【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

思論想論

トランプ主義はドイツを、究極には日本をも、核武装へと追い込むかもしれない

インタビューされるメルツ650

欧州は安全保障を巡って風雲急を告げる状況になっている。

トランプ大統領が、軍事同盟であるNATOへの貢献責務を放棄する可能性をほのめかしているからだ。

特に核を持たない国々は、ロシアを見据えて不安のどん底にある。

トランプ大統領は、ウクライナのゼレンスキー大統領とテレビカメラの前で前代未聞の口論を展開するなど、相も変らぬ恫喝外交を続けている。

その一方では貿易相手国に関税をかけまくると叫び、欧州から、厳密に言えばドイツから米軍を引き上げる、NATO内での核シェアリングをやめる、などとも示唆している。

その中でも、特に核シェアリング否定発言に関して敏感に反応したのが、ドイツの次期首相と目されるフリードリヒ・メルツ氏だ。

彼はドイツと欧州が、アメリカから独立した安全保障体制を構築すると同時に、NATO内の核大国である英国またフランスと核シェアリングをするべき、という旨の発言をした。

だがその本音は、ドイツ独自の核開発であり核兵器保有だろうと思う。

ドイツでは核兵器の開発保有は、それを話題にすることさえタブーであり続けてきた。日本とよく似た状況だったのだ。

だがトランプ独断専行大統領の脅しに驚愕したメルツ氏は、やすやすとそのタブーを破った。

アメリカ第一主義をかざして、欧州との長い友好関係さえ無視するトランプ大統領に、オーマイゴッド・いざ鎌倉よと慌てた欧州首脳は、メルツ氏に限らず誰もが怒りと不安を募らせている。

彼らはトランプ&ゼンレンスキー両大統領が口論した直後、ロンドンに集まって緊急会合を開き、前者が切り捨てようと目論む後者をさらに強く抱擁、ウクライナへの支持を改めて確認し合った。

友好関係を金儲け論のみで捉えるトランプ主義は、権威主義者のロシア・プーチン大統領を賛美するばかりではなく、欧米ほかの民主主義友好国を大きく貶めている。

日本も見下される国の一つだ。

今のところは欧州やカナダまたメキシコなどの国々ほどなめられてはいないが「アメリカの同盟国」である日本を見るトランプ大統領の心情は容易に推察できる。

日本は欧州と同じく安全保障をアメリカに頼り過ぎて来た。いま日本が置かれている状況は、それぞれに「友人国同士が多い欧州内の国々」とは違う。

日本は孤立している。その意味ではむしろウクライナに近い。ウクライナにおけるロシアの代わりに、例えば中国が日本に侵攻しないとは誰にも断言できない。

日本は中国ともまたロシアとも友好的な関係を保ちつつ、アメリカに頼らない独自の安全保障も模索するべきだ。そこには核戦略が含まれても驚くべきではない。

人類の理想は核の無い世界であり戦争ゼロの世の中である。先の大戦で地獄を見ると同時に唯一の被爆国ともなった日本は、飽くまでも理想を目指すべきだ。

だが同時に国際政治にも目を配らなければならない。政治とは現実である。そこには軍備は言うまでもなく核戦略まで含まれる。

それらをタブー視しているばかりでは物事は解決しない。その善悪と、是非と、実現可能性の有無、またそれへの全面否定も含めて、日本は国民的議論を開始するべきだ。

メルツ・ドイツ次期首相の英仏との核シェアリング、ひいてはドイツ独自の核保有まで暗示した発言は、不本意ながら日本にも当て嵌まる、と見るのがつまり政治の厳しさである。




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あるいはトランプとAfDの真実

女性trump-hitler写真を掲げる

ヒトラーはヒトラーを知らなかったが、ドイツのAfDはヒトラーをよく知っている。

だから彼らは野党でいる限りは、けたたましくも醜怪なだけの集団に留まるだろう。

しかし彼らが単独で政権を握るような事態になれば、トランプ“笑えないお笑い”大統領が、「独裁者はプーチンではなくゼレンスキーだ!」とコペルニクス的大発明をわしづかみにして、世界に投げつけたような事件が起きないとも限らない。

それは例えば、彼らが「ヒトラーは独裁者でも悪魔でもない。独裁者の悪魔はユダヤ人だったイエス・キリストだ!」と神がかり的な発見をして興奮し、全ての教会とユダヤ人を殲滅しようと企てるような顛末である。

トランプ大統領の言動の多くとAfDの躍進にはそれくらいの潜在的な危険がある。

僕はドイツ国民とアメリカの半数の国民の正気を信じる。

だが、ドイツには前科があり、アメリカの半数は-徐々に明らかになったように-陰謀論やデマ踊らされやすい愚民である事実が、多少気がかりでないこともない。


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AfDの恐怖はありきたりになって、故にさらに危険が増した

Weidel大&Merz650

ドイツ総選挙の結果は驚きのないものだった。極右のAfDが躍進して、第1党の「キリスト教民主・社会同盟(CDUCSU)」に次ぐ2位につけた

だがそれは早くから予想されていた展開で、目新いものではなかった。

ならばAfDの危険はなくなったかと言えば、もとより全く逆で、2021年の前回選挙に比べて支持を倍増させた極右党の勢力が今後も続伸すれば、やがて世界をも激変させかねない事態だ。

だが第1党になったキリスト教民主・社会同盟は、「ファイアウォール(防火壁)」を盾にAfDとの連携を拒否している。従ってAfDが近い将来に政権入りする可能性は低い

ドイツの「ファイアウォール(防火壁)」はナチスへの嫌悪と反省から生まれた。極右政治がタブー視され、政党間でAfDを政権から排除する合意が形成されたものである。

だが仮にAfDが政権の一角を担うことになっても、彼らは生の主張をそのまま前面に押し出すことはないと僕は考えている。

それはここイタリアの極右「イタリアの同胞」とそれを率いるメローニ首相が、極右からより穏健な急進的右派へと舵を切って進んだ例を見れば分かる。

ここイタリアでは政治土壌の要因子である多様性がそれを成し遂げるが、ドイツにおいては国内のリベラル勢力とEUの中心勢力が、極右モメンタムを厳しく抑制すると思う

また客観的に見て、AfD自体も過去のナチ党 (国民社会主義ドイツ労働者党)とヒトラーの轍を踏むとは考えにくい。

ヒトラーはヒトラーを知らなかったが、AfDとその支持者たちは巨大な負の遺産であるヒトラーを知悉している。その現実が彼らのナチス化を厳しく制すると思うのである。

そうではあるが、しかし、トランプ主義がトランプ氏以後、ヴァンス副大統領を始めとする“トランプの金魚の糞”勢力によって席巻され続ける場合は、状況が全く違うことになるだろう。

欧州ではAfDとそれに付き従うと見られる極右政党がさらに力を付けて、社会情勢がかつての日独伊三国同盟時代のような暗黒に向かいかねない。

人々の怒りをあおり、憎しみの火に油を注ぎ、不寛容の熾き火を焚きつけるのが得意な彼ら極右過激派の悪意は、易々と世の中を席巻する。歴史がそれを証明している。

従って彼らは拡大する前に抑え込まれたほうがいい。放っておくとかつてのナチスのごとく一気に肥大して、制御不能な暴力に発展しかねない。

とはいうものの、繰り返し強調しておきたい。欧州の今この時の極右勢力はヒトラーのナチズムやムッソリーニのファシズムと同じではない。

悪魔の危険を知り、悪魔ではないように慎重に行動しようとする悪魔が、現今の欧州の極右なのである。

しかしそれでも、いやそうだからこそ、極右モメンタムは抑さえ込まれたほうがいい。激流となって制御不能になる前に、その芽が摘み取られるべきだ。

なぜなら正義を振りかざし天使を装う狡猾な悪魔も、悪魔には違いないからである。





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見えてきたトランプの野望らしきもの

憎しみの塊トランプ800

関税に固執するトランプ大統領の頭の中にあるのは経済のことであり、経済を強くすることで彼の支持者を満足させ、アメリカを偉大に、つまりMAGAを達成することである。

それがトランプ政権の使命であり彼の支持者が熱望することだ、というのは一面の真実に過ぎない。

経済力が強くなるとは、要するに軍事力が拡大することでもある。トランプ大統領のひそかな野望は、経済を強くし軍事力を高めて世界を支配することかもしれない。

それというのも彼は、政権発足と同時にかねてからの主張だったグリーンランドを占領し、パナマ運河を収奪し、カナダをアメリカに併合すると公言し、そこに向けて動いている。

そればかりではない。アメリカファースト、つまりアメリカの孤立主義を捨ててガザを軍事支配し、住民を排除してリゾート地に作り変えるとまでうそぶいている。

それらの主張は帝国主義への先祖がえり以外の何ものでもない。どうやら彼は専制政治を導入して世界を支配したいようだ。

もしそうならば、一党支配の元で覇権主義に走っている中国の習近平主席や、ソビエト再興の野望を抱いてウクライナを席巻し、さらに支配域を広げることを夢見るロシアのプーチン大統領と何も変わらない。

それどころかトランプ主義の専横は、民主主義を騙たる分だけ質ちが悪いとさえ言える。

トランプ主義の岩盤支持者らは、トランプ氏が選挙キャンペーン中に強調した「戦争をしない」、「ウクライナとガザの戦争を止める」、「誰も死なせない」などのキャンペーンにも熱狂した。

アメリカはかつて世界の警察と呼ばれ、民主主義を守るという大義名分を掲げて多くの国に介入し戦争を仕掛けてきた。

トランプ支持者の国民はそのことにウンザリしている。だから彼らは戦争をしないと明言したトランプ氏を支持した。彼らはトランプ氏が平和主義者とさえ信じた。

だが果たしてそうだろうか?トランプ大統領は、先に触れたように、グリーンランド獲得とパナマ運河収奪に軍事力を使うことも辞さないとほのめかしている。

ガザの場合には米軍を投入しそこを占領して、瓦礫を片付けリゾート地を造るとさえ明確に述べた。それらは容易に戦争を呼び込む施策だ。

トランプ大統領は民主主義を守る戦争はしないが、侵略し、収奪し、支配する戦争は辞さない、と主張しているようなものだ。

仕上げには彼は、ロシアに蹂躙されるウクライナを「加害者」と断じた。向かうところ敵なしの狂気であり凶器である。

トランプ大統領の本性は僭王であり侵略者であり独裁者のようだ。危険極まりない。





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トランプ主義の怖さの真髄

トランプ瓦礫背景に

トランプ大統領は関税を武器にカナダとメキシコを平伏させ、 返す刀でガザの住民を追い出してリゾートに造り返る、というぶっ飛んだ案を発表した。

それはまさしくヒトデナシにしか思いつけないグロテスクな考えだ。なぜならそこには、イスラエルに痛めつけられた人々への憐憫の情がひとかけらもないからだ。

まさに金のためなら何でもする“不動産開発業者“の発想でしかない。アメリカ合衆国大統領の戦略的思考とはとても言えない。

人間を人間と見なせない者は人間ではない。

それがトランプ大統領の「ガザの住民を全て排除して“中東のリビエラ”にする」という発言を聞いたときの僕の率直な思いだった。

潰滅したガザを、故郷を、追い出されるパレスチナ人は、なんと哀れで何と屈辱にまみれた存在だろうか。

ところが行き場を失くしたパレスチナ人の中には、悲しいことにトランプ大統領の提案を受け入れる者も出るだろうと見られている。

ガザの疲弊はそれほどに深く徹底したもので、回復不能とさえ考えられているからだ。

ガザを壊滅させたのは、トランプ大統領の発言をニヤニヤ笑いながら隣で聞いていたネタニヤフ首相である。

彼はまるで米大統領の発言を引き出すために、ガザの破壊と殺戮を実行したようにさえ映った。

ネタニヤフ首相と、パレスチナの消滅を熱望するイスラエル内外のウルトラ極右シオニストらの罪は深い。

住民を追い出してガザをリゾート地に作り変えようという案は、政権内の高官らが集い意見を出し合ってじっくりと練ったものではなく、トランプ大統領独自のものらしい。

いかにも“不動産開発業者”トランプ氏が思いつきそうなアイデアだが、恐らくその前に、娘婿のジャレッド・クシュナー氏の入れ知恵があったのではないか、とも言われている。

ユダヤ人のクシュナー氏は、パレスチナを地上から消すと考える同胞と同じ立場で、ガザを開発して金を儲けると同時に、そこの住民をイスラエルのために排除したいと願っているらしい。

自らの家族と金儲けのためにはひとつの民族を浄化することさえ辞さない、という考えはすさまじい。トランプ一族の面目躍如というところだ。

皮肉なことにトランプ氏のアイデアは、その非人間的な側面を敢えて脇において観察すれば、ある意味天才的とも呼べるものだ。邪悪でユニークな思いつきなのだ。

徹底的に破壊されて瓦礫の山と化し、もはや人が住めない状況にまでなっているガザ地区を、米軍を中心とするアメリカの力で整理して立て直す。

それは他国の内政には首を突っ込まない、というトランプ大統領の「アメリカ第一主義」に反する動きになるだろう。

ガザ地区をアメリカが一旦支配して元通りに整備する、というのがガザ住民のためのアクションなら、人道的見地からもすばらしい案である。

しかし残念ながら、彼が考えているのは住民を完全無視した金儲け案だ。むごたらしいまでの我欲。

繰り返しになるが、とても人間とは思えない惑乱ぶりである

トランプ主義は、行き着けば自由主義社会全体の総スカンを食らう可能性がある。

そうなった場合、欧州とアラブ・アフリカ、またトランプ追従に見切りをつける見識があれば日本も、たとえば中国と手を組む可能性があり得る。

独裁国家、権威主義政権として欧米と日本ほかの民主主義世界に忌諱されている中国だが、トランプ主義の挙句の果ては、つまるところ中露北朝鮮にも似た恐怖政体だ。

ならば“トランプ小帝王“に苛められ脅迫され続けるよりも、中国のほうが御しやすい、と自由主義社会が判断することがないとは、誰にも言えないのである。




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2期目のトランプ政権の化けの皮 

トランプ、マスクほか2人BBC650

 間もなく就任に臨むトランプ次期大統領は、ウクライナ戦争を大統領就任前に終わらせる。それでなければ就任後24時間以内に終結させる。

またイスラエルとハマスの戦争も速やかに終結させる、などと豪語してきた。

だが彼にはそれらの言葉を担保する明確な戦略やアイデアは無かったことが明らかだ。口から出まかせのまさにポピュリストそのものの言動だった。

彼は就任式を待たずに、ウクライナ戦争解決には6か月はほしいと自らの嘘を早々と認め、中東危機に関しても、第1次政権時と同じ極端にイスラエル寄りの政策を採るだけだけと見られている。

トランプ氏の真実は、自身がイスラエル大使に指名したがちがちのキリスト教福音派、ハッカビー氏の言葉と同じ「パレスチナ人など存在しない」に尽きるだろう。

トランプ次期大統領がウクライナ戦争終結に自信を見せるのは、ロシアの侵略に墨付きを与える形でウクライナの領土を割譲するよう、ゼレンスキー大統領を脅す用意があるからだろう。

だが、ロシアを利する形での終戦なら誰にでも仲介が可能だ。

欧州とウクライナがロシアへの徹底抗戦を続けているのは、プーチン大統領に代表される世界中の権威主義的な指導者に、「武力行使は認められない」という強いシグナルを送るためだ。

バイデン大統領は欧州と足並みを揃えて、その方向でウクライナを徹底支援した。トランプ氏が安易にロシアに都合の良い形での終戦を模索すれば、将来に大きな禍根を残すことになるだろう。

中東危機も同じだ。ひたすらイスラエルを擁護するだけの態度は許されない。イスラエルによるパレスチナ人虐殺は、ハマスによるイスラエル奇襲攻撃の残虐性をすっかり見えにくくしてしまった。

トランプ氏は、イスラエルは神が与えたユダヤ人の土地、と信じるキリスト教福音派の奇天烈な主張に殉じて、イスラエルを擁護しつづけるべきではない。

もしそうすればアラブ諸国のみならず世界の大半の人々がイスラエルへの怒りをさらに募らせ、ひいてはユダヤ人全体への憎しみが増幅されていくだろう。

弱者のパレスチナ人の背後にはグローバル世論が寄り添っている。ガザの住民は今は無力でも、将来は国際世論に支えられて必ずユダヤ人への意趣返しを試みるだろう。

多くの欧州の国々も歴史の憂悶に惑わされてパレスチナを突き放し続けるべきではない。イスラエル擁護一辺倒の政策は見直されるべきだ。

パレスチナを賛助する姿勢は、イスラエルを見捨てるように見えるかもしれない。

だが実はそうした施策は、ユダヤ人が将来再び被る可能性が高まっているようにさえ見えてしまう、新たなホロコーストの類の惨劇を避ける意味でも極めて重要なアクションである。




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独裁者アサドに言い寄ったジョルジャ・メローニの拙い賭け  

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2022年10月に政権の座に就いたイタリアのジョルジャ・メローニ首相は、極右と規定され政敵からはネオファシストとさえ呼ばれたりする存在である。

彼女は政権奪取につながった2022年の総選挙の戦いでは、ファシスト党の流れを汲む極右の顔を隠さず反移民とEU懐疑思想を旗印に激しい選挙戦を繰り広げた。

ところが政権を握るとほぼ同時に彼女は、選挙戦中の極端な主張を引っ込めて、より「穏健な極右」あるいは「急進的な右派」政治家へと変貌した。

イタリアの政治土壌にある多様性が彼女を必然的にそう仕向けた。

反移民を声高に主張してきた彼女は、移民の受け入れを問答無用に否定しているのではないことも徐々に明らかになった。

メローニ首相はイタリアの人口が急速に減少を続け、2050年には人口の3分の1を超える国民が65歳以上の高齢者になることを誰よりもよく知っている。

観光から製造業や建設業、さらには農業に至るあらゆる産業が、若い労働力を痛切に必要としている。

メローニ首相は、EU各国の経済にとって合法的移民の割り当てが大きく寄与することを認め、そう発言しまたそのように動いている。

うむを言わさぬ移民排斥ではなく、必要な移民を合法的に受け入れるとする彼女の政策は、政権内の連立相手である同盟に弱腰と非難されたりもするほどだ。

その一方でメローニ首相はことし7月、G7構成国は言うまでもなく欧州の主要国としても初めて、13年間に渡って国民を弾圧し国際社会から孤立しているシリアのアサド大統領に接近した。

彼女が持ち掛けたのは、キリスト教徒の保護とシリア難民の帰還をアサド政権側が受け入れる代わりに、独裁政権との外交正常化を促進するというものだった。

ところが隠密裏に話し合いが進んできた12月8日、アサド政権は突然崩壊した。メローニ首相は独自路線を貫こうとした賭けに負けたのである。

アサド独裁政権にアプローチするとは、アメリカや欧州諸国と距離を取ることであり、アサド政権の後ろ盾であるロシアにも接近することを意味していた。

メローニ首相はウクライナ戦争に関しては明確に反ロシアの立場を貫いている。ところがシリアを通してまさにそのロシアとも近づきになろうと画策したようなのである。

したたかな外交戦略とも言えるが、同時にメローニ首相は、トランプ次期大統領やフランスのルペン氏などとも気脈を通じている。

イーロン・マスク氏に至っては恋愛関係があるのではないか、とさえ疑われたほどの親しい間柄だ。移民排斥の急先鋒でEUの問題児とも呼ばれるハンガリーのオルバン首相も彼女の友人である。

それらの事実は、彼女が懸命に秘匿しようとし、ある程度は成功してもいるネオファシストとも規定される極右の顔をいやでも思い起こさせる。

メローニ首相の脱悪魔化が本物かどうか僕はずっと気をつけて見てきた。

そしてためらいながらも ― 先に触れたように ― 彼女はより「穏健な極右」あるいは「急進的な右派」政治家へと変貌を遂げたと考えるようにさえなった。

だが、やはり、特にアサド独裁政権に歩み寄ろうとした失策を見ると、彼女に対しては厳重な監視が続けられるべき、というのが今この時の思いである。




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ついにシリアの独裁者アサドに鉄槌が下った


バシャー挟んでアスマ&女王握手650
 

毎年めぐってくる12月7日はミラノ・スカラ座の開演初日と決まっている。

スカラ座の開演の翌日、つまり今日8日はジョン・レノンの命日だ。偉大なアーチストは44年前の12月8日、ニューヨークで銃弾に斃れた。

そんな特別な日に、記憶に刻むべき新たな歴史が作られた。

2024年12月8日、シリアの独裁者バッシャール・アサド大統領がついに権力の座から引きずりおろされたのだ。

2011年にチュニジアで火が点いたアラブの春は、リビア、エジプトを巻き込みシリアにも飛び火した。

だがアラブの春を呼んだ業火はバッシャール・アサドを焼き殺さなかった。

国民を毒ガスで殺すことも辞さなかった彼は生き残った。例によってロシア、イラン、中国などの閉じたナショナリズムに毒された国々が独裁者を助けた。

2011年から2024年までのアサドの圧政下では、毒ガスによるものを含め 50人以上が殺害され、600万人が国外難民となった。

2024年現在、ロシアはウクライナ戦争で疲弊し、アサド政権を支えてきたイランの代替勢力ヒズボラは、イスラエルに激しく叩かれて弱体化した。中国はロシアやイランほどの目立つ動きには出ていない。

アサド独裁政権が孤立しているのを見たイスラム武装組織HTSが主導する反政府勢は、2024年11月27日、電光石火にシリア第2の都市アレッポを制圧。

すぐに南進してダマスカスに至る都市や地域をほぼ一週間で手中に収めた。そして12月7日~8日未明、ついに、ダマスカスを攻略した。

アサド大統領は逃亡してロシアに入ったとも、イランにかくまわれたとも言われている。逃走の途中で飛行機が墜落して死亡したという情報もある。

アサド政権の終焉は朗報だが、しかし、それをアラブの春の成就とはとても呼べない。

なぜなら彼を排除したイスラム武装組織HTSは、過激派と見なされている。アメリカと多くの西側諸国、国連、トルコなどは、彼らをテロ組織に指定しているほどだ

シリアの民主化は恐らく遠い先の話だろう。それどころか同国を含むアラブ世界が、真に民主主義を導入する日はあるいは永遠に来ないのかもしれない。

アラブの春が始まった2011年以降、僕はアサド独裁政権の崩壊を祈りつつ幾つもの記事を書いた。

独裁者のアサド大統領はいうまでもなく、彼に付き添って多くの話題を振りまいた妻のアスマ氏の動静にも注目した。

「砂漠の薔薇」とも「中東のダイアナ妃」とも称えられた彼女は、シリア危機が深まるに連れて化けの皮を剥がされ「ヒジャブを被らない蒙昧なアラブ女性」に過ぎないことが明らかになった。

僕はそうなる前から、彼女にまとわりついていた「悲哀感」が気になって仕方がなかった。




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ネタニヤフよ、もうこれ以上ユダヤの民を貶めるな 

青飛び顔650

サッカーのイスラエル人サポーターが、アムステルダムで襲われて2030人がケガをした。

事件は、例によって欧州各国政府の大げさとも取れるイスラエル擁護声明と、人々の強い反イスラエル感情を巻き込んでセンセーショナルに報道された。

僕はその様子をやや斜にかまえた天邪鬼な気分で監視してきた。

ガザではイスラエルの無差別攻撃で多くの子供と女性を含む45000人近くのパレスチナ人が虐殺され、約103000人が負傷し、1万人を超える人々が行方不明になっている。

それに比べれば、贔屓チームを応援するためにアムステルダムまで飛んだイスラエル人が、襲われてケガをしたことに何ほどの意味などあるものか、とさえ思ったことを告白しなければならない。

そして残念ながら、僕の周りのほとんどと世界中の多くの人が、僕と同じ感慨を持っている。それは全てのユダヤ人にとって極めて憂慮するべき兆候だ。

イスラエルチームのサポーター、換言すれはユダヤ人を襲ったのは、反ユダヤ主義に触発された若者らである可能性が高い。

従ってその者らの暴力を黙過するとは、ヒトラーが、つまり人類がしでかした巨大犯罪、ホロコーストを容認することにもつながりかねない危険な態度である。

ホロコーストは、日常のさりげないユダヤ人差別が積み重なって肥大し、ついには制御不能になって発生した。

そしてサポーターがユダヤ人であることを理由に、男らが彼らを襲った暴力行為は、日常よりもはるかに深刻な差別であり暴虐である。

僕はユダヤ人の最大の悲劇、ホロコーストをよく知っている。惨劇は2度と起きてはならない。

僕は反ユダヤ主義に強く反対する。

同時に僕は、イスラエルが続けているジェノサイドまがいのガザでの残忍な攻撃にも反対する。

それは、神掛けてホロコーストを忘れたことを意味しない。

また決して、2023107日のハマスの残虐行為を忘れるわけでもない。

身内に湧く、ガザで進行する悪逆非道への怒りを最早抑えきれなくなっただけだ。

イスラエルよ、すべてのユダヤ人よ、そして誰よりもネタニヤフよ、ホロコーストは断じてパレスチナの子供や女性たちを殺戮する免罪符にはならない。

だから即刻残虐行為をやめるべきだ。

それでなければ、オランダ・アムステルダムで起きたユダヤ人襲撃事件の底にある反ユダヤ主義感情が、世界中で拡大し肥大化して制御不能になる可能性が高まる。

Enough is enough = ガザへの無差別攻撃はもうたくさんだ、と世界中の心ある人々が叫んでいることを知れ。






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プラハの十字架

800右カラ時計塔含む広場全体人混み

プラハの旧市街広場を中心とする歴史的市街地域には生活のにおいがほとんどない。あたりには人があふれている。ふつうに歩くのが困難なほどの混雑だ。

だがその人の群れは、ほぼ100%が観光客なのである

それは数値にも表れている。プラハの人口は130万人余り。そのうち旧市街広場を中心とする歴史的市街地にはたった8000人の市民しか住んでいない。

それがいかに不思議な数値であるかは、たとえばイタリアのベニスを例にとってみても明白だ。

ベニスの人口は25万人である。そのうち歴史的市街地の住民は5万人。人口130万人のうち

の8000人だけが中心部に住むというプラハの状況は、極めて珍しいのである。

ヨーロッパの旧市街には、どこに行っても人が群れている。群れている人のほとんどは観光客だが、そこに住まう多くの地元民も観光客に混じって行き交っている。

なぜそれはが分かるかというと、地元民は普段着を身にまとって、買い物籠やレジ袋を抱えながら歩いていたり、日常の空気感にじませた表情でゆらりと歩いていたりする。

そんな街の広場や通りのたたずまいを観察すると、地元民が買い物をする店やコンビニや雑貨店などが目に入る。特に食料品店が肝心だ。中でも肉屋の店先には生活のにおいが濃く立ちこめる。

プラハの心臓部の旧市街には、「日常」を身にまとった人々や店屋などが全くと言っていいほど存在しない。

立ち並ぶ建物の一つひとつを観察すると、一階にはレストランやカフェやバー、また土産物店やホテルなどの商業施設がびっしりと軒を並べている。

だがそれらの建物の2階以上には極端に人の気配が少なく、明らかに空き部屋らしいたたずまいもちらほら見える。

なぜ人が溢れている旧市街広場の周りの建物に住人がいないのか。敢えて例えて言えばゴーストタウンのようになったのか、というと次のようなことが考えられる。

旧市街広場一帯はプラハで最もステータスの高い一等地である。かつてそこに居を構えたのは王侯貴族であり、彼らの周囲に群がる軍人や高級官僚や大商人などのエリートだった。

プラハが首都のチェコスロバキアは1948年、共産党の一党独裁制下に入った。国名もソ連型社会主義国を示すチェコスロバキア社会主義共和国となった。

権力を得た下層庶民階級の共産主義者は、旧市街広場を中心とする高級住宅地を掌握すると、喜び勇んで特権階級の住民を追い出し家屋を差し押さえて思いのままに運用した。

だが1989年、状況は一変する。ビロード革命が起こって共産党政権が崩壊したのだ。旧市街一帯を支配していた共産主義者は一斉に姿を消した。

独裁者が去って、民主主義国になったチェコの首都は開かれた場所となった。が、共産主義者によって追放された旧市街広場周辺の住民は帰還しなかった。

そこに富裕な外国人や観光業者がどっと押し寄せた。プラハの旧市街地区は、あっという間に投資家や金満家やビジネスマンが跋扈する商業絶対主義のメッカとなっていった。

そうやって旧市街広場には観光客が溢れるようになったが、リアルな住民は寄りつかなくなった。いや、寄り付けなくなった。共産主義時代の負の遺産である。

プラハの旧市街広場一帯ににそこはかとなく漂う空虚感はそこに根ざしている。

北のローマとも形容される華の都プラハは、共産主義者に精神を破壊された。心魂を破壊されたものの、しかし、街の肉体すなわち建物群は残った。

さまざまな時代の、さまざまな様式の建物が林立するその街は、やがて“建築博物館”の様相を呈するようになり 、それが旅人を魅了する、というふうに僕の目には映った。






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NHKが“与党過半数割れの衝撃”と騒ぐ衝撃


 逆光雲ビーチ人影800

今回の衆議院選挙で最も気になったのは、相も変わらない投票率の低さである。

裏金問題という深刻な事案が争点の選挙でも、投票率は53.85%という寂しい数字だった。

日本の選挙の投票率が低いのは、国民が政治に関心を持たないからだ。そして国民が政治に関心を持たないのは彼らが民主主義を理解していないからだ。

自らの一票が真実、権力の行方やあり方を左右する、という厳然たる事実を多くの国民が意識すれば、投票率は必ず上がる。

結果、政権交代が起きる。

そして政権交代が起きることを政治家が肌身で感じれば、彼らは襟を正す。少なくとも国民を恐れ国民の声に耳を傾ける。

そこの部分が日本の民主主義には欠落している。つまり日本の民主主義は真の民主主義ではなく、民主主義の名を借りた「一党独裁政治主義」に過ぎないのである。

そのことを象徴的に表しているのが、選挙結果を踏まえてNHKの看板番組「クローズアップ現代」が放った、“与党過半数割れの衝撃”というタイトルだ。

与党の過半数割れは、まともな民主主義国家の選挙なら当たり前の事相だ。それを衝撃と呼ぶNHKの心状こそが衝撃である。

米英に代表される2大政党の回転ドア式政権樹立法を別にすれば、過半数を制する政党が無く、複数の勢力が連立を組んで政権を担うのが民主主義国の普通の在り方だ。

言葉を替えれば、与党過半数割れが現代政治の常態なのである。

自民党がほんのひと時を除いて政権を握り続けてきたのは、日本の政治環境が中露北朝鮮にも似た独裁主義まがいの硬直した政体だからだ。

日本はその醜悪な政治文化を早急に破壊して、政権交代が簡単に起きる政治環境を作り上げるるべきだ。

ここイタリアでも、戦後一貫して日本の自民党に当たるキリスト教民主党 が政権を担いつづけた。

だが1994年、スキャンダルに始まる政治危機の連鎖によってキリスト教民主党が崩壊、消滅しベルルスコーニ率いるフォルツァ・イタリア党が政権を握る“政治革命”が成就した。

以来イタリアは、政権交代が易々と起きる国になった。

イタリアの民主主義は、民主主義先進国の中では最も稚拙とみなされることが多い。だがそれは稚拙ではなく、多様性が差配する政治環境の殷賑が、外部からは政治の混乱と見えるに過ぎない。

混乱に見えるからイタリアの民主主義は稚拙、と知ったかぶりを言う自称ジャーナリストや専門家や知識人が、特に日本を中心に多くいる。

彼らにはイタリア政治を支配している多様性の精神がまるで見えていないのである。

それに対して一党独裁的な政治環境が継続している日本では、国民の政治参加が圧倒的に少なく、結果民主主義の核の一つである政権交代が起きない、という悪循環が続いている。

日本は敗戦後にタナボタで手に入れた民主主義を研鑽し、本質をしっかりと捉えて、子供たちに死に物狂いで教え彼らの血となり肉となるように仕向けなければならない時期に来ている。

それが成れば、必ず投票率が上がる。結果―繰り返しになるが―政権交代が起きる。そして政権交代が起きることを政治家が実感すれば、彼らは反省し態度を改め国民の声に真摯に耳を傾ける。

そうやって民主主義はさらに深化していく。

民主主義は漫然と付き合っていると、たちまち中露北朝鮮のような専制主義に取って代わられる危ういシステムだ。一人ひとりが立ち上がって闘わなければならない。

その最たるものが投票に行くという行為だ。

民主主義体制はそこにあるのが当たり前ではない。専制主義や過激主義、またトランプ論者や独裁者が跋扈する世界で、懸命に闘い努力をしてのみ得られる開放であり、自由であり、喜びなのである。










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高市早苗‘首相’の影と、影の中にあるかもしれない光

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FB友のお1人から「高市早苗」候補には絶対に首相になってほしくない、という強い怒りのメッセージが届いた。似たような趣旨のコメントはほかにも多い。

高市早苗候補だけは決して日本のトップにしてはならない、とつい最近まで僕も考えそこかしこに書いてもきた。

今もそうだが、それでも総裁候補の顔ぶれを見ているうちに、毒を持って毒を制す、のような気分になっている。高市という猛毒をもって日本の男社会という毒に楔を打ち込む、という印象である。

ちなみに僕は上川さんに期待し、老害政界に風穴を穿て、と密かに進次郎候補を応援していた。

だが残念ながら上川さんの覇気のない常識路線と、進次郎候補の明るいウツケ振りに呆れて、それらは過去形になった。

代わりに猛毒の高市候補が日本初の女性首相になる手もあると考え出した。

❛高市首相❜もありかもと考える第1の、そして最大の理由は高市候補がオヤジよりもオヤジ的な政治家でありながら、それでも女性だという点だ。

首相になれば日本の諸悪の根源である男尊女卑メンタリティーにとりあえず一撃を見舞うことになる。それは、無いよりはあったほうが確実に日本のためになるイベントだ。

心優しい良い女性、すばらしい女性を待っていては日本には永久に女性首相は生まれない。女性首相の大きな条件の一つは「タフな女」であることだ。

サッチャーもメルケルもここイタリアのメローニ首相も男などにビビらないタフさがある。高市候補は権力者のオヤジらに媚びつつも、鉄面皮で傲岸なところがタフそのものに見える。

2つ目は、アメリカでカマラ・ハリス大統領が誕生すると想定しての強い興味だ。

トランプ氏再選なら、❛高市首相❜は彼女の神様である安倍元首相に倣って、ここイタリアで言うケツナメ(lecca culo)外交に徹するだけだろうが、ハリス大統領になった場合は遠慮し諭される状況もあり得る。

それは❛高市首相❜を変える可能性がある。むろん、それにはハリス大統領のリベラルとしての、有色人種としての、そして女性としての強さと見識と人間性の有無が重要になる。

今のところハリス候補にはその兆候はない。だが、彼女も大統領になって品格を備えるようになる可能性が高い。

肩書きや地位はただでも人を創りやすい。ましてや世界最強の権力者である米国大統領という地位が、人格に影響を及ぼさないと考えるなら、むしろそちらのほうが不自然だ。

3つ目は天皇との関係だ。人格者の上皇、つまり平成の天皇は静かに、だが断固として安倍路線を否定した。現天皇は今のところ海のものとも山のものともつかない。顔がまだ全く見えない。

❛高市首相❜が本性をあらわにファシスト街道を突っ走るとき、天皇がどう出るか、僕はとても興味がある。

天皇は政治に口出しをしないなどと考えてはならない。口は出さなくとも「天皇制」がある限り彼は大いなる政治的存在だ。それを踏まえて天皇は「態度」で政治を行う。

彼に徳が備わっていれば、という条件付きではあるが。

日本の政治と社会と国民性は、先の大戦を徹底総括しなかった、或いはできなかったことでがんじがらめに規定されている。

右翼の街宣車が公道で蛮声を挙げまくっても罪にならず、過去を無かったことにしようとする歴史修正主義者が雲霞のように次々に湧き出てくるのも、原因は全てそこにある。

ドイツが徹底しイタリアが明確に意識している過去の「罪人」を葬り去るには、再び戦争に負けるか、民衆による革命(支配層が主体だった明治維新ではなく)が起きなければならない。

しかし、そういう悲惨は決して招いてはならない。

極右で狡猾で危険な高市候補が首相になっても、おそらく戦争だけはしないだろう。だからチャンスがあれば、彼女にチャンスを与えても良いのではないか、とつらつら考えてみるのである

ちなみに今このとき僕が女性首相にしてみたいのは蓮舫氏。彼女が嫌いな日本人は、高市候補が嫌いな日本人とほぼ同数程度に存在していそうだが、僕は蓮舫氏をリベラルと見做して推す。

男では山本太郎氏だ。山本氏なら戦争総括に近いこともやりそうな雰囲気がある。自民党のオヤジ政治家群は、ほとんどが過去の総括の意味さえ知らないように見える。

それは国際社会では、中露北朝鮮を筆頭とする専制主義勢力と同じフェイク、民主主義の向こう側でしか生きられないカスな存在、と見做されることを意味する。




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君はプラハの春を愛(お)しんで憤死した青年を知っているか


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1968年8月20日、ソ連はチェコスロバキアに軍事介入して民主化運動「プラハの春」を蹂躙した。

5ヵ月後の1969年1月19日、ソ連の蛮行に抗議して20歳のカレル大学学生のヤン・パラフが、プラハきっての繁華街ヴァーツラフ広場で焼身自殺した。

広場には彼の写真付きの記念碑とシンボリックな人型のモニュメントが設置されている。

地面に浮き彫りされた人型モニュメントには不思議なオーラがある。だが、道行く人のほとんどはそこに目を向けない。

中国による天安門事件、香港抑圧、ロシアのウクライナ侵略、イスラエルによるガザへ虐待など、世界にはプラハの春弾圧とそっくり同じ構図の事件が間断なく起きている。

プラハの人々は苦しい過去を語りたがらない。忘れたい思いとソ連が黒幕だった恐怖政治へのトラウマが未だに消えないからだ。

プラハの魅力に惹かれて街を訪れるおびただしい人群れもヤン・パラフのことなど知らない。

そうやって世界は、いつまでも愚劣で悲惨な歴史を繰り返す宿命から逃れられずにいる。



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私、演歌の味方で、クラシックの下手の横好き者です 

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                岡田昌子サンドロ=イヴォ・バルトリ

僕のSNS記事を読んだ方から「イタリア在なのによく演歌を聴いたり歌ったりしているんですね」という便りが届いた。最近ファドにからめて演歌に言及することが多かったせいだ。

「記事にも書いたとおり演歌はそれほど聴きません。ほぼ全てNHKの歌番組で聞き、目にしたシーンです。またイタリアでは歌は唄いません。帰国する際に時たま行き合うカラオケの場で唄うだけです」と僕は正直に答えた。

すると「それではタリアでお聞きになる音楽は何ですか」と問われた。そこでこれまた正直に「そうですね、クラシックが多いですね」と答えると、がっかりしたような「あ、そうなんですね」という返信が来て、それっきりになった。

質問された方は演歌ファンなんだろうな、とこちらは推測している。

クラシック音楽を聞くことが多いのは事実だが、僕はそれを「積極的に」聴きに行くのではない。ここイタリアの僕の生活の中でより多く耳にし、また「聞かされる」音楽がクラシックなのである。

そして僕はクラシック音楽が演歌程度に好きであり、演歌程度に無関心である。あるいはクラシック音楽が結構周りにあふれているので、時々うるさく感じることがないでもない、というふうである。

僕の周囲にはクラシックのコンサートやライブやリサイタルが多い。それは古い貴族家である妻の実家から漏れ出る趣味、あるいは文化の流れの一端である。

妻の実家の伯爵家は、歴史的に音楽を含む多くの芸術にかかわってきた。プッチーニの後援者としても知られている。そこに知る人ぞ知るエピソードがある。

プッチーニの「蝶々夫人」はミラノのスカラ座の初演で大ブーイングを受けた。挫折感に打ちのめされていた彼に、伯爵家の人々は手直しをしてブレッシャの大劇場(Teatro Grande)で再演するよう強く後押しした。

伯爵家の当主のフェデリコは伯は当時、ブレシャの市長であり、大劇場の制作管理委員会(Deputazione)の重要メンバーでもあった。

プッチーニはもう2度とオペラは書かないと周囲に宣言するほどの失意の底にあったが、鼓舞されて作品を修正しブレッシャの大劇場に掛けた。それは成功し歓喜の喝采に包まれた。

そうやってわれわれがいま知る名作「蝶々夫人」が誕生し、確定された。

プッチーニは感謝の手紙を伯爵家に送った。だがその直筆の書簡は、研究者が借り受けたまま行方知れずになってしまった。24、5年前の話だ。

僕はその歴史的なエピソードをドキュメンタリーにしたく、手紙の行方を追っているが2024年現在、文書はまだ見つかっていない。

音楽好きの伯爵家の伝統に加えて、あらゆる方面からの慈善コンサートの誘いも僕らの元には来る。妻自身が主催者としてかかわるチャリティコンサートなどもある。

いうまでもなく僕はそれらの音楽会と無縁ではいられない。妻と連れ立って音楽会に顔を出したり、チャリティコンサートの手伝いなどもする。

クラシックの多くの傑作のうち、誰でも知っているような楽曲は僕も少しは知っていて、とても好きである。だがそれだけのことだ。

学生時代に夢中になったロックやフォークやジャズやシャンソンなどのように、僕自身が「積極的に」聴こうとすることはあまりない。

つまり僕とクラシックの関係は、僕と演歌の関係とほぼ同じである。いや、それどころか全てのジャンルの音楽と僕は同じ関係にある。

だが、クラシック音楽だけは、他のジャンルのそれとは違い僕の周りに満ち満ちていて、時には「無理やり聞かされる」こともある、という状況である。

むろん無理やりではない場合も少なくない。特に夏になると、休暇を兼ねて滞在する北イタリアのガルダ湖畔で開催される音楽会に接する機会が増える。

つい先日も、有名ピアニスト、サンドロ=イヴォ・バルトリのコンサートに招待されて顔を出した。

小劇場でバルトリのピアノに合わせて歌うソプラノの素晴らしさに驚かされた。しかもその歌手は、なんと日本人の岡田昌子さんだった。

音楽会直前に出演者の変更があり、パンフレットに彼女の紹介がなかった。そのため開演まで僕らは岡田さんの出演を知らなかった。

相手のテノールを圧倒する岡田さんの伸びのある歌声に会場中が興奮した。

クラシックの音楽会では、時にそんな美しい体験もする。

残念ながら演歌の場合は、歌手と近づきになるどころかライブで歌を聴く機会さえない。







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不偏不党というBBCの気骨と限界 

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在英ジャーナリストの小林恭子さんから新著「なぜBBCだけが伝えられるのか」のご恵贈にあずかった。BBCのことはこれ一冊で全て解る、と形容したいほどの素晴らしい内容である。

僕は英国在住時はもとよりそれ以後の長い時間もBBCのファンである。

ところが最近Brexit関連でBBCに失望し、次にはハマスをテロリストと呼ばないBBCの気骨に快哉を叫ぶなど、気持ちが揺れてきた。

それは今この時も変わらないが、小林さんの新著に接して改めてBBCの強さと弱さに思いを馳せている。

強さの大本は不偏不党というコンセプトだが、実はそれは大いなる弱さにつながることもある、というふうに僕は考えている。

なぜなら報道に於ける不偏不党とは、事実をありのままに伝える、ということでそれ以下でもそれ以上でもない。

例えばトランプ主義者らが得意とする明らかな事実曲解や嘘やこじつけや歪曲などを排して、事実そのものをできる限り客観的に記録し報告することだ。

それはBBCに限らず、NHKもここイタリアのRAIもアメリカの3大ネットワークも、要するにありとあらゆる世界の「まともな」報道機関が日々心がけ実践していることだ。

だが不偏不党というのは実は言葉の遊びである。なぜなら報道には必ずそれを行う者のバイアスがかかっている。事実を切り取ること自体が、既に偏りや思い込みの所産だ。

と言うのも事実を切り取るとは、「ある事実を取り上げてほかの事実を捨てる」つまり報道する事案と、しない事案を切り分けること、だからだ。それは偏向以外のなにものでもない。

少し具体的に言おう。例えば日本の大手メディアはアメリカの火山噴火や地震情報はふんだんに報道するが、南米などのそれには熱心ではない。

あるいはパリやロンドンでのテロについてはこれでもか、というほどに豊富に雄弁に語るが、中東やアフリカなどでのテロの情報はおざなりに流す。そんな例はほかにも無数にある。

そこには何が重要で何が重要ではないか、という報道機関の独善と偏向に基づく価値判断がはたらいている。決して不偏不党ではないのだ。

報道に際してバイアスを掛けてしまうのはいわばメディアの原罪だ。いかなる報道機関も原罪から自由でいることはできない。

だからこそ報道者は自らを戒めて不偏不党を目指さなければならない。「不偏不党は不可能だから初めからこれをあきらめる」というのは、自らの怠慢を隠ぺいしようとする欺瞞である。

自らの独断と偏見によって報道する事案を選り分けた報道機関は、事実を提示する際には最低限全き客観性を保たなければならない。

BBCが不偏不党を標榜するのは正しいことだ。それは「まともな報道機関」の取るべき態度である。だがBBCは不偏不党にこだわる余り、偽善に走ることもしばしばだ。

世論を2分するような重大な時節に、客観性や不偏不党を隠れ蓑に自らの立場を明らかにしないのは、卑怯のそしりを免れない。それどころか危険でさえある。

BBCは不偏不党を「めざす」客観的な報道を維持すると同時に、それらに基づいた自らの立ち位置も明確に示すべきだ。

例えばBBCBrexitに関しては、事実報道と共に自らの信条も主張するべきだったと思う。

それをしないことがBBCの自恃だとBBC自体は主張する。だがそれは欺瞞だ。

彼らは事と次第によっては時の政権を批判もすれば擁護もする。BBCが保守党と対立しがちな一方で、労働党と親和的であるケースが多いのがその証拠だ。

重ねて指摘しておきたい。BBCは飽くまでも不偏不党を追求しつつ、重大事案に関しては自らの立ち位置を明らかにすることもあって然るべきだ。

不偏不党の原理原則とその実践のバランスは至難だ。だが時代が大きく動くことが明らかな局面では、BBCは逃げるのではなく自らのプリンシプルに則ってしっかりと意見を述べるべきだ。

自らの主張を持たないジャーナリズムは、それが組織にしろ個人にしろ、無意味で無力で従って 無価値で無益な、まがいものの存在である可能性が高い。




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ワタシ演歌の味方です


不細工と演奏者2人800

リスボンで聴いたファドは味わい深かった。それを聴きつつ演歌を思ったのは、両者には通底するものがある、と感じたからだ。

さて、ならば演歌は好きかと誰かに問われたなら、僕は「好きだが嫌い」というふうに答えるだろう。

嫌いというのは、積極的に嫌いというよりも、いわば「無関心である」ということである。演歌はあまり聴くほうではない。聴きもしないのに嫌いにはなれない。

ところが、帰国した際に行合うカラオケの場では、どちらかと言えば演歌を多く歌う。なので、「じゃ、演歌好きじゃん」と言われても返す言葉はない。

演歌に接するときの僕の気持ちは複雑で態度はいつも煮え切らない。その屈折した心理は、かつてシャンソンの淡谷のり子とその仲間が唱えた、演歌見下し論にも似た心象風景のようである。

淡谷のり子ほかの歌い手が戦後、演歌の歌唱技術が西洋音楽のそれではないからといって毛嫌いし、「演歌撲滅運動」まで言い立てたのは行き過ぎだった。

歌は心が全てだ。歌唱技術を含むあらゆる方法論は、歌の心を支える道具に過ぎない。演歌の心を無視して技術論のみでこれを否定しようとするのは笑止だ。

僕は演歌も「(自分が感じる)良い歌」は好きである。むしろ大好きだ。

だがそれはロックやジャズやポップスは言うまでもなく、クラシックや島唄や民謡に至るまでの全ての音楽に対する自分の立ち位置だ。

僕はあらゆるジャンルの音楽を聴く。そこには常に僕にとってのほんの一握りの面白い歌と、膨大な数の退屈な楽曲が存在する。演歌の大半がつまらないのもそういう現実の一環である。

日本の今の音楽シーンに疎い僕は、大晦日のNHK紅白歌合戦を見てその年のヒット曲や流行歌を知る、ということがほとんどである。

ほんの一例を挙げれば、Perfume、いきものがかり、ゴルデンボンバー、きゃりーぱみゅぱみゅ、混成(?)AKB48RADIO FISHや桐谷健太、斉藤和義など。

僕は彼らを紅白歌合戦で初めて見て聴き、「ほう、いいね」と思いそれ以後も機会があると気をつけて見たり聞いたりしたくなるアーティストになった。

その流れの中でこんなこともあった。たまたま録画しておいた紅白での斉藤和義「やさしくなりたい」を、僕の2人の息子(ほぼ100%イタリア人だが日本人でもある)に見せた。

すると日本の歌にはほとんど興味のない2人が聴くや否や「すごい」と感心し、イタリア人の妻も「面白い」と喜んだ。それもこれも紅白歌合戦のおかげだ。

最近の紅白でも印象的な歌手と歌に出会った。列挙すると:

ミレイ、あいみょん、Yoasobi、藤井風などだ。

Yoasobiは何か新しい楽曲を発表していないかとネットを訪ねたりもするほどだ。

僕は何の気取りも意気込みもなく、Yoasobi という2人組みの音楽を面白いと感じる。Shakiraの歌に心を揺さぶられるように彼らの楽曲をひどく心地好いと感じるのだ。

ちなみに演歌を含む日本の歌にも関心がある妻は、Yoasobiには無反応である。

閑話休題

膨大な量の演歌と演歌歌手のうち、数少ない僕の好みは何かと言えば、先ず鳥羽一郎である。

僕が演歌を初めてしっかりと聴いたのは、鳥羽一郎が歌う「別れの一本杉」だった。少し大げさに言えば僕はその体験で演歌に目覚めた。

1992年、NHKが欧州で日本語放送JSTVを開始した。それから数年後にJSTVで観た歌番組においてのことだった。

初恋らしい娘の思い出を抱いて上京した男が、寒い空を見上げて娘と故郷を思う。歌は思い出の淡い喜びと同時に悲哀をからめて描破している。

「別れの一本杉」のメロディーはなんとなく聞き知っていた。タイトルもうろ覚えに分かっていたようである。

それは船村徹作曲、春日八郎が歌う名作だが、そこで披露された鳥羽一郎の唄いは、完全に「鳥羽節」に昇華していて僕は軽い衝撃を受けた。

たまたまその場面も録画していたのでイタリア人の妻に聞かせた。僕は時間節約のためによく番組を録画して早回しで見たりするのだ。

妻もいい歌だと太鼓判を押した。以来彼女は、鳥羽一郎という名前はいつまでも覚えないのに、彼を「Il Pescatore(ザ・漁師)」と呼んで面白がっている。

歌唱中は顔つきから心まで男一匹漁師となって、その純朴な心意気であらゆる歌を鳥羽節に染め抜く鳥羽一郎は、僕ら夫婦のアイドルなのである。

僕は、お、と感じた演歌をよく妻にも聞かせる。

妻と僕は同い年である。1970年代の終わりに初めてロンドンで出会った際、遠いイタリアと日本生まれながら、2人とも米英が中心の同じ音楽も聞いて育ったことを知った。

そのせいかどうか、僕ら2人は割と似たような音楽を好きな傾向がある。共に生きるようになると、妻は日本の歌にも興味を持つようになった。

妻は演歌に関しては、初めは引くという感じで嫌っていた。その妻が、鳥羽一郎の「別れの一本杉」を聴いて心を惹かれる様子は感慨深かった。

多くの場合、僕が良いと感じる演歌は妻も同じ印象を持つ。それはやっぱり音楽の好みが似ているせいだろうと思う。あるいは彼女も僕と同じように年を取ってきて、演歌好きになったのだろうか。

僕の好みでは鳥羽一郎のほかには、北国の春 望郷酒場 の千昌夫、雪国 酒よ 酔歌などの吉幾三がいい。

少し若手では、恋の手本 スポットライト 唇スカーレットなどの山内惠介が好みだ。

亡くなった歌手では、天才で大御所の美空ひばりと、泣き節の島倉千代子、舟唄の八代亜紀がいい。

僕は東京ロマンチカの三条正人も好きだ。彼の絶叫調の泣き唱法は趣深い三条節になっていると思う。だが残念ながら妻は、三条の歌声はキモイという意見である。

この際だから知っているだけの演歌や演歌歌手についても思うところを述べておきたい。

石川さゆり:見どころは津軽海峡冬景色だけ。だが津軽海峡冬景色はほぼ誰が歌っても感動的だ。「天城越え」の最後に見せる泣き、追いすがるかのような下手な演技は噴飯もの。演技ではなく歌でよろめき、よろめかせてほしい。 

丘みどり:最初のころは八代亜紀の後継者現る、と期待したが力み過ぎて失速している。歌は上手いのだから自然体になるのを期待したい。 

大月みやこ:大月節は泣かせる。抜群の表現力。しかし語尾の大げさなビブラートが全てを台無しにする。

五木ひろし:ただ一言。歌が上手過ぎてつまらない。 

坂本冬美:「夜桜お七」以外は月並みが歩いているみたいだ。 

前川清&クールファイブ:グループ時代の前川の絶叫節は面白かったが、ひとり立ちしてからは平均以下の歌い手になった。 

美川憲一:キャラは抜群に面白い。歌も「お金をちょうだい」のように滑稽感あふれるシリアスな人生歌がすばらしい。唱法も味わいがある。だが残念ながら美川節と呼べるほどの上手さはなく、従って凄みもない。

島津亜矢:圧倒的な歌唱力。もっと軽い流行歌がほしい。 

小林幸子:美空ひばり系だが美空ひばりには足元にも及ばない。たとえひばりの爪の垢を煎じて飲んでも、器が違うから無意味だろう。 

伍代夏子:体系容姿は僕の好み。お近づきになってみたいとは思うが、歌を聴きたいとは全く思わない。無個性のつまらない歌唱。 

藤あや子:美人ぶって、またある種の人々の目には実際に美人なんだろうが、美人を意識した踊りっぽいパファーマンスは白けるだけ。少しも色っぽくない。それどころか美しくさえない。歌唱力も並以下。 

市川由紀乃:大女ながらやさしい声、また性格も良いらしいが、歌手なんだから雑音ではなく歌を聞かせてくれと言いたい。 

都はるみ:古いなぁ。 

天童よしみ:美空ひばりが憧れで目標らしいが、逆立ちしても無理。陳腐。 

長山洋子:老アイドル歌手として再デビューしたほうがまだいい。  

香西かおり:美人でさえないのになぜかいい女のつもりで自分だけが気持ち良がって唄うところがキモイ。歌は歌詞の端、あるいは語尾を呑み込んで発音さえよく聞こえない。その意味では素人以下の歌唱力。

田川寿美:香西かおりに比較すると1000倍も歌は上手く抒情も憂いも深みもあるが、それは飽くまでも香西に較べたら、であって凡下の部類。しかし「哀愁港」などを聴くと味があるので要チェック。

三山ひろし:若い老人。上手い歌うたいだが、なにしろ古くさい。スタイルがうざい。 

山川豊:ソフトに歌いたがるが似合わない。つまらない。 

細川たかし:絶叫魔  

石原詢子:ホントに歌手?

藤圭子:真の歌姫だが、頭の中は空っぽであることが所作で分かる。歌もたまたま上手いだけで人間の深みが無い、と知れるとがっかり。歌まで浅薄に聞こえるようだ。  

山崎ハコ:暗さは演歌に通じるので気にならないが、多くの歌が似通って聞こえるのが落第。  

松原健之:僕の好きな声だが、妻が気持ち悪がっているから、きっとキモイのだろう。 

これらの印象や悪口は、全てJSTVが放送したNHKの音楽番組を見、聞いた体験に基づいている。

僕は冒頭で演歌はあまり聴かない、とことわった。だがこうして見ると演歌三昧である。

しかもいま言及したように全てNHKの音楽番組を通しての知見だから、NHKには大いに感謝しなければならない、と改めて思う。




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無意識の差別大国ニッポンを憂う

before and after

パリ5輪で金メダルに輝いたイタリア女子バレーボールのスーパースター、パオラ・エゴヌの両親はナイジェリア人移民である。エゴヌ自身はイタリア生まれのイタリア育ち。れっきとしたイタリア人だ。

ところが彼女は、肌の色が黒いことを理由に「お前は本当にイタリア人か」とSNS上などで侮辱され続けてきた。

彼女は人種差別に抗議してあらゆる機会を捉えて声を挙げ、一度はイタリアナショナルチームを離脱する意思表示さえした。

過去のエゴヌの闘いは徐々に功を奏して、金メダル獲得の翌日には、MVPにまでなった彼女の活躍を称賛するストリートアートがローマの建物の壁に描かれた。

ところがその絵は、ネトウヨヘイト系とおぼしき人種差別主義者の手によって人物の肌の色が白く塗り替えられ、これがイタリア人だ、との落書きも付け加えられて社会問題になった。

端的に言っておかなければならない。

イタリアは、ロシアを含む東欧を除いた欧州の、いわゆる西欧先進国の中では人種差別意識がやや強い国の一つである。

自国を代表して活躍する有名なスポーツ選手を、差別意識からあからさまに侮辱したエゴヌ選手のケースのようなエピソードは、例えば英独仏をはじめとする❝西側欧州❞の先進国ではもはや考えられない。

❝西側欧州❞の国々に人種差別がない、という意味では断じてない。そこにも差別はあり差別ゆえの事件や争いや摩擦は絶えない。

だが同時にイタリアを含む❝西側欧州❞の国々は、たゆまない人権向上への戦いを続けて、有能な有色人種の国民を真に自国民と見做すのが当たり前、という地点にまでたどり着いてはいる。

移民などの一般の有色人種への偏見差別は依然として強いものの、突出した能力を持つアフリカ中東またアジア系の人々は各界で多く活躍している。その最たるものが英国初の有色人種トップとなったインド系のスナク前首相であり、パキスタン系のカーン・ロンドン市長などだ。

スポーツ界に目を向ければ、フランスサッカーのエムバペを筆頭に、アフリカ系ほかの多くの有色人種の選手が、それぞれの国を代表して戦い「白人の」同胞にも愛され尊敬されている。

そこでは、どの国にも存在するネトウヨヘイト系差別排外主義の白痴族が、隙あらば攻撃しようと執拗にうごめくが、「欧州の良心」に目覚めた人々の力によって彼らの横暴はある程度抑え込まれている。

イタリアもその例に洩れない。そうではあるが、しかし、かつての自由都市国家メンタリティーが担保する多様性重視の強い風潮がある同国では、極論者の存在権も認めようとするモメンタムが働く。そして残念ながらエゴヌ選手を否定侮辱するネトウヨヘイト系の狐憑きたちも、その存在が認められる極論者の一なのである。

そうしたイタリア社会独特のパラダイムに加えて、国民の、特にイタリア人男性のいわば幼稚な精神性も影響力が大きい。いつまでたってもマンマ(おっかさん)から独立できない彼らは、子供に似て克己心が弱く、思ったことをすぐに口に出してしまう傾向がある。

成熟した欧州の文明国とは思えないようなエゴヌ選手へのあからさまな罵詈雑言は、そうした精神性にもルーツの一端がある。

実際のところ差別主義者のイタリア人は、差別主義者の英独仏ほかの国民とちょうど同じ数だけいるに過ぎないのだが、彼らが子供のように無邪気に差別心を吐露する分、数が多いように見えてしまう点は指摘しておきたい。

さて

そうしたイタリアの人種差別を憂う時、実は僕は常に日本の人種差別意識の重症を考え続けている。

そのことについて話を進める前に、先ず結論を言っておきたい。

日本の人種差別はイタリアとは比較にならないほどに大きく深刻である。イタリアの人種差別はここまで述べてきたようにあからさまだ。片や日本の人種差別は秘匿されていわば水面下でうごめいている。

人種差別を意識していない国民が多い分、日本の人種差別はイタリアのそれよりもよりもはるかに質(たち)が悪いのである。それはなぜか。

差別が意識されない社会では、差別が存在しないことになり、被差別者が幾ら声を上げても差別は永遠に解消されない。差別をする側には「差別が存在しない」からだ。存在しないものは無くしようがない。

一方、差別が認識されている社会では、被差別者や第三者の人々が差別をするな、と声を挙げ闘い続ければ、たとえ差別をする側のさらなる抑圧や強権支配があったとしても、いつかその差別が是正される可能性がある。なぜなら、何はともあれ差別はそこにある、と誰もが認めているからだ。

その意味でも、人種差別の存在に気づかない国民が多い日本は、極めて危険だと言わざるを得ない。

大半の日本人は自らが人種差別主義者であることに気づいていない。それどころか、人種差別とは何であるかということさえ理解していない場合が多いように見える。

それはほとんどの日本人の生活圏の中に外国人や移民がいないことが原因だ。ひとことで言えば、日本人は外国人や移民と付き合うことに慣れていないのである。

それでいながら、あるいはそれゆえに日本には、移民また外国人に対してひどく寛大であるかのような文化が生まれつつある。主にテレビやネット上に現れる外国人や移民タレントの多さがそれを物語る。

日本のテレビの旅番組やバラエティショーなどでは、あらゆる国からやってきた白人や黒人に始まる「外国人」が出演するケースが目立つ。それらはあたかも日本人の平等意識から来る好ましい情景のように見える。

だがそれらの「外国人」を起用する制作者やスポンサー、またその番組を観る視聴者に外国人への差別心がないとはとうてい考えられない。それは秘匿されて意識されないだけの話だ。

先に述べたように日本には国民が日常的に外国人と接触する機会はまだ少ない。人々がテレビ番組やネット上で目にし接する外国人は、現実ではなくいわばバーチャル世界の住人だ。だから視聴者は彼らに対していくらでも寛大になれる。

視聴者1人ひとりの生活圏内で実際に接触する移民や外国人が増えたときに、彼らと対等に付き合えるということが真の受け入れであり差別をしないということだ。これは今の日本では実証できない。

いや、むしろ逆に差別をする者が多いと実証されている。中国朝鮮系の人々や日系ブラジル人などが多く住む地域での、地元民との摩擦や混乱やいざこざの多さを見ればそれが分かる。

テレビ番組の視聴者つまり日本国民は、出演している特にアメリカ系が多い白人や黒人を、自らと完全に同等の人間であり隣人だとは思っていない。

かれらは飽くまでも「ガイジン」であって日本人と寸分違わない感情や考えを持つ者ではない。言葉を替えれば徹頭徹尾の「客人」であって自らの「隣人」ではない、と意識的にもまた無意識下でも考えている。

そのこと自体が差別であり、その意識から派生する不快な多くの事象もまた大いなる差別である。もっともそれらのガイジンは、バーチャル世界からこちら側に現実移動してこない限り、視聴者と摩擦を起こすことはない。

従って差別意識から派生する「不快な多くの事象」も今のところ多くは発生していない。それらの事実も、あたかも日本には人種差別がないかのような錯覚に拍車をかける。

差別はほとんどの場合他者を自らよりも劣る存在、とみなすことである。ところが日本にはその逆の心情に基づく差別も歴然として存在し、しかも社会の重要な構成要素になっている。

それが白人種への劣等感ゆえに生まれる、欧米人への行き過ぎた親切心だ彼らを「見上げる」裏返しの差別は、他者を見下す差別に勝るとも劣らない深刻な心の病である。

日本のテレビやネットには白人の大学教授や白人のテレビプロデュサー、果てはネトウヨヘイト系差別主義者以外の何物でもない白人の弁護士などが大きな顔でのさばっている。その光景は顔をそむけたくなるくらいに醜い。

日本人は対等を装うにしろ見下しまた見上げるにしろ、それらのタレントを決して自らと同じ人間とは見なしていない。かれらはどこまで行っても「白人の異人」であり「黒人のまたアジア人の異人」である。繰り返しなるが、断じて「隣人」ではないのだ。

ところで

上に見、下に見つつ深層心理では徹底して外国人を避ける日本人の奇怪で危険な人種差別意識を指摘した上で、実は僕はまた次のような矛盾した正反対の感慨も抱かずにはいられない。

人が人種差別にからめとられるのは、その人が差別している対象を知らないからである。そして「知らないこと」とは要するに、差別している人物が身に纏ってその人となりを形作っている独特の文化のことである。

文化とは国や地域や民族から派生する、言語や習慣や知恵や哲学や教養や美術や祭礼等々の精神活動と生活全般のことだ。

それは一つ一つが特殊なものであり、多くの場合は閉鎖的でもあり、時にはその文化圏外の人間には理解不可能な「化け物」ようなものでさえある。

文化がなぜ化け物なのかというと、文化がその文化を共有する人々以外の人間にとっては、異(い)なるものであり、不可解なものであり、時には怖いものでさえあるからだ。

そして人がある一つの文化を怖いと感じるのは、その人が対象になっている文化を知らないか、理解しようとしないか、あるいは理解できないからである。だから文化は容易に偏見や差別を呼び、その温床にもなる。

差別は、差別者が被差別者と近づきになり、かれらが身に纏っている文化を知ることで解消される。文化を知ることで恐怖心が無くなり、従って差別心も徐々になくなっていくのである。

(差別している)他者を知るのに手っ取り早い方法は、対象者と物理的に近づきになることである。実際に近づき知り合いになれば、その人のことが理解できる。自分と同じく喜怒哀楽に翻弄され家族を愛し人生を懸命に生きている「普通の人」だと分かる。そうやって差別解消への第一歩が踏み出される。

その意味で日本のテレビやネット上で展開されている「エセ平等主義」の動きは、疑似的とは言えとにもかくにも被差別者つまり移民や外国人との接触を強制するものである分、或いは真の人種差別解消へ向けての重要なプロセスになり得るかもしれない、と思ったりもするのである。




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ファドは演歌だが、演歌はファドではない?

アズレージョに描かれたel-fado800

ポルトガルのファドは演歌に似ているとここまで散々言ってきた。ならば演歌はファドに似ているのかと問えば、どうも違うようである。

つまりファドを演歌に似ていると日本人が勝手に規定するのは、相も変わらぬ西洋への片思いゆえの切ない足搔きではないか、とも疑うのである。

その証拠にファド側、つまりポルトガル側からは演歌をファドに引き寄せて論じる風潮はない。

もっともアマリア・ロドリゲスの「このおかしな人生」と小林幸子の「思い出酒」を歌唱技術論的に分析して相似性を明かそうとするような試みもないではない。

それはビブラートやモルデントなどの使い方の相違や近似性を論じるものだ。

だが技術論では人の心や感情は把握できない。

そしてファドと演歌の類似性とは、まさにその心や感情の響き合いのことだから、歌唱論を含む音楽の技術また方法論では説明できないのである。

いや、技術論ではむろん双方の歌唱テクニックの在り方や相違や近似を説明することができる。だが方法論は人間を説明することはない、という意味である。

ファドと演歌が似ているのは、どちらの歌謡も人の感情や情緒、また生きざまや心情を高らかに歌い上げているからだ。

そのことに日本人が気づき、ポルトガル人が気づかずにいるのが、片思いの実相である。

それは日本人の感性の豊かさを示しこそすれ、何らの瑕疵にも当たらない。

従ってわれわれ日本人は、ファドを聴いて大いに涙し、共感し、惻隠し、笑い、ひたすら感動していれば良い、とも思うのである。









日本人が理解しているシャンソンやカンツォーネは演歌の心を持っている

白黒煙舞台楽器800

先日の記事を要約したFacebookへの投稿文を読んだ方からシャンソンやカンツォーネは演歌ではない。いい加減なことを言うな、というメッセージが届いた。

Facebook記事の終わりに「参照」としてURLを貼付したファド演歌の小粋を読んでもらえれば誤解は解ける筈だが、例によって参照まで飛んでくれる読者は少ない。

それなのでもう一度ここに確認しておくことにした。

「シャンソンはフランスの演歌でありカンツォーネはイタリアの演歌」であるとは、シャンソンやカンツォーネが日本の演歌と同じ歌謡、という意味ではなく、「日本人が理解しているシャンソン」はフランスの音楽シーンの中では日本の演歌に当たる位置にあり、同じく「日本人が意識しているカンツォーネ」は、イタリアの音楽シーンの中では、日本の演歌に当たる領域にある、という意味である。

フランスでもイタリアでも、日本の歌謡曲やニューミュジックまたJポップなどと総称される新しい歌に相当する楽曲は生まれ続けている。それらはむろん「演歌」ではないシャンソンでありカンツォーネである。

もっと具体的に言えばそれは、ミッシェル・ポルナレフやシルヴィ・バルタンなどが歌うシャンソンであり、ファブリツィオ・デ・アンドレやピノ・ダニエレらが歌うカンツォーネのことある。

僕はかつて、演歌に当たる例えばイヴ・モンタン系のシャンソンを、日本人なら誰もが経験する程度に耳にしていた。

やがて「演歌」ではない「新しいシャンソン」を学生時代にミシェル・ポルナレフを介して知った。彼の歌声に魅せられてレコードまで買ってよく聞いた。

その流れでシルヴィ・バルタンやフランソワーズ・アルディなども少し耳にしていた。僕はそれらの歌謡を、シャンソンとしてよりもロックやニューミュジック系の新しい歌、と感じつつ聞いていた。

それって何だろうと考えたとき、演歌風のシャンソンとポルナレフを始めとする新しい、世界的にも通用するシャンソン、という括りが見えた。

演歌に当たるナポリ系のカンツォーネをやはり普通に聞き知っていた僕が、イタリアに住み着いて以降、ファブリツィオ・デ・アンドレやピノ・ダニエレなどの新しい歌に出会ったのも同じ感覚である。

僕は一時期、移動中の車の中で飽きもせずにデ・アンドレのテープを聴き続けていた。後にはピノ・ダニエレも加わった。2人以外にはジャンナ・ナンニーニを時々聞いた。

そのほかのポップスやロック系のカンツォーネには、しかし、あまり興味がなかった。彼らを聴くくらいなら、本家本元の米英の楽曲を聴くほうが増し、と考えていたからである。







ファド演歌の小粋


 女歌手と奏者縦800

ポルトガル旅行中のリスボンでは観光と食事に加えてファドも堪能した。

ファドは日本ではポルトガルの民族歌謡と規定されることが多い。僕はそれをポルトガルの演歌と呼んでいる。ファドだけではない。

カンツォーネはイタリアの演歌、同じようにシャンソンはフランスの演歌、というのが僕の考えである。

日本では、いわばプリミティブラップとでも呼びたくなる演説歌の演歌が、「船頭小唄」を得て今の演歌になった。

それとは別に日本では、歌謡曲やニューミュジック、またJポップなどと総称される新しい歌も生まれ続けた。

民謡や子守歌はさておき、「船頭小唄」からYoasobiの「群青」や「勇者」までの日本の歌謡の間には、何光年もの隔たりと形容してもいい違いがある。

その流れは1900年代半ば過ぎ頃までのカンツォーネとシャンソンの場合も同じだ。

イタリアではファブリツィオ・デ・アンドレやピノ・ダニエレなどのシンガーソングライターや、英米のロックやポップスの影響を受けた多くのアーチストがカンツォーネを激変させた。

シャンソンの場合も良く似ている。日本人が考える1960年頃までのいわばオーソドックスなシャンソンは、ミッシェル・ポルナレフやシルヴィ・バルタン、またフランソワーズ・アルディなどの登場で大きく変わった。

僕はそれらの新しい歌謡とは違う既存のシャンソンやカンツォーネを、大衆が愛する歌という括りで「演歌」と呼ぶのである。

日本の演歌では、男女間のやるせない愛念や悲恋の情、望郷また離愁の切なさ、夫婦の情愛、母への思慕、家族愛、義理人情の悲壮、酒場の秋愁などの大衆の心情が、しみじみと織り込まれる。

古い、だが言うなれば「正統派」シャンソンやカンツォーネでも、恋の喜びや悲しみ、人生の憂いと歓喜また人情の機微ややるせなさが切々と歌われる。それらはヨナ抜き音階の演歌とは形貌が異なる。だがその心霊はことごとく同じだ。

さて、ファドである。

カンツォーネもシャンソンも単純に「歌」という意味である。子守唄も民謡も歌謡曲もロックもポップスも、イタリア語で歌われる限り全てカンツォーネであり、フランス語の場合はシャンソンだ。

ところがファドは、単なる歌ではなく運命や宿命という意味の言葉だ。そのことからして既に、哀情にじむ庶民の心の叫びという響きが伝わってくる。

ファドは憐情や恋心、また郷愁や人生の悲しみを歌って大衆に愛される歌謡という意味で、先に触れたようにシャンソンやカンツォーネ同様に僕の中では演歌なのだが、フランスやイタリアの演歌とは違って、より日本の演歌に近い「演歌」と感じる。

演歌だから、決まり切った歌詞や情念を似通ったメロディーに乗せて歌う凡庸さもある。だがその中には心に染み入り魂に突き刺さる歌もまた多いのは論を俟たない。

リスボンでは下町のバイロ・アルト地区で、ファドの店をハシゴして聞きほれた。

一軒の店では老いた男性歌手が切々と、だがどことなく都会っぽい雰囲気が漂う声で歌った。

4軒をハシゴしたが、結局その老歌手の歌声がもっとも心に残った。

ファドは、ファドの女王とも歌姫とも称されるアマリア・ロドリゲスによって世界中に認知された。

彼女もいいが、個人的には僕は、フリオ・イグレシアスっぽい甘い声ながら実直さもにじみ出るカルロス・ド・カルモが好きだ。

ファドは女性歌手の勢いが強い印象を与える芸能だが、たまたま僕は録音でも実況でも、男性歌手の歌声に惹かれるのである。





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