979年のイラン革命の精神を継承してイスラムの価値を守り、西側の搾取やイスラエル+米国の横暴に対抗する英雄として称えられる一面もあった。

が反政府活動家を拘束し自国民を殺害する指導者など、所詮魔物だ。

後継者の息子モジタバ・ハメネイ師はまだ表舞台には現れず、従って憶測の域は出ないものの、父親のハメネイ師よりもさらに強硬なイスラム原理主義者ではないか、と見られている。

抑圧的なイラン体制が一気に変わるとは到底考えられない。

トランプ・ネタニヤフの悪党コンビの行為を国際法違反と糾弾する人々がいる。それは正論中の正論だが、虚しい指摘でもある。

日本では、攻撃を受けたイランへの同情心が、国際法を犯したトランプ・ネタニヤフ批判を凌駕しているようにも見える。

日本独特の❝判官びいき❞心情だろうが、曖昧模糊とした感情が理性を蹴散らしてしまう、まさしく日本的風景である。

それは極右歴史修正主義者の高市首相を無批判に持ち上げる情動にも通底する心理で、危険極まりない。

米・イスラエル軍によるイラン攻撃は、悪が悪に襲いかかったものでどっちもどっちだ。

だが、イランの国の在り方はイラン国民が決めるべきものであって、トランプ・ネタニヤフが首を突っ込むべきではない、という意味では進撃はむろん指弾されるべきだ。

しかし、繰り返しになるが、ハメネイ師という独裁者もまた、ならず者の抑圧者という観点で糾弾されるべき存在だった。

攻撃は国際法違反であるから即刻止めろという主張も日本には多い。それは正論だが、残念ながらほとんど意味をなさない叫びだ。

国際法はいわばザル法である。法的信念は有するものの慣習に基づく国際合意であり、道徳にも近い一規範である。だから今回のイラン攻撃のように強者によってた易く踏みにじられる。

踏みにじられても、国内法のような強制的な罰則機関がないため、国家間の法的拘束力を持つとされながらも非力なのだ。

世界の多くのまともな国は、「国際法違反」というレッテルを張られることを恐れて行動を慎む。従ってそれが実質的な拘束力を持つ、という意味では重要なものだ。

しかしながら前述のように、トランプ的横暴、あるいは弱肉強食の前では頼りない法則なのである。

だからこそ国際法が重要になるのだが、トランプやネタニヤフのようなならず者がこれを犯せば、世界は手をこまねいてみているしかない、という憂鬱な現実がある。

世界にはその2人のならず者のほかにも、プーチン、習近平、金正恩などの大物、またオルバンほかの小物のならず者も、アフリカ中東などを中心にひしめいている。

それらのならず者は国際法など意に介さない。

だからこそ彼ら蛮人に国際法を順守させるためにも、世界中の自由主義者は戦いを強め、声を挙げ続けなければならないのである。




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独裁者サナエ・タカイチが日本を再生させる


キンペー高市合成650

高市早苗首相の荒唐無稽&抱腹絶倒のスローガン「世界の真ん中で咲き誇る日本、また日本外交」が実現する可能性が高まっている

それを示唆するのは高市首相支持率が最大90%にも上るという統計さえある若年層国民の存在である。

インターネット世代の若者らには、彼らより年齢がはるかに上の高市首相と共通の、反知性的な思考パターンがある。

昔日の日本の、あるいは昭和世代の親たちの、仕事第一主義、伝統的な家族形態への強い執着、努力の神聖視などの古い価値観が、SNSを通して共有され極大拡散されて、それらが日本初の女性首相となった高市氏の成功物語とも重なり、いよいよ若者受けするようになった。

若い世代が高市首相を慕う心理は、ごく自然に反中国感情とも共鳴し重層的に広がって、彼らはさらに興奮し激昂高揚 して我を忘れる。

若者は高市首相の台湾有事発言に対する中国の反発に、その意味を理解することなく、また理解もできないながら“衝動“反発して、高市首相の強硬姿勢を称えますます意気衝天する。

台湾有事発言を撤回しない高市首相の思い上がった態度を支えているのは、中国に対する優越意識であり嫌中国感情である。それは実は、経済大国になり従って軍事大国ともなった隣への畏れと不安の裏返しに過ぎない。

日中の複雑な関係を天皇の赤子論に基づく胡乱な選民意識によって卑小化し、同国から朝鮮、さらにはアジア全体を侵略蹂躙した「暴虐日本の蛮人魂」は、極右カルト信奉者らのなかに今もしっかりと生きている。

故安倍元首相の虎の威を借りて、傲岸な態度で国会内を闊歩し睥睨していた過去からも判るとおり、高市首相には庇護者の力をバックにして威張り散らす傾向がある。

彼女が中国に居丈高になっているのは、既述の日本極右の専売特許である「中国からアジア全体蔑視主義」に加えて、アメリカという虎の威光を笠に着ての背伸びでもある。

彼女は日本の過去の加害の歴史を意図的に無視して、あるいは真にそのことに無知であるがために、天皇崇拝、靖国跪拝、日本会議抱擁、統一教会愛護、神社本庁恭順、また安倍晋三カルト神殿随順、 などの狂信的右翼ドグマに取り憑かれ、そのドグマの威光で中国を屈服させられると考えているように見える。

支持者の若者たちとそのアイドルの高市首相&取り巻きまた今述べた極右カルト勢力の全てには、戦争加害者の意識が完全に欠落している。

そしてもっとさらに現実を直視すれば、戦後の日本国民全体を金縛りにしている「我ら日本人はひたすら先の大戦の被害者」意識が、事態を一段と悪化させる。

戦争の総括を責任放棄したために、日本人はある時点から戦争の加害者であることを忘れて、自らを戦争の被害者と決め込み被害者意識の傷をなめることばかりにかまける性癖を獲得した

戦後の日本人は老いも若きも誰もが、広島、長崎の原爆も東京空襲も沖縄戦の悲劇もひたすら被害者の目線で見てこれを嘆き、恨み、怒ってきた。

ではそこでの加害者は一体誰なのか。アメリカか?連合軍か?中国か?

断じてそうではない。

加害者は昭和天皇であり、軍部であり、岸信介を筆頭にする戦犯である。

戦前、戦時中に日本国民は誰もが戦争を称揚し、喜び、悪鬼となって敵を憎み、勝利に酔い、アジア侵略に興奮した。従って日本国民は誰もが加害者だったという考え方もある。

だが国民をそこに導いたのは天皇を中心とする権力機構であり軍部でありそれを翼賛した多くの戦争共犯メディアだ。

それでもやはり日本国民に罪があるとするなら、国民が国民自身の手で戦犯のただの1人も断罪しなかった痛恨の歴史だ。

米占領軍の意向で天皇が助命され、やはりアメリカの心算で戦犯との取引がなされて、日本の暗部の多くがアメリカによる日本支配のためのツールとして利用された。結果、仕置きの機会が遠のいた、というのは言い逃れに過ぎない。

なぜならば同じ穴のムジナ仲間だった日独伊三国同盟の悪鬼ドイツを見てみればいい。それに続いた小悪魔のイタリアも凝視してみればいい。

彼らは、特にドイツは、日本がアメリカ主導の極東裁判だけで大戦の仕置きを終わらせたのとは違い、「ニュルンベルク国際軍事裁判」の後も徹底して戦犯を追及し処罰し総括した。それは2026年現在の、今も続いている驚くべきアクションだ。

またイタリアは、戦犯の格としてはいわば同国の昭和天皇であったムッソリーニを処刑し、彼の盲従者らの戦争遂行意志を根絶するために、敢えて遺体をミラノの中心広場の一つに逆さ吊りにして晒しものにした。

イタリアは大戦の途中でドイツと仲違いし連合国側に無条件降伏した後、ドイツに宣戦布告した。のみならず連合国側に味方したいきさつもあって、戦後はドイツのような厳しい戦犯追及はしなかった。

しかしドイツの徹底総括は、かつて彼らの仲間だったイタリアの良心も激しく揺さぶり続けた。ドイツの厳しい戦後処理は、ムッソリーニを処刑したイタリアの民衆の反ファシズム精神を刺激し伸張させて、やがて強固なものへと変貌させた。

ところが今日も戦犯の追及を続けているドイツにおいてさえ、驚いたことに近年は極右勢力が台頭している。それどころかイタリアでは、極右ともネオファシストとも規定されたりする政党「イタリアの同胞」が政権党になり、党首のジョルジャ・メローニ氏が首相の座に就いている。

だが日独伊の悪の枢軸を形成した3国のうち、戦前の全体主義勢力の陰湿な精神風土が残っているのは日本極右だけである。それはひとえに戦争総括の欠如と、その結果生じた「加害者日本」意識の消滅によっている。

戦後日本の最大の闇の一つが、雲霞のごとく湧き続ける歴史修正主義者の跋扈だ。高市早苗首相はその首魁なのである。

ヒトラーはヒトラーを知らなかったがドイツの極右はヒトラーを知っている。同じくムッソリーニはムッソリーニを知らなかったが、イタリアの同胞を筆頭にする同国の極右はムッソリーニを知悉している。だから彼らはヒトラーにはならず、ムッソリーニの轍も踏まないと僕は予測する。

たとえ彼らがそこに向かおうとしても、大戦を厳しく総括したドイツとそれに倣うイタリアの両国民、またその影響も受けて全体主義に立ち向かおうとする意志が強固な欧州全体の世論がこれを阻止するだろう。

日本の極右は日本軍国主義を知らない。わずかに知っていても歴史修正主義者の宿命で過去への反省がなく同じ轍を踏む可能性が極めて高い。

いま盛んに右カーブを切って燃えている若者たちは、日本がかつて巨大な加害者だったという戦争の実相を学校で習わなかったために、極右の醜顔を脱悪魔の仮面で覆って「強い日本を」と叫ぶ高市首相に魅入られている。

彼らは被害者である。だが過去を知らない危険で凶暴な被害者である点が憂鬱だ。

彼らはもしかするとごく近い将来、高い支持率に押されて独裁権を握る高市首相とファシズム勢力に加担して、中国に戦争を仕掛けるかもしれない。その時アメリカは、トランプ主義の流儀に則って自らの利益にならない仕事はしないと決め、日本を助けようとはせずにこれを静観する。

結果、日本は第2次大戦の轍を踏んで再び廃墟と化する。だが幸いにも民主主義を信奉するリベラル思考の国民が生き残って、戦場に行かず空爆やミサイル攻撃の難も逃れた権力中枢と軍部を徹底糾弾する。

国民は今度こそ戦犯の全員を断罪し、余罪を徹底追及し、殲滅する。そうやっていま現在のドイツとイタリアに近いメンタリティーの市民が繁栄する日本国が誕生する。

もしもそうなれるのなら、再び廃墟となる巨大な不幸を代償にしてでも日本は生まれ変わったほうがいい。

もっとさらに良いのは、しかし、言うまでもなく戦争が回避され且つ高市政権が崩壊して、ファシストの高市早苗首相が永遠に政治の舞台から去ることである。

だがその後は日本はやはり、忘れられつつある第2次大戦を必ず徹底総括して加害者としての自分を見つめなおし、せめてドイツまたイタリアのレベルにまで民度を高めて、真に世界に信頼される国家になるべきだ。

そうなれば「世界の真ん中で咲き誇る日本、また日本外交」などと、痴呆じみた笑劇スローガンを言い募る必要もなくなる。

なぜなら日本が歴史修正主義者のいない国家に生まれ変る暁には、世界のほうが懸命に日本に擦り寄って来て、日本は嫌でも世界の真ん中に押し祭られて行くからである。

その観測が荒唐無稽という者がいるならば、僕はこう訊きたい。

かつての軍国主義の亡霊が、生霊となって体内に出現したのでもあるかのような荒ぶる高市早苗氏が、日本の首相にまで成り上がった荒唐無稽をあなたは一体どう説明するのか、と。




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クリスマスは文明にまで昇華した化け物である

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ここイタリアを含む欧米諸国や世界中のキリスト教国では、人々がクリスマスをにぎやかに且つ厳かに寿ぐ。

同時にキリスト教国以外の世界の多くの国々でも、人々はクリスマスを大いに楽しみ祝う。

むろん日本を典型とする非キリスト教国国々で祝されるのは、宗教としての定式や教義や規律や哲学や典儀を伴う「宗教儀式」ではない。

単なる遊びであり祭りでありショーでありエンターテインメントである。

そうなった背景には西洋文明という巨大な力がある。

クリスマスは文明ではない。それは宗教にまつわる文化だ。

文化とは地域や民族から派生する、祭礼や教養や習慣や言語や美術や知恵等々の精神活動と生活全般のことだ。

それは一つ一つが特殊なものであり、多くの場合は閉鎖的でもあり、時にはその文化圏外の人間には理解不可能な「化け物」ようなものでさえある。

だからこそそれは「化け物の文(知性)」、つまり文化と呼称されるのだろう。

文化がなぜ化け物なのかというと、文化がその文化を共有する人々以外の人間にとっては、異(い)なるものであり、不可解なものであり、時には怖いものでさえあるからだ。

そして人がある一つの文化を怖いと感じるのは、その人が対象になっている文化を知らないか、理解しようとしないか、あるいは理解できないからである。

だから文化は容易に偏見や差別を呼び、その温床にもなる。

ところが文化の価値とはまさに、偏見や恐怖や差別さえ招いてしまう、それぞれの文化の特殊性そのものの中にある。

特殊であることが文化の命なのである。

従ってそれぞれの文化の間には優劣はない。あるのは違いだけだ。

そう考えてみると、地球上に文字通り無数にある文化のうちの、クリスマスという特殊な一文化が世界中に広まり、受け入れられ、楽しまれているのは稀有なことだ。

それはたとえば、キリスト教国のクリスマスに匹敵する日本の宗教文化「盆」が、欧米やアフリカの国々でも祝福され、その時期になると盆踊りがパリやロンドンやニューヨークの広場で開かれて、世界中の人々が浴衣を着て大いに踊り、楽しむ、というくらいのもの凄い出来事である。

でもこれまでのところ、世界はそんなふうにはならず、キリスト教のクリスマスだけが一方的に日本にも、アジアにも、その他の国々にも受け入れられていった。なぜか。

それはクリスマスという文化が、世界を席巻した「西洋文明」という巨大津波に乗って地球上に広がっていったからである。

文明とは字義通り「明るい文(知性)」のことであり、特殊性が命の文化とは対極にある普遍的なコンセプトである。言葉を替えれば、普遍性が文明の命だ。

誰もが希求するもの、便利なもの、喜ばしいもの、楽しい明るいものが文明である。

それは自動車や飛行機や電気やコンピュターなどのテクノロジーのことであり、利便のことであり、誰の役にも立ち、誰もが好きになる物事のことだ。そして世界を席巻している西洋文明とは、まさにそういうものである。

一つ一つが特殊で、一つ一つが価値あるものである文化とは違って、文明には優劣がある。だから優れた文明には誰もが引き付けられ、これを取り入れようとする。

より多くの人々が欲しがるものほど優れた文明である

優れた文明は多くの場合、その文明を生み出した国や地域の文化も伴なって世界に展延していく。そのために便利な文明を手に入れた人々は、その文明に連れてやって来た、文明を生み出した国や地域の文化もまた優れたものとして、容易に受け入れる傾向がある。

たとえば日本人は「ザンギリ頭を叩いてみれば文明開化の音がする」と言われた時代から、必死になって西洋文明を見習い、模倣し、ほぼ自家薬籠中のものにしてき。

その日本人が、仏教文化や神道文化に照らし合わせると異なものであり、不可解なものであるクリスマスを受け入れて、今や当たり前に祝うようになったのは一つの典型である。

西洋文明の恩恵にあずかった、日本以外の非キリスト教世界の人々も同じ道を辿った。彼らは優れた文明と共にやって来た、優劣では測れないクリスマスという「特殊な」文化もまた優れている、と自動的に見なした。あるいはそう錯覚した。

そうやってクリスマスは、無神論者を含む世界中の多くの人が祝い楽しむ行事になっていった。

今日はキリスト教国のみならず、日本でも中国でもインドでもタイでもアラブの国々でもクリスマスが祝される。イスラエルにさえそれを祝う多くの人々がいる。

むろんそれらの国々の民衆が祝うのは、冒頭で述べたように宗教儀式としてのクリスマスではなく、飽くまでも遊びやショーやエンターテイメントとしてのクリスマスである。

換言すれば日本式クリスマスが、ほぼ全ての非キリスト教国におけるクリスマスである。

世界中が喜び希求する楽しい文化というのは言葉の矛盾だ。従ってクリスマスはもはや文化ではなく、文明に昇華したイベント、と表現したほうが適切かもしれない。

「化け物なのだから何にでも化ける」と考えれば、じゃやっぱり文化じゃん、ということになるのだけれど。












円と共にどこまでも日本国が沈みゆく

沈み行く手


さて、今日はクリスマスイブである。

クリスマスでホップ、正月はステップ、2月にジャンプして東京まで飛ぶが、今回は桜開花までの飛距離は出そうにないな、などとつぶやきつつ帰国準備中。

楽しみは冬のない南の島の海と、大阪と東京での居酒屋巡りである。

先日、帰国がらみにユーロで円を買って、円の弱体ぶりにたまげた。

ためしに今日のレートは?と調べてみると、円はさらに安くなって、1ユーロがなんと約184円だ。要するに今日なら“たった”5435ユーロほどが100万円に相当することになる。

僕は5500ユーロで100万円を手にした。ちょうど一週間前の話だ。

つまり、もしも今日ユーロで円を買っていれば、僕は黙っていても約1万2千円を余計に手に入れることができた。

日本の輸出大企業とインバウンドの外国人観光客ばかりが得をし、日本国民の大半が物価高に苦しむ円安のカラクリだ。

高市首相に言いたい。

台湾有事・日本存立危機発言をさっさと撤回して、異様な円安対策に本腰を入れたほうがいい。

そうすれば、日本初の女性首相の経歴には少し箔がついて、サッチャー英首相やメルケル独首相の域にまでは無理でも、ここイタリアのメローニ首相の足元あたりまでの評価は得るかもしれない

そうしておいて退陣すれば、日本の未来にほのかに明かりがともらないとも限らない。





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イタリアのフェミサイド(女性殺害)は「アモーレ(愛情)過多が原因」というたわけ

薄闇の中両手で防御する女性

イタリアは先月、欧州主要国の中で初めて、女性が女性であるという理由だけで殺害される、いわゆるフェミサイドを独立した犯罪と定めた。

有罪になると自動的に終身刑に処される。死刑のないイタリアでは最も重い仕置きである。

世界の殺人事件の被害者は、およそ8割が男性である。そのため一般的ではない女性被害者にことさらに焦点を当てる、フェミサイド論争はおかしいという見解も根強くある。

しかしフェミサイドの根底にあるのは、深い女性差別の心理であり、男による女性支配願望である。それは家父長制社会の特徴でもある。

そんなメンタリティーが支配する状況では、女性はただ「女性である」という理由で殺される。フェミサイドの被害者にとっては、家の中が最も危険、という容認しがたい環境があるのだ。

そんな理不尽は必ず是正されなければならない。

世界的に認められたフェミサイドの定義はない。だがそれは世界中で頻繁に起きる。人口比率で見ると世界の発生率はアフリカが最も高い。次いで南北アメリカオセアニアアジアヨーロッパの順になる。

発生件数で見ると、世界全体では毎年6万6千人前後の女性がフェミサイドで殺害される。最も多いのは中南米の国々。

またインドやアラブ諸国も多く、米国では1日に平均4人の女性がフェミサイドに遭う。

ちなみに欧州で発生率が高いのはバルト3国次いでクロアチア、オーストリアが高い。その逆にスウェーデン、イタリア、ギリシャ、スペインなどが低い。

ただし発生件数を絶対数で見ると、人口の多いドイツ、フランスでの犠牲者数が多く、イタリアも同様である。

英国は特殊なデータ収集法を用いていて、比較がさらに難しいが、2022年の統計ではフェミサイドと見られる殺人の犠牲者は121人。

このうち12人が息子によって殺されている。英国では2009年から2024年の15年間で170人あまりの母親が息子に殺された。

母親殺しは英国が突出して多いようだ。いわゆるラテン文化の伊仏葡西を少し知る僕には、英国の事情には思い当たるフシがある。

ちなみに2024年のフェミサイドの犠牲者数は、イタリアが116人、フランス107人、ドイツ191人、英国ではおよそ80人という数字が出ている。

しかし、同国では平均して3日に1人の女性が男性によって殺害されているという統計もある。全体では約120人となり、他の主要国に近い数字で納得しやすい。

イタリアのフェミニサイド発生率は前述のように際立って高い訳ではない。英独仏スペインなどとほぼ同程度である。

イタリアは女性の権利意識や社会進出、またジェンダー事案全体の開明性という点などでは、英独仏等に遅れを取りがちだ。

イタリアは現在、世界男女格差指数で85位と、EU加盟国の中でほぼ最下位に位置している。およそ150カ国中で毎年120位前後が定位置の日本ほどではないにせよ、ホントに欧州の国かと疑いたくなるほどの寂しい数字である。

さらに言えば、イタリアにおける
女性の就業率は50%強にとどまるなど、課題は少なくない。

そのイタリアがフェミサイドを重要犯罪と位置づけて特別扱いし、有罪の場合は自動的に終身刑にするとした進歩性を見せた。なぜか。そこにはイタリアならではの事情がある。

イタリアの年間の犠牲者数は記述のように取り立てて高い訳ではない。英独などに比べるとむしろ少ないと見たほうがいい。

イタリアではかつて、フェミサイドの被害者が1年に平均171人もいた。ほぼ2日に1人のペースである。

幸い数字は年々減る傾向にあり、2023年は120人、2024年は既述のように116人、2025年は11月末現在106人。

件数は減り続けているが、それでも毎年100人を優に超す人数の女性がフェミサイドに遭っている。

イタリアの特異さは、フェミサイドが軽視される傾向にあることである。男が主として愛情のもつれから女性を殺害するのは、「相手女性を愛し過ぎているから」という暗黙の了解が厳然としてある。

いわゆる痴話喧嘩の極端なケースがフェミサイドである。そして痴話喧嘩は極めて個人的な事案であり、痴話喧嘩には他人は口を出すべきではない、という心理がイタリア人には強く働く。

まさにアモーレ(愛)の国ならではの在りようだが、被害者になる女性はたまったものではない。だからこそイタリアでも、女性に対する暴力を何とかしなければならない、という気運が高まった。

イタリアでは、女性の殺害には至らないものの、顔や体に大きな損傷を受ける酸攻撃の被害者なども少なくない。

たとえば先年、ジェシカ・ノターロさん(27)が元恋人の男に酸を浴びせられて顔を大きく損傷した。ノターロさんはミスユニバースのイタリア代表選で最終選考まで残り、歌手としても知られた存在。

彼女は事件から2ヶ月後に敢えてテレビ出演をして、破壊された顔を画面にさらし「私をこんな姿にしたのは断じてアモーレ(愛)などではない」と訴えて、視聴者の心を震撼させた。

女性の権利意識が高い欧州の中で、イタリアはどちらかというと後進地域の一つであり続けている。そこには保守傾向が強いバチカンを抱えた特殊な事情等がある。

だがそのイタリアに於いてさえ、「愛にかこつけた女性への暴力」の愚劣を根絶しよう、という動きが高まって、ついに欧州でも先進的な・画期的な法律が成立した。

他の国々も続くと見られている

続くべきである。





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死が観念からうつつになる時

子供墓の天使像切り取り930

死を語ることは常に観念的である。なぜなら死の実際を語れるのは死者だけだからだ。しかし死者は無言だ。

生者が語る死は全て推知であり嘘である。

生きているわれわれが実況を語れるのは生のみだ。その生は死がなければ完結しない。つまり生は死を内包していると気づくときだけ、死を語ることに何らかの意味が発生する。

それでも生者が語る死はやはり観念的であることからは逃れられない。

ところがその死は、尊厳死また安楽死という言葉に移し変えられると、ふいに観念から実景へと変化する。

そこに法がからまるからだ。つまり強制性が加わる。その場合の強制性とは、ひとことで言えば殺人のことだ。

尊厳死は命の炎が燃え尽きていくままに任せることだが、病院で行われる場合は、医療行為をほぼ停止するという意味で、殺人と言えないこともない。

片や安楽死は、死にゆく本人または他者が意図的に命を絶つ行為である。特に後者は、他者が他者の命を絶つのだから明らかな殺人だ。

だがそれらの行為の前には、死に行く人自身による明確な死の選択がなければならない。

尊厳死も安楽死も回復不可能な病や耐え難い苦痛にさらされた不運な人々が、「自らの明確な意志」に基づいて死を願い、それをはっきりと表明し、そのあとに自殺または自殺幇助による死を実行する状況が訪れた時に遂行される。

そのときにもっとも重要なことは、患者による死への揺るぎない渇求が繰り返し確認されることである。

それでなければ「自らの明確な意志」を示すことができない者、たとえば認知症患者や意識不明者あるいは知的障害者などを、本人の同意がないままに死に至らしめることになりかねない。

そうした場合には、介護拒否や介護疲れ、経済問題、人間関係のもつれ等々の理由で行われる「殺人」になる可能性がある。

親や肉親の財産あるいは金ほしさに安楽死を画策するようなことも必ず起こるだろう。

あってはならない事態を限りなくゼロにする方策を模索しながら、生をまっとうすることが困難な状況に陥った不運な人々が、「自らの明確な意志」に基づいて死を願うならば、これを認めるべきである。

それを拒むのは、僭越であるばかりではなく、当人の苦しみを助長させる残酷な行為である可能性が高い。

生は必ず尊重され、飽くまでも生き延びることが人の存在意義でなければならない。

従って、たとえ何があっても、人は生きられるところまで生き、医学は人の「生きたい」という意思に寄りそって、延命措置を含むあらゆる手段をつくして人命を救うべきである。

その原理原則を医療の中心に「断断固として」すえ置いた上で、患者による死への揺るぎない渇求がくり返し確認された場合は、尊厳死、安楽死は認められるべきと考える。

だが実を言えば、安楽死や尊厳死というものは存在しない。死は死にゆく者にとっても家族にとっても常に苦痛であり、悲しみであり、ネガティブなものだ。

あるべき生は誇りある生、つまり「尊厳生」と幸福な生、つまり「安楽生」である。

不治の病や限度を超えた苦痛などの不幸に見舞われ、且つ人間としての尊厳をまっとうできない生は、つまるところ「尊厳生」と「安楽生」の対極にある状態である。

人は「尊厳生」または 「安楽生」を取り戻す権利がある。

それを取り戻す唯一の方法が死であるならば、人はそれを受け入れても非難されるべきではない。



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いかに死ぬかとは、いかに生きるかという問いである

本から煙

死を見つめるのもそこから目を逸らすのも本質は同じ。死への恐怖である

死という言葉が死を呼ぶという言霊信仰や迷信の影響、という世界共通のありようを別にして語ろうと思う。

イタリア人は、あるいはキリスト教徒は、学問や文学などの領域を除けば、死について日常的に語ることを避ける傾向がある。

日本人のように死は避けられないものと受忍して、折に触れてそれを意識したり口に出すことは少ない。

元々そうではなく、キリスト教徒も死を恐れつつ救いを求めて、行住坐臥に死を語り死を受け入れていた。死の苦しみをやわらげる手助けをするのが宗教である。キリスト教も例外ではない。

だが教会が権威拡大のために死の恐怖を強調し、救いを求める信者が教会への依存を強めるよう画策したことが反発を呼んで、人々はやがて死を語らなくなった。

また近代になって終末期医療の現場が家庭から病院へと移り、死が人々の日常から遠ざかるにつれて、それを不断に意識する機会が減り死に関する話題が避けられるようになった。

加えて次のような理由もある、と僕は考える。

デカルトが「我思う、故に我あり」というシンプルな命題に託して、それまでの支配観念であった「コミュニティが先ずあって個人がある」というスコラ哲学の縛りを破壊した。

いわゆる“近代的自我”の確立である。

私という個人の自我意識によって世界を見、判断して、人生を切り開いていく、という現代人にとっては当然過ぎるほど当然の価値観は、人々の自己への自信を深めた。

自信を深めた我、あるいは私という個人は諦めずに闘い、進化する存在になった。死生観にもそれは現れた。

死は避けられないものだが、それを恐れたり語ったりするよりも、今生きて在る自分自身を大切にし前進し続けるとこそが重要、という考え方が尊重されるようになった。

そうやって現代西洋人はますます死を語る習慣をなくしていった。僕はそこに西洋近代の不首尾の一つを見る。

いつ、どこで、いかに死ぬか、という自身では制御できない問いをあえて問うことは、つまるところ「いかに生きるか」と問うことである。

なぜならば生は死がなければ完結しない。畢竟、死は生の一部にほかならない。

いかに死ぬかを問うことが、いかに生きるか、という問い整合するのは、そのことだけでも明らかである。

いかに生きるかを問わない生き方は、いかに生きるかと問い続ける生き方よりも少し寂しく見えないこともない。




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肉体が命の行く末を差配する

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命の行く末を牛耳っているのは肉体である。

当たり前じゃないか、と思うかもしれない。だが決して当たり前ではない。

なぜならそのことを実感するにはある程度の年齢を重ねなければならない。

若者の命は、あたかも肉体がなくても存在するがごとく躍動している。

若い肉体は生のエネルギーに満ち溢れている。彼らは健康である限り命の行く末などという迂遠なコンセプトには一顧だにしない

あるいは若者は命と肉体を区別しない。それは一体となってたぎっている。

言葉を替えれば若者は命や死に無頓着だ。

意気盛んな若者にとっては、彼らの存在そのものである命も、その対極にある死などというものはもっとさらに、七面倒くさいコンセプトに過ぎない。

僕は60歳代を通過して次の命のステージに飛びこもうとしている。そこは危険な領域である。

周りを観察していると、70歳から72、3歳は肉体の鬼門のように見える。

若者は肉体が命の先行き差配していることを知らない。

肉体が命を牛耳っていると気づくのは、若くなくなった時である。僕の場合はここ1、2年のことだ。

菜園で作業をする時の疲れ方が、それまでとは違うと感じる。

今の疲れには死のほのめかしのようなものがある。単なる筋肉の疲れではなく、体の深奥が呻吟するような疲弊である。

菜園では種まきや稙苗また水遣り以外はほとんど何もしない。畑は有機農法で耕している。雑草が勝手放題に繁茂し虫が大量に湧く。

僕は菜園に細かく手を入れるタイプの野菜作りではない。

作業をしたいのは山々だが時間がない。除草などもほとんどしないまま放っておく。

雑草は取り除かないと次々に花をつけ、種を撒き散らして大きくはびこる。それは分かっているが、じっくりと土に向き合う時間がないので、ミニ耕運機を畑に入れて鋤いてしまうことが多い。

とはいうものの、畑には草が茂り、小石が無数に埋まり、壁に食い込むEderaキヅタ )などの殺人的なしつこい草木がはびこる。ごくたまにはそれらを整理したくなる。

水はけを良くするために砂や粗い堆肥を埋めることもある。少しは有機肥料を入れたりもする。仕事はきつい。今はきっちり1日に1時間だけと決めて作業をする。

気や命だけではほぼ何もできない。肉体が横溢してこその気であり、命であり、作業なのである。




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高市であろうがなかろうが日本極右は欧州極右よりずっと危険だ

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公明党が連立離脱というニュースが駆け巡っている。自民党の高市新総裁がほぼ自動的に首相になるどころか、誰が次の総理大臣になるのか見通せない、混とんとした状況になった。

どの党が連立に加わっても、また自民党が政権を掌握できなくても、極右化する日本の政治の危険度に変わりはないので❝高市政権が発足したなら❞という前提で意見を述べておくことにした。

高市早苗自民党総裁誕生に関する直近記事に多くの方からコメントやメッセージが寄せられた。

最も多かったのが記事の終わり:「高市政権は船出と同時により右カーブではなく左カーブ、即ち中道寄りへと政策も心情もシフトしていく」に対する疑問や反論である。

多くの方が、高市政権は左寄りにシフトする、と僕が主張したと誤解しているようだ。

極右の高市政権がリベラルになる訳がない。そうではなく、ファシスト気質の高市政権は船出と同時に❝現実路線❞を取るだろう、というのが僕の言いたいところだ。

それをしないなら、少し大げさに言えば、中国・韓国・北朝鮮、特に中国と戦火を交えない限り、彼女の極端な超国家主義者魂の立つ瀬がないだろう。

だがさすがの高市ちゃぶ台返しオヤジ首相でも、隣国と火ぶたを切るほどの狂気はまだ持ち合わせていないだろうから、とりあえずはファシストの正体を秘していわば脱悪魔化をはかる。

要するに現実路線に立ち返る、と考えたのである。

だが全く違う結果も考えられる。

高市首相は日本独特の右翼カルト暴風に吹き巻かれて、ますます右へと突き進みついには政治的に自爆死するかもしれない。

それはここ欧州の極右にはあり得ないことだ。

欧州にも右傾化の強風が吹き荒れている。

欧州に於ける極右の台頭はリベラル勢力の驕りに対する民衆の怒りもあるが、最大の要因は強い反移民感情である。増えすぎた移民に欧州の人々はいら立ち、右派はその不満を利用して勢力を伸ばしている。

だが欧州には「欧州の良心」がある。そのため各国政府による移民排斥の動きには一定のブレーキがかかる。

僕が規定する欧州の良心とは、欧州の過去の傲慢や偽善や悪行を認め、凝視し、反省してより良き道へ進もうとする“まともな”人々の心のことだ。

欧州は世界各地を侵略し殺戮をくり返し、域内の紛争も軍事力で解決するのが当たり前の、野蛮で長い血みどろの歴史を持っている。そして血で血を洗う凄惨な時間の終わりに起きた、第1次、第2次大戦という巨大な殺戮合戦を経て、ようやく「対話&外交」重視の政治体制を確立した。

それは欧州が真に民主主義と自由主義を獲得し、「欧州の良心」に目覚める過程でもあった。

欧州の良心はキリスト教の博愛の精神によって補強されより寛大な方向に展伸するが、第2次大戦後にさらに拍車がかかった。

つまりドイツ国民のナチズムへの徹底総括と深い反省、またイタリア国民の強力な反ファシズム感情がヨーロッパ中に大きな影響を与えて欧州の良心はいよいよ強固になった。

欧州に於ける政治の右傾化、また民衆の反移民感情は欧州の良心と並存している。

政治の右傾化や反移民感情は多分に感情的だが、欧州の良心には理がある。その理が政治の右傾化を監視し反移民感情に待ったをかける。制御心が働くのだ。

その情動には極右も無縁ではあり得ない。

例えば移民排斥を叫んで支持を広げ、ついには政権の座にまで就いたここイタリアのジョルジャ・メローニ首相がその好例だ。

メローニ首相は、ファシスト党の流れを汲む「イタリアの同胞」(党)を率いて反移民感情を人々の間に搔き立てては支持を伸ばし、ついには首相にまで上り詰めた。

昇りつめると彼女は政権公約を果たすべく移民規制に乗り出したが、思うようには進んでいない。いや、思うように進んでいないのではなく、彼女には移民を無慈悲に徹底的に排斥する意思はないのだ。

不法移民を規制する方向には動くものの、彼女の中にある欧州の良心がそれを抑制する。ましてや彼女は難民移民の徹底保護を主張してやまないローマ教会の信者だ。

彼女と同じ感情は欧州の右派に多かれ少なかれ宿っている。そして彼らは反移民レトリックを用いて民衆を主導し勢力を伸ばし続けている。

同時に彼らは政権の座に就くと常識的になるだろう。不法移民、悪意ある外国人は厳しく取り締まるとしつつも、欧州の良心に促されて彼らを平等に扱おうとする情動が働くのだ。

彼らは極右らしく暴力的だが、かつてのナチスのように非情な人種差別意識をむき出しにして人々に牙を剥くことはあり得ない。

欧州の今この時の極右勢力はかつてのナチスやファシストではない。

ヒトラーはヒトラーを知らなかった。だがいま欧州で最も大きな脅威と見られているドイツの極右Afdはヒトラーを知悉している。だから彼らはヒトラーの轍は踏まない。

同様にムッソリーニはムッソリーニを認識できなかったが、ムッソリーニを良く知るイタリアの同胞は、メローニ首相をより穏健な極右、あるいは中道寄りに向かう急進右派たる存在に造り変えた。

日本ではあたかも欧州の極右のように反移民をあおる参政党が躍進した。各野党もそれに近い主張をした。自民党の総裁選では高市早苗候補が外国人差別を煽る動きにさえ出た。

だが世界の国々に比較すると日本の移民の数などたかが知れたものだ。ところが参政党を筆頭にする右派は、アメリカや欧州の真似をして選挙で反移民キャンペーンを張った。つまり彼らは例によって欧米の物真似をしたのである。

そうであれば可愛いもので取るに足らない。

しかしながら、その中身は日本独特の天皇崇拝・靖国偏執跪拝・国家神道狂信・日本会議及び安倍憑依教団等々が一体になったカルトの顕れである恐れがある。

一見すると、右傾化という世界共通の現象の中にあるようだが、実はそこには属さずに孤立し鬱屈して牙を研いでいる、デモーニッシュななにかのように見えるのだ。

極右の流れが本流となり、さらに激流となって世の中を席巻するのは、中道や左派の主要政党が彼らの真似をして国民の関心を買おうと考える時だ。そうなると極右モメンタムは制御不能となって爆発する

欧州の極右の動きには因果があり筋道がある。熱に浮かされて天皇崇拝や靖国遥拝や国家神道などを叫ぶ神懸かり的な精神論が入る余地はない。

ところが日本の場合はそうした理や制御心が働かないように映るのだ。いわゆる先進国のうちでは圧倒的に少ない移民に対して、既述のように参政党が突然憎悪を爆発させ、他の保守勢力が追随する。政権党の自民党も例外ではない。

繰り返しになるが、欧米を含む世界の流行が日本で根拠なくコピーされるパターンである。だがその流行は歌やファッションの流行りではない。偏見差別と、究極には殺戮行為にまで簡単に進みかねない反移民運動の流行なのである。

それはやはり日本カルトの顕現としか形容の仕様がない異様な光景だ。カミカゼ的サイコパス政治勢力が何の障りもなく、誰にも阻止されずに当たり前に存在する、世界の中の異形の土地の恐怖だ。

異形の土地は天皇を神と崇める旧人魂と過去の対戦を総括できなかった無念の歴史事実とに守られて厳然として残った。

それに乗っかった日本極右の危険度は、ドイツAfdやイタリアの同胞、またその他多くの欧州極右とは比べものにならないほど高いのである。





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女性姿のオヤジ首相が向かう先

高市国旗

高市早苗氏が自民党総裁に選出され、ほぼ確実に次期首相になるという見方が広がっている。

僕は彼女を深い懐疑の目で観察しながら淡い期待も抱いている。

その複雑な思いは、2024年の総裁選時を始めとして自身のブログに全て書き込んだ。

その主旨をまとめると次の如くだ。

僕は高市早苗候補だけは決して日本のトップにしてはならない、と考え、つい最近までそこかしこにそう書いてもきた。

今もそうだが、それでも2度に渡って総裁候補の顔ぶれを見ているうちに、毒を持って毒を制す、のような気分にもなった。

高市という猛毒をもって日本の男社会という毒に楔を打ち込む、という印象である。

つまり、猛毒の高市候補が日本初の女性首相になる手もあるのではないかと考え出したのだ。

❛高市首相❜もありかもと考える第1の、そして最大の理由は高市候補がオヤジよりもオヤジ的な政治家でありながら、それでも女性だという点だ。

首相になれば日本の諸悪の根源である男尊女卑メンタリティーにとりあえず一撃を見舞うことになる。それは、無いよりはあったほうが確実に日本のためになるイベントだ。

心優しい良い女性、すばらしい女性を待っていては日本には永久に女性首相は生まれない。女性首相の大きな条件の一つは「タフな女」であることだ。

サッチャー元首相もメルケル元首相も、またここイタリアのメローニ首相も男などにビビらないタフさがある。高市候補は権力者のオヤジらに媚びつつも、鉄面皮で傲岸なところがタフそのものに見える。

2つ目は肩書の奇跡だ。

肩書きが人間を作る、というのは真実である。

一つ例を挙げる。

イタリアで初の女性首相となったジョルジャ・メローニ氏は、ファシスト党の流れを汲む「イタリアの同胞」を率いて選挙を勝ち抜いた。

選挙中、彼女は右寄りの政策を声高に叫びつつ一つのスローガンをさらに大声で主張した。

いわく、「私はジョルジャだ。私は女性だ。私は母親だ。そして私はイタリア人だ」と。

「私はジョルジャだ」は自らが自立自尊の人格であることを、「私は女性だ」は女性であることを誇ると同時にジェンダー差別への抗議を、「私は母親だ 」は愛と寛容を、「私はイタリア人だ」は愛国の精神を象徴していると僕は見た。

メローニ氏はそうやって国民の支持を得て首相の座に上り詰めた。

ところがメローニ氏は、首相になるとと同時に激しい言葉使いを避け、険しい表情をゆるめ、女性また母親の本性があらわになった柔和な物腰にさえなった。

政治的にも極端な言動は鳴りをひそめ、対立する政治勢力を敵視するのではなく、意見の違う者として会話や説得を試みる姿勢が顕著になった。

彼女のそうした佇まいは国内の批判者の声をやわらげた。僕もその批判者のひとりだ。

また同氏に懐疑的なEUのリベラルな主勢力は、警戒心を抱きながらもメローニ首相を対話の可能な右派政治家、と規定して協力関係を構築し始めた。

ジョルジャ・メローニ首相は資質によってイタリア初の女性首相になったが、イタリアのトップという肩書きが彼女を大きく成長させているのも事実なのである。

高市自民党新総裁は、あるいは日本初の女性宰相となり、その肩書きによって人間的にも政治的にも成長するかもしれないと僕は秘かに考えているが、大きな問題ある。

つまりメローニ首相と同じ右翼政治家の高市氏には、イタリアのトップに備わっている女性としての自立心や明朗な政治姿勢や誇りが感じられない。

その代わりに虎の威を借る狐の驕りや、男に遠慮する「女性オヤジ政治家」の悲哀ばかりが透けて見える。女性オヤジ政治家は旧態依然とした男性議員を真似るばかりで進取の気性がない。その典型が高市氏だ。

3つ目は天皇との関係だ。人格者の上皇、つまり平成の天皇は静かに、だが断固として安倍路線を否定した。現天皇は今のところ海のものとも山のものともつかない。顔がまだ全く見えない。

❛高市首相❜が本性をあらわにファシスト街道を突っ走るとき、天皇がどう出るか、僕はとても興味がある。

天皇は政治に口出しをしないなどと考えてはならない。口は出さなくとも「天皇制」がある限り彼は大いなる政治的存在だ。それを踏まえて天皇は「態度」で政治を行う。

彼に徳が備わっていれば、という条件付きではあるが。

日本の政治と社会と国民性は、先の大戦を徹底総括しなかった、或いはできなかったことでがんじがらめに規定されている。

右翼の街宣車が公道で蛮声を挙げまくっても罪にならず、過去を無かったことにしようとする歴史修正主義者が雲霞のように次々に湧き出てくるのも、原因は全てそこにある。

ドイツが徹底しイタリアが明確に意識している過去の「罪人」を葬り去るには、再び戦争に負けるか、民衆による革命(支配層が革命の主体だった明治維新ではなく)が起きなければならない。

しかし、そういう悲惨は決して招いてはならない。

僕はこれまで高市早苗氏を、安倍元首相の腰巾着であり、歴史修正主義義者であり、メディアを恫喝支配できると信じているらしい思い上がった思想の持ち主、とみなし批判してきた。

彼女が総務相時代の20016年、放送局が政府の気に入らない放送を繰り返したら電波停止を命じる、と示唆した発言はあまりにも重大だ。

メディアの監視と批判に耐えられない政治家は首相になるべきではない。メディアを抑圧し制御できると考える政治家は、政治家でさえない。それは単なる独裁者だ。

高市候補にはそのように暗く危険なファシズム的気質がある。それはここイタリアのジョルジャメローに首相にも通底する個性だ。

高市候補は2度に渡って総裁選に出馬し戦う動きの中では、女性であることを意識しないと強調した。彼女は選択的夫婦別姓制度にも反対だ。

だがそれではダメだ思う。彼女は女性であることを大いに意識し、彼女が日本初の女性首相になることは、日本の諸悪の根源である男尊女卑思想を一掃するための大いなる一歩、と位置づけ闘っていくべきだ。

高市氏がここまでそうしないのは、彼女の岩盤支持者である保守強硬派の男らの反発を避けるのが狙いだろう。だが女性蔑視のメンタリティーが国の未来まで貶めることが確実な日本にあっては、女性であることを前面に押し出すことは重要だ。

高市候補に限らず、男に媚びることが多い日本の「オヤジ女性政治家」が、真に「男女を意識されない」一人の政治家と見なされるためには、闘う本人が先ず女性であることに誇りを持ち、女性として自立し認められることが重要だ。

男を真似する「オヤジ女性政治家」は“フェイク”であることを、何よりもまず女性政治家自身が悟らなければならない。

ネガティブな要素も多く抱えた高市自民党新総裁は、日本初の女性首相になる機会を得た。ならばチャンスを活かして生まれ変わってほしい。

女性であることにこだわるメローニ首相はまた、トランプファシズム気質大統領と親和的な関係でもある。同時に彼とは1対1の対等な立ち位置もしっかりと保って動いている。

片や高市新総裁はどうだろうか。首相になって米大統領と対等な関係を構築できるだろうか。それは恐らくないものねだりに終わるだろう。

彼女は安倍元首相を神とも崇めひれ伏す存在だ。その安倍氏はトランプ氏を勝手に友と呼ぶだけの大統領の忠犬だった。

忠犬の忠犬である未来の高市首相に、トランプ大統領にNOと言える器量を期待するのは無理だろう。

自らをバカに見せる狡智も備えているらしいトランプ大統領は、総裁選に勝った高市氏を「知恵と強さを持った人物」とSNSで評価した。ところがその際には高市氏の名前には言及しなかった。

そのあたりに日本と日本のトップを見下しているトランプ大統領の本音が透けて見える。同時に彼の本音に何らかの形で一撃を加える女っぷりなどなさそうな高市氏の正体も。

なにしろ女の姿をしただけの❛オヤジ気質の首相❜なのだから。

高市新総裁はファシズム的な体質が似ている点を除けば、イタリアのメーローニ首相とは似ても似つかない存在だ。メローニ首相が明なら彼女は陰、と形容しても良いほど印象が違う。

もっと言えば高市氏は、自ら率先して右翼運動を担うのではなく、例えば安倍元首相に庇護されて四囲を睥睨してきたように、威光を笠に着て凄むタイプだ。

一方のメローニ氏は自ら激しく動いて道を切り開くタイプの政治家である。

それでも高市新総裁は、日本初の女性宰相になれば、その肩書きに押されて人間的にも政治的にも成長するかもしれない。

最後に、高市政権は船出と同時により右カーブではなく左カーブ、即ち中道寄りへと政策も心情もシフトしていくと僕は予想する。

日本は孤立した国だがひとりで生きているのではなく、近隣国があり世界世論の影響を大きく受けて存在している。それらに圧されて❛高市首相❜は必ず穏健路線に向かうだろう。

もしそうならなかった場合は、世界を席巻している右傾化の潮流は実は日本には届かず、天皇崇拝や靖国的神懸かりカルトが「日本右傾化」の本質ということが明らかになって、高市政権の危険度は一気に高まるだろう。



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イギリスの遅過ぎたパレスチナ国家承認

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9月22日、イギリスがパレスチナ国家を正式に承認した。

イギリスの前にはカナダとオーストラリア、またすぐ後にはポルトガルもパレスチナを国家承認した。

さらにフランスも一日遅れでそれらの国々に続いた。

イギリスは2000年以上続くユダヤ・パレスチナ問題を近代になって複雑化させた張本人だ。

同国は第一次大戦中にそれぞれが矛盾する3つの狡猾因業な秘密協定を結んだ。

そのうちの一つはアラブ人に独立国家を認め、もう一つの協定ではユダヤ人国家を認めるとした。後者はユダヤ人の金を横取りするのが主な目的だった。

第1次大戦が終わるとパレスチナはイギリスの委任統治領となった。するとユダヤ人との秘密協定に沿ってパレスチナにユダヤ人が移住し始めた。

当初ユダヤ人は先住のアラブ人と平和共存していた。だが入植者は増え、金にあかせて土地を買いまくってはアラブ人を圧迫排除する動きに出た。

ユダヤ人入植者は第2次大戦とホロコーストを経てさらに増え続け、対立はますます激しくなった。イギリスは大戦後の1948年、パレスチナの統治を諦めて国際連合に問題を丸投げした。

つまり世界中でしばしばやってきたように、散々甘い汁を吸った後、無責任に問題を放置してトンずらしたのだ。

それから77年後の先日、パレスチナ人を虫けら同然に見なすトランプ大統領を、チャールズ英国王はまるで聖人君子をもてなすようにもてなした。

相変わらずパレスチナ人民を貶めて平然としていると僕の目には映った。

英仏の2大国がアメリカの意向に逆らってパレスチナを国家承認したが、実のところそれは象徴的なアクションに過ぎず、ガザでの殺戮も終わらなければパレスチナ国家の独立も起こりえない。

アメリカがイスラエルを抑えてパレスチナの国家樹立を認めない限り、現状は決して変わることはないのだ。

ましてや飽くまでもイスラエルの蛮行を支持し、パレスチナ人を殲滅して彼らの土地をリゾートに造り変える、と本気で考えているトランプ大統領という人非人の心を持つ男が、アメリカを「独裁統治」している限り哀れなパレスチナには明日はない。

そうではあるが、しかし、イギリスが今この時トランプ大統領の顔を潰してまでパレスチナを承認したことは、「欧州の良心」の発露のひとつで道徳的に大きな意義がある。

トランプ大統領の顔色を窺い忖度に終始し、「現時点での承認は停戦や中東和平の実現には繋がらない」 と岩屋外務大臣の声を使って痴ほうじみた声明を出した日本政府の姿勢は無残だ。

国家承認はパレスチナ情勢の進展には資さない、という日本政府得意の姑息な建前レトリックが、トランプ大統領を怖れる卑怯者の本音隠匿術であることを世界は知らないとでも思っているのだろうか。



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日本の解放記念日まで


日本ゲシュタポ憲兵隊650

今日9月2日は、世界の大半(特にアメリカ)が規定する第2次世界大戦の終結日である。つまり日本の敗戦記念日だ。

天皇を中心に物事を考え引きずり回すことが得意な旧弊族が、未だに社会を支配しがちな日本では、昭和天皇がラジオで国民に終戦を伝えた日、すなわち8月15日にこだわる。

あまつさえ彼の声を玉音と呼んでひれ伏したりもする。だが、善悪混交する戦中と戦後の彼の評判はさておき、昭和天皇はまぎれもなく先の大戦の最大の戦犯であることは疑いようがない。

僕は日本の敗戦日をここイタリアに倣って「解放記念日」と呼んでみたい。イタリアでは民衆がムッソリーニを処刑しファシズムを撃破したので、終戦の日を「解放記念日」と呼ぶのである。

しかし日本の場合は、戦争が終わっても戦犯の昭和天皇&軍部が徹底処罰されなかった無念の歴史があるため、とても「解放記念日」とは規定できない

日本は他者、つまりかつては占領軍による断罪、今日なら例えば世界世論などの“外圧”による指弾ではなく、日本国民自身が自主的に戦争を徹底総括する過程を経なければ決して生まれ変わることはできない。

それをしない限り、日本は将来必ずまた戦争を始めるだろう。

戦前を懐古するのみならず、日本社会を再び天皇中心の狂った仕組み、あるいは全体主義に作り変えようとするカルト的勢力が、急激に台頭しているのがそのだ。

戦犯の昭和天皇はもはや存在しない。だからといって彼の極大の罪がなくなるわけではない。

それでも彼の罪は、明仁上皇つまり平成の天皇の人徳と行動とによって、ある程度は軽減されたと考えることができるかもしれない。

平成の天皇は、 戦前、戦中における日本の過ちを直視し、自らの良心と倫理観に従って事あるごとに謝罪と反省の心を示し続けた。

さらに彼は、被害国と戦場を訪問してはひたすら頭を垂れて贖罪し、平和への歩みをたゆみなく続けた。その事実によって少なくとも「天皇家の罪」は浄化されたと個人的には考えたい

それはひとえに明仁上皇の、軍国主義日本による被害国への謝罪行脚と、誠実な人柄を尊崇しての思いである。

当代の徳仁天皇は、罪人の昭和天皇といわば聖人の明仁上皇の、それぞれの「負の遺産」と「業績」を継承したが、彼は断じて彼が天皇、つまり“何者であるか”によって評価されるべきではない。

そうではなく、彼は“何を成すか”によって評価されるべき存在だ。言葉を換えれば彼は、天皇としてではなく、人としてどう動くか、によって歴史の審判を受けるのである。

僕は徳仁天皇の同時代人として、彼が先の大戦の徹底総括に向けて「何かを成すこと」を期待する。

だが、言うまでもなくそれは、天皇よりもまずわれわれ国民が先鞭をつけるべき事案であり義務である。





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日本人の被害者意識が自らの加害の歴史を透明化する

富士と宮島鳥居650

原爆投下から敗戦に至る歴史を思うとき、ことしは特に感慨深い。参政党という日本の戦前戦中また戦後の暗黒部分を全身に纏ったような異様な政党がふいに世の中を席巻したからだ

1945年8月6日から8月15日までの日々を、日本人が被害者意識丸出しで語り始めたのはいったいいつ頃からだろうか。その時を境に日本人は自らの巨大な加害の歴史を忘れ始めた。

広島、長崎を含む日本国民は、アジアの国々を蹂躙した加害者の昭和天皇と軍部また彼らを支えた全ての国家機関の被害者であると同時に、戦争犯罪者らに盲目に従ったという意味で、全員が加害者でもある。

原爆に象徴される圧倒的な被害を受けた日本国民の苦悩は記憶され続けなければならない。のみならず日本国民は将来、戦争の完全総括が行われることによって必ず救済されるべきだ。だが日本人はまた、加害者としての歴史も決して忘れてはならない。

原爆は何の脈略もなくある日ふいに空から落下してきたのではない。

イスラエルの横暴がなければハマスは生まれず、従って10月7日攻撃もなかった。またアメリカがイスラエルを支援すると同時にアラブ諸国への敵対施策に固執しなければ、ビンラディンによる同時多発テロも起きることはなかった。

同様に、日本が無謀な戦争を起こし非情な攻撃に狂奔していなければ、原爆投下もなかった。

日本は欧米を猿真似て近隣諸国を侵略し暴虐を重ね殺戮を続けた。結果、世界の憎しみを買った。アメリカは真珠湾奇襲以降ふくらみ続けていた自国民の日本への怨みもそこに重ねて正当化し、深重な決断をした。それが原爆投下だ。

原爆攻撃は言うまでもなく無差別殺戮であり戦争犯罪である。

だがその前には既に、日本軍による残虐な無差別攻撃があり戦争犯罪があったことを忘れてはならない。例えば日本軍の錦州空襲は人類史上初の、また重慶空爆はそれに続くさらに大規模な無差別攻撃だった。

日本軍によるアジアでの無差別殺戮と真珠湾攻撃、さらにそれに続く日米間の殺し合いを通して、日本兵の狂暴残忍な正体を十全に見てきたアメリカは、広島と長崎に非人間的な原爆を投下するのを躊躇しなかった。

戦時の日本人の凶暴性は今に生きている。

うむを言わさずに外国人排斥を叫ぶ参政党や保守党、また自民党の最右翼の安倍派、はたまた同党の西田昌司“蛇の道は蛇”一派などに受け継がれていると考えられるのだ。

特に参政党は戦前の政治かと見紛うような「天皇を軸に一つにまとまる日本」を標榜する一方で、ナショナリズムや反グローバリズムなどにも乗っかる。GHQを巡る怪情報を語りつつ日本が『あの勢力』に支配されているとする陰謀論にものめり込んでいる。

同時に有機食品愛好者を誘い反ワクチンまた反マスク派の人々にも彼らの運動への参入を声高に呼びかける。極右という当たり前の呼称はもはや間に合わず陰謀論党やオーガニック右翼などと規定するほうがしっくりくる奇怪な集団である。

た参政党は、太平洋戦争を「大東亜戦争」と呼び、且つそれは「侵略戦争ではなかった」とも主張する。大戦は「アジア諸国を欧米の支配から開放する」戦いだった、と極右お決まりの詭弁も弄する。

それは欧米に追随してアジア諸国を植民地化し凌辱した日本の愚劣な過去から目をそむける、彼ら十八番の魂鎮めの祭りであり、でっち上げだ

さらに日本本土防衛の為の捨て石とされた沖縄戦についても、日本軍は「沖縄を守るために戦った」と虚言をわめき散らす。

彼らは従軍慰安婦や南京大虐殺も否定する。また戦後の日本人の歴史観はGHQ占領軍に押しつけられた「自虐史観」とも決めつける。要するに歴史修正主義が彼らの金科玉条なのである。

参政党は「極右」というくくりで一見してみると、ここイタリアの政権与党「イタリアの同胞」と「同盟」、またドイツのAfd(ドイツのための選択肢)にも似た顔を持つ。

だが参政党は、欧州の右派政党とは似ても似つかない集団だ。参政党には既述のイタリアの「同盟」と「イタリアの同胞」、またAfdドイツの選択肢などが曲がりなりにも備えている知性と論理と展望がない。

ここイタリアとドイツの、ひいては欧州の右派政党が持つ知性と論理と展望とは、ヒトラーとムッソリーニを知るということである。つまり彼らの存在を明確に認識することだ。

認識しておいて彼らの悪魔性を否定すること。それでも政治極端派の主張をひるむことなく言い続けることである。

要するに欧州の極右には、悪魔的ながらもビジョンがあるのだ。参政党にはそれがない。彼らは政党と呼ぶには、余りにもナイーブ― 英語本来の意味での ―過ぎるのである。ビジョンもなく知性も知識もなく、行きあたりばったりで物事に対処する。

そのため言動が大ブレにブレて右顧左眄し、嘘に走り、ごまかしの上塗りにさらにごまかしを塗り続ける。いうまでもなく彼らには過去を直視することなどできない。できないから歴史修正主義という日本極右の得意中の得意の空疎な踊りを踊り続ける。

欧州の極右が持つ危険だが筋の通った核心、つまり歴史認識を踏まえた上でなお且つ世間が極右と呼ぶ強い右寄りのスタンスを論理と信念で支え続ける能力、要するに前述の少しの知性が欠けている。

彼らは日本極右の一大特徴である「歴史の事実認識」不足という欠陥を共有しつつ、そのことを指摘されると「われわれが正しいから攻撃される」と無知を武器に変える屁理屈で逃げを打つ。

日本に於いて、事実をなかったことにしたり、事実を曲げて解釈したりする「歴史修正主義者」が雲霞のように湧き出て止まないのは、結局日本が日本人の手で戦争を徹底総括しなかったからだ。

日本は連合国側が開いた東京裁判だけで総括を終わらせた。軍事政権も昭和天皇も裁かれなかった。いや、国民自身が裁こうとしなかった。片やドイツは連合国主宰のニュールンベルグ裁判に続いて、ドイツ国民自身が彼らの軍事政権を裁き戦犯を徹底追及した。

その国で生まれたAfdは極めて危険だが、彼らの歴史認識は確かだ。その上で極右思想を振りかざすところがさらに不気味、という見方もできる。だが、ドイツを中心にする「欧州の良心」が必ず彼らの暴走を制御するだろう。

一方、戦争の徹底総括どころか自らの加害の歴史さえ見失いがちな日本で湧き出た、精神が幼い参政党とそれに類する政治勢力は、精神が幼い分勢力が拡大すればするほど興奮し、騒ぎ、調子に乗って抑制が効かなくなる。

そして戦争の包括的な反省さえできなかった国民には、「欧州の良心」に相当する信実も民主主義を死守する決意も望めそうになく、従って参政党の勝手次第がまかり通る事態がやって来かねない。

そうなれば歴史は繰りかえす。日本は再び破滅へ向かってまっしぐらに突き進まないとも限らないのである。



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参政党はナチスではないがナチスに通底する危険も秘めている

日の丸神谷演説650

参政党の躍進に少しおどろいた。支持が伸びるであろうことは、極右勢力が台頭し続けているここ欧州の状況や、トランプ主義が吹き荒れるアメリカのありさまに鑑みて予測できた。

だが彼らが14議席も獲得するとは正直思わなかったのである。

参政党のスローガンの「日本人ファースト」は、言うまでもなくアメリカの孤立主義を表す古い言葉「アメリカ・ファースト」に由来する。

第二次世界大戦中にはアメリカの参戦に反対する圧力団体「アメリカ第一主義委員会」が提唱し、2016年の大統領選挙でトランプ大統領がパクッて大成功を収めた。

それはさらにここイタリアの極右政権の「イタリア・ファースト」になり、他の国々の極右勢力も模倣して「それぞれの国ファースト」の大合唱になっている。

参政党は日本の多くの物事がそうであるように、欧米の後塵を有り難がって吸い込みながら、これを猿真似して「日本人ファースト」と叫んでいるのである。

その意味では可愛いものだ。パクリのパクリをさらにパクった彼らに、オリジナルの強い信念があるとも思えない。

参政党は将来、万万が一連立などで政権に近づくことがあっても、必ず湧き起こる欧米主導の世界世論に叩かれて、つまり外圧に負けて、彼らの差別主義的主張を引っ込めることになるだろう。

ヒトラーはヒトラーを知らなかったが、ドイツAfdを筆頭にする欧州の極右はヒトラーを知悉している。だから彼らはヒトラーにはならないし、なれない。

彼ら自身がヒトラーになることを躊躇するだけではなく、欧米が先導する世界世論が必ずこれを阻止する。ヒトラーとはそれほどに巨大な悪だ。

だかそうは言うものの、彼ら極右は飽くまでも極右であって、聖人君子や高潔の士の集まりではむろんない。

潜在的に極めて危険な政治勢力だ。従って早めにその芽を摘んだほうがいい。

だが、今この時はトランプ主義は大繁盛しAfdを筆頭にする欧州の極右も力をつけ続けている。先行きは分からない。

世界の趨勢によっては、欧米の二番煎じ勢力である参政党や保守党が、日本を席巻しないとは誰にも言えないのである。




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プーチンの信義違反


putinイラストと国旗650

先日の記事「≪人非人プーチンのブラックユーモア≫ 」を読んだプーチン支持者の方から「西側マスメディアに毒された見解」という、まるでご本人は東側住人でもあるかのようなコメントをいただいた。

僕の勉強不足を指摘したその方の勉強不足を嘆きつつ、前記事と重複する部分も敢えて削除せずに反論の意味も込めてこの記事を公表しておくことにした。

どんなに残忍な人間、例えば殺人犯にでも友人はいる。それがこの世のことわりだ。

ましてや一国の、それも大国の統率者であるプーチン大統領には、彼の権力の恩恵を受ける者以外にも多くの追従者がいるのが当たり前である。

しかし、だからといって、ウクライナに攻め込んだプーチン大統領の不正行為を「彼にも一理がある」という言い方で庇うのは無責任だ。

現代では主権国家を力でねじ伏せることは許されない。それは欧州が、アメリカが、日本が、アラブ諸国が、要するに世界中が過去に繰り返しやってきた蛮行である。

プーチン大統領は、2022年の欧州という開明が進んだ時間の流れの中で、ウクライナを侵略するという決定的な間違いを犯した。その間違いとは次のようなことだ。

欧州は紛争を軍事力で解決するのが当たり前の、野蛮で長い血みどろの歴史を持っている。そして血で血を洗う凄惨な時間の終わりに起きた、第1次、第2次大戦という巨大な殺戮合戦を経て、ようやく「対話&外交」重視の政治体制を確立した。

それは欧州が真に民主主義と自由主義を獲得し、「欧州の良心」に目覚める過程でもあった。

僕が規定する「欧州の良心」とは、欧州の過去の傲慢や偽善や悪行を認め、凝視し、反省してより良き道へ進もうとする“まともな”人々の心のことだ。

その心は言論の自由に始まるあらゆる自由と民主主義を標榜し、人権を守り、法の下の平等を追求し、多様性や博愛を尊重する制度を生んだ。

良心に目覚めた欧州は、武器は捨てないものの“政治的妥協主義”の真髄に近づいて、武器を抑止力として利用することができるようになった。できるようになったと信じた。

「欧州の良心」に基づいて政治・社会・経済制度の改革を加速させる欧州は、ロシアも自らの一部と見なした。

例えば西側を主導するG7クラブは、ロシアと協調する作戦を取り、同国をG7の枠組みに招待してG8クラブに作り変えたりしたほどだ。

言うまでもなくそこには、ロシアを懐柔しようとする西側の打算と術数が秘匿されていた。

同時にロシアは、西側とうまく付き合うことで得られる巨大な経済的利益と、政治的なそれを常に計算し巧みに利用してきた。

西側とロシアのいわば“化かし合いの蜜月”は、おおざっぱに言えば90年代の終わりに鮮明になり、プーチン大統領の登場によってさらに深化し定着した。

なぜか。

西側がプーチン大統領の狡猾と攻撃性を警戒しながらも、彼の開明と知略を認め、あまつさえ信用さえしたからである。

言葉を替えれば西側世界は、性善説に基づいてプーチン大統領を判断し規定し続けた。

彼は西側の自由主義とは相容れない独裁者だが、西側の民主主義を理解し尊重する男だ、とも見なされた。

しかし、西側のいわば希望的観測に基づくプーチン像はしばしば裏切られた。

その大きなものの一つが、2014年のロシアによるクリミア併合である。それを機会にG8はロシアを排除して、元のG7に戻った。

それでもG7が主導する自由主義世界は、プーチン大統領への「好意的な見方」を完全には捨て切れなかった。

彼の行為を非難しながらも強い制裁や断絶を控えて、結局クリミア併合を「黙認」した。そうやって西側世界はプーチン大統領に蜜の味を味わわせてしまった。

彼がウクライナに攻め込んだ遠因の一つには、クリミアでの成功体験のこころ覚えもあったに違いないのである。

西側はクリミア以後も、プーチン大統領への強い不信感は抱いたまま、性懲りもなく彼の知性や寛容を期待し続け、何よりも彼の「常識」を信じて疑わなかった。

「常識」の最たるものは、「欧州に於いては最早ある一国が他の主権国家を侵略するような未開性はあり得ない」ということだった。

ロシアも欧州の一部であるから血で血を洗う過去の悲惨な覇権主義とは決別していて、専制主義国家ながら自由と民主主義を旗印にする欧州の基本原則を理解し、たとえ脅しや嘘や化かしは用いても、“殺し合い”は避けるはずだ、と西側は信じた。

ところがどっこい、ロシアは2022年2月24日、主権国家のウクライナへの侵略を開始した。

欧州の一部であるはずのロシアはそこに至って、プーチン大統領という民主主義の精神とはかけ離れた、独善と悪意と暴力志向が強いだけの異様な指導者に完全支配された未開国であることが明らかになった。

プーチン・ロシアは欧州などでは無く、むしろアジア的な世界観に支配された国だと僕は考える。ここでいうアジアとは、民主主義を理解しない中国、アラブ、日本右翼的な、世界の全ての政治勢力のことだ。

ところが3年前、ロシアがウクライナ侵攻に踏み切ったことを受けて日本では、ロシアにも一理がある、NATOの脅威がプーチンをウクライナ侵攻に駆り立てた、ウクライナは元々ロシアだった等々、こじつけや誤解や曲解また欺瞞に満ちた風説がまかり通った。

東大の入学式では、名のあるドキュメンタリー制作者がロシアの肩を持つ演説をしたり、ロシアを悪魔視する風潮に疑問を呈する、という論考が新聞に堂々と掲載されたりした。それらは日本の恥辱と呼んでもいいほどの低劣な、信じがたい言説だ。

そうしたトンデモ意見は、愚蒙な論者が偽善と欺瞞がてんこ盛りになった自らの考えを、“客観的”な立ち位置からの見方だと独りよがりに思い込み規定して、懸命に吠え立てただけのつまらない代物だ。

彼らはプーチン政権が主張した「ウクライナとNATOひいては西側全体がロシアの安全保障に脅威を与えたのが戦争の原因」という虚偽に踊らされて自説を展開したに過ぎない。

決して間違ってはならない。ウクライナもNATOも西側諸国の誰もロシアに侵攻などしていない。2022年にウクライナに攻め込み蹂躙し今この時も殺戮行為を続けているのは、ほかならぬプーチン・ロシアなのである。

ウクライナを侵略しているプーチン大統領のその行為は、言い訳など無用の悪だ。

彼はウクライナとNATOひいては西側の全体を脅威と見做し、警戒し、敵対している間は一理も二理も、三理さえもある男と言うことができた。

なぜならウクライナとNATOと西側の全体は、ロシアを侵略する意図はないものの、軍事的圧力を備えた大きな連合体としてウクライナの隣にどんと居すわっている。

その集団はロシアを信用していない。

ソビエトからロシア連邦へと形は変えたものの、ロシアは民主主義自由世界を敵視する潜在的に危険な存在、と見做してこれを強く警戒し監視を続けいる。

ロシアがその巨大な連合集団を脅威と感じ敵愾心を燃やすのは、プーチン大統領自身が西側の意図を誤解また恣意的に曲解している場合がほとんどとはいえ、理解できないこともない。

悪意を胸に秘めた者は、相手も自分と同じ悪意に凝り固まった存在だと思い込むのが普通だ。その悪心は自らの写し絵に過ぎないのだが、自分以外には信じる者とてない猜疑心の塊の独裁者は、中々それに気づけない。

プーチン大統領は、彼の得意な脅しや、騙しや、嘘や、情報操作など、彼が過去にも現在も実行しまくり、将来も実践し続けるであろう蛮行の限りを尽くしても、決して主権国家を侵略するべきではなかった。

プーチン大統領がウクライナ侵略を正当化しようとして何かを言い、弁解し、免罪符を求めても、もはや一切無意味になった。それらは全て枝葉末節であり言い逃れであり虚偽になったのある。

事態の核心は、彼が歴史を逆回転させて大義の全くない侵略戦争を始め、ウクライナ国民を惨殺していることに尽きる。

何があっても絶対に主権国家を侵略しない、という決意を含む「欧州の良心」を具体化しようとする欧州自身の努力の結果は、民主主義政治体制と同様にむろん未だ完璧ではない。むしろ欠点だらけだ。

だがそれは、ロシアや中国や北朝鮮やトランプ主義者、さらに日本右翼団体ほかの強権、全体主義勢力に比べた場合は、完璧以上の優れた体制だ。

ロシアの蛮行を放置し、プーチン大統領の悪意を徹底して挫(くじ)かなければ、それらの負の政治勢力が勢いを増して、世界中にいくつものウクライナが生まれないとも限らない。

ちなみに

僕は2022年前後、「欧州の良心」に基づく政治勢力は欧州全体では過半数、世界では半分をほんの少し上回る程度に存在する、と考えていた。

しかし米トランプ大統領が再登場した今はそれさえ怪しくなって、権威主義的政体を信奉する先祖返り勢力が世界の過半数を超えるまでになったと感じる。

かつて、つまりトランプ大統領が登場するはるか以前の僕は、「欧州の良心」に基づくリベラルな政治勢力が世界の圧倒的多数だと幼稚に且つユートピア的に考えていた。

だが、トランプ主義の台頭、Brexit の実現、イタリアのポピュリスト政権の登場などを見て、それは過半数をかろうじて上回る程度の弱々しい多数に過ぎない、と思い知るようになった。

それらの動きに中露北朝鮮が率いる世界の専制国家群を加えると、対抗する「欧州の良心」はますます頼りない存在になってしまう。

「欧州の良心」に賛同する者(僕もその一人だ)は、強い意志でそれを死守するべく闘わなくてはならない。

欧州の良心も、民主主義も、言論の自由も、その他あらゆる自由主義社会の良さは全て、闘って勝ち取るものだ。

それは黙っていると、すぐに専制主義とそれを支持する勢力に凌駕されてしまう儚いコンセプトであり、政治文化社会風土なのである。



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新教皇レオ14世は彼が何者かではなく「何を為すか」で歴史の審判を受ける

新教皇システィーナ礼拝堂凱旋(天井画全込み)650

アメリカ出身のローマ教皇が誕生した。

5月8日、予想よりも短い時間で教皇選出の秘密選挙・コンクラーベが終わって、予想外の男が世界14億の信徒を導く最高位司教の座に就いた。

予想外の男という印象を与えるのは、心魂を司るのが王道の宗教組織のトップが、金と欲と争いにまみれた俗世の物質文明に君臨するアメリカ出自の者であってはならない、という考えがバチカンの底流にあったからである。

アメリカ出自の教皇を阻止するいわばファイアーウォールが、ローマ教会に存在するのは公然の秘密だった。

それは、自国中心主義を掲げて世界を絶望の淵に落としている、ファシスト気質のトランプ政権が居すわる昨今は、特に重要だと見られていた。

ところがこともあろうに今この瞬間に、出自故にトランプ政権に親和的であっても不思議ではないはずの教皇が出現したのである。

それは不吉な出来事にも見える。余りにも出来過ぎた符号は、あるいはトランプ大統領がコンクラーベに裏から手を回して操作したのではないか、という荒唐無稽な憶測さえ呼んだ。

なにしろトランプ大統領はコンクラーベに際して、次期教皇に相応しい枢機卿がニューヨークにいる、などとうそぶいていた事実もあるのだ。

一方で新教皇レオ14世は、トランプ政権に対しては批判的であったことが知られている。特に政権の移民排除策に関しては、「壁ではなく橋を作れ」と異見したフランシスコ教皇に倣う立場だと見られている。

アメリカ出身のレオ14世が、自国の強権力者のトランプ大統領に歯向かうのか擦り寄るのか。それはレオ14世の正体が見える試金石になるだろう。

レオ14世とバチカン司教団は、「われわれはトランプ大統領の対抗勢力ではない」という趣旨の声明を出している。それが真実であるか外交辞令であるかは、遠くない将来に明らかになるはずだ。

言葉を替えればレオ14世は、今この時の世界不安の元凶であるトランプ大統領に、前教皇フランシスコが示したような、穏やかだが断固とした態度で立ち向かえるのかどうかを試されることになる。

個人的には僕は、レオ14世はトランプ主義に異を唱えるバチカンの良心になる、と少しのポジショントークをまじえながら考えている。

その理由は彼がコンクラーベにおいて、「予想外」の速いスピードで教皇に選出された事実である。

120~135人ほどの枢機卿が互選で教皇を選出するコンクラーベは紛糾することが多い。そこには様々な政治的駆け引きが展開される。いつのコンクラーベでも改革派と守旧派が勢力を競い合う。

そしてバチカンは、多くの宗教組織がそうであるように、守旧派が強い力を持つ。そこにはクーリアと呼ばれる官僚組織があり、彼らがコンクラーベにも隠然たる影響を及ぼす。対立は分断を呼んで選挙が複雑になり長引く傾向がある。

今回のコンクラーベは特にその傾向が強くなると考えられた。理由は次の如くだ。

フランシスコ教皇は、信者の多いアジア、アフリカを始めとする地域に多くの枢機卿を任命して、欧州偏重から多様性へとシフトする政策を続けた。

それを受けて、世界71国から投票資格を持つ枢機卿が集まったため、意見が錯綜して余計に選挙が長引くと見られていた。

レオ14世は枢機卿時代、フランシスコ教皇の改革運動を支持する進歩派の内のやや中道寄り、というスタンス見られていた。やや中道寄りと言うのは、例えば彼は同性愛者などに対して、フランシスコ教皇ほど好意的ではなかったからだ。

だが彼の保守性は、フランシスコ教皇が率いる改革派に属しながら、守旧派の賛同も得やすいという効用ももたらした。

そうした状況が、出自が多彩な、従って意見の相違も大きいフランシスコ教皇派の枢機卿団と、保守派の意見の一致を速やかに演出して、結果素早い教皇選出になった。

彼は改革派と保守派また世界の分断にも橋を架ける能力のある人物、と選挙人である双方の枢機卿団が判断し、レオ14世に票が集まった、という理屈である。

ではなぜそうなったかと考えるとき、そこには故フランシスコ教皇の強い遺志が影響してしたのではないか、と僕は考えている。

清貧と弱者への奉仕を最大の義務と定めて、信徒の熱い信望を一身に集めたフランシスコ教皇は晩年、病と闘う日々の中で自らの葬儀を簡略にするためあらゆる改革を実行した。のみならず遺言にも残した。

死して後も、信者と共に謙虚と誠心の中に生きようとした教皇は― 先に触れたように― 在任中にアジア、アフリカまた中南米など、欧州を凌駕して信者が増え続ける地域で、教皇選出権を持つ枢機卿を多く任命した。

フランシスコ教皇は、死期が近づき病と闘う時間が重なった頃、自らが見出してその思想信念を教え諭した枢機卿らに、彼の死後のコンクラーベでは誰に投票するべきか、あるいは誰に投票して欲しいかを言い残していた可能性がある。

言葉を替えれば、教会の分断を解消し対立に橋を渡して信徒を救い、同時に世界にも貢献できるローマ教会の指導者は誰であるべきかを、「示唆」し続けた可能性が高い。

それゆえにコンクラーベでは、自分を含む大方の予想を裏切って迅速な結果が出たのではないか、と僕は推察するのである。

何はともあれ新教皇レオ14世は、世界14億のカトリック教徒とその共鳴者や友人、またその逆の人々までもが注視する唯一至高の聖職首座に就いた。

彼は「何者か」になったのである。

選ばれた「何者か」は、彼が誰であるのかではなく、「彼が何を為すのか」によって歴史の審判を受ける。

彼の前任である偉大な教皇フランシスコ、またその2代前のヨハネパウロ2世を含む、過去266人の全てのローマ教皇がそうであったように。

あるいは平成の天皇である明仁上皇が、 戦前、戦中における日本の過ちを直視し、自らの良心と倫理観に従って事あるごとに謝罪と反省の心を示し、戦場を訪問してはひたすら頭を垂れ続けて世界を感服させたように。





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